เข้าสู่ระบบ炊飯器のタイマーが、ぴ、と短く鳴いた。
陸斗は、流しの前で手を止める。蛇口から流れ続けている水の音と、ガスコンロの上でじりじりと温まっている味噌汁の鍋の音が、狭いキッチンに重なっていた。
炊飯器の蓋を開けると、白い湯気が一気に立ちのぼる。ふわりと米の匂いが顔を包み、湿った熱が睫毛を少し濡らした。しゃもじを差し込んで底から返すと、炊きたてのご飯が、ゆるく光を反射する。
「…よし」
小さく呟いて、火を弱めた味噌汁の鍋の蓋を少しずらす。だしと味噌と、入れたばかりの長ねぎの匂いが、湯気に混ざって立ち上る。それに、先に作っておいたもやし炒めの油の匂いと、冷蔵庫から出した冷奴にかけた醤油の匂いが混ざり合い、部屋全体が「夕飯の匂い」になっていく。
背後から、テレビの音が聞こえる。ニュース番組の落ち着いたアナウンサーの声。
「…続いては、物価高騰の影響が、教育費にも及んでいるという話題です」
テロップの読み上げる声と一緒に、「教育費」「奨学金」「国立大学授業料」などの言葉
校舎を出ると、夕陽がちょうど校庭の向こう側に沈みかけていた。グラウンドの土の上に、オレンジ色の影が長く伸びている。サッカー部の掛け声と、吹奏楽部のチューニングの音が遠くから混ざって届く。生温い風が、汗と土と制服の匂いをまとめて押し寄せてきた。昇降口を抜け、正門へ向かうスロープを二人で並んで歩く。周りには、同じように三者面談を終えた親子がぽつぽつ。母親らしき人の手に、学校のロゴの入った封筒が握られている。隣を歩く桜井充は、いつものジャージではなく、襟のついたシャツに薄いジャケットという、彼なりの「きちんとした格好」をしている。肩幅の広さのせいで、安物のジャケットの縫い目が少し引っ張られているのが陸斗には分かった。沈黙が、しばらく続いた。先に口を開いたのは、充の方だった。「藤田センセイ、よく喋るな」「……いつもあんな感じです」自分でも、声が少しだけ上ずっているのが分かる。「 ‘ここがもう少し伸びれば’ とか ‘模試の判定はあくまで目安で’ とか。ああいうの、職業病なんです」「ふうん。国立がどうとか、偏差値がどうとか、いろいろ言ってたけどよ」充は、ポケットに手を突っ込みながら、軽く鼻を鳴らした。「 ‘国立も狙える’ とか、すげえよな。俺、授業料がいくらとか聞きながら、ちょっと頭痛くなったわ」その言い方は、半分冗談に聞こえた。けれど、陸斗には、その奥にある本物の数字の重さが透けて見える気がした。校門を出ると、空の色は少しずつオレンジから青へと移り変わりつつあった。歩道に長く伸びていた影が、ゆっくり短くなっていく。数歩、二人とも無言で歩く。靴の裏がアスファルトを叩く音と、前を自転車で通り過ぎていく生徒のベルの音だけが、やけに耳に残る。校舎が小さくなり、住宅街に入る角の信号待ちで、赤信号の光に足を止められる。向かい側では、小学生とその母親が手を繋いで立っていた。母親が子どものランドセルを軽く直してやる仕草を、視界の端で捉え
高校三年の七月の午後、廊下の空気は、外より少しだけ冷たかった。会議室前の廊下には、パーティションで区切られた即席のブースがずらりと並んでいる。銀色の脚の長机とパイプ椅子。奥のブースからは、ところどころ保護者と先生の声が漏れ聞こえてきた。「…就職の方で考えてまして」「指定校の枠がですね」そんな単語が、薄いパーティションの向こう側から、空気ににじむように出てきては消えていく。廊下の窓から差し込む光は、少し傾き始めていた。体育館の方角からは、バスケ部のドリブルの音と、誰かの掛け声が遠く響く。ワックスがけされた床は、ところどころ光を反射していて、その上を行き交う保護者の靴音が、とん、とん、と規則的に鳴った。陸斗は、進路調査票のコピーと、通知表、模試の成績一覧が差し込まれたクリアファイルを、膝の上で握っていた。薄いビニール越しに伝わる紙の感触が、やけに固く思える。隣には、充が座っている。今日は、いつものくたびれたパーカーではなく、白いシャツにグレイのジャケットという、少しまじめな服装だった。全体としてはちゃんと「保護者です」と名乗っても違和感のない格好だ。ただ、パイプ椅子に背中を預ける姿勢だけは、どうしても「夜の人」っぽく見えた。脚を組まずにきちんと揃えているのに、どこか座り慣れていない感じがある。「緊張してんのか」充が、小さな声で言った。視線は前方のパーティションの縁に向いたままだ。「…してないです」答えながら、陸斗は自分の握っているファイルに視線を落とす。指先に力が入りすぎて、透明なビニールが少し白く曇っていた。嘘だった。胸の奥が、ずっと落ち着かない。心臓の鼓動が、自分の声よりもはっきり聞こえるような気さえする。「お待たせしました。長谷くん、桜井さーん」パーティションの向こうから、藤田先生の声がした。「どうぞ」仕切りの隙間から顔を出した藤田先生は、いつもの授業のときと同じグレーのスラックスとワイシャツ姿だったが、ネクタイが少しきれいめなものに変わっている。
炊飯器のタイマーが、ぴ、と短く鳴いた。陸斗は、流しの前で手を止める。蛇口から流れ続けている水の音と、ガスコンロの上でじりじりと温まっている味噌汁の鍋の音が、狭いキッチンに重なっていた。炊飯器の蓋を開けると、白い湯気が一気に立ちのぼる。ふわりと米の匂いが顔を包み、湿った熱が睫毛を少し濡らした。しゃもじを差し込んで底から返すと、炊きたてのご飯が、ゆるく光を反射する。「…よし」小さく呟いて、火を弱めた味噌汁の鍋の蓋を少しずらす。だしと味噌と、入れたばかりの長ねぎの匂いが、湯気に混ざって立ち上る。それに、先に作っておいたもやし炒めの油の匂いと、冷蔵庫から出した冷奴にかけた醤油の匂いが混ざり合い、部屋全体が「夕飯の匂い」になっていく。背後から、テレビの音が聞こえる。ニュース番組の落ち着いたアナウンサーの声。「…続いては、物価高騰の影響が、教育費にも及んでいるという話題です」テロップの読み上げる声と一緒に、「教育費」「奨学金」「国立大学授業料」などの言葉が、ぽつぽつと耳に刺さってくる。気にしないふりをしながら、陸斗は炊飯器から茶碗にご飯をよそった。湯気で指先がじんと熱くなる。二人分。癖みたいに、一つ目をちょっと多めに、もう一つを少なめによそう。多い方は充の茶碗だ。もやしと豚こまを炒めたフライパンから皿に盛り付け、冷奴を二つの小鉢に分ける。きゅうりの塩もみにごま油を少し垂らし、箸でざっと混ぜる。テーブルの上に、ひとつずつ並べていく。小さなローテーブルはすぐにいっぱいになった。「充さん、ご飯できました」キッチンとリビングの境目くらいのところで声をかけると、ソファにだらしなく座っている男が、片肘をついたまま視線だけこちらへ向けた。「おう」テレビの光が、充の横顔に青白く反射している。手には煙草。灰皿の上には、すでに短くなった吸い殻が三本ほど並んでいた。今日は家にいる時間が長かったからか、いつもより一本多い気がする。「今行く」言いながら、充は吸いかけの煙草に最後のひと吸いをして、灰皿に押し付けた。火がじゅ、と小さく音を
チャイムが鳴り終わっても、教室のざわめきはすぐには収まらなかった。春と夏の境目みたいな午後で、窓の外からは部活動に向かう下級生の声が、風にちぎられて流れ込んでくる。前の黒板のところに立った藤田先生が、手に持った紙の束を軽く揺らした。「はい、進路調査票。高三様式、第一弾ね。とりあえず仮だから、そんなに怯えた顔するな」垂れ気味の目尻をさらに細くして、からかうみたいに笑う。列ごとに束を手渡すと、あとは前から後ろへ、といつもの流れ作業になる。前の席の女子がくるりと振り向き、後ろの陸斗に紙の束を差し出した。白い紙の角が、蛍光灯の光を弾いて一瞬きらりと光る。「はい、長谷くん」「ありがとう」一枚抜き取り、後ろへ回す。薄い紙が、指先でぺらりと鳴った。その軽さに似合わない、嫌な重さが、もうすでにそこに張り付いている気がする。名前を書く欄に「長谷 陸斗」と書き込む。いつもと同じ字のはずなのに、紙の上に浮かび上がった文字が、自分のものじゃないみたいに見えた。その下、住所、電話番号。そこまでは手が勝手に動く。問題は、そのさらに下だ。志望区分 □大学 □短大 □専門学校 □就職 □その他ボールペンの先が、「大学」の四角の少し上に止まった。大学。行けるかどうかで言えば、「行けるかもしれない」の側にいるのは分かっていた。模試の判定表でも、藤田先生にも、「このままいけば」と何度か言われている。そういう意味での「レール」は、ずっと目の前に敷かれてきた。でも、そこに丸をつけることは、「学費」とか「通学費」とかいう生々しい単語を、全部まとめて充の肩に乗せることでもある。ペン先が、わずかに揺れた。就職、という四角にも目がいく。高卒で働けば、とりあえず給料は入る。今すぐにでも、家計の足しにはなるはずだ。昼の仕事なら、社会的には「まとも」な働き方だと、誰に対しても胸を張れる。何より、充が夜の店で身体を削って稼いでいる時間を、少しでも短くできるかもしれない。代わりに、自分の「学びたい」とか「知りたい」は、そこでひとまず、棚の奥に押し込まれることになる。
ポストの金属の蓋を開けた瞬間、ふわっと紙の匂いがした。放課後、いつものようにアパートの階段を駆け上がる前に、一階の共有ポストを覗くのが、最近の陸斗の日課になっていた。チラシや請求書の間に、白い封筒が一通、きっちりと差し込まれている。他の郵便物とは、明らかに違う質感だった。少し厚手の紙、妙にきちんとした印刷された宛名。薄いビニールの窓付き封筒ではなく、真っ白な長形の封筒。表面に、黒い細い文字で住所と名前が二つ並んでいる。「長谷陸斗 様」その下に、小さく一行あけて。「桜井充 様」二人分の「様」が、妙に並んでこちらを見ているように感じた。右下には、見覚えのある差出人の名。「家庭裁判所」喉の奥が、きゅっと狭くなるような感覚がした。指先の汗が急に増えたのが自分でも分かる。封筒の紙が、そこからじわりと湿り気を吸って、ほんの少し柔らかくなった。「…きた」誰にともなく呟いて、封筒をそっと引き抜く。ビニールやチラシのざらざらした手触りの中で、その白い紙だけがやけに滑らかだ。他の郵便物も一応拾ってポストを閉め、封筒を胸の前で持ったまま、階段を上り始める。薄暗い階段の電球が、夕方の半端な光の中でぼんやりと黄色く光っている。足音が、一段ごとに響く。封筒の中で紙が少し動く度に、カサリ、と小さな音がした。いつもなら、二階の踊り場までの数十段なんて一瞬で駆け上がれるのに、今日は足が妙に重い。階段のコンクリートの冷たさが、靴底越しに、じわじわと伝わってくる気がした。部屋の前まで来て、ポケットから鍵を探る。手の中には封筒も握られているから、指先がうまく動かない。金属と紙と汗が、ごちゃごちゃに絡まり合っている。何とか鍵を取り出し、ガチャリと回す。「ただいま…」いつも通りの声を出したつもりが、少しだけ上ずっていた。「おう」台所の方から、短い返事が返ってくる。換気扇の音と、フライパンに何かが触れる軽い音が混ざっている。
裁判官の視線が、ゆっくりと横へ滑った。さっきまで自分をまっすぐ見ていた目が、今度は隣の充の方へ向けられる。その動きを、陸斗は横目で追った。テーブルの向こうで、黒いペン先が一瞬止まり、また小さく動き出す。「では、桜井さん」落ち着いた声が、部屋の空気を軽く震わせる。「あなた自身に、確認させていただきます」「…はい」充の返事は、いつものように低かった。だが、僅かに掠れているようにも聞こえる。緊張しているのか、寝不足のせいなのか、それともその両方なのか。「未成年後見人としての責任を引き受ける意思が、あなたにありますか」質問自体は、支援センターでも弁護士事務所でも、何度か別の形で聞かれてきた内容とほとんど同じだ。ただ、今ここでその言葉を聞くときだけ、重さが全然違って感じられる。この部屋での「あります」と「ありません」は、書類と判子と通知書になって戻ってくる。「なんとなく」とか「とりあえず」は、挟まる余地がない。隣で、充がほんのわずかに息を吸い込んだ気配がした。答えるまでの沈黙が、一拍分長く感じられる。実際には、まだ数秒も経っていないのだろう。それでも陸斗には、その間にいろんな音が聞こえた気がした。壁掛け時計の針の音、書記官のボールペンが紙と擦れる乾いた音、エアコンの吹き出し口で空気が渦を巻く低い音。充は、すぐには答えなかった。黙り込んだ、というほど長い時間ではない。それでも、その短い無音に、陸斗は思わず自分の指先に力を込める。膝の上で軽く握っていた手の甲に、爪が食い込んで少し白くなる。何を考えているんだろう。その沈黙の中で、彼の頭の中を走り抜けているものを、陸斗は想像することしかできない。Reinaのフロア。オレンジ色のライトと、笑い声と、グラスの触れ合う音。女装した「みっこ」としての自分を見つめ返す鏡の中の顔。家計簿のノートに並んだ数字。家賃、光熱費、食費、制服代、教科書代。赤ペンで引いた線。明け方、玄関の鍵を回して部屋に戻ったあと、自分の布団の横をそっと