All Chapters of 偽りの契約、囚われた青春: Chapter 11 - Chapter 20

23 Chapters

第11話

車は、雨が降り始めた街を猛スピードで突き進んでいく。私は窓に額を押し付け、外を流れる景色をただ眺めていた。空が徐々に暗くなり、重たい黒い雲が街を覆い尽くす。ぽつり、ぽつりとガラス窓に落ち始めた雨粒は、すぐに叩きつけるような豪雨に変わった。オリヴァーは私の肩に寄りかかり、安心しきった様子で深い眠りについている。運転席の男は、さっきからずっと一言も発しない。車内は、不安になるほど静まり返っていた。試しに、小声で呼びかけてみる。「フィリップスさん?」返事はなかった。呼び方を変えてみる。「カイル」今度は、かすかな反応があった。彼は筋張った大きな手で、まるで愛おしむようにハンドルを撫でている。その手の甲に浮き出た青筋が、薄暗い車内でやけに目立った。「ああ」低く、少し掠れた声で彼は応じたが、こちらを振り返りはしなかった。私は少し気まずくなり、言葉を続けた。「あなたの気持ちは尊重するわ。もし嫌なら、いつでも断ってくれて構わないのよ」男は、それでも長い間返事をしなかった。私は無意識に、自分の服の裾を強く握りしめていた。「無理をさせているのは分かってる。でも、私のことは気にしないで。いつでもオリヴァーを連れて出て行けるから」その時、車が赤信号の前でゆっくりと停まった。彼が、初めて顔をこちらに向けた。無駄のない引き締まった顎のライン。まるで彫刻のように、筋が通った高い鼻。ふっと息を漏らすように軽く笑うのが聞こえた。「僕が、なぜあの婚約を十年も保ち続けていたと思う?それとも。僕が十二年前に君に書いた手紙のこと、もう忘れてしまったのか?」胸が、微かに震えた。十二年前。私たちがまだ中学生だった頃。当時、私とカイルはクラスメイトで、とても仲が良かった。それなのに、本当に些細なことで大喧嘩をして、それ以来、私たちは一切連絡を取らなくなった。その後、彼は私に手紙をくれた。でも、怒りが収まらなかった私は、その手紙を引き出しの奥にしまい込んだまま、今日まで一度も開けることがなかった。確か、まだ実家の机の引き出しに眠っているはずだ。信号が青に変わる。カイルの視線が一瞬だけ私の上に留まったが、すぐにまた前方の道路へと戻された。彼はどこか機嫌が良いようで、太い指でハンドルをリズミカルに叩き続けてい
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第12話

【エドウィン視点】ソフィアが去って二日目。エドウィンは一睡もしていなかった。狂ったように世界中に手配して彼女を探し回ったが、まだ手がかり一つ掴めていない。別荘に残されていた彼女の痕跡は、すべて消えていた。この七年間の思い出の品々は、何もかもが裏庭の焼却炉に投げ込まれていた。エドウィンが別荘に駆けつけた時、折悪く降り出した大雨が、皮肉にも炎を消し止めていた。辛うじて、完全には燃え尽きていないいくつかの残骸を見つけることができた。ほとんどが黒焦げの炭でしかなかったが、彼はそれを宝物のように拾い集め、別荘に持ち帰って保管した。エドウィンはベッドに横たわり、目を真っ赤に充血させていた。だが、目を閉じれば、脳裏にはあの馴染み深い姿しか浮かんでこない。「ソフィア……君は、いったいどこに行ってしまったんだ……」エドウィンが苦しげに嗚咽していると、枕元の携帯が突然鳴り響いた。彼は飛び起き、慌てて電話に出る。「もしもし!」だが、受話器の向こうから聞こえてきたのは、彼が切望していた声ではなかった。「ボルトン様。奥様が先日、市役所に行かれた記録が見つかりました」エドウィンの声が、期待に上擦った。「そうか!それで、どうだった?何か分かったか?」市役所。そうだ、彼女は本物の婚姻証明書を再発行しに行ったに違いない。だが、そのためにはまず、ハンナとの離婚が必要だ。大丈夫だ。まだ間に合う。彼女を見つけさえすれば、すべてやり直せる。「それが……奥様は、別の男性とご一緒だったようでして」執事は、必死に言葉を選びながら、どうすれば主人を刺激せずに事実を伝えられるか苦慮しているようだった。「さらに調べましたところ、奥様の婚姻状態は、すでに『既婚』に更新されておりました」エドウィンは、全身が凍りついたように固まった。「いや、ありえない。何かの間違いだ。お前たちが間違えているんだ。彼女はあんなに俺を愛していた。俺以外の男と結婚するはずがない!それに、俺はあんなに彼女に尽くしてきたんだぞ!それを、裏切るというのか!?」話しているうちに、彼の声は抑えきれない怒りに満ちていく。「今、彼女の法的な夫を突き止めろ!」「申し訳ございません。市役所の職員によりますと、その方の身分は特殊なもので、こちらにお伝えすることはできな
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第13話

【エドウィン視点】ハンナの声だった。だが、今のエドウィンは彼女の顔など見たくもなかった。「出て行け!」ハンナは明らかにその剣幕に驚いたが、それでも、しなを作ってドアを押し開けて入ってきた。彼女が部屋に入ってきた瞬間、エドウィンは息を飲んだ。「なぜ、ソフィアの服を着ている」ハンナは、わざとあのペアのナイトドレスを着ていた。シルクの生地が、彼女の妖艶な体のラインをいやらしく際立たせている。「何を言ってるの〜この間も、私これを着てたじゃない」エドウィンは、それでようやく思い出した。彼女が別荘に来て間もない頃、わざとソフィアのナイトウェアを盗み出し、「こうした方が刺激的でしょう?」と彼を誘った夜があった。これは、ソフィアがこの別荘に残していった、最後の品かもしれない。「脱げ」彼は、有無を言わせぬ口調で命令した。ハンナは、彼がいつもの「プレイ」を始めたのだと勘違いし、恥じらうような仕草を見せた。「あら、どうしてそんなに急いでるの?時間はまだたっぷりあるわ。ゆっくり楽しみましょうよ」だが、エドウィンは問答無用で彼女に掴みかかると、乱暴にベッドへ投げ飛ばし、そのナイトドレスを力任せに剥き取った。彼女が驚きの声を上げる。「ちょっと、優しくしてよ!」しかし、エドウィンは彼女が期待したようには続かなかった。彼はクローゼットから、適当な地味な服を掴み出すと、彼女に投げつけた。「それを着ろ」ハンナは呆然としていたが、やがてプライドを傷つけられ、怒りが湧いてきたようだった。「エドウィンさん、どういうつもりなの?わざと私を怒らせようとしてるの?」エドウィンは、ただ冷たく彼女を一瞥した。その眼差しには、もう以前のような熱も優しさもなく、代わりに、背筋が凍るほどの冷酷さだけがあった。ハンナは本能的な恐怖を感じ、慌てて口調を和らげた。「ダーリン、ちゃんと話しましょうよ。ねえ、怒らないで?」「着ろ」エドウィンは、氷のような声でもう一度繰り返した。「それを着て、市役所に行くぞ」「市役所で、何をするの?」「離婚だ」ハンナは心臓が跳ね上がった。すぐにベッドから這い出し、彼に歩み寄ると、いつものように柔らかい体を押し付けようとした。「やめてよ、ダーリン。私、あなたと離婚なんてしたくない!一生一緒にいるっ
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第14話

【ソフィア視点】カイルは私を彼の別荘へと連れて行き、私とオリヴァーのために、それぞれ個別の部屋を用意してくれた。部屋に入った瞬間、室内の様子に、ある種の「既視感」を覚えた。「もしかして、猫を飼ってるの?」部屋には猫用のおもちゃがたくさん置いてあり、ソファやカーペットには、真新しい引っ掻き傷がいくつも残っている。カイルは頷き、室内に向かって呼びかけた。「シナモン!」ぽっちゃりとした茶トラ猫が、ソファの後ろからひょっこりと顔を出し、しばらくこちらの様子を伺ってから、おずおずと近寄ってきた。カイルがしゃがんで、その頭を優しく撫でる。オリヴァーは特に興味津々のようで、大胆にも猫に近づき、試しに尋ねた。「僕も撫でていい?」「もちろん」カイルは笑って、オリヴァーに場所を譲った。茶トラのシナモンは人懐っこい性格のようで、すぐにオリヴァーと打ち解けた。「実はもう一匹いるんだが、最近どうも体調が良くないみたいで、ずっと寝床から出てこないんだ」その言葉を聞いて、私は少し考えてから口を開いた。「よければ、その子を見せてもらってもいい?」カイルは意外そうに少し眉を上げ、私を二階へと案内した。ドアを開けた瞬間、キャットタワーの最上段で丸くなっている、巨大なメインクーンが目に入った。全身が銀白色で、毛は長くふわふわとしている。だが、キャットタワーのてっぺんに寝そべっているだけで、尻尾一本動かそうとしない。「雪玉って名前なんだ。最近、獣医にも連れて行って、色々検査したんだが、全部『問題なし』と診断された。前はすごく活発な子だったのに、どういうわけか、最近急に動かなくなって、一日中ここに籠もりきりなんだ」私はキャットタワーに近づき、試しにその柔らかな毛を手で撫でてみた。雪玉は、怠そうにまぶたを少し持ち上げただけで、喉から弱々しいゴロゴロという音を立てた。そっと手を伸ばし、優しく彼のお腹を触ってみる。指が、柔らかい脂肪の層に深く沈み込んだ。この重さは、同年齢のメインクーンの標準体重を、明らかに超えている。ふと隣の自動給餌器を見ると、中にはまだ半分ほどキャットフードが残っていた。「普段、食事はどれくらい与えているの?」振り返ってカイルに尋ねる。「朝晩それぞれ、計量カップ一杯のキャットフードと、夜に缶詰を半分追加
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第15話

オリヴァーは、フィリップス家の二匹の猫にすっかり夢中になり、毎日飽きもせず猫たちと遊ぶことに没頭していた。私はリビングのソファに座り、オリヴァーの無邪気に楽しそうな様子を見て、少しだけ安堵していた。新しい環境に、すぐに馴染めないのではないかと心配していたけれど、幸いなことに、カイルも二匹の猫も、とても穏やかで付き合いやすかった。カイルが、そっと私の隣に腰を下ろし、感慨深げに言った。「オリヴァーは、本当に猫が好きなんだな」「ええ。でも、あちらにいた時は……彼が猫を飼うのを許してくれなかったの」目を伏せると、またボルトン家での息苦しい日々を思い出してしまう。私は昔から小動物が好きで、いつか自分のペットを飼うのが夢だった。だが、エドウィンは決してそれを許さなかった。最初は、猫の毛や犬の毛にアレルギーがあると言い訳していた。だから毛のない小動物を飼おうと提案したけれど、それでも彼は頑として聞き入れなかった。後になって、その理由が分かった。ハンナが、ああいう動物を嫌っていたからだ。彼女は「汚らわしい」と動物を毛嫌いし、当然、自分が親しくするエドウィンにもペットを飼うことなど許さなかった。カイルは、私の表情が強張ったのを見て、努めて明るい口調で話題を変えた。「十二年も会ってなかったが、君は昔とあまり変わっていない気がする」その言葉に、十二年前の中学時代を思い出さずにはいられなかった。当時、私たちは同じクラスで、半ば幼馴染のような関係だった。家が近かったこともあり、いつも一緒に登下校していた。「中学の時の生物の授業、覚えてるか?僕たちのクラスはトカゲの世話係だった。君が餌をあげすぎて、あの子は三日間動かなくなってな。てっきり死んだと思われて、ゴミ箱に捨てられそうになった」その話を聞いて、私も思わず吹き出してしまった。「私、そんな馬鹿なことをしたのね」「それから、学校の駐車場で、君が足を引きずってる野良犬を拾った時もあった」カイルはそこで少し言葉を切り、何かをためらうようにしてから、そっと口を開いた。「『家に連れて帰って足を治療する』って言い張って聞かなかったのに、途中でその犬が何かの拍子に暴れ出して、君の手の甲に血が出るほど噛みついた」その傷痕は、実は今もまだ残っている。浅い線が、親指と人
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第16話

【エドウィン視点】エドウィンは、荒廃しきった様子でオフィスの椅子に沈んでいた。机の上には、山のように「成果なし」と書かれた報告書が積まれている。情報なし、情報なし、やはり情報なし。どれだけ人手と金を注ぎ込んでも、ソフィアの痕跡は何も見つからない。「ソフィア、君は一体どこに」エドウィンは机の上の酒瓶を掴んだが、それが既に空であることに気づいた。もう、何本空けただろう。エドウィンは怒りに任せて瓶を床に叩きつけた。ガラスが派手な音を立てて砕け散る。その時、執事がノックをして入ってきた。「旦那様、手がかりが見つかりました」エドウィンは椅子から文字通り飛び上がった。元々充血していた目が、瞬時に恐ろしい光を放つ。「どこだ!彼女はどこにいる!」「いくつかのコネを通じて空港の職員に接触しました。あの日、奥様が夜の便で、ある都市に向かったことが分かりました」執事が、地図上のとある一点を指し示した。エドウィンは、自分の手がまた震えだすのを感じた。喉が、呷ったアルコールで焼けるように痛む。「全員、この街の捜索に集中させろ。ソフィアの情報が少しでもあれば、即刻報告しろ」「承知いたしました。ただ、旦那様、いささか私どもの資金と人員が不足しているようでして」エドウィンは、獣のように鋭く眉をひそめた。執事は、覚悟を決めて続けた。「奥様をお探しになるため、もう長い間、会社の経営を顧みていらっしゃいません。現在の財務報告も赤字が続いておりまして」「そんなことはどうでもいい!」エドウィンが、執事の言葉を鋭く遮った。「金がなくなったなら、何か売ればいい。会社の株も、他の資産も、何でも構わん。今、一番大切なのは、ソフィアを見つけることだけだ」執事は頷くしかなく、部屋を出て行こうとした。だが、彼は少し躊躇った後、意を決して口を開いた。「それから、ハンナ様の件ですが……その、精神的に少々おかしくなられたようです」あの日、ハンナがうっかり例の事故について口を滑らせてから、エドウィンは離婚手続きを終えると、即座に彼女をあの地下室に閉じ込めた。「ソフィアが受けた苦しみを、全て味わわせてやる」そう言って、エドウィンはハンナを丸二週間、地下室に幽閉した。毎日の食事は、執事が差し入れる半切れのパンだけ。辛うじて命を繋ぐ
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第17話

【ソフィア視点】フィリップス家に引っ越してきて、二週間が経った。私とオリヴァーは、すっかりここでの穏やかな生活に慣れていた。この街の気候は以前の場所よりずっと良く、柔らかな風が、裏庭に咲くチューリップの香りを運んで、いつも早朝にそっと室内へ忍び込んでくる。ある日、カイルが車で私とオリヴァーをある場所に連れて行くと言い出した。まさか、地元の別の名門校に連れて行き、オリヴァーの入学手続きをやり直してくれるとは思ってもみなかった。今回は、すべてが驚くほど順調だった。あの時のように、突然の理不尽な疑問を投げつけられることも、他人の刺すような陰口を浴びることもなかった。来月から、オリヴァーはこの学校に正式に入学できる。職員が、「ソフィア・フィリップス様」と「オリヴァー・フィリップス様」という二つの名前を呼んだ時。私は初めて、本当にカイルと結婚したのだという確かな実感を覚えた。カイルは、私が呆然としているのに気づくと、すべてお見通しだと言わんばかりに、そっと私の耳元に寄り添って低く囁いた。「これ以外にも、まだやるべきことがある」はっと我に返り、彼の方を向く。「何ですって?」「僕たち、まだお互いの両親に挨拶をしていないだろう」カイルの口調はあまりにも自然で、まるで「今日の天気はいいね」とでも言うかのようだった。だが、私はその言葉に胸を突かれた。エドウィンと結婚した時、彼の家族は私を歓迎しなかったし、私自身も家族と大喧嘩をして家出同然で飛び出してきた。だから、お互いに相手の両親に顔を合わせることすらなかった。でも、結婚は二人だけのものではない。二つの家族が繋がることでもある。私も、本当に長い間、両親に会っていなかった。だから、私は笑顔で頷き、彼の提案を受け入れた。カイルは、まず私の実家に行こうと提案し、空いている週末を選んで、一緒に私の故郷の街へと向かった。久しぶりに両親と再会しても、想像していたような叱責は訪れなかった。彼らは、ただ変わらず私の身を案じてくれていた。私はようやく、七年前の自分の決断が、どれほど幼稚で独りよがりだったかを思い知った。もちろん、あの「最も重要なこと」も忘れてはいなかった。夕食の後、私はこっそりと自分のかつての小部屋に戻り、机の鍵のかかった引き出しを開けた。案
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第18話

カイルだった。笑いを含んだ声が、頭上から降ってくる。「今なら、答えを教えてくれるか?」背中が、彼の温かく広い胸にぴったりと密着している。手紙を握る自分の手が、微かに震えているのを感じた。「あなた……」振り返ろうとしたが、彼はさらに強く私を抱きしめた。彼の顎が、私の頭頂部にこつんと当たる。その吐息が耳をくすぐり、ほのかにワインの香りがした。「僕は、こんなにも長い間、待っていたんだぞ」彼の声には、拗ねたような響きが混じっていて、まるで飼い主を待ち続けた孤独な子犬のようだった。「あの時は……私が、馬鹿だったよね」あんな些細なことで彼と喧嘩し、この大切な手紙を受け取った後も、中身を見ようともせず、引き出しに閉じ込めてしまった。それに、フィリップス家から正式に婚約を提案された時、私の心はすべてエドウィンに奪われていた。そうして、私は彼を十二年間も待たせてしまった。「君は馬鹿じゃない。ただ、相手を選び間違えただけだ」カイルは軽く笑った。その声は、夜風が木の葉を揺らすささやきのように、優しく響いた。「そうだ。君に渡したいものが」そう言って、彼は背中に回していた手で、小さな箱を取り出した。箱を開けると、中には、あのボルトン家でハンナに踏みつけられ、引き裂かれた、古いアルバムが入っていた。「開けてみて」心臓が、胸から飛び出しそうなほど激しく鼓動を打つ。手が、震えて止まらない。アルバムは、全体が丁寧に修復されていた。破れた写真も、一枚一枚完璧に繋ぎ合わされている。接着剤で補修した跡はまだ残っていたが、修復した人が、どれほど心を込めて作業してくれたかが伝わってきた。中に貼られた、懐かしい祖母との写真を見ていると、いつの間にか涙が頬を伝っていた。カイルは小さく驚きの声を上げると、慌ててティッシュを持ってきて、私の涙をそっと拭ってくれた。「これは、君の大切なものなんだろう?濡らしたら大変だ」私は嗚咽を漏らしながら目を拭い、その古いアルバムを閉じた。「どうして、これを……あなたが?」「君のお祖母様を、知っているんだ」カイルは静かに言った。彼もまた、遠い昔のことを回想しているようだった。「君が狂犬病のワクチンを打ちに行ったあの日。病院の外で、君のお祖母様にお会いした。『自分を責める
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第19話

【エドウィン視点】オフィスで、エドウィンは目の前に突き付けられた写真を見つめ、怒りのままに、また何本かの酒瓶を床に叩き割った。写真には、男女が親しげに手を繋ぎ、小さな男の子を連れてレストランに入っていく姿が、はっきりと写っていた。「分かったのか!?この男の正体を!」「はい。すでに調査済みです。フィリップス家の御曹司、カイル・フィリップスです」エドウィンは、その名前にわずかに驚いた。フィリップス家?なぜソフィアが、あの名門と関わりがある?……金か?金が必要だったから、彼らに取り入ったのか?フィリップス・グループは、世界で最も影響力のあるトップ企業の一つだ。自分のような人間が十人束になっても、到底太刀打ちできる相手ではない。エドウィンは忌々しげにその写真を見つめ、拳を強く握りしめた。執事が、タイミングよく口を開いた。「旦那様。もう一つ、調べ上げたことがございます」「フィリップス家の御曹司は、十年前から婚約者がいたようですが、ごく最近、その婚約者と正式に結婚されたとのことです。結婚式は、来週開催される予定だそうで」その言葉を聞いて、エドウィンの目に、ようやく一筋の狂喜の色が浮かんだ。「……つまり、こういうことか。フィリップスは、正式な妻がいながら、外で愛人を作っている。そうだな?意外だ。あの高潔で知られるフィリップス家の御曹司が、そんな破廉恥な人間だったとは」彼は、歪んだ笑みを浮かべた。「全メディアに通達しろ。各報道機関に、このネタをリークする。結婚式当日、あの男の化けの皮を剥いでやる。そうすれば、ソフィアもきっと目を覚ます。あんな男に騙されていたと気づき、必ずや、俺のもとに戻ってくるはずだ」【ソフィア視点】ウェディングドレスショップで、もう何着も試着を繰り返していたが、なかなか「これだ」と思えるドレスに出会えなかった。何着も試した後、さすがに疲れてきてしまった。カイルがそっと水を差し出してくれる。彼の肩にこてんと頭を預け、少し休ませてもらった。目を閉じたまま、半ば自暴自棄に呟いた。「カイル。もう、適当な一着で決めてしまおうかしら。私はもう子供を産んだ身だし、スタイルだって崩れてる。どんなに綺麗なウェディングドレスを着たって、どうせ似合わないわ」カイルは、その言葉に、不満そうに
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第20話

カイルは、世界トップクラスのデザイナーを呼び寄せ、私の体型に合わせて、最も美しく見えるウェディングドレスをオーダーメイドしてくれた。彼の見立てに間違いはなかった。そのドレスは、ショップで試着したどのドレスよりも完璧に私を包み込み、輝かせてくれた。私はようやく自分に自信が持てるようになり、彼と一緒に、目前に迫った結婚式の準備を心から楽しんでいた。結婚式当日。カイルは、プライベートアイランドを丸ごと貸し切り、会場をチューリップと白百合で埋め尽くし、島全体を夢のような庭園に作り上げていた。そればかりか、ヨットの船団によるデモンストレーションや、夜空を彩るドローンパフォーマンスまで手配していた。彼は一足先に島のホテルに設けられた会場に到着し、司会者と当日の進行について最終確認をしていた。その時、来賓たちの間から、不穏な騒ぎ声が聞こえてきた。エドウィンだった。彼が、突然、結婚式の会場に乱入し、壇上に駆け上がると、司会者からマイクを奪い取った。「皆さん、ご存知ないでしょうが!この新郎、カイル・フィリップス氏は、一途な男を装っていますが、その実、すでに妻を裏切り、浮気をしているんです!」来賓たちが、一斉にどよめいた。「浮気?そんなはずが。フィリップス氏は奥様を十数年も待ち続け、ようやく結ばれたと伺っていますが」エドウィンは、自信満々に歪んだ笑みを浮かべた。「俺がこうして乗り込んできたからには、もちろん、確たる証拠があります」そう言って、彼は集めてきた写真を、次々と背後の巨大なスクリーンに映し出した。そこには確かに、男女が親密な様子で、様々な場所に出入りしている写真が何枚も映し出されていた。そして、写真の男性は、明らかに今日の新郎、カイル・フィリップス本人だった。会場のざわめきが次第に大きくなっていくのを、エドウィンは得意げに見渡した。「そして、このフィリップス氏の浮気相手こそ、何を隠そう、俺の妻なんです!彼が、俺の妻を故意に誘惑し、俺から奪い取ったのです!」来賓たちの議論の声は、さらに大きくなった。彼の言葉を信じない者、冷ややかな目で見物している者、そして、フィリップス家を公然と非難する声も上がり始めた。全世界に生中継されていたこの「世紀の結婚式」は、最悪の形でネットユーザーたちの格好の話題となってしまった。
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