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第411話

記理子でさえ、茜の両親の前ではしおらしく恥じらう、可憐な女性そのものだった。あれはすべてが、嘘だったというのだろうか。「父と記理子の婚前契約には、子供を設けないという条項があった。父が当初、再婚に難色を示したのもそのためだ。あれほど若くして後妻に入りながら、生涯子供を持たないなど、普通ならあり得ない話だろう。だが、彼女はそれに署名した」「では、諒助さんは……」「祖母はもともと母のことが気に入らなかった。だから、その血を引く俺のことも当然疎ましく思っていた。記理子を家に迎え入れたのも、彼女が若く、跡継ぎを産めるという一点を買われてのことだ。だからこそ、一族の宴席で父が泥酔したあの夜、諒助が宿ったのだ。父が本当に酔い潰れていたのか、それとも別の思惑が働いていたのか——今となっては、もうどちらでもいいことだが」すべてを聞き終え、茜はようやく悟った。自分は記理子という人間の本性を、何ひとつ知らなかったのだと。「記理子おば様は……自分の意志で?」思わず彼女を庇うような言葉が口をついて出たことに、茜自身もはっとした。これまで、あまりにも多くのものを失ってきた。だからこそ、母のような存在であった記理子だけは失いたくない。和久は茜のその弱さを責めず、ただ静かに頷いた。「ずっと黙っていたのは、君が受け止めきれないのではないかと案じたからだ。君の知る『記理子おば様』は、最初から何らかの思惑があって近づいてきた可能性がある」「小百合様に指示されて、ということですか?」茜はなおもすがるように問い返した。和久はそれ以上、何も語らなかった。茜が受け入れ、飲み込まなければならない真実は、まだあまりにも多すぎる。今の彼女には、時間が必要だった。和久の眼差しを受け、茜は力なく呟いた。「……ごめんなさい。ただ、私は……」「いいんだ。そこに座っていて。コーヒーでも買ってくるよ」和久は廊下の隅にある自動販売機を顎で示した。茜は頷いてベンチに腰を下ろしたものの、頭の中では様々な思考が渦を巻いていた。しばらくして和久が温かい缶コーヒーを持って戻り、そっと茜に渡した。彼女は少し我に返り、一口飲んだ。温もりが喉を滑り落ち、ようやく気持ちが落ち着いた。「もし本当に、記理子おば様が一枚噛んでいたのだとして……それならどうして、彼女は私を引
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第412話

茜の脳裏にふと、あのワンピースがよぎった。あしらわれた特別な花柄は非常に珍しい意匠であり、その点については諒助も証言できるはずだ。だから、記理子もその価値を信じるはずだ——もし彼女に別の思惑があるのなら、必ずその花柄を手がかりに背後関係を探ろうと動く。もし、単に母とのかつての縁を大切に想っているだけならば、それはただ、見るたびに母を思い出すだけのワンピースとして終わる。「国外に向けて、少しばかり噂を流すことはできる。相手が食いつきさえすれば、必ず誰かを遣わせて情報源を辿ろうとするはずだ」「それだけではありません。彼女自身に、直接足を運んでもらいたいんです」茜は真っ直ぐな眼差しで、和久を見つめた。和久は、微かに震えている彼女の手をそっと包み込むように握った。「もしこれで完全に決裂することになっても、本当に後悔しないか?」茜は小首をかしげ、自嘲気味に苦笑した。「誰と決裂するというんですか?諒助と?お兄様ほど聡明な方が、どうしてそんな遠回しな言い方をされるんでしょう」和久は一瞬きょとんとし、それから握った手にわずかに力を込めた。「いつの間に、俺をからかうほど強くなったんだ」茜はきゅっと唇を結び、空いたもう片方の手を、そっと和久の手の甲に重ね合わせた。「決裂なら、すればいいんです。どうせ、彼にはもう欠片も未練はありませんから」和久は自分の手の甲に添えられた茜の手を見つめ、ふっと安堵したように口元を緩めた。「じゃあ、行こうか。まずは戻るぞ」「はい。そういえば、柏原グループの人たちが静山に行くという話を耳にしたのですが、私も同行できますか?いったいどんな案件だったのか、どうしても気になって」茜が何としても知りたかったのは、人々の間に取り返しのつかない深い亀裂を生み出した、あの忌まわしき当時の計画の全貌だった。しかし、和久は迷う素振りすら見せずに首を横に振った。「駄目だ。今回は完全に内部の極秘事項だからな。すべてが終わったら、必ず連れていく」「……わかりました」これ以上、無理は言えない。それでも、和久が自分に何か重大な事実を隠しているような気がして、茜の胸の奥には晴れない靄が淀むように残った。……二日後。茜の母が残したワンピースの花柄に、ある重大な秘密が隠されているという噂が、デザインを手
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第413話

「おい」記理子の背後に控えていたボディガードが威圧するように手を上げかけた。「結構よ」記理子がさらりと片手で制した。「昔からの知り合いだもの。かつて芙美さんの依頼で、私の主人に服を仕立ててくれた腕の立つ方だから」市川は訝しげに目を細め、しばし考え込んだのち、奥の部屋を手で示した。「……では、どうぞこちらへ」記理子はちらりと市川を一瞥し、話のわかる男ね、とでも言いたげな顔をして、後に続いた。しかし、通された奥の部屋には、すでに先客がいた。茜はひとり、ソファに座って待っていたのだ。ごくわずかな望みを、必死に胸に抱いたまま。しかし、記理子の声が鼓膜を打った瞬間、その淡い望みは音もなく砕け散った。これで完全に、諦めがついた。「どうぞお掛けになってください。記理子おば様のお好きなお茶を淹れておきました」記理子は茜の姿を認めて一瞬だけ歩みを止めたが、すぐに何事もなかったかのように、涼しい顔で向かいの席に腰を下ろした。「茜ちゃん、本当に立派な大人になったわね」「記理子おば様、教えてください。これはいったい、何のための茶番ですか」茜は静かに首を振った。記理子は茜の顔をじっと見つめ返し、やがてふふっと笑い声を漏らした——それは、昔と何ひとつ変わらない、穏やかで慈愛に満ちた笑みだった。しかし、瞳の奥底に宿っていたのは、紛れもない憎悪の炎だった。「まさか、自分が可哀想な被害者だとでも思っているの?違うわ。あなたのお母さんの死は、自業自得なのよ」だが、茜はその言葉に惑わされなかった。「私は、そんな言葉信じません」と、凛とした声ではねのけた。「ふふ、あははは!」記理子は声を上げて笑った。「信じないですって?あなたのお母さんは、誰にでも媚びを売る節操のない女よ。誰もが知っていたわ」「……斎藤美香の件も、やはりあなたが糸を引いていたんですね」茜の落ち着いた指摘に、記理子はぴたりと笑いを止めた。記理子の中では、茜は気の弱い女で、自分を問い詰めるなど到底できないはずだった。不意に、記理子の脳裏に、憎き芙美の姿が重なって浮かんだ。芙美はいつも、誰かに庇護を求めているような、花のような印象を周囲に振りまいていた。しかしその本性は、鋭い棘を隠し持った薔薇だった。庇護など、はじめから必要としてすらいなかったのだ。記理
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第414話

親友である記理子がなぜ母を裏切ったのか、茜にはどうしても理解できなかった。母の芙美は記理子との思い出を語るたび、いつも目を細めて笑っていた。姉妹ではないけれど、それ以上の絆があると。二人が出会ったのは大学時代。芙美はごく普通の学生で、優秀な成績だけで周囲から一目置かれる存在だった。一方の記理子は、どれほど家運が傾きかけていたとはいえ、れっきとした名家の令嬢という肩書きがあった。図書館で一冊の本を巡って知り合い、二人はすぐに打ち解けた。やがて芙美は恋に落ち、自分の恋人、のちに茜の父となる雲海を記理子に紹介した。それ以来、三人は親しい友人として付き合ってきた。卒業しても、その絆は変わらなかったはずだ。何十年も育んできた関係が、嘘のはずがない。茜は声を詰まらせた。「記理子おば様、他に何か理由があるんですよね……?」絶望に打ちのめされた子どものように、テーブルに手をつき、辛うじて立っていた。記理子はその様子をじっと見つめた——茜の苦痛に満ちた表情を味わうように、あるいは別の誰かを重ねるように。「西園寺家が傾いたとき、あなたもあんなふうに私の前で泣き崩れたわね。まるで西園寺芙美が泣いているみたいだったわ。もっとも、芙美本人は最後まで決して泣かなかったけれど。あの人、意地っ張りだから」「……っ、どういう意味ですか」茜は震える声で絞り出した。「教えてあげてもいいわよ」記理子は姿勢を正し、見下ろすようにゆっくりと口を開いた。「あなたのお母さんと図書館で知り合ったのは本当よ。飾り気がなくて、付き合いやすい相手ではあったわ。お父さんと付き合い始めたときも、真剣に二人を祝福したわ。あの方、誠実な人だったから」茜は記理子の表情を見た。そこにはもう、かつての慈しみの欠片もなかった。「なのに、どうして二人を傷つけたんですか」「ふふふ。そもそも、どうして私が彼らと付き合い続けていたと思う?」記理子はふと笑みを浮かべ、問い返した。茜はしばらく黙った。やがて、胸の奥からひとつの答えが静かに浮かんできた。「……対等な友達としてではなく、自分の手駒を探していたんですね」ずっと見落としていた。茜は今日まで、記理子と両親を対等な友人関係だと信じて疑わなかった。どれほど家運が傾きかけていたとはいえ、れっきとした名家の令嬢である
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第415話

もちろん両親は、友人がそんな打算を抱いているとは思いもしなかったはずだ。断ったあとも、深く気に留める様子はなかった。創業当初の苦労話は、茜も何度か聞いたことがあった。小さな工房だった時代は問題が絶えず、倒産寸前まで追い込まれたこともあったと。それでも父と母は知恵を出し合って乗り越えてきた。話すたびに、二人は「卒業したばかりで、経験が浅かったせいだ」と明るく笑っていたけれど。今となっては、あの苦難の裏には——「父たちの工房を裏で妨害していたのは、あなたですか」「そうよ。でも疑われなかったのは、徹夜するたびに差し入れをして、苦境に陥るたびに援助まで申し出たからよ。誰が私を疑うっていうの?」記理子は静かに口を開いた。疑えるはずがない。あれほど支えてくれる友人がいるのなら、茜だって感謝しか抱かない。いつか成功して必ず恩返しをしようと、そればかりを考えるはずだ。記理子に引き取られてからも、茜はずっとそうだった。将来どう恩返しをしようかと、ひたすらそれだけを考えていた。その裏に黒い下心があるなど、一度も疑わなかった。記理子はお茶をひと口含んだ。「それでも、やっぱりあの二人を甘く見ていたわね。どれだけ邪魔しても乗り越えて、工房から立派な会社へと育て上げてしまった。お母さんがウォーカーヒルの構想を打ち出したとき、もう二人は私の言うことを聞かないと悟ったわ。だったら、やり方を変えるしかないでしょう。全財産を投じてあのリゾート開発に出資して、田村家で冷遇されているから実績を作りたい、田村家での地位を挽回したいと打ち明けた。お母さんは信じて、企画書に私の名前を入れてくれた。お母さんがメディア対応が苦手だと言えば、私が代わりに出てあげると申し出た。そうしてウォーカーヒルと私の名前は、切っても切り離せないものになった。これで成功したと思っていた。なのにお母さんはまた新しいことを始めて、婦人たちの社交の場でどんどん頭角を現していった。名門・田村家の長女である私が、まさかあの人の下座に座らされるなんて。事情を知っている人には、『あの人についていけば将来は安泰ね』とまで言われる始末だったわ」「……ついていく?なんで私がそんなことをしなければならないの!?」怒りに満ちた記理子の声が、鋭く尖った。茜は奥歯を噛み締めた。「嫉妬してい
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第416話

まさか、当たっていたとは。カマをかけた茜自身でさえ驚くほどの反応だった。秀一は再婚とはいえ、柏原家の敷居を跨ぐには当時の記理子の身分では不釣り合いだった。名家の一人娘たちが列を作って待っていた中で、記理子は田村家の冷遇された娘にすぎない。手札など何もなかった。当時の記理子に唯一あった価値は、ウォーカーヒルの企画者という肩書きだった。もっとも、それ自体が芙美から奪ったものだったけれど。その名前を足がかりに、少しずつ秀一に近づいていった。彼女は秀一と話が弾み、秀一も本当に自分を気に入ってくれたのだと思い、この縁談はきっと成功すると信じていた。ところが秀一は首を縦に振らず、しかも小百合様にその嘘を見抜かれてしまった。縁談をまとめる最後の手段は、芙美を切り捨てることだった。芙美を追い落とし、ウォーカーヒルを丸ごと自分の嫁入り道具として持ち込む。だがそれほどの大仕事は一夜でできるものではない。記理子は雲海夫婦の信頼を利用し、小百合様と結託して少しずつ罠を張り巡らせ、西園寺家を食い物にしていったのだ。ただ、財産目当てだけなら、小百合様は人の命まで奪うことは望まなかったはずだ。つまり——茜は記理子を見つめた。記理子は手元の茶碗を置き、その目の奥に昏い光を宿した。「自分の愛した男が他の女に夢中になるのがどんな気持ちか、わかる?」「あなた……」茜は息を呑んで立ちすくんだ。記理子はふっと笑った。「そう。あなたと諒助のことも知っていた。諒助があなたの知らないところで手塚絵美里と会っていたことも。あなたが何年もの歳月を無駄に費やしてきたことも。辛かったでしょう?あのとき私も、同じ気持ちだったのよ」茜ははっとした。記理子は、秀一が母に特別な感情を抱いていたことを、ずっと知っていたのだ。だが茜はそれを表に出さず、ただわずかに驚いた様子を見せただけだった。「どういう意味ですか?」記理子はもう一度茶碗に触れ、鼻で笑った。「ふんっ。喜び勇んで柏原家に嫁いで、あなたの両親まで招いて盛大に披露した婚礼が、一生で一番後悔した日になるとは思わなかったわ」「柏原秀一が、まさかあなたのお母さんに目をつけていたなんてね。本人はうまく隠しているつもりだったのかしら?本当におかしいわ。男の視線なんて、女なら誰にだって見抜けるも
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第417話

「今さら真実を知ったところで、何になるというの?誰があなたの妄言を信じるかしら。どこへ行って訴え出たって、頭がおかしくなったか、育ての親を貶める恩知らずだと思われるだけよ。それに、あなたはあなたのお母さんじゃない。たとえそうだとしても、あなたのお母さんはもう死んでいるのよ」「母を……本当にあなたが殺したんですかっ」茜の声が微かに震えた。「証拠があって言っているの?ないなら、妄想もいい加減にしなさいね」記理子は勝ち誇ったように優雅に立ち上がると、ふふっと冷ややかな笑い声を残して部屋を出ていった。茜は遠ざかるその背中を、ただじっと見送るしかなかった。やがて息が詰まるような緊張感が解け、奥の部屋から和久が静かに姿を現した。「大丈夫か?」茜は深く息を吸い込んだ。「……はい。でも、彼女の言う通りです。私には証拠がありません。斎藤美香は故人ですし、関根成美だって私のために記理子を売るとは、到底思えません」「つけ入る隙がまったくないわけじゃない。彼女は君の母親を殺したとも、殺していないとも明言しなかった。それなのに、君に証拠が掴めるはずがないと確信している口ぶりだった。それは、自分をかばっている人間に相当な信頼を置いているということだ」「あの運転手のことですか?大金を渡したんじゃないですかね。それにあの神谷菜穂という娘、どう見ても大切に育てられたお嬢様のようでしたね……もしかして、あの子の実の母親が関根成美なんじゃないかって」茜の推測はそこに行き着く。成美の立場や年齢は、菜穂の母親という謎めいたパズルのピースに確かに当てはまる。ただ、ひとつだけ腑に落ちないことがあった。成美が娘の晴子をどれほど溺愛しているかは、誰の目にも明らかだ。そんな人が、外で別の子供を作るような真似をするだろうか。「俺のほうでも調べさせる」と和久は言った。茜は頷いた。入り口に控えていた市川が、二人のやり取りを聞いて目を細めた。「柏原社長、ご両親も草葉の陰でお喜びでしょう。実は私の前で、ご両親はあなたのことをずいぶん褒めていらっしゃいましてね。さっきは柏原の奥方がおられたので、余計な口出しは控えておりましたが。以前、茜ちゃんにはお付き合いしている方がいると聞いていたものですから、差し出がましい真似はしないようにしていたのですよ」「何と言って
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第418話

茜は少し迷ってから、小さく頷いた。諒助があまりにも平静だったから、ここで変に問い詰めれば、かえってこちらが後ろめたいような空気になってしまう。それに、確かめたいことがあった。諒助が記理子の恐ろしい裏の顔を、どこまで知っているのか。もし知っていたのなら、彼女が向き合わなければならないのは、まったく別の事態になる。もしかすると、西園寺家が破産してから彼女が経験してきたことは、すべて大掛かりな罠にすぎなかったのかもしれない。茜は気持ちを整えた。「少し歩きませんか?このあたり、環境がいいでしょう。それに、こうしてちゃんと話したのって、ずいぶん久しぶりな気がして」気が抜けたのか、諒助は素直に頷いた。「行こう」冬枯れの庭は景色こそ悪くないが、夜の空気は肌を刺すように冷え切っていた。しばらく無言で歩いた後、諒助がふと自分のコートを脱ぎ、茜の華奢な肩にそっと羽織らせた。茜はぽかんとした。付き合い始めた頃、諒助は確かに優しかった。彼をどこか美化していたのだろう。気性の荒さに目をつぶってでも、彼を愛していると信じていた。ただ、大学を卒業し、仕事を始めるにつれて、関わる人間関係も少しずつ複雑になり、彼女も疲れを覚えるようになっていった。もう少しの辛抱だと思いながら、その「もう少し」が何年も続いた。決定的なすれ違いは、そうして降り積もる雪のように、少しずつ二人の間に壁を作っていったのだ。諒助にはおそらく、何が問題なのか根本的にわかっていなかったのだろう。自分にとっても絵美里にとっても、諒助は常に「与えられるのを受け取る側」の人間だったのだから。それでも、茜は肩のコートを断らなかった。話をするなら、最初から波風を立てる必要もない。「恐縮です」「前は、そんな他人行儀じゃなかったのに」と諒助は寂しげに呟いた。「それは昔の話でしょう」茜はかすかに笑った。「何か用があったんですか?」「お前の顔が見たかっただけだ。兄さんが帰ってきてから、なんか俺を避けてるみたいで」少し傷ついたような声だった。可笑しくて仕方なかったが、茜は決して顔に出さなかった。まさか諒助が、こんなに素直に自分の気持ちを認めるとは思わなかった。「笑えない話なのはわかってる。でも俺、本当にお前が離れていくなんて一度も考えたことなかったんだ。いつも、俺の隣には
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第419話

茜は頷きながら、胸の中で確信を深めた。諒助が、記理子について「会社とウォーカーヒルに関わっていない」とわざわざ強調したのは、これが初めてだった。以前の諒助は、記理子の話になると誇らしそうにしていた。茜の母が亡くなってからは、ウォーカーヒルの構想は記理子が考えたものだと臆面もなく言うようになったが、あの頃の茜は両親から「構想は二人で作り上げた」と聞いていたし、西園寺家が没落した後でもあったから、特に疑うことはしなかったのだ。「他に何か用は?」「三日後に大型の舞台公演があるんだ。昔、お前の両親もよく連れていってくれてただろう。後からお前も一緒に行きたがってたな。久しぶりに行かないか、あの時の埋め合わせだと思ってさ」諒助はポケットからチケットを二枚取り出した。茜はそれを受け取りながら、心の中で何かが引っかかった。はっきりとはわからないが、妙な胸騒ぎがした。「……わかりました」日付を確かめると、ちょうど和久が静山へ向かう日だった。諒助はくるりと踵を返した。「じゃあ、送ってくよ」茜はマンションのエントランスで彼を見送り、ひとりでエレベーターへ向かった。ところが、エレベーターの前には和久が立っていた。「お兄様?なんで外に?」「帰ったか?」「はい。舞台公演のチケットももらいました。なんだか、変な感じがするんですよね」と茜は言った。和久はチケットを受け取って日付を一瞥し、無言で返した。「気晴らしに行ってこい」「え?」茜は目を丸くした。諒助が絡むと決まって不機嫌そうに口を挟む和久なのに、今日に限ってあっさりと「行ってこい」と背中を押すのだ。「俺が市内にいない間、記理子の差し向けた者が来るかもしれない。だが諒助と一緒なら、あちらもおいそれとは手を出しにくいだろう」なるほど、そういうことか。茜はため息をついた。「まあ、考えます。どうせ星羅ちゃんとも遊びに行こうって話してましたし」「それでもいい」「……お兄様、さっきから何か変ですよ」「変か?君が諒助とあんなに長く話し込んでいて、確かに変だと思うけどね」和久はどこか居心地悪そうに視線を逸らして言った。茜はこっそり笑いをかみ殺した。「大したことは話してません。お兄様が私で遊んでるだけかもしれないって、彼が言うから。だって、今になってもあ
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第420話

「そのうちわかるよ」星羅には、詳しいことはあえて話さなかった。今の彼女はまだ悠人の変な癖に引きずられていて、少し見ていられない気持ちになっていたため、茜の頼みを二つ返事で引き受けた。二日後、星羅はリュックを背負って茜のマンションにやって来た。「久しぶりに会ったのに……人の看病をしてたはずが、なんで太ってるの?」茜は目を丸くした。星羅は自分の頬をぺたぺたと触った。「言わないでよ。あの男ってば、すぐ食べ物を残すんだもん。根っからの貧乏性で育った私には粗末にするのがどうしても許せなくて、ついつい食べちゃって」茜にはすぐにピンときた。こっそり笑いをかみ殺しながら、温かいお茶を淹れてやった。「それで、今日は何をするの?」星羅が聞いた。茜はチケットをテーブルに置いた。「諒助にもらったの。舞台公演に誘われて」「彼?あなた、また好き好きスイッチ入っちゃった?」「まさか。なんだか罠のような気がして、だから一緒に来てほしいの」茜はもう一枚のチケットを差し出した。「私の後ろの席よ。周りの様子を見ててくれる?」「一体どういうこと?」茜は、記理子と諒助が接触してきた際の一連の不審なやり取りを、順を追って説明した。星羅は普段のんびりしているように見えて、時折、ハッとするほど鋭いことを言う。「おかしいな。もし諒助さんが本当に何も知らないんだとしたら、なんでよりによってこのタイミングで誘ってくるんだろう」「だから、彼はすべてを把握しているわけではないと思う」茜は推測を口にした。「でも、それもおかしいよ。二人が裏で示し合わせているなら、記理子さんが実の息子にだけ隠し立てするわけないじゃない。そもそも記理子さんって、何十年もずっと良き養母を演じてきた人でしょ。あなたを騙すのも、自分の息子を騙すのも、あの人にとってはそう難しくないんじゃないかな」さすが星羅だ、と茜は思った。自分が見落としていた可能性を、あっさりと突いてくる。「でも、どうして記理子は実の息子の諒助まで騙すの?」茜は頷いた。「桐島先生のそばにいるとね、向こうの事情がいろいろ聞こえてくるんだよね」星羅は少し声を潜めた。「柏原社長ってすごく力を持ってるけど、親族間での立ち位置って、実はすごく微妙なんだって。ご両親を早くに亡くしているのに、それでも二つの大きな家族
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