Alle Kapitel von プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~: Kapitel 941 – Kapitel 950

970 Kapitel

第941話

その言葉を聞いて、潤の胸中は正直なところひどく複雑だった。何か言いかけては口ごもる潤に、明里は首を傾げた。「どうしたの?」「あいつだけが聞き分けのいい人間みたいになってるのが、どうにも気に食わない」潤はふんと鼻を鳴らした。「お前が結婚した相手なんだから、向こうから連絡してこないのは当然のことだろうが」「もう、この話は終わりにしない?毎回毎回、あなたは意地になって」明里は頭痛を覚えるように眉間を押さえた。「意地になってるってどういう意味だ?俺は何か間違ったことを言ったか?」「だから、大輔のことで、あと何回喧嘩すれば気が済むのよ?」「一回もしたくないね」「じゃあ、もう持ち出さないで」「今度あいつが帰ってきても、お前、絶対に話しかけるなよ!」「潤、あなた本当に子供みたいね」「そうだよ、俺は子供だ!」潤は売り言葉に買い言葉で、つい勢いに任せて怒鳴ってしまった。「もし俺がお前を取り戻せていなかったら、いずれあいつと一緒になっていたんじゃないのか?」明里は目を丸くして、信じられないものを見るような目で潤を見つめた。まさか彼が、そんな言葉を口にするとは思ってもみなかったのだ。潤も、口に出した瞬間、激しく後悔した。一時の感情に流されて、頭で考える前に言葉が飛び出してしまったのだ。「いや、それは……」明里は、ふっと冷ややかに笑った。「あなたって、心の底ではずっとそう思ってたのね」「違う、そうじゃない……ただ焦ってたんだ。嫉妬してて、深く考えずに言っただけで……」と、潤は慌てて否定した。「深く考えずに出た言葉こそ、本音でしょう」明里は静かな、しかし刺すような声で言った。「今になっても、あなたはまだ私の気持ちを疑っているんだね」「疑ってなんかない!」潤は今すぐ土下座でもしたい気分だった。「お前の愛を疑ってるんじゃない、ただ俺は……俺は……っ」自分が何を言いたいのか、自分自身でもうまく言葉にできなかった。あの悪夢がここ数日ずっと頭にこびりついて離れず、どうにも心が落ち着かなかったのだ。大輔が戻ってくるとなれば、またあの手強い恋敵が明里のそばに現れる。それがさらに潤を苛立たせ、焦らせていた。だが、さっきの言葉があまりにも言い過ぎだったことは、痛いほどわかっていた。明里は怒りのあまり寝室
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第942話

明里は、本当に呆れ果てて言葉も出なかった。自分の愛情のどこが足りなくて、どこが至らなくて、こんなにも潤を不安にさせてしまうのだろう。突き詰めて考えれば、これは潤自身の問題だが、自分と完全に無関係とも言い切れない。黙り込んでしまった明里を見て、潤はますます心細くなった。「明里ちゃん、本当にごめん。これからは絶対に……」「潤」明里は彼の目をまっすぐに見つめた。「私も、謝らなきゃいけないと思う」潤は驚いて目を丸くし、慌てて首を振った。「お前が謝ることなんて何一つない、悪いのは全部俺だ」「私の愛情表現がまだ足りないせいで、どれほど愛しているかが伝わっていなくて……だからあなたに、あんな夢を見せちゃうし、そんな心配までさせてしまうんだと思うの」「そんなことない……お前が俺を愛してるのは、ちゃんとわかってる……」「わかってないわ」明里は両手を伸ばし、潤の顔を優しく包み込んだ。「潤、あなたが私を愛してくれているのと同じくらい、私もあなたを深く愛してるのよ。離れて暮らしていたあの数年間、正直に言うと、一瞬たりともあなたのことを忘れたことはなかったわ。あなたが私を愛していないと思っていたあの頃でさえ、心の中にはずっとあなたがいたわ。もし再会していなくても、あなたがずっと私を愛してくれなくても、それでも他の誰かを受け入れることなんて、私には絶対にできなかった……こんな話、わかる?」潤の目が、みるみる赤く潤んでいった。「明里ちゃん……」「私にこんなことを言わせるなんて、本当に恥ずかしいわ……」と、明里は小さくため息をついた。「恥ずかしくなんかない」潤は明里の手をそっと取り、自分の頬にすり寄せた。「俺も同じだからだ。お前が俺を愛していないと思っていたあの数年間も、俺のお前への気持ちは一度だって変わらなかった」「そうでしょ。あなたが変わらなかったように、私も変わっていないの」明里は穏やかに潤を見た。「なのに、なぜ私を信じてくれないの?」「俺が……自分自身を、そんなに大した人間じゃないと心の底で思っていて、だから……」言葉が、途切れた。ただ、胸の奥がひどく痛んだ。離れていたあの数年間、自分がどれほど空虚な思いで生きてきたか。そして明里は、どれほどつらく孤独だったか。子供まで一人で育てながら、自分の何倍も苦し
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第943話

「お前がそんなに魅力的だから仕方ないだろ。何もしなくても、男たちはみんなお前を目で追って、好きになって、勝手に寄ってくる……」「いくらなんでも大げさすぎるわよ」と、明里はあきれ顔で言った。「じゃあ、その理屈で言えば、私もあなたをカバンにでも詰め込んで、会社に行かせないようにしなきゃいけないわね」「俺が会社で一番顔を合わせる相手は特別補佐や秘書室の連中だけど、秘書室のスタッフは全員既婚者だぞ……」「私だって、立派な既婚者よ」「明里ちゃん……」「甘えないの」と、明里はぴしゃりと言った。「これは深刻な問題よ。私を信頼していないってことでしょ」「わかった、わかったよ。これからは理由もなく嫉妬しないようにするから」「何か不安なことがあったら、私に聞いて。ちゃんと話し合ってから口にして。一人で悶々と溜め込まないで」潤は素直にうなずいた。「なんだか、ゆうちっちよりも子供っぽいんじゃないかって気がしてきたわ」と、明里はため息交じりに言った。「そんなわけないだろ!」と、潤は心外だとばかりに不満げな顔をした。「まだ四歳の子供に負けるはずがないだろ!」「これ以上子供っぽい態度を続けてたら、お腹の赤ちゃんにも負けるかもしれないわよ」お腹の赤ちゃんの話題が出た途端、潤はまたしゅんと肩を落とした。「……本当にごめん。いつも怒らせて、心配ばかりかけて……」「自覚してるならいいわ」と、明里は軽く彼の腕を叩いた。「もうベッドで横になる。疲れたわ」潤は慌てて明里を抱き上げた。妊娠してからも、明里はさほど体型が変わっていなかった。腰のラインは細いままなのに、下腹部だけが少しふっくらと丸みを帯びている。潤は羽毛でも持ち上げるかのように、難なく彼女を抱きかかえた。ベッドにそっと横たえると、潤もすぐ隣に寝転がった。「疲れた?」「疲れたわよ」と、明里は目を閉じた。「一日仕事して、帰ってきてゆうちっちの遊び相手をして、そのうえ大きな子供の相手までして。疲れるに決まってるじゃない」「ごめん、本当にごめん」と、潤は横向きになり、身を屈めて彼女の頬にそっとキスをした。「次は絶対しないから!」「じゃあ、もう一度だけチャンスをあげる。また同じようなことで意地を張ったら、本当に許さないからね」「絶対にしない。遠藤が戻ってきたら、俺がすべて
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第944話

本当は、「明里に何かあったのか」と真っ先に聞きたかった。だが、もしそう言えば潤がまた余計な邪推をして、結果的に割を食うのは明里だ。大輔は言葉を飲み込んだ。「大したことじゃない。樹が結婚するけど、お前いつ戻ってくるんだ?」大輔は思わずぽかんとした。あの潤がわざわざ電話をしてきて、他愛のない世間話をしようとしている?太陽が西から昇るようなものだ。「明後日、金曜日だ」と大輔は答えた。「じゃあ金曜の夜、俺が飯を奢る」と、潤はあっさりと言った。「帰国祝いだ」大輔は思わず自分の耳を疑った。「……お前、本当にあの二宮潤か?」何かが乗り移ったんじゃないか?潤はスピーカーフォンにしていたので、明里にも二人のやり取りが筒抜けだった。大輔のその的確なツッコミに、明里はたまらずぷっと吹き出した。その笑い声を聞き留めた大輔は、恐る恐る口を開いた。「アキ?」明里がスマホに顔を寄せた。「いるよ。金曜、何時に着くの?一緒に食事できそう?」「本当に俺の歓迎会をしてくれるのか?」と、大輔は少し笑い声をもらした。「二宮が酔っ払ってでもいるのかと思ったよ」「本当よ」と、明里は笑いながら言った。「潤も誠心誠意誘ってるんだから」「ありがとう」と、大輔は声のトーンを和らげた。「午後に着く予定だ」「じゃあ夕食を一緒にどうだ?」と、潤が横から口を挟んだ。「六時でいいか?」「ああ、いいよ」飛行機を降りたら少し休んで、身支度を整えてから向かえばいい。帰国のスケジュールはすべて自分で決められる立場だから、誰に会うかも彼の自由だ。潤は明里をちらりと見て、電話口に向かって尋ねた。「他に俺の妻に言いたいことはあるか?」大輔は、本当に潤が何かの毒でも食らったのではないかと疑った。「俺の妻」という言葉には確かに独占欲と自慢がたっぷりと滲んでいるが、それでも潤からこんな気遣いのある質問ができるとは、正直意外だった。明里がスマホを受け取った。「飛行機を降りて疲れていたら、土曜日にずらしてもいいよ」「大丈夫だ」と、大輔は穏やかに言った。「しょっちゅう世界中を飛び回ってるから慣れてる。アキ、最近はどうだ?体調は崩してないか?」「何ともないわ、元気元気」潤がまた横からスマホを取り返した。「じゃあ金曜の夜にな」「了解した」電話を切っ
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第945話

「大輔が彼女を作るかどうかなんて、私に何の関係があるの。それに、私が言ったからって、素直にそうするわけでもないでしょう」「友人として気にかけてやるのは当然じゃないか。あいつが一人で孤独に歳を取っていくのを見るのは、忍びないだろ」潤の見え透いた狙いなど、明里にはすっかりお見通しだった。大輔がかつて明里を深く愛していたことは、誰もはっきり口に出したことはなかったが、暗黙の了解だった。ただ、今の大輔の気持ちがどうなのかは、明里にはわからない。もしかしたら、もうとっくに気持ちの整理がつき、変わっているかもしれない。明里は、いつまでも自分への好意が続いていると思い上がるような人間ではなかった。だが、大輔に向かって「さっさと彼女を作りなよ」と言うのは、やはり少し気が引けた。親しい友人であるとは思っているが、何でもあけすけに話せる仲というわけではなかった。それに大輔という人間は、何事も自分の確固たる計画があって動く男だ。人に一言言われたくらいで、「じゃあそうするよ」と素直に従うタイプではない。さらに明里はずっと、自分が彼に対してそういう口出しをする立場にあるのか、どことなく拭い去れない気まずさを感じていたのだ。とはいえ、そういう踏み込んだ話を避けたとしても、三人で食事をするのが気まずくないかと言えば、それはそれで気まずかった。幸いなことに、宥希がいる。子供というのは、どんなに張り詰めた空気でも和ませてくれる存在だ。宥希は大輔としばらく直接は顔を合わせていなかった。でも宥希は今、自分専用のキッズスマホを持っていて、大輔ともつながっているから、ちょくちょくメッセージのやり取りをしていた。だから久しぶりに会っても、決して他人行儀にはならない。大輔は、宥希のことを本当に目に入れても痛くないほど可愛がっていた。宥希は潤に瓜二つの顔をしているが、彼が三歳になるまで、その成長を間近で見守りながら育てたのは、間違いなく大輔だったのだ。二人の間の絆は、誰にも真似できるものではなかった。親子と言っても過言ではないほどの深い絆で結ばれている。潤は内心少しモヤモヤとした嫉妬を覚えながらも、あの数年間に大輔が果たした役割の大きさを痛いほどわかっていた。自分が明里のそばにいなかった間、大輔が彼女と子供を献身的に支えてくれた。
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第946話

大輔は少し笑ってから言った。「実は仕事のパートナーに、あいつの元カノがいてね」「増田さんに、そんなキャリアウーマンの元カノがいたの?」明里は思わず吹き出した。てっきり、啓太の元カノたちはみんな、しっとりと優しいタイプだと思っていたのだ。「一週間で別れたらしいけどね。接待の席で、たまたま雑談の流れで出てきたんだ」と、大輔は苦笑交じりに言った。「そうだったの。増田さんは今、優香ちゃんを熱心に口説いてるけど、うちの家族はみんな猛反対しててね」「そりゃそうだろう。優香はまだ若いんだから、変に焦る必要なんてない」大輔は冷静に頷いた。以前、明里が海外にいた頃、優香はよく彼女の顔を見に遊びに来ていたため、そこで大輔ともすっかり顔なじみになっていた。大輔の目から見れば、優香はただの無邪気で可愛い妹分だ。そんな箱入り娘を、啓太みたいな手慣れたオオカミにかっさらわれるのは、見ていて少し忍びない。河野家の人間なら、なおさらそう思うはずだ。啓太は恋愛遍歴が派手すぎるし、優香とは年齢も七つ離れている。あんな大切に育てられた小さなお姫様を、安心して任せられる相手とは到底思えなかった。大輔は、二人は根本的に合わないと思っていた。もっとも、それは自分が横から意見を言うような立場ではないが。その時、潤が宥希の手を引いて席に戻ってきた。二人が楽しそうに話し込んでいるのを見て、潤は少し探るように聞いた。「何の話だ?」「優香ちゃんのことよ」明里はあっさりと言った。「優香?」潤は眉をひそめた。「啓太との話か?」「そう」明里は頷いた。「みんな、あの二人の相性はどうなんだろうって心配してるみたいね」大輔は、啓太と潤が深い親友同士であることを知っているので、それ以上はあえて何も口出ししなかった。大輔自身、もともとそれほど穏やかな性格ではない。以前は潤と犬猿の仲だったのだ。今こうして穏やかに同じテーブルに座っていられるのは、ひとえに明里への細やかな配慮からである。明里を困らせたくない。自分の存在のせいで、二人が無用な揉め事を起こすことも、決して望んでいなかった。自分が今も明里を愛しているということ、そしてこの切ない気持ちがまだ当分は消えずに続くだろうということを、大輔自身、静かに認めていた。少なくとも今のところ、他の女性に対
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第947話

潤は明里の肩をそっと抱き寄せて聞いた。「最後、何を話してたんだ?」「ただの他愛のないおしゃべりよ」明里はくすくす笑ってからかった。「そんなに気になるなら、なんでわざわざ席を外したの?」「俺がいたら、話しにくいこともあるだろうと思って気を利かせたんだ」「じゃあ、いちいち聞かないでよ」潤は片手を伸ばして、明里の細い首筋をそっと掴んだ。「わざと焦らしてるだろ?こっちはあれだけ大人の対応をしてやったんだ、それくらい聞いたっていいじゃないか」「なら、最後までとことん大人でいなきゃ」明里は笑いながらその手を優しく外し、自分の手で握りしめた。「帰国したら、ゆうちっちをよく遊びに連れ出してあげるって言ってくれたの」「俺の息子なのに、向こうはずいぶん熱心だな。そんなに子供が好きなら、早く誰か相手を見つけて自分でも子供を作ればいいのに」「余計なことを言わないの」明里は潤の広い肩に頭をこてんと乗せた。「あなたはもうすぐ二度目の子宝に恵まれるっていうのに、あの人はまだ独り身なんだよ」「俺のせいじゃないだろう」と、潤は拗ねたように言った。「むしろ俺だって、あいつにも子供に恵まれてほしいと心から思ってるさ。俺の可愛い息子に目をつけないでくれよな」そして、ふと思い出したように続けた。「なあ、今度の赤ん坊は女の子だと思う?」「さあね、どうでしょう」二人とも、今は医師にお願いして、まだ性別を内緒にしてもらっている。なにしろ、男の子でも女の子でも、二人が注ぐ愛情に何の変わりもないのだ。特に宥希を産んだ時、潤はどうしても明里のそばにいてやれなかったから、今度の妊娠は潤にとってなおさら特別な意味を持っていた。この生まれてくる子への期待と喜びが、人一倍大きかったのだ。女の子の方が嬉しいと、潤はひそかに思っている。明里の言う通り、男女一人ずつ揃うのが一番完璧だからだ。もちろん、男の子でもそれはそれで飛び上がるほど嬉しいが。宥希は、可愛い妹が欲しいとしきりに言っている。でも、実際に産声を聞くその日まで、確かなことは神様以外誰にもわからないのだ。……胡桃の結婚式は、日曜日と決まっていた。土曜日には、明里も早朝から手伝いに向かった。樹が意識不明でベッドに横たわっていたあの数ヶ月間、樹の筋肉はすっかり落ち、見守り続けた胡桃も痛々しいほ
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第948話

六日目だ。丸六日間、胡桃の顔を見られていない。樹は、死にそうなほど胡桃が恋しかった。そばに可愛い息子がいても、妻に焦がれるような寂しさは決して埋まらない。もともと二人は、一緒に過ごす時間よりも、すれ違って離れている時間の方がはるかに長かった。胡桃は樹の顔を見るだけで苛立ち、一秒前まで甘え合っていたかと思えば、次の瞬間には容赦なくベッドから蹴り落としてくるような気性の激しさがあった。胡桃が妊娠してからというもの、やっと二人は片時も離れなくなったのだ。もう樹は、いくら追い出されようとも絶対に出て行かなかった。そしてあの悲惨な事故が起き、樹が眠り続けていた間、胡桃は片時も彼のベッドのそばを離れなかった。奇跡的に目が覚めてからは、二人は蜜のように甘く濃密な日々を過ごしていた。それが急に引き離されてしまって、樹は今、本当につらかった。一度極上の贅沢を知ってしまうと、もう元の質素な生活には戻れないのと同じだ。毎日胡桃と一緒にいられたあの日々は、樹にとってまさに天上の暮らしだった。目が覚めてからというもの、彼は会社にも行かず、子供の世話すら後回しにして、ひたすら体を鍛え直すか、胡桃といちゃつくか、その二つしかしていなかったのだ。そこへ、どこの誰が吹き込んだのか、「式の前は顔を合わせるな」という忌々しい迷信。今の時代、どこにそんな決まりがあるというのか。なのに胡桃は、それを盾にして本当に会おうとしなかった。実家を訪ねても、胡桃は部屋に閉じこもったまま絶対に出てこない。さすがの樹も、義理の実家で強引に部屋へ押し入るような度胸はなく、おとなしく従うしかなかった。その待ち焦がれた胡桃から電話がかかってきて、樹は今すぐ彼女の元へ飛んでいきたい衝動に駆られた。「樹……」胡桃が厳しい声で言いかけたところで、樹がすかさず割り込んだ。「胡桃、一度だけ、今から顔を見に行っちゃダメか?」「ダメ!」胡桃はつっけんどんに一蹴した。「顔を見るって何を企んでるのよ。そんなこと言うなら、もう結婚なんてしたくなくなってきたわ」「頼むから、それだけはやめてくれ!この数日、こんなに大人しく耐えてたじゃないか。君を怒らせるようなことは何一つしてないぞ」「毎日のように実家に押しかけてきて、何が大人しくよ。もう少し自重しなさ
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第949話

新郎側の友人や親族は、新郎がすんなりと花嫁を連れてチャペルへ向かえるよう、あの手この手で盛り上げて送り出す。優香が用意した「ファーストミート前の試練」は、何十本ものブランド物の口紅だった。その中から、全く同じ色番を二本探し出せという過酷なお題だ。樹と新郎側の友人たちは、一斉に頭を抱えた。男の目から見れば、どれも似たような赤にしか見えない。たかが「赤」に何十種類もの絶妙な違いがあるとは思いもしなかったのだ。当然、制限時間内に見つけられるはずもなかった。罰ゲームとして課されたのは、余興用の腕立て伏せ百回。しかも、悪ノリした友人二人を背中に乗せた状態での過酷なものだ。幸い、樹が連れてきた友人たちはみんな頼もしい男ばかりだった。彼らが高級なタキシードやスーツを脱ぎ捨て、シャツの袖をまくり上げると、鍛え抜かれた腕の筋肉が見事に浮かび上がった。友人が背に乗るという難条件もなんとか歯を食いしばって乗り越え、見事な腕立て伏せをやり遂げた。数々のドタバタを突破し、ようやく胡桃の待つブライズルームへたどり着く。樹はベッドの傍らに片膝をついて、ドレス姿の胡桃の足元へそっとパンプスを滑らせた。そのまま愛しい花嫁の手を引いて、格式高いチャペルの中に入った。子供がまだ幼く、樹の体力もようやく戻ってきたばかりなので、遠くの海外へは行かず、地元で一番格式高いホテルでの式となった。二人の愛の道のりは、長かった。高校の頃から数えれば、ゆうに十数年になる。その二人が、ついに結婚した。すべての祝福する人々の前で、正式に互いの伴侶となったのだ。一般的に結婚式で涙を流すのは女性の方が多いが、今日集まった親族や友人たちは、人生で一番盛大に泣きじゃくる新郎の姿を目の当たりにすることとなった。樹の涙は、一向に止まる気配がなかった。誓いの言葉を述べる時も、指輪の交換をする時も。どの場面でも、幸せな感情がこみ上げ、涙となって頬を濡らした。「もう、みんなが見てるのに恥ずかしいわ……」胡桃はそんな樹を見て、いじらしいような、おかしくてたまらないような気持ちだった。「止められないんだ。嬉しすぎて」樹は涙で顔をくしゃくしゃにしながら笑った。この式を通して、参列していた多くの子供たちが「喜びの涙」という言葉の本当の意味を、初めて身をもって理解
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第950話

甘い言葉を囁き合いたいだけなら、胡桃にだって付き合う気は十分にあった。だが、今日は本当に骨の髄まで疲れ切っていたのだ。朝から今まで、一瞬たりとも休んでいない。樹がまだ熱に浮かされたように語り続けているうちに、胡桃は最初こそ相槌を打っていたものの、気がついた時には深く甘い眠りに落ちていた。樹の心は、まだ熱く高ぶっていた。体は限界まで疲れていても、それを上回る激しい興奮が彼を支配していた。眠気など少しも訪れなかったが、胡桃が疲れ果てているのは痛いほどわかっていた。これ以上彼女の安眠をかき乱すのは忍びなく、ただそのまま傍らで、愛しい寝顔を静かに見つめ続けた。この女が、とうとう自分の正式な妻になったのだ。あれほど多くの人々の前で、胡桃は自分と永遠の誓いを交わしてくれた。これから二人の名前は、一生、同じ戸籍で結ばれる。もう、何があっても離れることはない。樹は、今の自分がひどく間抜けみたいだと思った。ただ胡桃の顔を見つめているだけで満たされ、瞬きする一瞬すら惜しかった。愛情は、時間と共に残酷に薄れていくものだと言う人がいる。夫婦として共にいる時間が長くなればなるほど、二人を繋ぎ止めているのは愛情ではなく、ただの絆と責任感にすぎなくなるのだと。だが樹は、いつ胡桃を見ても、出会った頃と同じように胸が高鳴った。これが運命というものなのか、それとも自分が他の人間と違うだけなのか。とにかく、一度誰かを心底好きになれば、その熱は一生冷めることなく続くのだ。情も責任ももちろんあるが、何よりも一番にあるのは、狂おしいほどのときめきだ。胡桃は、しつこい口づけで目を覚ました。今が何時なのかも見当がつかない。うとうとしていると、首筋のあたりがひどくくすぐったい。重い目を開けると、端正な顔がすぐ近くに迫っていた。胡桃は慌てて彼を押し返した。「何……今、何時?」「朝の八時だ」樹はまた懲りずにすり寄ってきた。「七時間もぐっすり寝たな。体は少し楽になったか?」「まだ眠いのに」と、胡桃は、できることならこのまま永遠に眠り続けたかった。「邪魔しないで。もう少し寝るから」「胡桃……」樹が、そんな言葉でおとなしく引き下がるはずがなかった。「じゃあ、君はそのまま寝てていい。俺は俺で勝手にするから」何をすると言うのか。
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