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第34話(31)

 力をなくした片足を持ち上げられ、再び内奥の入り口に道具の先端が押し当てられる。この瞬間、ゾクゾクするような強烈な疼きが背筋を駆け抜け、和彦は自分の反応に戸惑った。「あっ、いや――……」 反射的に制止しようとして、守光と目が合った。淫らな行為の最中とは思えないほど冴えた眼差しに和彦は射抜かれ、発しかけた言葉は口中で消える。代わりに口を突いて出たのは、甘い呻き声だった。** 和彦は布団の上で仰向けとなったまま、茫然自失としていた。さんざん道具で嬲られ、啜り泣きを洩らしても許してもらえず、ひたすら快感を与えられ続けたのだ。限界まで体力も気力も削り取られ、まさに精根尽き果てた状態だった。 動けない和彦の体の後始末をしたのは、吾川だった。体の汚れを拭い、新しい浴衣を着せたあと、ひどい有様の布団を入れ替えて、道具すらも布に包んでどこかに持って行ってしまった。和彦は、羞恥する感覚さえ麻痺しており、ぼんやりと吾川の行動を目で追っていた。 恭しく頭を下げて吾川が部屋を出ると、ほぼ入れ違いで守光が部屋に戻ってくる。どうやら湯を浴びてきたらしく、白髪が濡れていた。 和彦が緩慢に体を起こそうとすると、側にやってきた守光が手を貸してくれる。「……すみません」 言葉を発して初めて、自分の声が掠れていることに気づいた。「あんたがあんまりいい声で鳴くから、無茶をしてしまった。すまなかった」 布団の傍らに座った守光の言葉に、和彦は返事のしようがなかった。ここで、部屋の主である守光を畳の上に座らせ、自分が布団の上にいるのも失礼だと気づき、慌てて布団から下りようとする。守光は笑って首を横に振る。「かまわんよ。今夜はここで寝るといい」「いえ、そんな――」「あんたに、その権利は十分ある。なんといっても、わしの大事で可愛いオンナだ」 和彦はピクリと肩を震わせ、うかがうように守光を見る。口元に薄い笑みを湛えた守光は片手を伸ばし、乱れたままの和彦の髪を撫でてきた。それだけで、疼きにも似た感覚が背筋を駆け抜ける。体は離しはしたものの、精神的にまだ守光と
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第35話(1)

 和彦の予想を上回って、事態は急速に動き始めた。 総和会出資によるクリニック経営の話を承諾した三日後には、午前中のうちに総和会本部へと連れて行かれ、藤倉の立ち会いのもと、膨大な数の書類にサインをさせられたのだ。 長嶺組出資のクリニックを任されることになったときも、同じように書類にサインはしたが、ここまで多くはなかった。 当然の義務とばかりに藤倉は、書類の一枚一枚について説明をしてくれたが、公的なものはほとんどなく、大半が、総和会内で回され、保管される書類だった。 自分を総和会に縛り付けておくための契約書だと、万年筆を握る手を機械的に動かしながら、自虐的に和彦は考える。自分が決断した結果だということは痛いほどわかっているのだ。例え、そうするしかなかったとはいえ。 強い力に身を委ねた先にあるものについて想像力を働かせてみるが、まるで靄がかかったように、何も思い浮かばない。安寧があるとは思えなかった。正体のはっきりしない何かが真っ黒な口を開けて待っているような、漠然とした不安だけは、ひしひしと感じる。当然、重圧も。「――佐伯先生に、総和会の加入書を書いていただいたときのことが、昨日のように思い出されますよ」 和彦が記入し終えた書類を確認しながら、藤倉が感慨深げに言う。和彦は微苦笑を浮かべていた。そのときのことは、和彦自身、今も鮮明に覚えている。「あのときは、藤倉さんにはご迷惑をおかけしました」「いえいえ、ご迷惑だなんて。我々も少々強引に物事を進めすぎたと、反省したんですよ。なんといっても、佐伯先生はまだ、まったく堅気の方でしたから」 悪気はないのだろうが、今は違うと言外に言われたようなもので、和彦は複雑な表情となる。しかし藤倉はそんな変化に気づいた様子もなく、さらに言葉を続ける。「その佐伯先生が、今では総和会会長の信頼を得て、出資を受けて事業を始めるまでになられたんですから、すごいことです。しかも、短期間のうちに」 藤倉も当然、和彦と守光がどんな関係にあるのか知っているだろう。そのうえで、嫌悪や侮蔑といった感情を微塵も表に出すことなく、当初の頃のように接してくるのだから、感心するしかなかった。総和会の人間の誰もが、和彦の前で
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第35話(2)

 和彦の前では丁寧なビジネスマンのような物腰を崩さない藤倉が、一瞬、ゾクリとするほど鋭い眼差しを、エレベーターのほうに――エレベーターから降りてきた人物に向けた。何事かと、反射的に視線を向けた和彦は、小さく声を洩らす。 圧倒されるような整然さを保った、ダークグレーのスーツを身につけた一団には見覚えがあった。そして、男たちの中心には、灰色の髪をした長身の男がいる。 御堂だとわかり、和彦は半ば無意識に一歩を踏み出していたが、次の一歩を阻むように、護衛の男たちが壁のように前に立ちはだかる。「――佐伯先生、こちらに」 藤倉に肩を抱かれ、さりげなく立ち位置を変えられた。御堂たち第一遊撃隊への警戒心を隠そうともしない露骨すぎる行動に、和彦は戸惑う。慌てて振り返り、御堂の姿を目で追いかける。 御堂は、和彦の存在に気づいているはずだが、こちらを一顧だにせず、冷然とした横顔を向けて通り過ぎた。せめて挨拶ぐらいはと思っていただけに、御堂の態度に軽くショックを受ける。 ただ、御堂が総和会内で複雑な立場にあることや、和彦への襲撃に関してのよからぬ憶測があることを含め、二人が接触しないほうがいいと判断しても、仕方がないのかもしれない。御堂は特に、隊を率いている身だ。和彦とは違い、さまざまなことへ気を配らなければならないだろう。 それでも、視線すら合わせてもらえないのは少し寂しいなと、和彦はため息をついてから、藤倉と別れてエレベーターに乗り込む。 地下に降りて車が回ってくるのを待っていると、エレベーターが到着した音がした。さきほどと同じく、護衛の男が露骨に身構えたのを感じ、まさかと思って振り返る。一瞬、御堂かと思ったのだが、そうではなかった。しかし、御堂に近い存在ではあった。「二神、さん……?」 和彦がおずおずと呼びかけると、護衛の存在など目に入っていないかのように、二神がまっすぐこちらを見つめてくる。圧倒されそうな眼力の強さだが、口元に淡い笑みが浮かんだのを見て、和彦も微笑み返すことができる。「どうかされましたか?」「隊長から伝言をことづかってまいりました」 そういえばまだ、御堂にこちらの携帯電話の番号を
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第35話(3)

 前回、御堂と会ったのは、思いがけない形でだった。この御堂が、男に――清道会の組長補佐である綾瀬という偉丈夫に組み敷かれ、乱れている姿を、和彦はしっかりと見てしまったのだ。〈会った〉という表現は相応しくないのだろうが、御堂も見られることを承知していたという話なので、奇妙ではあるが、互いの存在を認識していたことになる。 つい最近の出来事なのだが、今日までにいろいろとありすぎて、時間の感覚が狂ってしまう。「何から話そうか。君とは、あれを話したい、これを話したいと、いろいろ考えていたんだが、いざこうして向き合うと、わたしたちの間にあるのは野暮な事柄ばかりだと、しみじみ思ってしまう」「本当に、砕けた話題をと思っても、悩んでしまいますね」 ここで二人は笑みを交し合う。御堂と親しくなったと言うつもりはないが、少なくとも初めて会ってお茶を飲んだときよりは、互いの距離が近くなったようだ。 和彦の緊張がいくらか解れたと感じたのか、タイミングを見計らっていたように御堂が切り出す。「――君はとうとう、総和会の人間になったんだね」 和彦は曖昧な表情となっていた。「そう、みたいです……」「あの長嶺会長に見込まれてしまうと、否とは言えないだろう。いかに息子といえど、賢吾も口出しはできなかっただろうし、なかなかつらい選択だったんじゃないか?」 御堂は、何を、どこまで知っているのだろうかと、正直戸惑う。すべてを打ち明けてしまえば楽なのだろうが、それは果たして正しい行為なのだろうかとも思ってしまうのだ。御堂と守光、そして南郷との間に因縁があることは、大まかではあるが把握している。そんな両者の間に、自分が争いの火種を起こしてしまうことを、和彦は何より恐れていた。 御堂の色素の薄い瞳が、じっとこちらを見つめてくる。射竦められそうな迫力に和彦が息を呑んでいると、御堂がふっと眼差しを和らげた。「……君は、頭がいい。いや、よすぎるぐらいか。だから、あれこれと考えて、自分が身動きが取れなくなる。関わる男が多い分、さまざまな事情を斟酌してしまうんだろう。そして、自分が何もかも呑み込んでしまえば、男たちに余計な気
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第35話(4)

「いえ……。心配しなくていいとだけ」「犯人について、調べているかどうかすらも教えられていないというわけか」 目線を伏せて肯定すると、どういう意味か御堂が唇の端を動かす。なんとなく嘲りの表情に見えた。 襲撃された件で、和彦に一番情報をもたらしてくれたのは、千尋だ。全体の状況が見えない和彦に、総和会内部の者による犯行の可能性を示唆したのだ。そのとき千尋の口から名が出たのは、今目の前にいる御堂だった。 もちろん、御堂の犯行だと決めつけていたのではなく、御堂を利用したがっている勢力があると言っていたのだ。その勢力の筆頭が、御堂とは浅からぬ縁のある組織、清道会だ。「そのうち……というか、さすがに誰かが君に教えるかもしれないが、君を襲った主犯格として、清道会の名が挙がっている。綾瀬さんがいる組だ」 和彦が驚かなかったことに、御堂は納得したように頷き、艶やかな笑みを見せた。「そうか。もう知っているようだね」「すみません……」「どうして君が謝る。総和会にいれば、誰もが薄々考えることだ。わたしが復帰して、血気に逸った誰かが独断で暴走した結果だとしても、責めを負うのは組そのものだ。実際、早いうちから長嶺会長は、檄文を出した。自分の〈オンナ〉であり、長嶺組長からの大事な預かりものでもある君が命の危険に晒されて、憤激していることを。そこに、まるで、特定の組織を想起させるような文章もつけてね」 えっ、と声を洩らした和彦は、そのまま絶句する。和彦が知る守光と、あまりに様子が違うと感じたからだ。守光はむしろ、和彦が襲撃されたということを最大限に利用した。総和会という組織深くに、和彦を取り込んだのだ。 ある可能性がちらりと頭を掠めた瞬間、総毛立つような感覚に襲われる。ブルリと身震いした和彦を、御堂は冷静な――冷徹ともいえる目で見つめていた。「君はやっぱり頭がいい。ある可能性に、気づいたんだね」 和彦は頷かなかった。認めてしまえば、守光とこれまでのように向き合えないと思ったからだ。聡い守光は、和彦の些細な機微すら見抜いてしまい、総和会という組織の奥にさらに取
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第35話(5)

 曖昧な返事をした和彦は、純粋な疑問から、御堂にこう尋ねていた。「どうして今日、ぼくを誘ってくださったのですか? 長嶺会長や南郷さんにもっと目をつけられることになるのに……」「牽制の意味もあったけど、君は放っておけない。わたしの長年の友人の大事な人だし、何より、昔のわたしの姿と重なる。そんなわたしの目に、君が頑丈な檻の中で窒息しかかっているように見えたんだ。みんな、君が大事すぎて、逃げ出さないよう、ただただ檻だけを立派にしていく。閉じ込められる君のことはお構いなしだ」「わかる、ものなんですね……」「わたしも一時、文字通り、檻に閉じ込められていたことがあるから」 とんでもないことをさらりと言われ、数秒の間を置いて和彦は目を見開く。御堂は淡く苦笑した。「オンナに執着するヤクザは、行動が似るんだろうか」「……ぼくは、さすがに本物の檻に入れられたことはありません」「まだね」 不吉な一言を呟いたあと、御堂は料理を口に運ぶ。和彦が一人で動揺していると、たっぷりの間を置いてから、御堂はようやく欲しい言葉を言ってくれた。「冗談だよ」 とりあえずその言葉に安堵して、和彦はようやく、食事を再開することができた。** 自宅マンションに着いた和彦は、部屋に入って完全に一人になったところで、大きく息を吐き出す。久しぶりに味わう解放感に、ここがやはり自分の家なのだと強く実感していた。 御堂と別れたあと、聞かされた話の内容から思うところがあった和彦は、どうしても総和会本部に戻る気にはなれず、護衛の男たちにこう主張していた。 このまま自宅マンションに向かい、一泊して過ごすと。 今日はすでに、御堂と食事をすることで、自分の主張を押し通した。いつもであれば、これ以上はわがままは言えないと、周囲の勧めに従うところだ。しかし和彦は引かなかった。結局、男たちはどこかに連絡を取ったあと、やむなくといった様子で承諾した。 靴を脱ごうとした和彦は、ふと気になってドアレンズを覗く。ここまで送り届けてくれ
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第35話(6)

 和彦は、ここが自分に与えられた檻のようなものであることを思い出す。じろりと賢吾を睨みつけた。「盗聴器、まだ仕掛けたままなのか……」「どんなときでも、先生の安全には気を配らないとな」「ものは言いようだな、まったく」「そう言うな。先生がここにいると連絡を受けたとき、たまたま移動の途中だったから、顔だけでも見たくて、こうして寄ったんだ。会えたんだから、盗聴器さまさまだろ」「……本当に、ものは言いようだな」 そう言って掻き上げた髪は、すっかり乾いていた。眠気はすっかりどこかに行き、心地よい充足感が手足の先まで行き渡っている。そう長い時間眠っていたわけではないが、よほどリラックスできたのだろうなと、自分の状態に和彦は複雑な心境となる。 体を起こすと、和彦の頭を見た賢吾が笑いを噛み殺したような顔をした。「髪を乾かさないまま寝たな、先生。頭がひどいことになってるぞ」 和彦は慌てて髪を撫でる。「いいんだ。どうせ今日はもう、誰にも会わないし」「ということは、今日はここに泊まるのか」 この表現は変だと、互いに気づいて視線を交わす。本来は、ここが和彦の住居で、総和会本部には客として滞在している立場なのだ。それが今では、まったく逆となっている。「これまで散々、先生に偉そうなことを言っておきながら、オヤジに対してまったく盾になれなくて、すまないな」 和彦の髪を撫でながら、苦々しい声で賢吾が言う。和彦はちらりと笑みをこぼした。「選んだのはぼく自身だ。……この世界で生きていくために、多分、必要なことなんだろう。窒息しそうな重圧を感じるけど、単なる〈オンナ〉では、きっとあんたたちの側にはいられない。ぼくは、自分の身を守りたいんだ。怖い思いも、痛い思いもしたくないから、強い力に身を委ねる」「……先生にそこまで言わせても、俺たちは――俺はやっぱり、先生に逃げられることを恐れてる。どんな手を使ってでも、こいつだけは絶対にどこにも行かせないと、あれこれ考えちまうんだ」 賢吾に肩を抱き寄せ
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第35話(7)

**** 総和会は、自分の要望をある程度受け入れてくれると確信が持てた和彦は、クリニックと本部を往復するのみという規則正しい生活を変えた。毎日ではないが、仕事を終えたあとに、外で食事や買い物をするようになったのだ。 護衛の男たちは、最初は露骨に渋い顔を見せた。当然だろう。なんといっても和彦は、襲撃されたばかりなのだ。和彦自身、御堂の話を聞く前であれば、こんな自分の行動など考えもしなかったはずだ。 御堂の話はあくまで憶測でしかなく、また狙われる可能性は十分にある。しかし和彦の中では、再度襲撃される恐怖よりも、守光に対する警戒心と、奇妙な表現だが、信頼感のほうが勝っていた。 守光が、抵抗勢力に対して権力を振るうために大義名分が必要だったというなら、和彦への襲撃は一度だけでいいだろう。暴力や痛みに極端に弱い和彦を、守光が追い詰めてくるとは思えなかった。 そもそも、本気で和彦への襲撃を恐れるなら、外を出歩くことを認めるはずがないのだ。「――気晴らしにお誘いしたのに、今日はずっと怖い顔をしていますね」 柔らかな声で話しかけられ、ソファに腰掛けて考え事をしていた和彦はハッとする。床に置いた段ボール箱の前に屈み込んだ秦が、こちらを見上げていた。 なんと言って誤魔化そうと思ったが、秦にはすべて見通されそうで、無駄なことはやめておく。「最近、いろいろと大変なんだ」「先生はいつでも大変でしょう。――今は総和会のほうに滞在しているらしいですね。それで、ですか?」 秦はどこまで把握しているのだろうかと、秀麗な顔に浮かぶにこやかな表情から推し量ろうとしたが、こちらも無駄だったようだ。感じのよい表情は、それ以上でも以下でもない。 自分の周りには食えない男ばかりだと思いながら、和彦はとりあえず頷いておく。「それもある。……長嶺組や中嶋くんから、何か聞いているのか?」「先生が、総和会の事業に加わるということは。皆一様に、複雑な表情でおっしゃっていたのが、印象的でしたが」「……中嶋くんも?」「あれは
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第35話(8)

 和彦と中嶋は体の関係を持っており、そして秦とも、危うい行為に及んでいる。そんな関係にありながら、いまさら倫理観や貞操観念に言及するのは、あまりに偽善的だ。 ただ、秦を不安がらせたいわけではないが、ついこんなことを口にしていた。「中嶋くんはモテるだろ。見た目はあの通り爽やかなハンサムだし、物腰も優しいし。今でも女性受けは抜群じゃないか」「男受けもいいですよ」 秦から意味ありげな流し目を寄越され、和彦は返事に詰まる。当て擦り――ではなさそうだと判断し、恐る恐る確認してみた。「やっぱり、心当たりでもあるんじゃないか?」「わたしの口からはなんとも。今度、先生から中嶋に聞いてみてください」「……なんだか面倒なことに巻き込まれそうな予感がするから、遠慮しておく」「先生は慎重だ」 秦が顔を綻ばせ、少なくともその姿からは、中嶋との関係を深刻に悩んでいる様子はうかがえない。どうやら和彦が心配する事態ではないようだ。「まあ、ぼくなんかが心配しなくても、君ら二人のほうがよほど、修羅場には慣れているか」 和彦の言葉に、秦が芝居がかった仕種であごに手をやり、深刻な表情を見せる。「他の人ならともかく、先生にそう言われると、複雑な気持ちになりますね……」「悪かったよっ。余計なことを言って」 失礼なことに秦は声を上げて笑い、自覚はあるだけに怒るに怒れない和彦は立ち上がると、雑貨で埋まっている棚へと歩み寄る。気晴らしのためにここを訪れたので、何か買って帰るつもりだ。 総和会本部の和彦のために準備したという新しい部屋は、必要なものはすべて揃ってはいるのだが、やはりまだ居心地が悪く、せめて自分が選んだ小物でも置いてみようと考えたのだ。それに、クリニックが休みの日にわざわざ外出しておきながら、手ぶらで帰るのも気が引ける。「何かお探しのものでもありますか?」「マグカップが。あっ、それと、温度計が欲しい。湿度もわかるものがいいな」「マグカップなら、ちょうど入荷したばかりのものがいくつかありますから、今出しますね。温度計は、そこの棚に並
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第35話(9)

「……その理屈が、総和会に通じるはずがないだろ」「連中の理屈なんてどうでもいい。俺とお前の仲の話だ。誰も――総和会も長嶺組も関係ない」 すぐにエレベーターが一階に到着し、鷹津は警戒することなく外に出る。和彦はその豪胆さに怯んだが、腕を引かれて仕方なく従う。 エントランスからビルの外をうかがうが、やはり護衛の姿はなかった。和彦は、鷹津が何をやったのかすぐに察した。「あんた、またやったんだな……」 ビルを出て、辺りを見回してから和彦が詰る口調で言うと、鷹津は軽く鼻を鳴らした。肩を小突かれ、一緒に歩き出す。「俺は刑事だぞ。いかにも筋者な男たちがうろついていたら、職質をかけるのが仕事だ。だけど今日の俺は非番で、仕方なく、他の奴に任せた」「……突っ立っていただけなら、なんの罪にも問えないだろ」「お前の護衛たちは、こんなところで何をしていた、と聞かれても、答えられやしない。まさか、長嶺会長のオンナを待っていると、バカ正直に答えるわけにはいかないからな。迂闊に適当な誤魔化しを口にしたら、暴力団担当の刑事たちは、それこそ重箱の隅を突くようにして矛盾を探り当てる。それを避けるためには黙秘するしかない。事態はますます、ややこしくなるな」 鷹津がこの手を使うのは、これが初めてではなかった。前にも一度、和彦と護衛を引き離すために、同じことをしている。 しかし、そのときと今では、自分たちの関係はずいぶん変化した。和彦は歩きながら横目で鷹津をうかがう。あのとき、和彦は本当に鷹津が嫌いで、不気味だとすら思っていた。 それが今では――。 風で乱れた髪を掻き上げて、和彦は背後を振り返る。鷹津は、和彦が逃げ出すとでも思ったのか、再び腕を掴んできた。背後には、護衛の男たちの姿は見えない。鷹津が言ったとおり、黙秘を貫いているのだとしたら、そう易々と解放はされないだろう。「――……これから、どうするんだ?」 今後の展開を想像して、意識しないまま声は暗く沈む。一方、大それた行動に出た当事者は、珍しく冗談めかして言った。
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