Alle Kapitel von 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Kapitel 161 – Kapitel 170

208 Kapitel

第161話 誰も助けに来ない部屋①

 水滴が、ひび割れた冷たい石に落ちるような、ひどく遠く、鈍い音が耳の奥で鳴っていた。 意識は、泥水よりもさらに粘度の高い、タールのような暗闇の底に沈み込んでいた。 呼吸をするたびに、肺が千切れるように痛む。 口の中は干からび、舌の根から喉にかけて、あの錆びた鉄パイプを舐め続けたような強烈な苦味と血の匂いが、べったりとへばりついていた。 私は自分の手足がどこにあるのかもわからないまま、重すぎるまぶたをゆっくり持ち上げた。 白く、濁った視界。 ピントが合わず、光の輪郭が滲んで何重にも重なっている。 天井が見えた。 私室の、あの精巧なフレスコ画が描かれた高い天井ではない。 黄ばみ、何箇所か雨漏りのような黒ずんだ染みがついた、低い天井。 背中の下から伝わってくるのは、あの足音を吸い込む深紅のふかふかしたペルシャ絨毯ではなかった。冷たく、硬く、ささくれ立ったような短い毛足の、安いカーペットの感触。 私は鉛のように重い右腕を強引に動かし、床に手をついて上体を起こそうとした。 関節が、悲鳴を上げる。「……はっ、ぁ……」 声を出そうとしたが、砂を噛んだように擦れた吐息しか出ない。 ここは、どこだ。 何度も瞬きを繰り返し、強制的に視神経の焦点を合わせる。 四畳半ほどの、狭い空間。 家具は、何一つない。 ベッドも、ソファも、アンティークのテーブルも。 壁は一面、くすんだ白色で、カレンダーの跡なのか、四角く日焼けした部分だけが残っている。 部屋の隅には、小さな換気扇が、低く単調なモーター音を立てて回っていた。 それから、壁の片側にある小さな窓。 その窓ガラスの向こうには、太い鉄格子が嵌め込まれ、さらに外側から分厚い木の板が打ち付けられていた。自然光は一切入ってこず、天井に取り付けられた剥き出しの蛍光灯だけが、ジーッという不快なノイズとともに、部屋を青白く、死人のように照らし出している。 空調は効いておらず、空気は氷室のように冷え切っていた。
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第162話 誰も助けに来ない部屋②

 奪われた。 私が意識を失っている間に、黒瀬かメイドたちが私の身体を探り、あの端末を回収したのだ。 心臓がヒュッと音を立てて縮み上がった。 タイマーは、クラウド上で動いているはずだ。端末を奪われても、仕掛けそのものは止まらない。 だが。 それが「いつ」爆発するのか。今が何日の何時で、残り何時間なのか。 それを確認する手段が、絶たれた。 それだけではない。私がこの密室で薬によって正気を失い、ただ壁に向かって喚く狂人に成り下がった後で、あのデータがばら撒かれたとして。 美津子が「あれは精神に異常をきたした娘が、妄想で書き散らした怪文書です」と公式に切り捨てた時。私には、それを否定する「正常な声」を上げることもできない。 声が、届かない。 誰も、私の言葉を聞いてくれない。 その絶対的な孤立の恐怖が、薬で濁った私の脳髄を激しく揺さぶった。 視界が、ぐにゃりと歪む。 天井の青白い蛍光灯の光が、網膜を焼くようにチカチカと明滅した。 その光は、いつの間にか、前世のあの会議室の光へとすり替わっていた。 ――君がどういうつもりでチャットを打ったかなど、どうでもいいんだ。 広報部長の乾いた声が、頭蓋骨の裏側で反響する。 同期の紗耶が泣いている。誰も私を見ない。私の作った時系列表は無視され、切り取られた言葉だけが「悪の証拠」としてプロジェクターに映し出されている。「……ちがう」 掠れた声が、喉から漏れる。 光が、スッと消えた。 代わりに視界を埋め尽くしたのは、煤けた木目の天井だった。 鼻を突く、安物の香水とタバコのヤニの匂い。 ――泣き止ませろよ、うるせえな! 怒鳴り声。巨大な手が私の身体を掴み上げ、激しく揺さぶる。 言葉を持たない。自分の痛みを伝える声帯がない。ただの「耳障りなノイズ」として処理され、車の中でダッシュボードに頭を打ちつけられた、あの赤ん坊としての絶望。 会議室の沈黙。 赤ん坊の無力。 そして今、この外界から
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第163話 誰も助けに来ない部屋③

 あるいは、見つけたとしても、ただのメモ帳など何の脅威にもならないと判断したのか。 私の指先が革の表紙のひんやりとした感触を捉えた。 それから、その背に挟まれた、細身のボールペンも。 それらを引っ張り出し、胸の前で両手で強く抱きしめた。 革の匂い。 インクの匂い。 それは、私が私であるための、私がこの世界に自分の輪郭を固定し続けてきた、唯一の錨の匂いだった。 幻覚の波が、スッと引いていく。 頭痛と吐き気は相変わらず酷いが、少なくとも、自分が今どこにいて、何をすべきかという「現在地」だけは、はっきりと取り戻せた。 私は壁に背中を預け、ひやりとした床の上に座り込んだ。 誰も助けに来ない。 千尋は引き離された。透は私が海外に逃げたと思っている。黒瀬は美津子の命に従うしかない。 扉の向こうからは、一切の足音も気配も聞こえない。 彼らは私がここで、薬の副作用と恐怖に耐えきれずに泣き叫び、自分で自分の精神を破壊するのを、ただ静かに待っているのだ。 なら。 私は絶対に泣き叫んだりしない。 スマートフォンのタイマーがいつ爆発するかわからないなら。 私が狂ってしまう前に、あるいは、私がこの部屋で「処理」される前に。 このアナログな紙の束に、今の私の「正常な意識」を、物理的な痕跡として、逃げ場のない議事録として刻み込んでやる。 それが、私が美津子に叩きつける、最後の抵抗だ。 私は震えの止まらない両手でメモ帳を開いた。 一番新しい、白紙のページ。 ボールペンのキャップを外し、ペン先を紙に押し当てる。 手が小刻みに痙攣し、ペン先が紙の上で滑る。 痛みを伴うほどの集中力で、右腕の筋肉を強制的に制御する。 広報部時代。炎上対応の最前線で、怒号の飛び交う役員会議の端に座り、一言一句漏らさずに議事録を取り続けたあの時の、極限の冷徹さを呼び起こす。 書け。 私が狂う前に、狂わされた事実を。 カリッ、カリッ。 インクが紙の繊維を引っ掻く音が、無音の処理部
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第164話 誰も助けに来ない部屋④

『扉の音:一切なし。誰もこの部屋には近づかないように指示されていると推測』 ここまで書き終え、私は荒い息を吐いた。 額から汗が滴り落ち、メモ帳の紙に小さな丸い染みを作る。 これだけでは足りない。 ただの状況報告では、「やはり被害妄想に取り憑かれた狂人の日記だ」と切り捨てられる余地が残る。 私が、最後まで「誰か」と繋がっていたこと。 私が、最後まで自分の意志でこの盤面を支配していたことの証明を残さなければ。 私はペンを握り直し、新たな行に文字を刻んだ。『黒瀬誠司へ』『あなたがこの部屋を開け、この手帳を見つけた時。私の意識がどうなっていようと、記録は残っているわ。あなたが私に言った言葉通りに』『あなたはまた見殺しにするのね。でも、あなたのその罪悪感も、私が一緒に連れて行ってあげる』 黒瀬は美津子の手足としてこの部屋の後始末をするだろう。 彼がこのメモ帳を見た時、彼がこれまで抱え続けてきた「記録者としての逃げ」は塞がれる。私が彼を共犯者として、永遠にこの紙の束に縛り付けてやる。 そして。 最後にもう一人。 私を遠ざけ、一人で母と刺し違えようとしている、あの不器用な人の名前。 ペン先が、かすかに震えて止まった。 彼には、なんと書き残すべきか。 彼への怒りか。それとも、彼を残して死ぬかもしれないことへの謝罪か。 ……違う。 彼に必要なのは、そんな感傷ではない。 彼を縛り付けている「呪い」の鎖を、断ち切るための、明確な「事実の宣告」だ。 私は紙をえぐるような強い筆圧で、その言葉を書き込んだ。『天野透へ』『私はあなたに巻き込まれたのではありません』『私は自分自身の意志でこの屋敷へ戻り、自らこの部屋に入りました』『私はここで終わってもいいように書いたんじゃない。終わらされないために書いたんです』『私の命は、私のものです。あなたが背負うべき罪ではありません』『あなたは、呪われてなどいない。優しいだけの、普通の人です』
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第165話 それでも記録する①

 意識が、またゆっくり沈み始めた。 重力が何倍にも膨れ上がり、自分の肉体を押し潰そうとしている。 冷たいカーペットに押し当てた頬の感覚が、少しずつ薄れていく。全身の筋肉が麻痺し、指先を数ミリ動かすことすら、途方もない労力を必要とした。 ジーッ、という天井の蛍光灯が放つ不快なノイズが、頭蓋骨の内側に直接反響し、脳髄を微細な針で削り取っているかのようだった。 自分の名前が、途中で一度だけ遠のいた。 けれど、私の右腕だけは、胸の前に強く抱きしめた革張りのメモ帳を、決して手放そうとはしなかった。 インクの匂い。 革の感触。 それだけが、今の私を水科凛花という一個の人間としてこの世界に繋ぎ止める、最後の命綱だった。 まぶたが、鉛のように重い。 半ば閉じかけた視界の隙間で、青白い蛍光灯の光がチカチカと明滅を繰り返している。 どれくらいの時間が経ったのだろう。 数分か、数時間か。 薬によって狂わされた脳では、時間の感覚すらも麻痺していた。 ただ、胸の底で、心臓がドクン、ドクンと重く、ひどく遅いリズムで血を送り出している音だけが、私の生存を告げる唯一の時計だった。 時計はない。外部の更新期限だけが、私の知らない場所で近づいている。 私からスマートフォンを奪ったあの女が、どれほど完璧な箱庭を作ろうと。 四十八時間――もう四十時間を切っているかもしれない。期限が来れば、外部サービスが資料の所在を登録先へ送る。その後に検証されるかは、受け取った人間次第だ。 その事実だけが、冷たくなった私の身体の芯に、かすかな熱を保たせていた。 ふと。 遠くで、何かが擦れる音がした。 私の濁った聴覚が、そのかすかな異音を捉える。 コツ、コツ。 硬い靴音が、廊下の絨毯に吸い込まれながらも、確実にこの部屋の扉へと近づいてくる。 息を詰めた。 足音が、扉のすぐ向こうでピタリと止まる。 衣擦れの音。 そして。 カチャ、ジャキッ。 外側から、重い金属のシリンダーが回さ
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第166話 それでも記録する②

 靴音が途切れ、黒い影が私の視界を塞いだ。磨かれた革靴の縁には、廊下のオレンジ色の光が細く残っている。 革靴の片方がわずかに引かれ、スーツの膝がゆっくり折れて、黒い布地が視界へ近づいた。 つま先の代わりに、黒い手袋と、その下で強張った指が視界へ降りてきた。 彼はゆっくり片膝をついた。 スーツの生地が擦れる音がする。 黒い革手袋に包まれた彼の手が私の顔の横へと伸びてきた。 私は逃げることも、声を出すこともできなかった。ただ、その黒い手が近づいてくるのを、濁った視界の中でじっと見つめていることしかできない。 だが。 彼の手は、私の首筋や、脈を確認するような場所へは向かわなかった。 黒瀬の指先が触れたのは、私が胸の前に固く抱きしめていた、あの革張りのメモ帳だった。 私の指は、表紙の角に絡んだままだった。 黒瀬は私の硬直した指の間から、そのメモ帳をそっと引き抜いた。 抵抗する力は、私にはもう残っていなかった。 スッ、と私の手から革の感触が失われる。 視界が何重にもブレる中、黒瀬がそのメモ帳を自分の目の高さまで持ち上げるシルエットが見えた。 美津子へ提出するために回収したのかもしれない。黒瀬は何も言わず、表紙へ指をかけた。 パタン、と。 黒瀬が、メモ帳の表紙を開く音がした。 私は浅い呼吸を繰り返しながら、彼の動きを網膜に焼き付けようと必死に目を開き続けた。 紙がめくられる音が一度した。ぼやけた視界の中で、最後に書いたページの端だけが白く見えた。 けれど、そこには、私が薬で意識を濁らされながらも、客観的な事実の前後の流れをロックした『議事録』が刻まれている。 美津子が私を監禁し、吉見の薬で精神破壊のプロセスを進行させているという状況報告。 誰も近づかないという、密室の証明。 沈黙が、落ちた。 青白い蛍光灯の下、黒瀬の動きが停止した。 彼の左手のバインダーが、微かに揺れる。 黒瀬が息を呑んだ。 完璧な機械であったはずの執事の喉から、ひどく人間らしい、空気を
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第167話 それでも記録する③

 紙を持つ黒瀬の手袋が、小さく軋んだ。 黒瀬の呼吸が荒くなっているのがわかった。 布擦れの音が、静かな部屋に不規則に響く。 彼の肩が、大きく上下している。 黒いバインダーには、過去の花嫁たちの日付、投薬量、夜間の行動が並んでいる。黒瀬がすべてを直接見たのかはわからない。ただ、その記録を運んできたのは彼だった。 黒瀬の親指が、症状を記した行から、彼を名指しした行へ動いた。歪んだ文字を追うたび、手袋の革が小さく鳴った。「……っ」 黒瀬の口から、声にならない呻きが漏れた。 彼の震える手がメモ帳を持つ力を強める。 私は薄れゆく意識の中で、彼の次の動作を待った。 彼がこの手帳を美津子に渡せば、美津子はこれを「頭のおかしくなった娘が書いた妄想」として処理し、そのまま焼却炉に放り込むだろう。 そして黒瀬は再び「ただの記録者」として、私の死を傍観する元の位置に収まる。 彼が、どう動くか。 黒瀬はゆっくりメモ帳から顔を上げた。 ぼやけた視界の中で、彼の感情を閉ざした瞳が、倒れ伏す私を真っ直ぐに見下ろしているのがわかった。 黒瀬の視線は、もうページではなく私へ向いていた。 黒瀬は私を見たまま、左手のバインダーをゆっくり下ろした。表紙の角がカーペットへ触れても、いつものように持ち直さない。視線だけが、私と胸元の手帳の間を一度往復した。 彼は左手の小脇に抱えていた黒革のバインダーを、ゆっくりカーペットの上に置いた。 いつも身体から離さなかったバインダーが、床へ置かれた。黒瀬の右手には、私のメモ帳だけが残った。 そして。 彼は私のメモ帳をパタンと閉じると、それをバインダーに挟むのではなく、自分のスーツの胸元――心臓のすぐ上にある内ポケットの奥深くへと、静かに、だが確かな動作で滑り込ませた。 彼はこの手帳を美津子の報告ルートから物理的に切り離し、彼自身のものとして隠匿することを選んだ。 理由は、まだ聞けない。けれど、私の手帳は美津子へ提出するバインダーには戻らず、黒瀬の胸ポケットへ入った。今この瞬間、
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第168話 記録を切り取らずに出す①

 ザラザラとした、安いカーペットの繊維が頬を擦る感触があった。 天井の換気扇が、低いモーター音を一定のリズムで鳴らし続けている。 私は自分の呼吸がひどく浅く、不規則になっているのを感じながら、ゆっくり目を開けた。 青白い蛍光灯の光が、網膜をチカチカと刺激する。 ここは、窓を板で塞がれた隔離部屋(処理部屋)だ。 頭蓋骨の内側に鉛を流し込まれたような重い頭痛と、舌の根にへばりつく錆びた鉄の味が、私が主治医の『薬』を飲まされ、一度意識を失っていたことを教えている。 手足の感覚は鈍く、指先を動かすだけで全身の筋肉が軋む。 幻覚の波は引いていたが、考えは何度も途切れた。 私はゆっくり仰向けの姿勢になり、冷たい天井の染みを見つめた。 私は、保存先、公開経路、受取人の三つだけを順に思い出した。 スマートフォンは奪われた。 私が最後に書き残した革張りのメモ帳も、今は黒瀬の手の中にある。 私は物理的には孤立し、声を発する手段も、外の世界と繋がる端末も何一つ持っていない。 作動させた時点では、期限は外部のサーバーで動いていた。今も止まっていないと信じるほかない。 全文は思い出せない。けれど、見出しと、そこへ紐づけた資料の順はまだ辿れた。 元資料、事実と推測を分けた表、公開文。この三つが別々に残っている。 一つが否定されても、別の資料から元へ戻れるようにした。 公開文の冒頭だけを、途切れ途切れに思い出す。 文面ではなく、項目の順だけをなぞる。元資料へ戻る道を複数残した、未検証の報告書だ。 【文書番号01:公式声明文】『本リリースは、天野家本邸における過去二名の女性の不審死、および水科ホールディングスを通じた不正資金流用に関する、事実の訂正と時系列報告である。 発信者である水科凛花と連絡が取れない場合は、本邸内での居所と安否、吉見医師による投薬の有無を、資料記載の日時と照合して確認されたい』 連絡不能そのものを証拠にするのではない。確認すべき場所と日時を先に示し、第三者が事実を確かめられる形にする。 【文書番号0
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第169話 記録を切り取らずに出す②

 ※添付資料C(主治医・吉見氏の状態報告書コピー):美津子氏の承認欄と、段階的な投薬量の変更記録。診断名、処方内容、観察症状、死亡時期との照合が必要』 時系列の後には、資料番号と作成者を付けた。 責任を断定するためではない。誰の署名と承認印が、どの資料にあるかを追えるようにするためだ。 【文書番号03:関係者一覧と責任の所在】『・天野美津子:当主夫人。複数の投薬・隔離記録に、本人の指示または承認を示す記載あり。各記録の作成経緯と関与範囲は要捜査。 ・吉見(主治医):投薬記録に署名。処方内容と対象者の症状、診断経緯の照合が必要。 ・水科惣一郎(水科家当主):天野アセットマネジメントとの架空取引(※添付資料D)への関与、および婚約契約締結の経緯を要捜査』 最後に、婚約契約書の条項を添えた。 【文書番号04:婚約契約書の免責事項に関する指摘】『※添付資料E(婚約契約書写し):第六条。水科凛花が精神的失調、死亡等に至った場合、水科家への債務弁済請求権を放棄する旨の記載。 本条項は、婚約者の死亡または精神的失調と債務放棄を結びつけており、作成経緯と過去事例への適用の有無を検証する必要がある』 怪文書だと否定される可能性は、消えない。 それでも、消防記録、署名入り報告書、裏帳簿へ戻る道は残してある。 私がこの暗い部屋で、一言も言葉を発することができなくても。 あとは、受け取った人間が資料を開き、照合を始めるかどうかだ。「……はぁっ」 私の口から、ほのかな笑い声が漏れたのを感じた。 私は前世の会議室で奪われた自分の輪郭を、今度こそ、自分の力で取り戻したのだから。 カチャリ。 そのとき、重い金属のラッチが外れる音が、静寂の処理部屋に鋭く響いた。 私はゆっくり首を巡らせ、扉の方を見た。 油の切れた蝶番が軋み、廊下の薄暗いオレンジ色の光が、私の足元のカーペットに細長く伸びる。 逆光の中に立っていたのは、漆黒のスーツ姿の黒瀬だった。 彼は私が意識を取り戻し、天井を見上げているのを確認
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第170話 記録を切り取らずに出す③

 黒瀬が美津子を裏切る。それは、執事の職を失うという程度の話ではない。 彼が長年、記録の改ざんと隠蔽に加担してきたすべての罪を、たった一人の実行犯として背負わされる可能性がある。 それでも彼はここに来た。 黒瀬はいつものようにバインダーを抱えていない。 彼は私の頭のすぐそばまで歩み寄ると、ゆっくり片膝をついた。「……凛花お嬢様」 黒瀬の声は、ひどく低く、かすれていた。「奥様には、お嬢様はまだ意識の混濁には至っておらず、もう一段階上の『処置』が必要であるとご報告いたしました」 私は焦点の合いにくい目で彼の顔を見た。 黒瀬は私を見たまま、ポケットへ手を入れた。「……ありがとう、黒瀬さん」 私はひび割れた声帯から、掠れた声を絞り出した。 黒瀬は小さく首を振り、彼自身のスーツの内ポケットに手を入れた。 取り出されたのは、私のあの革張りのメモ帳ではない。 黒い、四角い金属の塊。 私が美津子たちに奪われたはずの、天野家支給のスマートフォンだった。「これを、お返しいたします」 黒瀬は私の震える右手のそばに、その端末をそっと置いた。 それから彼はもう一つ、小さな真鍮の鍵を床に置いた。「処理部屋の予備鍵です。これを持ち出した時点で、私は奥様への忠誠を破ったことになります」 彼の声は静かだった。「ですが、鍵を持っているだけでは足りません。廊下の突き当たりに、奥様付きの警備員が一名おります。私が声をかけて足止めします。その間に、お嬢様は西側の使用人通路へ」 黒瀬は廊下の方を見た。説明に使える時間も、二分しかない。「通信回線は、すでに奥様の指示で遮断されております。この端末から外部へ連絡を取ることは不可能です」 わかっている。通信ができないただのガラスと金属の板に、今は何の意味もない。 けれど、黒瀬は私の顔を真っ直ぐに見据えたまま、続けた。「ですが……回線が遮断される直前。この端末に、届いていた
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