七年目の終わり、雪が溶けた のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

26 チャプター

第11話

賢吾はソファに深く腰を沈め、テーブルに置いた離婚協議書を見つめていた。灯りはつけず、外では雨が激しく窓を叩きつけている。ぱちぱちと弾ける音だけが部屋に響いた。ポケットを探ってタバコを取り出そうとしたが、箱はすでに空だった。指で潰し、無造作にゴミ箱へ放り込む。テーブルのボトルに半分くらい残されたコーヒーもあった――あれはいつだったか、あずさが出かける前に淹れてくれたものだ。「胃に悪いから、控えてね」彼女は決まってそう言い、心配そうに目を細める。彼は半分ほど飲んで、残りは流しに捨てた。今思えば、あずさはいつも同じことばかり言っていた。「夜更かししないで」「ちゃんとご飯食べて」「お酒はほどほどに」……そのときは鬱陶しく感じていたのに、今の静まり返った部屋の中では――もう一度、どんな言葉でもいいから彼女の声を聞きたくなっていた。二階から車椅子の音が響き、百合子が降りてくる。テーブルの上の離婚協議書を見るなり、彼女は口元に笑みを浮かべたが、すぐに表情を引き締めた。「これでよかったじゃない」彼女は椅子に腰を下ろし、湯呑を手に取る。「もともと、彼女の性格はうちに合わないんだから」賢吾は何も言わなかった。「むしろあんな女、もっと早く出ていくべきだったのよ」百合子は賢吾の肩を軽く叩く。「あの顔じゃ、見てるだけで気分が悪くなるもの」「母さん」賢吾は掠れた声で返事する。「何よ?私、何か間違ったことを言った?」百合子は湯呑を置き、冷たく笑う。「本当に気が利く子なら、あの時あんたが電話に出るのを邪魔したりしなかった。あのせいで私は――」「その話はもういい!」賢吾の怒声が部屋を震わせた。百合子は目を見開き、湯呑を落としそうになった。彼は大きく息を吐き、低い声で告げる。「部屋に戻ってくれ」百合子は息子を睨みつけると、そのまま去っていった。部屋が静けさを取り戻す。賢吾はソファに身を投げ出し、瞼を閉じた。あの日、結婚式の光景が脳裏に浮かぶ。会場の隅で、あずさはただ彼とみやびがバージンロードを歩くのをじっと見ていた。声も出さず、騒ぎもせず、頬を伝う涙を拭おうともしないまま――その視線を感じながらも、彼はみやびの手を取って歩き続けた。胸の奥がわずかに痛んだが、すぐにほかのことに気を取られて忘れた。だが今思
続きを読む

第12話

賢吾はスマホにあるあずさの写真を眺めながら、ふいに、初めて彼女を森崎家へ連れてきた日の光景を思い出した。百合子はソファに座り、冷ややかな目であずさを値踏みするように見つめると、湯呑みを卓に乱暴に置いた。「これがあんたの彼女?」背筋を伸ばして座るあずさの指先は、そっと服の裾を握りしめていた。「母さん」賢吾は彼女の肩を抱き寄せ、強い口調で言い切った。「俺は、彼女以外と結婚するつもりはない」その瞬間、百合子は湯呑みを叩きつけて怒鳴ったが、賢吾は振り返りもせず、あずさを連れて家を飛び出した。あの夜は激しい雨が降っていた。二人で道端のコンビニに駆け込んで雨宿りをする。髪がずぶ濡れのあずさは不安げに問いかけた。「……お母さん、ずっと私のことを、嫌いなままなのかな」「放っておけ」賢吾は彼女の冷たい手を握って自分のポケットに押し込み、笑った。「俺が好きなんだから、それで十分だ」その頃のあずさは、彼の一言で頬を赤らめ、深夜まで仕事する彼のもとへこっそり差し入れを持っていってあげた。酔いつぶれた彼のために、文句を言いながらも二日酔いに効くスープを作った。賢吾の指先が、そっとあずさの写真に触れ、その頬の輪郭をなぞった。だが、あの日を境にすべてが変わった。それは、母からの一本の電話だった。彼とあずさはちょうど肌を重ねた直後で、彼女は眠そうに彼の胸に頬を寄せていた。「今日は出ないで」小さなわがままに、彼は少し迷った末、スマホをマナーモードにした。翌朝、病院からの連絡は氷水のように冷たく突き刺さった――百合子が脳出血で倒れていた。賢吾が電話に出なかったせいで、治療のゴールデンタイムを逃し、百合子は半身不随になったのだ。病床で、母は彼の手を掴み泣き叫んだ。「あの女があんたを止めたりしなければ……」振り返ると、病室の入り口に立つあずさの顔は真っ青だった。その日を境に、家の空気は一変した。百合子とあずさに挟まれ、窮屈な思いをする賢吾は、仕事を理由に家に寄りつかなくなり、帰れば帰ったで、目に映るのは母が物を投げつける様子か、静かに嘔吐物まみれの服を片付けるあずさの姿か――そのどちらかだった。ある晩、彼は苛立ちを抑えきれずに言った。「……母さんは病人なんだ。いちいち気にするなよ」ちょうどワイシャツにアイロンを当ててい
続きを読む

第13話

翌日、賢吾はあずさが行きそうな場所を車で回ろうと思った。出かける前に残したのは、みやびへのひとことだけ。「母さんのことは頼んだ」みやびは素直にうなずき、遠慮がちに尋ねる。「賢吾さんは……あずささんを探しに行くの?」賢吾は一瞬固まったが、何も答えずそのまま出ていった。車が角を曲がって見えなくなると、みやびの笑顔はすぐに消えた。裸足になってサンダルを蹴飛ばし、大理石の床をペタペタと歩きながらキッチンに向かって叫んだ。「田中(たなか)さーん!アメリカーノを入れて、アイスで!」ちょうどそのとき、百合子は車椅子を回しながら書斎から出てきた。「みやび、リハビリの時間だから、付き合って」みやびは大げさに目を回しながら、のそのそと近づいていく。「おばさんはもう歩けるようになったって、賢吾さんが言ってたじゃないですか?」「でも、リハビリも続けるようにって、先生に言われてたのよ」百合子は眉を寄せる。「とりあえず薬を持ってきて」キッチンからは苦い漢方の匂いが漂ってくる。みやびは鼻をつまみながらコップを手にもち、しぶしぶと差し出した。百合子はひと口すすったが、すぐに吐き出す。「熱っ!……あずさは一度も――」「私はあずささんじゃありませんから!」みやびは苛立ちを隠さず、コップをテーブルに乱暴に置いた。百合子が吐き出した茶色い薬がはねて、みやびの新しいシルクのドレスに染みが広がる。「きゃあ!これ新品なのに!」百合子は床の汚れに視線を落とす。あずさなら、すぐさま跪いて拭き取り、顔色ひとつ変えなかった。薬の温度も必ずちょうどよく冷まし、後味を消すために飴まで添えてくれた。「おばさん、何ぼんやりしてるんですか?」みやびは紙ナプキンで汚れを適当に拭き取りながら言った。「リハビリに行くんでしょ?早く行きましょ」――リハビリ室。百合子は両手で平行棒を握り、汗をにじませながら一歩一歩踏みしめる。その横で、みやびはソファに座り、スマホをいじっていた。「頑張ってくださいね、おばさん」視線は一度も上がらない。「みやび、少しは支えて!」百合子は荒い息で声を張り上げた。みやびは唇を尖らせ、しぶしぶ肩を差し出す。だが百合子の手が触れた瞬間、彼女は声をあげて叫んだ。「痛っ!爪が刺さったんですけど!」「まったく、大袈裟わね!」百合子は彼
続きを読む

第14話

賢吾は病院に駆けつけた。ちょうど担架が目の前を通り過ぎ、百合子が血だらけで横たわっている。「……どういうことだ!」彼はみやびの手首を掴み、眉間に深いしわを刻む。「母さんがどうして階段から落ちたんだ!」みやびの目にたちまち涙があふれる。「ごめんなさい……全部、私のせいなの。おばさんが階段の昇り降りの練習をするって言ってたから……私が支えてたのに、急におばさんが足を滑らせちゃって……」爪が掌に食い込むほど強く握りしめ、無理やり涙を絞り出す。さっき救急車の中で医師は告げた――脳に強い衝撃を受けており、もう目を覚まさないかもしれない、と。やっとあの老いぼれと縁が切れる――そう思った瞬間、喉の奥から笑いが込み上げそうになり、慌てて唇を噛みしめる。賢吾は、涙で濡れた彼女の瞳をじっと見つめ――ふと、口元がかすかに釣り上がっているのに気づいた。「……お前、嬉しいのか?」目を細めて低く問いかける。みやびの心臓が跳ね、すぐに首を振って怯えたように彼を仰ぐ。「そ、そんなはずないよ……怖くて、もうどうしていいかわからないのに……」すすり泣きながら彼の肩に身を寄せる。「賢吾さん……私のこと、恨んだりしてないよね?」賢吾は彼女を突き放すことなく、静かに背を軽く叩いてやった。救急室の前。彼は椅子に腰を下ろし、さっきの自分の行動を思い返す。街中を探し回ったのに、あずさの姿はどこにもなかった。友人宅も留守、行きつけのカフェもここ数日顔を出していないと言う。まるで跡形もなく消えてしまったようだ。もし、あずさがいてくれたら……こんな考えが浮かび、賢吾の胸の奥が鋭く痛んだ。もし、あずさがいてくれたら、母の体調の変化に一番早く気づき、階段には滑り止めを敷き、万全の用意をしてくれただろう。「森崎さん!」医者が駆け寄る。「お母さまの容体がよくありません、すぐに手術が必要です」みやびはわざとらしく声を詰まらせ、肩を震わせる。そのとき、賢吾はとあることを思い出したのだった。――見守りカメラ。先月、あずさの提案で母のリハビリ用に階段の踊り場へ取りつけた見守りカメラ。そのときは「大げさだ」と不満を口にしたが、さきほどのみやびの笑みを思い出すと、賢吾は落ち着いていられなかった。「電話してくる」彼はみやびの肩から手を放し、廊下の隅へ歩いていく。
続きを読む

第15話

賢吾の車が病院の駐車場に急停車した。ドアを乱暴に閉め、大股で入院棟のエレベーターへ向かう。扉が閉まりかける中、ポケットからスマホを取り出し時間を確認する。三十分前、みやびから【おばさんは眠ったから、急いで戻らなくてもいい】とメッセージが届いていた。それでも賢吾はアクセルを踏み込んでいた。あのがらんとした家に一人でいたくなかったのだ。病室の前に着くと、足音を殺して近づき、ドアノブに手をかける。そのとき、中から鋭い音が響いた――平手で肉を打つような音。「この死に損ないが……どうしてまだ生きてるの?」低く押し殺したみやびの声が響く。賢吾は動けなくなった。ガラス越しにのぞくと、みやびがベッド脇に立ち、乱れた髪を肩に散らしている。彼女はもう一度手を振り上げ、百合子の布団から出ている脚に叩きつけた。「あんな高さから落ちても無事だなんて、ふざけないでよ」みやびは布団の一角を思いっきり叩いても、百合子は反応を見せなかった。「私に世話をさせるんだって?ふん、あの女みたいに尽くすわけがないでしょ?冗談じゃないわよ」賢吾の指がドアノブを強く握りしめる。目の前にいるのは、これまでの穏やかで優しいみやびとはまるで別人だった。彼女が言葉を吐くたびに、賢吾の心がピクリと震える――これが、彼女の本当の顔だったのか。「毎日身体を拭いてやるなんて吐き気がするわ」みやびは百合子の顎を乱暴につかむ。「ねえ、早く死んでくれない?そうすれば、私と賢吾さんを邪魔するやつはいなくなるんだから」賢吾が思わず扉を押そうとしたその時、ポケットのスマホが震えた。彼は慌てて後ろの長椅子へ下がり、画面に目を落とす。そこには、秘書が送ってきた見守りカメラの映像が再生されている。百合子がみやびに支えられ、階段を降りている。彼女が足をもつれさせた瞬間、本来なら支えるはずのみやびの手が――彼女の体を強く推した。ドン!百合子は階段を転げ落ち、上に立つみやびの口元には、ほんの一瞬、冷たい笑みが浮かんだ。次の瞬間、慌てたふりをして叫び声をあげていた。賢吾の拳が震え、血の気が引いていく。あの優しさを装ってきた女が、裏でこんなことができるとは、思いもよらなかった。ふと、あずさが車の事故に遭ったときのことが蘇る。あのとき百合子は「あずさに突き飛ばされた」と言い張り、みやびが
続きを読む

第16話

賢吾はみやびを病院の空いている検査室へ放り込むと、すぐ鍵を掛けた。よろけながら立ち直ったみやびが、涙目で彼の袖を掴もうとする。「賢吾さん……」賢吾は一歩引き、冷たい声を落とす。「母さんが目を覚ましたら、自分の口で説明しろ」みやびの涙がたちまちと溢れた。「違うの!あれは本当に事故で、わざとじゃなかったの。賢吾さん、私を信じて!」みやびの声は必死だったが、賢吾は振り向きもせずに吐き捨てる。「黙れ」そのとき、病室のほうから物音がした――百合子が目を覚ましたのだ。医師たちが慌てて駆け寄る中、賢吾はベッドの傍らに立った。百合子の乾いた唇が震え、声がかすかに漏れる。「……みやびに突き落とされたの、あの子は……人でなしよ……」「わかった」賢吾は水を差し出す。「カメラにも映ってた」百合子は急に彼の手をつかんだ。「……あずさは、本当に行ってしまったの?」濁った瞳に後悔の色が浮かぶ。「まさか……あずさに世話をされているときが、いちばん心地よかったなんて」賢吾は言葉を失った。こんなタイミングに母の口からあずさの名が出てくるとは思わなかったのだ。そこへ医師の一人がためらいがちに切り出す。「森崎さん……この間あずささんの治療についてお話が……」「治療?何の話だ」「……電気療法のことです」医師は声をひそめた。「あなたが出力をあげて欲しいと、北沢さんに言われて……」賢吾は椅子を蹴るように立ち上がった。「俺はそんなことを一言も言ってないぞ!」医師は慌ててタブレットを差し出す。流れる映像には、ベッドに縛られ、蒼白な顔で震えるあずさの姿が映っていた。そして、画面の外から響いたのはみやびの声――「もう少し出力をあげて。賢吾さんが懲らしめろって言ってたの」「……違う、俺じゃない」賢吾の喉は締めつけられ、息をするのも苦しい。「これはいつの映像?」「あずささんを預けた翌日です。彼女をきちんと『治療』するようにと、北沢さんが言っていました」医師は汗を拭きながら答えた。賢吾はぼーっと立ち尽くした。通りであずさを迎えに来たとき、彼女は壁際で膝を抱え、怯えた目で震えていたわけだ。賢吾は壁を打ち砕く勢いで拳を叩きつける。「賢吾さん!本当に違うの!」廊下からみやびの泣き叫ぶ声が聞こえる。賢吾は歩み寄り、彼女の腕を乱暴に掴み上げた。
続きを読む

第17話

朝、あずさは久しぶりに目覚ましに起こされず、自然と目を覚ました。しばらく天井を見つめてから、ここが森崎家の冷えた寝室ではないことに気づく。もう六時きっかりに起きて朝食を用意する必要もない。世話を焼く姑も、冷ややかな夫もいない。頭を横に振って、裸足のまま床に降りる。窓を開けると、潮の匂いを含んだ湿った風が頬をなでた。近所のおばさんが魚を焼いていて、ジューッと弾ける音と香ばしい匂いが風にのって届く。「起きた?ちょうどよかった」直美がキッチンから顔を出し、豆乳の入ったカップを差し出した。「朝ごはん、もうすぐ用意できるから。今のうちに顔を洗ってきて」身支度を済ませたあずさはテーブルにつき、熱い豆乳をすする。直美がスマホをいじりながら訊ねた。「今日はどうする?海まで散歩でも行く?」「生地ショップに行きたいの。母が残してくれたウェディングドレス、直してみたくて」生地ショップは街の東、古い商店街にある。バスで四十分ほど。あずさは人でいっぱいの車内で窓に寄りかかり、流れていく見知らぬ街並みを眺めた。陽射しがガラス越しに差し込み、頬を温める――これが自由なんだ、と胸が熱くなる。商店街はにぎやかな声で溢れている。歴史の長い生地屋さんの前でしゃがみ込み、レースを吟味していると、老店主が老眼鏡を押し上げて言う。「これならウェディングドレスの修繕にぴったりだよ。輸入もののレースさ」あずさが指で模様をなぞっていると、背後から駆け寄る足音が聞こえた。「あずささん!」祐介が本の束を抱えて走ってきて、息を整えながら彼女の前に止まる。「頼んでたウェディングドレスデザインの本、友達が持ってきてくれたんだ!」受け取ったのは『国際ウェディングドレスデザイン』の最新号と専門書数冊。ページを開くと、繊細な刺繍の写真に目を奪われる。あずさの心にある考えが芽吹いた。「こんな高価なもの、さすがに……」あずさは顔を上げて祐介をみる。「大丈夫!」祐介は額の汗を拭って、少し照れたように笑った。「姉ちゃんが言ってた。あずささん、昔コンテストで賞もらったって。それに比べれば大したことないさ」帰りの車の中で、あずさはふと気づく。記憶の中で彼女たちの後ろを追いかけていた小さな男の子が、いつの間にか立派な青年になっていることに。食事の後、直美が食器を
続きを読む

第18話

賢吾は病室の前に立ち、ガラス越しに検査を受けている母を見つめていた。数日前より顔色はよく、もう一人で上体を起こせるまでに回復している。「森崎さん、お母さまの回復は予想以上です」主治医がカルテをめくりながら言った。「脳の出血も大半が吸収され、言語も運動機能も少しずつ戻っています」「ありがとうございます」賢吾は礼を述べながらも、視線は母から離れなかった。ほどなくして、介護士の鈴木(すずき)が洗面器を抱えて病室から出てきた。「森崎さん、お母さまがあなたに会いたいと」賢吾は深呼吸してドアを押し開ける。百合子は枕に寄りかかり、息子をまっすぐ見つめた。「母さん、具合はどう?」賢吾は椅子に腰かけ、机の上のミカンを手に取って皮を剥きはじめる。百合子はその手元をじっと見つめ、ふいに口を開いた。「……行くつもりなのね?」思いがけない言葉に、賢吾はわずかにたじろぐ。「うん。母さんの世話は鈴木さんに頼んであるから安心して。彼女は信頼できる人だ」「……あの子を探しに行くのね?」百合子の瞳に複雑な色が宿る。賢吾は剥いたミカンを母のそばに置き、まっすぐに答えた。「そうだ。あずさを迎えに行く。もうこれ以上、待ちたくないんだ」百合子は視線を逸らし、窓の外に向けて小さく頷いた。「行っておいて、止めはしないわ」三時間後、賢吾は南へ向かう飛行機の座席に身を沈めていた。機内の灯りは落とされ、乗客の多くは眠っている。窓の外に広がる漆黒の空を見つめながら、秘書からの報告を反芻する。――最後にあずさが姿を見せたのは、南のほうにある小さな町。賢吾は彼女との再会を想像する。彼女は会ってくれるだろうか。それとも怒りが収めないまま、顔すら見せないだろうか。揺れる機体の中、賢吾は無意識に肘掛けを握りしめる。「……俺たちは、元通りに戻れるさ」誰にともなく、低くつぶやいた。到着後の荷物受け取り、タクシーでの移動、ホテルのチェックイン、全てが早送りの映像のように過ぎていった。翌朝、彼は調べついた住所――川沿いの古びた家を訪ねた。だが、何度呼び鈴を押しても反応はない。「……あずさ?」苛立ちまじりに扉を叩いていると、隣家から老婦人が顔を出した。「あずさちゃんを探してるのかい?もう引っ越したよ」「え……どこへ?」賢吾は驚いて目を見開く。「さぁね。ただ、
続きを読む

第19話

あずさがドアを押して入ってきた。手には丸めたデザイン画を抱え、髪はざっくりと後ろでまとめられていて、こぼれた前髪が頬にかかっている。言葉を発しようと顔を上げた瞬間、視線がカウンターの前に立つ男――賢吾に止まった。彼は少し痩せたが、目の奥に燃える執念の光は、かつて彼女がよく知っていたものだった。「……あずさ」賢吾が一歩踏み出す。あずさは振り返ると、ためらわず祐介の手を掴んだ。「行こう」「待ってくれ、あずさ!」賢吾が大股で追いかけ、二人の行く手を塞ぐ。彼の手があずさの腕に伸びかけた瞬間、祐介がさっと前に出て遮った。「彼女に触るな」賢吾は祐介の肩越しにあずさをまっすぐに見つめる。「……会いたかった。あずさ」通りを行き交う人々が足を止め、好奇心に満ちた視線を投げる。あずさは小さく息を整え、祐介の背を軽く叩いた。「大丈夫。車で待ってて」祐介は一瞬ためらったが、彼女の目を見てうなずき、歩き去る。二人の自然で親密なやりとりに、賢吾は奥歯を強く噛みしめた。祐介の背中が遠ざかるのを見届けてから、あずさはようやく賢吾と向き合った。陽射しを受け、細めた目が冷たく光る。「……で、何の用?」「……全部わかったんだ。この間、みやびは母さんを階段から突き落とした。これまでのことも彼女がお前を陥れるために仕掛けた罠だった。防犯カメラ映像を確認したし、本人も認めた」賢吾の声はかすかに震えていた。あずさは静かに頷いた。「そう」ただ、それだけ。賢吾の胸の奥で言葉が絡まり、出せなくなる。怒るか、泣くか――何かしらの反応を見せると思っていた。だが、彼女の顔は湖の水面のように澄んで動かない。「俺たちのことに、母さんはもう口出ししないって約束してくれた」賢吾は焦って言葉を添える。「母さんはリハビリ中だけど順調だ、優秀な介護士もつけた。だから……やり直そう?俺たちは結婚前の頃みたいに戻れるよ」「賢吾」あずさは遮った。「説明も謝罪もしなくていいの」彼女は顔にかかった髪を耳の後ろへ払う。「むしろあなたに感謝してるわ。おかげでやっと気づいたの。私、森崎家でただで家政婦をしてただけだったんだって」そのとき、店の奥から声が飛んだ。「あずさちゃん、ボタンは?持っていかないの?」「あ、はい!」あずさは答えると、振り返り歩き出す。賢吾は思
続きを読む

第20話

賢吾の黒い車が、祐介の車の後ろを一定の距離を保って追いかけていた。雨に濡れたフロントガラス越しに、ぼんやりと前方の車影を捉え続ける。ハンドルを握る手の指先に力が込められ、白くなっていた。祐介の車は住宅街に入り、六階建てのマンションの前で停まった。あずさが車から降りると、祐介が傘を広げ、当然のように彼女の頭上に差しかける。その自然な動きは、何度も繰り返してきたように見えた。さらに賢吾を苛立たせたのは、あずさが迷いなく鍵を祐介の手から受け取り、慣れた手つきでエントランスを開けた瞬間だった。――一緒に暮らしているのか?車のドアを乱暴に開け、雨に打たれながら賢吾は駆け寄った。「あずさ!」振り返った二人。あずさの唇がきゅっと結ばれる。「……お前ら、同棲してるのか?俺と別れてまだまもないのに?もう付き合ってるのか?」賢吾の声には怒りが混じっていた。祐介が一歩前に出る。「森崎さん、落ち着いてください」「黙れ!」賢吾の拳が飛び、祐介の顎を直撃した。傘が地面に落ち、水しぶきが跳ねる。「やめて!」あずさが叫び、祐介を支えた。「大丈夫?」祐介は口元の血を拭い、首を横に振る。雨に打たれ、賢吾はずぶ濡れのまま立ち尽くし、荒い息を吐きながら二人を睨みつけた。「何のつもり?」あずさが祐介を庇うように前に立つ。「いきなり暴力を振るうなんて、情けないと思わないの?」「お前ら、本当に一緒に住んでるのか?」賢吾は胸を上下させながら問い詰める。「そんなの、あなたと関係ないでしょ?」あずさはポケットから鍵を取り出し、突きつけるように見せた。「よく見て。ここは直美の家。私は客室に泊まってるだけ。祐介は彼の姉と一緒に暮らして、何が問題なの?」「……もういい、上がろう」祐介があずさの袖を引いた。「待て!」賢吾は階段の手すりを掴み、必死に言葉を繋ぐ。「あずさ、ちゃんと話をしよう」「話って?」あずさは振り返る。「あなたがこっそり離婚届を出したこと?お義母さんに二年間もいびらせたこと?それとも、『みやびとは何もない』って言いながら彼女を一晩中抱いてたこと?」「……悪い、俺が間違ってた!」賢吾の声が震える。「離婚なんて本気じゃなかった。取り消すつもりだったんだ!」あずさは冷たい笑みを浮かべた。「じゃあ、どうして取り消さなかった
続きを読む
前へ
123
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status