All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 351 - Chapter 360

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第351話

秋良は階段の踊り場に立ち、手にはまだパソコンバッグを提げたまま、拓海が玲奈を抱きかかえて出ていく光景を呆然と見つめていた。問い詰めたい言葉が喉まで出かかったが、玲奈の顔が真っ赤に染まり、苦しげに息をしているのを見た瞬間、その言葉は喉の奥で凍りついた。――今は責めている場合じゃない。拓海が階段を駆け下りると、ちょうど玄関から綾乃が戻ってきた。拓海は玲奈を抱えたまま、息を乱しながらも丁寧に声をかける。「綾乃さん......」綾乃は一瞬立ち止まり、驚いたように目を見開いた。だが、すぐに冷静さを取り戻し、拓海の腕の中でぐったりしている玲奈の様子に気づくと、慌てて問いかけた。「玲奈、どうしたの?」拓海は大股で玄関へ向かいながら、息を整える間もなく答えた。「高熱です。今すぐ病院へ連れていきます!」綾乃が返す暇もないほどの早さで、拓海は玲奈を抱えたまま夜の空気の中へ飛び出していった。その直後、秋良も階段を降りてきて、玄関に立つ綾乃に声をかけた。「行こう。俺たちも行こう」いまは誰がどうやって家に入ったかよりも、玲奈の命のほうがずっと大事だった。深夜。玲奈はぼんやりとした意識のなかで目を開けた。最初に目に入ったのは、真っ白な天井と蛍光灯の淡い光。鼻の奥には、消毒液のつんとした匂いが広がっている。手の甲に鋭い痛みを感じ、視線を向けると、点滴の針が刺さっていた。そのとき、そばから柔らかな声が響いた。「玲奈ちゃん、目が覚めた?」――綾乃の声だ。玲奈はゆっくり首を向け、ベッドの右側に座っている綾乃を見た。左手には点滴のチューブが繋がっている。唇を動かし、かすれた声で呼んだ。「綾乃さん......」声は掠れて弱く、目も真っ赤に腫れていた。綾乃はそっと手を伸ばして玲奈の額に触れ、優しい声で言った。「もう熱は下がったわ。少しは楽になった?」玲奈は小さく笑みを浮かべ、かすかにうなずいた。「......はい。少しだけ」意識がはっきりするにつれて、玲奈の脳裏に、ひとりの男性の姿が浮かんだ。――拓海。確かに、あの夜、彼が窓から入ってきた。夢だったのか現実だったのか。けれど、あの声は確かに聞こえた。胸の奥がざわめき、玲奈は思わず問いかけた。
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第352話

昼間の出来事が、まだ胸の奥に重く残っていた。綾乃は、沈んだ表情の玲奈を見つめ、胸が締めつけられるような気持ちで頬をそっと撫でた。「大丈夫。あと二、三日したら......私が連れて帰ってあげるからね」医師の話では、玲奈の発熱は強く、数日間の入院が必要だという。炎症を落ち着かせ、熱が完全に引いてからでなければ退院できない。玲奈は綾乃の言葉に逆らわず、素直に頷いた。「......はい。綾乃さんの言うとおりにします」唇は乾いてひび割れ、顔色もまだ赤く火照っている。綾乃は彼女の髪を指先で整えながら、やさしく言った。「ちょっと横になってて。お湯を汲んでくるわね」この数日、久我山の気温はぐっと下がり、季節の変わり目でインフルエンザが大流行していた。玲奈は、そんな綾乃を気遣うように声をかける。「......綾乃さん、マスクしてくださいね。私のがうつっちゃうと困りますから」綾乃は笑って頷いた。「分かってるわ。すぐ戻るから、少し休んでてね」玲奈は小さく返事をして、そっと目を閉じた。身体は鉛のように重く、節々が痛み、意識もぼんやりしていた。どれほど眠ったのか分からない。うつらうつらと夢の中で、兄の秋良が――拓海を殴っている光景を見た。その夢に息を呑み、目を開ける。額にはまたびっしょりと汗がにじんでいた。ちょうどその時、病室の外から足音が近づいてきた。玲奈は、てっきり綾乃が戻ってきたのだと思い、背を向けたまま弱い声で呼びかけた。「綾乃さん......兄さん、本当に須賀君に手を出したりしてないですよね?」言い終えるか終えないかのうちに、低く笑う声がした。その直後、懐かしい声が優しく答える。「どうした?そんなに俺のこと心配してたのか?」その声を聞いた瞬間、玲奈ははっとして振り返った。「......須賀君?どうしてあなたがここに?」汗で濡れた髪が頬に張りつき、顔は真っ赤に上気している。拓海はベッドのそばに立っていた。黒いスウェット姿、無造作に乱れた髪。だが、どこか凛とした清潔さをまとっている。粗野さと上品さが同居した、人目を惹く顔立ちだった。その拓海が、玲奈のベッド脇の椅子に腰を下ろした。長い脚を軽く折り、穏やかな笑みを浮かべ
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第353話

拓海の言葉に、玲奈はどう答えればいいのか分からなかった。しばらく迷った末に、ようやく顔を上げて言う。「......須賀君、あなた、どうしてそこまでしてくれるの?」彼女が次に何を言うか、拓海には分かっていた。だから、彼はその続きを聞きたくなくて、すぐに口を挟んだ。「もういい。今は話すな。......水を飲め」そう言って、保温カップを持ち上げ、ストローを彼女の唇のそばに差し出す。喉がからからに乾いていた玲奈は、拒まなかった。ストローを咥え、二口、三口――勢いよく吸い込む。拓海はその様子を見て、思わず口元をほころばせた。「いい子だ」まるで子どもをあやすような声だった。その瞬間、玲奈の頬が一気に熱くなった。「......っ」彼女は言葉を返さず、視線をそらして布団に身を沈めた。点滴の袋を見ると、もうほとんど空になっている。玲奈は息を整えて、静かに言った。「......次のを、替えてもらえる?」拓海は立ち上がり、袋を見上げた。確かに液体はすっかり落ちていた。彼は腕を伸ばし、手際よく新しい点滴を取り替える。そのとき、彼の動きに合わせてスウェットの裾が少し上がり、引き締まった腹筋がちらりと覗いた。玲奈は反射的に目を逸らしたが、一瞬だけ視界に焼きついたその光景が、頬の熱をさらに上げた。――見なければよかった。そう思っても、胸の鼓動は止まらない。拓海が作業を終えて椅子に腰を下ろすと、彼女の顔をまじまじと見つめた。「......顔が真っ赤だ。熱、ぶり返してないか?」心配そうに手を伸ばし、玲奈の頬に触れる。玲奈は慌てて顔を背け、赤くなった耳まで見られまいとした。「......違う。熱じゃないわ」それでも拓海は安心できず、自分の額を彼女の額にそっと当てた。玲奈はびくりと肩をすくめ、思わず目をぎゅっと閉じる。拓海はその柔らかな肌の温もりに、ほんの数秒、息を止めた。離れようとしたとき、彼の頬が、玲奈の長い睫毛にかすかに触れた。その微かな感触に、拓海の全身がびくりと硬直する。彼は息を呑んだ。玲奈の睫毛が震えるたびに、羽のように彼の心を撫でていく。胸の奥が、じんわりと熱を帯びた。彼女の顔も唇も、すぐそこにあった。手を伸ばせば届く距離。
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第354話

顔色は真っ白なのに、それでも意地を張っている。拓海は玲奈の言葉に従わなかった。そっと彼女の首筋に触れると、汗ひとつなく、ひんやりとしている。熱があるときは、こうして何度も繰り返す。一度は熱く、次の瞬間には冷たく――拓海は心配でたまらなかった。だから、彼女が嫌がるかどうかなど構わず、スウェットの上着を脱ぎ、ためらいもなくベッドに上がりこんだ。病院の簡易ベッドは狭い。横幅はせいぜい一メートルほど。背の高い拓海が横になると、足を伸ばすことすらできない。それでも彼は身を小さく折り、玲奈の身体を胸の中へと抱き寄せた。半身はベッドからはみ出し、冷たい空気に晒されている。それでも拓海は一言の不満もこぼさなかった。彼は玲奈を胸の奥に包み込み、顎を彼女の肩口に預け、耳もとに唇を寄せて囁いた。「......玲奈、まだ寒いか?」冷え切った身体が温もりに触れ、玲奈は無意識のまま、彼の胸に身を寄せた。その瞬間、ようやく自分の身体が震えていることに気づく。拓海は、彼女がさらに腕の中へもぐり込んでくるのを感じ、その背中をしっかりと抱きしめた。自分の体温を、少しでも彼女に分け与えるように。だが、薄い衣服越しに伝わる玲奈の体の柔らかさに、拓海の頬が一気に熱を帯びる。顔が真っ赤に染まり、息が詰まるほどだった。けれど玲奈は、彼の動揺など知る由もなく、さらに深く腕の中へ潜り込み、かすれた声で呟いた。「......須賀君、もう少し......強く抱きしめて」その言葉に、拓海の心臓が跳ねた。彼女は半ば意識が混濁していて、自分が何を言っているのかも分かっていない。それでも――拓海はそっと腕に力を込めた。まるで、彼女を自分の一部にしてしまうように。玲奈の顔は彼の胸元に埋まり、その温かさに包まれたまま、やがて安らかな寝息を立て始めた。その穏やかな呼吸を確かめ、拓海はようやく少しだけ力を緩める。彼女の身体はまだ冷たく、拓海は布団をもう一度引き寄せ、彼女ごとしっかりと包みこんだ。腕の感覚がなくなるほど長く、彼はその姿勢を崩さなかった。しびれた指先も動かさず、ただ彼女を抱きしめたまま、時を止めていた。しばらくして――玲奈が小さく寝返りを打ち、拓海の腕の中から離れた。拓海は目を開け、彼
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第355話

拓海は、玲奈の口から出た言葉が、「離して」ではなかったことに気づいた瞬間、胸の奥がぎゅっと沈み込むのを感じた。それは、安堵にも似た痛みだった。彼は小さく笑みを浮かべ、ベッドに手をついて身を起こすと、穏やかに言った。「じゃあ、俺が抱っこして行く」玲奈の身体は汗で湿り、肌着が張りつくほど気持ち悪かった。拓海の言葉を聞いたとき、思わず頭に浮かんだのは――「......私、こんなに汗臭いのに」その考えが恥ずかしくて、彼女は慌てて首を振った。「須賀君......私はただの熱よ。自分で行けるから」その一言で、拓海の顔に浮かんでいた柔らかな笑みが、すっと消えた。玲奈は言いすぎたかと思い、何か言い添えようとしたが、彼はすでに動いていた。ベッドの掛け布をめくり、そのまま彼女の腰を抱き上げる。視線が鋭くなり、声には逆らいがたい強さが宿っていた。「俺が抱っこして行く。玲奈――お前に拒否権はない」玲奈は反論しようにも、力が抜けていて声も出なかった。抵抗する気力もなく、彼の胸に身を預けるしかなかった。拓海は彼女を抱いたまま洗面所へ運び、柔らかなマットの上にそっと下ろす。そして、病室に戻り、彼女のスリッパを手に取ってまた戻ってきた。しゃがみこんで、玲奈の足首を片手で支え、その足を丁寧に靴へ滑り込ませる。両足を履かせ終えると、彼は姿勢を正し、真っ直ぐな背筋で言った。「さあ、ゆっくりしていい。俺は見ない。ここで待ってる」玲奈は彼の広い背中を見つめながら、どうにも落ち着かない気持ちでつぶやいた。「......須賀君、外で待ってて」拓海は少しだけ黙り、その後で頷いた。「分かった。すぐそこのドアの前にいる。終わったら呼んでくれ」そう言ってドアを出ていった。ドアのすりガラス越しに映る影が見える。本当にすぐ外で、じっと立っている。――まるで、私を守るみたいに。それがかえって落ち着かなくて、玲奈は鍵を回した。用を済ませ、手を洗い終えてドアを開けた瞬間、拓海の顔がすぐ目の前に現れた。「大丈夫か?」眉のあいだから溢れるほどの心配の色に、玲奈は一瞬、息を呑んだ。――こんな表情も、するんだ。彼のような男が、本気で誰かを案じるなんて。まるで幻を見ているようだ
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第356話

最後に、玲奈は再び視線を戻し、天井をじっと見つめ続けた。そのとき、拓海のスマホが鳴った。病室は静まり返っていたので、玲奈には電話の向こうから聞こえてくる男の声まではっきり聞こえた。「須賀さん、例のもの持ってきました。上までお届けしますか?」「うん」「どの病室です?」「着いたら電話してくれ。取りに出るから」短いやり取りのあと、拓海は電話を切った。ほどなくして、また彼の携帯が鳴った。拓海は立ち上がり、病室を出ていったが、二分も経たないうちに戻ってきた。手には袋を提げており、中には保温容器がいくつも入っていた。玲奈はすぐにそれが、拓海が人に頼んで用意させた食事だと気づいた。拓海は小さな弁当箱を一つずつ取り出し、丁寧に並べていった。料理はどれも彩り豊かで、肉のスープに野菜の副菜、白ご飯に小さな団子、さらに大ぶりの海老まであった。彼は枕をベッドのヘッドボードに立てかけ、玲奈の背をそっともたせかけさせる。そして小さな器を手に取り、ゆっくりと食べさせ始めた。玲奈は空腹で、反抗する気力もなく、そのまま彼に食べさせてもらった。料理は驚くほど口に合い、玲奈は夢中で味わいながら、久しぶりに心から満たされた気持ちになった。食事が半分ほど進んだころ、拓海がようやく口を開いた。「......うまい?」玲奈はうなずき、素直に答えた。「うん、美味しい」その言葉を聞くと、拓海は落ち着いた手つきで海老の殻をむきながら、何気ない口調で言った。「そんなに気に入ったなら、今度うちに来て食べればいい。母さんに頼んで、もっと美味しいものを作ってもらうよ」その瞬間、玲奈の口にあった海老が喉に引っかかり、思わずむせた。ひどく咳き込み、顔が真っ赤に染まり、目には涙がにじんだ。そんな彼女を見て、拓海は慌てて手の海老を置き、水の入ったコップを取って彼女に差し出した。彼女が水を飲むのを見守りながら、穏やかに言った。「今夜の料理、全部うちの母さんが心を込めて作ったんだ」玲奈は一口水を飲むと、ようやく息が落ち着いた。彼女は拓海を見つめたが、何を言えばいいのかわからなかった。沈黙を破ったのは拓海のほうだった。「どうした?黙って」玲奈は喉の奥をそっと動かし、静かに言った。「...
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第357話

玲奈には、拓海が――まるで自分がいい人間であることを、どうしても証明したいかのように見えた。けれど彼女には、どう返せばいいのかわからなかった。だから、沈黙を選んだ。拓海も無理には言葉を求めなかった。彼はわかっていた。玲奈がまだ人を信じきれないことも、病気で弱っている今、そんなことを話すべきではないことも。だから、それ以上は何も言わなかった。彼は玲奈に食事を食べさせ終えると、熱いお湯を注ぎ、飲み終えるまで見守った。飲み終えたあと、玲奈の熱がまた上がった。拓海は解熱剤を飲ませ、彼女はそのまま眠りに落ちた。その夜、拓海は一睡もしなかった。ベッドのそばで彼女を看病し続け、額の汗を拭い、掛け布団をかけたり、めくったり――何度も繰り返した。夜明け前、薄明るくなった頃、ようやく彼は玲奈の手を握ったまま、ベッドの縁に伏せて眠ってしまった。背の高い彼には、決して楽な姿勢ではなかった。けれど疲れ切っていたせいか、すぐに深い眠りに落ちていった。玲奈はうっすらとした意識の中で、誰かが自分の手を強く握っているのを感じた。まるで、その手が離れたら自分が消えてしまうとでも言うように。痛みに顔をしかめ、目を開けると――ベッドの端に伏して眠る拓海が見えた。まるで彼女を逃がすまいとするかのように、彼は玲奈の手をぎゅっと掴んでいた。玲奈はそっと手を動かしてみた。けれど彼は目を覚ますどころか、顔を少し横に向け、さらに彼女の近くへ寄ってきた。少し俯けば、そのまま頬が触れてしまいそうな距離だった。玲奈は見下ろすように彼の顔を見つめた。通った鼻筋、整った輪郭、濃い睫毛、形のよい眉――どこを取っても整っていた。こんな顔に、どれほどの女が心を奪われたことだろう。女遊びの噂が絶えない須賀拓海が、いまは自分の病室のそばで、夜通し看病している。その事実が、玲奈の心を静かに揺らした。彼のような男が欠くものなど、金でも権力でも女でもない。けれど、彼のしてくれたことは――確かに、嘘ではなかった。玲奈は石のように冷たい女ではなかった。たとえ拓海の優しさが偽りでも、たとえ何かの思惑があったとしても、ここまでされて、心が動かないはずがなかった。彼は、胸を張って傲慢に生きることもできる男なのに、彼女の靴を
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第358話

綾乃は手に食事の入った箱を提げていた。それをベッド脇のテーブルに置くと、拓海に向き直って微笑んだ。「昨夜は大変だったでしょう。ありがとうね」拓海は少し照れくさそうに笑い、軽い調子で言った。「綾乃さん、そんなこと言わないでください。玲奈の世話をするのは当然のことです。それに――綾乃さんがこの機会をくださったんです。逃さない手はありませんよ」綾乃は一瞬、彼を見つめ、それから玲奈の方へと視線を移した。彼女は第三者だからこそ、二人の関係がどういうものかを一目で悟った。拓海の目には、玲奈しか映っていない。けれど玲奈の心は――まだ、そこにはいない。綾乃は、拓海が彼女を見るその熱を帯びた眼差しに気づくと、空気をほどくように口を開いた。「今日は撮影があるの。また須賀さんに玲奈をお願いすることになっちゃうわ。夜には代わりに来るから、それまで頼める?」拓海の顔に、隠しきれない笑みが広がった。彼にとって、それは頼まれごとではない。むしろ、与えられたご褒美のようなものだった。玲奈と一緒にいられるなら、他のことなどどうでもよかった。「綾乃さんが忙しいなら、俺、この二、三日ずっと玲奈のそばにいますよ」拓海は柔らかく笑いながらそう言った。綾乃は彼の言葉の裏を理解したように、ただ穏やかに微笑んだ。その話を受けずに、静かに言葉を変えた。「須賀さん、私も玲奈ちゃんの兄も......ただ、妹が幸せでいてくれれば、それでいいの」その意図を悟り、拓海はまっすぐにうなずいた。「わかっています。玲奈のことは、俺が必ず大切にします」綾乃はそれ以上何も言わなかった。代わりに玲奈の方へ向き直り、彼女の額に手を当てた。熱は下がっていた。安堵の息をつきながら、小さな声で尋ねた。「今夜、私が来て一緒に過ごしてもいい?」玲奈は小さくうなずき、弱々しい声で答えた。「うん、お願い」そのころ、午前九時。愛莉はちょうど目を覚ましたところだった。看護師が入ってきて、点滴の準備をしている。病室には、彼女ひとりしかいない。点滴を取り付けながら、看護師は少し不思議そうに尋ねた。「ねえ、愛莉ちゃん。ママはどこに行ったの?」愛莉はむっとした顔で答えた。「......ママな
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第359話

宮下は朝食を整え、タクシーで病院へ向かった。着いたのは九時二十分だった。平日の朝で道路は混み合っており、途中ずっと落ち着かない気持ちでいた。愛莉がお腹を空かせていないかと、そればかり気にしていた。朝、智也から電話があり、「朝食をゆっくり準備して、できたら病院へ持ってきて」と言われた。そのとき宮下は尋ねた。「旦那様は会社へ行かれますし、深津さんも研究室ですよね?では愛莉様はどなたが付き添うんです?」智也はあっさりと答えた。「玲奈が行く」奥様が行くと聞いて、宮下はようやく安心した。愛莉がしっかり食べられるようにと、彼女は時間をかけて丁寧に朝食を整えた。そのぶん出発が少し遅れてしまった。タクシーを降りて急ぎ足で病室へ向かうと、時計はすでに九時半を回っていた。だが――病室には、玲奈も、愛莉の姿もなかった。弁当箱をベッド脇に置き、宮下は慌ててナースステーションへ駆け寄った。「すみません、愛莉様はどこに?」看護師はその名を聞いた瞬間、顔色を変えた。「愛莉ちゃんは先ほど高熱で意識を失いました。今、救急治療室に運ばれています」その言葉を聞いた途端、宮下の全身が固まり、目からは涙が次々とこぼれ落ちた。どうすればいいのかわからず、ただ立ち尽くした。看護師に呼びかけられてようやく我に返り、慌てて言った。「そうだ、電話......旦那様と奥様に連絡しなきゃ......!」そのころ、智也は会議の最中だった。携帯はサイレントモードにしていたが、画面の上部に「宮下」からの着信が表示された。愛莉に何かあったのだと直感し、彼は即座に会議を止め、外へ出て電話を取った。通話がつながると同時に、宮下の泣き声が聞こえた。「旦那様、大変です......!愛莉様が、今、救急治療室に入られました......!」その言葉を聞いた瞬間、智也の胸が巨大な手で鷲掴みにされたように痛んだ。思考より先に、身体が動いた。言葉も発さないまま立ち上がり、社長専用エレベーターへ駆け出した。エレベーターのボタンを押したとき、ようやく声が出た。「わかった。すぐ行く」通話を切ると、エレベーターの数字を凝視しながら、頭の中は真っ白だった。もし、間に合わなかったら――愛莉は......その想像に
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第360話

智也は、何度も何度も電話をかけた。けれど、どの呼び出し音にも――応答はなかった。玲奈が自分の電話を無視しているのか、それとも気づいていないだけなのか。彼には、その区別すらもうつかなくなっていた。焦燥に駆られていると、救急治療室のドアが開いた。智也はすぐに立ち上がり、声を震わせながら医師に詰め寄った。「先生......娘は、愛莉はどうなりましたか?」眼鏡をかけた医師がマスクを外し、落ち着いた声で答えた。「もう大丈夫です。ただし今夜は念のため、小児集中治療室で一晩様子を見ましょう。状態が安定したら、明日には一般病棟に戻せます」その言葉を聞いた瞬間、智也は胸の奥に溜まっていた息を、ようやく吐き出した。重くのしかかっていた何かが、少しだけ和らいだ。だが、医師はその安堵の表情を見るや、眉をひそめて言葉を続けた。「愛莉ちゃんはまだ五歳ですよ。入院中に保護者がいないなんて、いけません。お父さんもお母さんも、もっと注意してください」智也は思わず眉をひそめた。「母親が付き添っていたはずです。玲奈が来ていたんじゃ......?」医師の口調がさらに厳しくなる。「お母さんがそばにいたなら、こんな事態にはなっていません」その言葉に、智也はようやく悟った。――玲奈は、来ていなかったのだ。そのあとの医師の説明は、耳に入らなかった。頭の中は、ただひとつの疑問でいっぱいだった。どうして、玲奈は来なかった?怒りが胸の奥で燃え上がり、理性を飲み込んでいく。智也は再び玲奈に電話をかけた。しかし、それでも――出ない。今度は確信した。玲奈は見ていないのではなく、わざと出なかったのだ。彼女がその電話を無視したせいで、愛莉は命を落としかけた。もし、もしも――愛莉に何かあったら......智也は、それ以上考えることすらできなかった。一方そのころ――病室では。綾乃が帰ったあと、玲奈はようやく朝食を食べ終えていた。拓海は一晩中眠れず、無精髭が伸び、目の下には濃い陰が落ちていた。それでも、病室を離れる気配はまるでない。彼はベッドのそばに腰を下ろし、手にした小さな果物ナイフでりんごの皮を静かに剥いていた。長く、切れ目なく、薄い皮がひとすじ――白い果肉が現れるたび
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