All Chapters of 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています: Chapter 111 - Chapter 120

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新しい日常

 歓迎会から数日後。 佳苗は会社の給湯室でコーヒーを淹れていた。 最初の頃は何をするにも緊張していたのに、今ではこうして一人で行動できるようになっている。 ほんの数週間前まで専業主婦だったとは思えない。 自分でも少し不思議だった。「佳苗さん」 後ろから声を掛けられる。 振り返ると、歓迎会で隣に座っていた女性社員だった。「お疲れさまです」「お疲れさま。仕事慣れてきた?」 そう聞かれて、佳苗は少し考える。「慣れた……と言いたいですけど、まだ半分くらいです」 正直に答えると、女性は楽しそうに笑った。「十分十分。私なんて三か月くらい毎日帰りたかったから」「三か月ですか?」「うん」 あっさり頷かれる。 その言葉に佳苗は少し安心した。 自分だけが大変なわけではないのだ。 みんな最初はそうだったのだと知るだけで気持ちが軽くなる。 午後の仕事を終え、帰宅する。 玄関を開けると、どこかほっとした。 最近は会社にも慣れてきたが、それでも家に帰ると肩の力が抜ける。「ただいまです」「ああ」 リビングから返事が聞こえる。 佳苗はコートを脱ぎながらソファへ向かった。「今日はどうだった」 最近、雄吾は必ずそう聞く。 佳苗もそれが当たり前になっていた。「今日は褒められました」 そう言うと、雄吾が顔を上げる。「ほう」「資料整理が丁寧だって」 少し照れくさい。 大したことではない。 それでも嬉しかった。 誰かに評価されることに慣れていないからかもしれない。 雄吾は小さく頷いた。「良かったな」 その言葉に佳苗は笑う。「はい」
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もう一つの報告

 次の離婚協議の日程が決まったと聞いてから数日後。 佳苗は会社でパソコンに向かっていた。 午前中に頼まれていた資料の修正を終え、ほっと息を吐く。 まだ分からないことは多い。 けれど、以前のように何をするにも緊張することはなくなっていた。「佳苗さん」 上司に呼ばれる。「はい」 佳苗は慌てて立ち上がった。「ちょっといい?」 何かミスをしただろうか。 一瞬そんな不安が頭をよぎる。 だが、上司の表情は穏やかだった。 会議スペースの一角へ移動する。 上司は手元の書類を見ながら言った。「来月から、少し仕事の範囲を広げてもらおうと思ってるんだ」 佳苗は目を瞬いた。「私ですか?」「うん」 上司は笑う。「今の仕事も丁寧だし、覚えるのも早いから」 佳苗は一瞬言葉を失った。 褒められている。 それは分かる。 けれど。 まだ入社して一か月も経っていない。 そんな自分が評価されるとは思っていなかった。「もちろん無理のない範囲でだけどね」 上司は続けた。「少しずつ経験を積んでいこう」「はい」 佳苗は小さく頭を下げた。 胸の奥が少し熱くなる。 期待されることが嬉しかった。 会社を出た後も、その言葉は頭の中に残っていた。 電車の窓に映る自分を見る。 どこにでもいる会社員。 けれど。 少し前の自分とは違う。 そんな気がした。 マンションへ戻る。「ただいまです」「ああ」 雄吾はソファに座っていた。 佳苗はコートを脱ぐ。 そして。「先輩」「何だ」
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後悔

 次の離婚協議は前回よりも短時間で始まった。 三浦に案内されて部屋へ入る。 佳苗は静かに席へ着いた。 以前ほど緊張はしていない。 仕事を始めてからだろうか。 離婚だけが人生のすべてではなくなっていた。 悟もすでに来ていた。 目が合う。 だが佳苗はすぐに視線を外した。 協議が始まる。 財産分与。 今後の手続き。 離婚条件の確認。 話は前回よりも具体的な内容へ進んでいった。 そして。 相手方弁護士が資料を確認しながら口を開く。「依頼人としては、離婚自体について争う意思はありません」 佳苗はわずかに目を見開いた。 悟が離婚を認めた。 その事実に少し驚く。 以前なら絶対に受け入れなかったはずだ。 三浦も淡々と頷く。「承知しました」 話は順調に進む。 少なくともそう見えた。 だが。「待ってください」 不意に悟が口を開いた。 部屋の空気が変わる。 相手方弁護士が困ったような顔をする。 悟は佳苗を見ていた。「悟さん」 弁護士が制止しようとする。 しかし悟は続けた。「佳苗と話がしたい」 三浦が静かに口を開く。「本日の協議は――」「少しだけでいいんです」 悟の声はどこか切迫していた。 佳苗は黙ったまま相手を見る。 以前より痩せている。 疲れているようにも見えた。 しばらく沈黙が続く。 そして。「少しだけなら」 佳苗が言った。 三浦は佳苗を見る。 佳苗は小さく頷いた。 自分でも驚くほど落ち着いていた。 怖くなか
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失ったもの

 協議が終わった後も、しばらく誰も口を開かなかった。 重たい沈黙が部屋を満たしている。 悟は俯いたまま動かない。 握り締めた拳だけがわずかに震えていた。 三浦が静かに資料を閉じる。「本日の協議内容については、後日改めて書面で確認させていただきます」 事務的な言葉だった。 けれど、それはこの場を終わらせるための合図でもあった。 相手方弁護士も小さく頷く。「承知しました」 悟だけが動かない。 佳苗はその姿を見つめた。 昔なら放っておけなかっただろう。 何か声を掛けていたかもしれない。 大丈夫かと尋ねていたかもしれない。 でも今は違う。 その役目はもう終わっている。 三浦が立ち上がった。「佳苗さん」 促される。 佳苗も静かに席を立った。 その時だった。「どうしてだ」 低い声が聞こえた。 佳苗の足が止まる。 振り返ると、悟が顔を上げていた。 赤く充血した目が佳苗を見ている。「どうして、そんなに平気なんだ」 かすれた声だった。「前は俺のことが好きだっただろ」 相手方弁護士が顔をしかめる。 だが悟は止まらなかった。「俺はちゃんと謝った」「悪かったって言った」「それなのに――」 佳苗は黙って聞いていた。 不思議なことに。 胸は痛まなかった。 代わりに込み上げてきたのは、ほんの少しの寂しさだった。 悟は今でも分かっていない。 佳苗がなぜ離れていったのか。 本当の意味では理解していない。 だから。 謝れば元に戻ると思っている。「悟さん」 佳苗は静かに口を開いた。
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区切り

 事務所を出ると、ひんやりとした風が頬を撫でた。 佳苗は思わず大きく息を吐く。 自分でも気づかないうちに力が入っていたらしい。「お疲れさまでした」 三浦が穏やかな声で言った。 佳苗は我に返ったように頭を下げる。「こちらこそ、ありがとうございます」「まだ手続きは残っていますが、大きな山は越えましたよ」 三浦はそう言って微笑んだ。 その言葉に、佳苗は少しだけ肩の力を抜く。 大きな山。 確かにそうかもしれない。 悟と顔を合わせること。 自分の意思を伝えること。 そして、戻らないと告げること。 ずっと怖かったはずなのに、不思議なほど穏やかな気持ちだった。 三浦と別れたあと、佳苗と雄吾は駅へ向かって歩き出した。 しばらくの間、どちらも何も言わない。 車の音だけが遠くから聞こえてくる。 やがて佳苗は小さく笑った。「何だか変な感じです」 雄吾が視線を向ける。「何がだ」「もっと泣くと思っていました」 自分でもそう思っていた。 悟に会ったら。 あの頃の気持ちを思い出してしまうのではないかと。 心が揺れるのではないかと。 けれど実際は違った。「泣かなかったな」「はい」 佳苗は頷く。「もちろん悲しくないわけじゃないんです」 結婚した頃は幸せだった。 好きだった。 ずっと一緒にいたいと思っていた。 だから。 何も感じないわけではない。 それでも。「終わったんだなって思いました」 口にすると、不思議なくらいしっくりきた。 終わった。 その言葉が。 ようやく現実になった気がした。 雄吾は何も言わな
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空っぽの部屋

 マンションへ戻ったのは夜になってからだった。 玄関の扉を閉める。 部屋の中は静まり返っていた。 悟はネクタイを緩めながらリビングへ向かう。 電気を点ける。 見慣れたはずの部屋が妙に広く感じられた。 ソファに腰を下ろし、深く息を吐く。 疲れていた。 協議のせいだけではない。 ここ数か月ずっとだ。 仕事から帰っても誰もいない。 食事もない。 話し相手もいない。 最初は気楽だと思った。 一人の時間が増えるだけだと。 だが違った。 静か過ぎるのだ。 悟は無意識にスマートフォンを手に取った。 連絡先を開く。 そこにはまだ佳苗の名前が残っている。 指が止まる。 結局、何もできず画面を閉じた。 協議の場での佳苗の顔が頭に浮かぶ。 穏やかだった。 怒ってもいなかった。 泣いてもいなかった。 ただ静かに、『私は戻りません』 そう言った。 あの時の声が耳から離れない。 悟は顔を覆った。 謝った。 悪かったとも言った。 それなのに佳苗は戻ってこない。 なぜだ。 そう思いかけて。 すぐに答えが浮かぶ。 自分が聞かなかったからだ。 佳苗は何度も言っていた。 寂しいと。 話を聞いてほしいと。 苦しいと。 だが、そのたびに後回しにした。 仕事が忙しい。 疲れている。 また今度。 そう言い続けた。 悟はゆっくり目を閉じる。 佳苗がいなくなってから気づくことばかりだった。 朝起こしてもらっていたこと。 スー
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知らされたこと

 協議から数日後。 佳苗は昼休みに会社近くのカフェへ立ち寄っていた。 資格試験の参考書を広げる。 昼休みの三十分だけでも進めようと思ったのだ。 コーヒーを一口飲む。 問題を解く。 分からない箇所に付箋を貼る。 以前なら想像もできなかった時間だった。 自分のためだけに勉強する。 ただそれだけのことが少し嬉しい。 スマートフォンが震えたのは、その時だった。 画面を見る。 三浦からだった。 正確には佳苗宛ではなく、雄吾を通じて連絡が来ているらしい。 昼休みが終わる頃だったため、佳苗はそのまま会社へ戻った。 連絡の内容を聞いたのは帰宅後だった。「三浦先生からですか?」 夕食の後、佳苗が尋ねる。 雄吾はスマートフォンをテーブルへ置いた。「ああ」 その表情はいつも通り落ち着いている。 だが。 どこか話しづらそうにも見えた。「何かあったんですか?」 佳苗が首を傾げる。 雄吾は数秒考えた後、口を開いた。「悟が復縁を希望しているらしい」 佳苗は目を瞬いた。 一瞬、意味が理解できなかった。「復縁……ですか?」「ああ」 雄吾は短く答える。「正式な話ではない」 どうやら協議の後、悟が三浦にそれとなく話したらしい。 やり直したい。 もう一度話し合えないか。 そんな内容だったようだ。 佳苗は黙った。 驚いていないわけではない。 ただ。 自分でも意外なほど心が静かだった。「そうですか」 口から出たのはそれだけだった。 雄吾が佳苗を見る。「それだけか」 佳苗
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残された問題

 復縁を望んでいる。 三浦から伝えられた悟の言葉は、思ったよりも長く佳苗の心に残った。 未練ではない。 戻りたいわけでもない。 ただ、不思議な感覚だった。 かつてあれほど欲しかった言葉を、今になって差し出されても何も変わらない。 それが少し切なかった。 週明けの昼休み。 佳苗は会社の休憩スペースで昼食を取っていた。 窓際の席に座り、サンドイッチの袋を開く。 その時だった。「佳苗さん」 同じ部署の女性社員が声を掛けてくる。「今度の土曜日って空いてる?」 佳苗は顔を上げた。「土曜日ですか?」「うん。駅前で雑貨市やるらしくて」 女性は楽しそうに笑う。「何人かで行こうって話してるんだけど」 佳苗は少し驚いた。 歓迎会の時以来、職場の人たちと話す機会は増えていた。 けれど、休日の誘いを受けるとは思っていなかった。「無理なら全然いいんだけどね」 女性が慌てて付け加える。 佳苗は少し考えた。 昔なら断っていただろう。 休日は家にいるものだった。 誰かと出掛ける予定などほとんどなかった。 けれど。「行きたいです」 自然とそう言葉が出た。 女性の顔がぱっと明るくなる。「本当? 良かった!」 その笑顔を見ていると、佳苗も嬉しくなった。 会社の人たちと出掛ける。 そんな当たり前のことが、今の自分には少し新鮮だった。 その日の夜。 帰宅した佳苗は夕食の準備を手伝いながらその話をした。「土曜日?」 雄吾が包丁を動かす手を止める。「はい」 佳苗は野菜を洗いながら答えた。「会社の人たちに誘われたんです」 雄吾は一瞬
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佳苗の取り分

 翌日の夜。 佳苗は仕事から帰ると、珍しく三浦もマンションへ来ていた。 リビングのテーブルには書類が広げられている。「お邪魔しています」 三浦が軽く頭を下げる。「いえ」 佳苗は慌てて鞄を置いた。 何となく空気が重い。 離婚協議の話だとすぐに分かった。「何かあったんですか?」 三浦は手元の資料へ視線を落とした。「正確には、想定していたことが起きたと言いますか」 佳苗は席に着く。 三浦は一枚の資料を差し出した。「悟さん側から財産分与について修正案が提出されました」 佳苗は紙を見る。 数字が並んでいる。 だが、正直よく分からない。 もともと家計管理は佳苗がしていた。 それでも法律の話になると別だった。「簡単に言うと」 三浦が説明する。「悟さんは、佳苗さんの取り分を減らしたいようです」 佳苗は目を瞬いた。「私の?」「はい」 三浦は頷く。「婚姻期間中の共有財産についてですね」 佳苗は黙った。 怒りより先に疑問が浮かぶ。「どうしてですか?」 その問いに答えたのは雄吾だった。「金だろ」 短い一言。 三浦も否定しなかった。「復縁したいと言いながら?」 佳苗は思わず口にする。 自分でも驚くほど率直だった。 三浦は少し困ったように微笑む。「感情と金銭問題は別だと考える方もいますので」 佳苗は言葉を失った。 復縁したい。 帰ってきてほしい。 そう言った相手が。 今は自分の取り分を減らそうとしている。 その事実が妙にちぐはぐに感じられた。「佳苗さん」
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譲れないもの

 三浦が帰った後も、佳苗はしばらく書類を眺めていた。 数字が並んでいる。 預金。 保険。 共有財産。 結婚した頃の自分なら、きっと興味も持たなかっただろう。 悟が働いている。 生活費は振り込まれている。 それで十分だと思っていた。 だが今は違う。 そのお金がどうやって管理されていたのか。 どれだけの時間をかけて家計を支えていたのか。 少しだけ分かるようになっていた。「難しい顔してるな」 雄吾が向かいへ腰を下ろした。 佳苗は苦笑する。「難しいですから」 そう言って書類を閉じた。 頭の中が少し疲れている。 仕事を覚えて。 資格の勉強をして。 離婚協議も進める。 我ながら忙しい。「先輩」「何だ」「私、変ですかね」 雄吾が眉を上げる。「何がだ」「お金のことで揉めるの、嫌なんです」 佳苗は正直に言った。 自分の取り分を減らされそうになっている。 本来なら怒るべきなのかもしれない。 でも。 怒りより先に疲労感があった。「早く終わってほしいって思っちゃうんです」 そう言って笑う。 雄吾はしばらく黙っていた。 やがて静かに口を開く。「それは普通だろ」 佳苗は顔を上げた。「そうですか?」「ああ」 雄吾は頷く。「でも譲るのとは別だ」 その言葉に佳苗は黙る。「面倒だから諦めるのと」 雄吾はテーブルの書類を指先で軽く叩いた。「納得して決めるのは違う」 佳苗は思わず視線を落とした。 納得。 その言葉が
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