Alle Kapitel von 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Kapitel 171 – Kapitel 180

208 Kapitel

第171話 記録を切り取らずに出す④

 彼は自分一人で美津子と決着をつけるつもりだ。 過去の死者たちの無念も、自分自身が背負わされた数十年の呪いも、全部を自分一人で抱え込み、母親と刺し違える覚悟で。 だから、私に「来るな」と。私をこれ以上巻き込まないために、こんな悲痛な警告を送ってきたのだ。「……ばか」 私の唇から、熱を帯びた声が漏れた。 何が、僕が終わらせるだ。 私がどれだけの覚悟で時限公開の仕組みを組み上げ、私がどれだけの痛みを堪えてこの部屋の床を這いつくばっていると思っているのか。 私を安全な場所に遠ざけて、自分だけが傷ついて終わるような自己満足を、私が許すはずがない。「黒瀬さん」 私はスマートフォンを強く握りしめ、床に手をついて強引に上体を起こした。 全身の関節が悲鳴を上げ、視界がぐらりと揺れる。 黒瀬の手を退けかけたが、膝が崩れた。私は彼の前腕を掴んだ。今だけ借ります、と言う声も出なかった。「透様は、今どこに」 黒瀬は立ち上がった私を見上げ、その瞳にかすかな驚愕を浮かべた。 黒瀬は何も言わず、私が姿勢を戻すまで腕を動かさなかった。「……透様は、すでに本邸にお戻りになられました」 黒瀬も立ち上がり、姿勢を正して答えた。「血相を変え、一切の取り次ぎを無視して、奥様が待つ温室の方へ向かわれました。……私がこちらへ来る直前のことです」 温室。 あの焼け焦げた扉と、白い花が群生する、すべての呪いの原点。 美津子は透が向かってくるのをそこで待ち受けているのだ。「案内して」 私はスマートフォンをカーディガンのポケットにねじ込み、黒瀬を真っ直ぐに見据えた。「彼を、一人で終わらせるわけにはいかないわ」 黒瀬は数秒間私と視線を交え、そして深く、これまでにないほど深い角度で一礼をした。「……この先は、私も逃げません。ご案内いたします」 黒瀬は私の左腕を自分の肩へ回し、体重を受けてから処理部屋の
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第172話 本邸には来るな①

 西翼の奥へと続く長い廊下は、まるで外界から隔絶された深海の回廊のようだった。 壁に埋め込まれたフットライトが、等間隔にオレンジ色の光の帯を絨毯の上に落としている。 黒瀬は歩幅を落とし、曲がり角ごとに私の肘を支えた。内ポケットには、あの革張りのメモ帳が収められている。 私の足裏が絨毯を踏みしめるたび、くぐもった摩擦音が静寂の中に落ちる。 薬の作用は、まだ身体に残っていた。 一歩ごとに太ももが強張り、こめかみの奥で頭痛が脈打つ。喉は乾き、呼吸を深くできない。 視界の端は時折白く明滅し、廊下の絵画の額縁がぐにゃりと歪んで見える。 考えは時々途切れた。それでも、透の名だけは見失わなかった。 ポケットの中のスマートフォン。 ひやりとした金属の板は、通信回線こそ絶たれているものの、液晶の奥にあのメッセージをひっそり残したままだ。 ――今夜、本邸の奥には絶対に来るな。僕が終わらせる。『来るな』の意味を考えるのは、あとでいい。 おとなしく逃げろ。 お前を呪いから守るために、自分がすべての泥を被って美津子と刺し違える。 そんな、透の不器用で、身を削るような自己犠牲の筋書きに、私が黙って従うはずがない。 前世の会議室で、私は誰にも守られなかった。誰にも前後の流れを理解してもらえず、ただ都合の良い生贄として切り捨てられた。 だからこそ、今の私にはわかる。 透がやろうとしていることは、私を救うためのものではない。彼自身がこれ以上、大切な誰かが自分のそばで壊れていく恐怖に耐えられないから、私を強制的に安全な外側へ排除し、自分一人で傷を負って決着をつけようとしているのだ。 ただの、彼の弱さと恐怖から生まれた自己満足。 私を一人にするだけの、歪んだ保護の形。「……誰も、いないわね」 私の掠れた声が、廊下のひやりとした空気に低く響いた。 黒瀬の肩が、微かに強張る。 そう。 普段なら、この広い廊下の角や、扉の脇に、影のように等間隔で控えているはずの使用人たちの姿が、どこにもなかった
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第173話 本邸には来るな②

 廊下を進むにつれ、空調の乾燥した冷気の中に、異質な空気がじわじわと混ざり合い始めた。 ねっとりとした、高い湿度。 植物の青臭い匂い。 それから、脳の芯を麻痺させるような、あの白灰蘭の甘すぎる香りが、廊下の壁から滲み出してくるように充満していく。 西翼の最深部。 中庭の温室へと続く、ガラス扉の前に辿り着いた。 ガラスの向こう側は、冬の深い夜の闇に沈んでいる。だが、温室の内部だけは、月明かりを透過したような、奇妙に青白い燐光に満ちていた。 黒瀬がゆっくり手を伸ばし、ガラス扉の真鍮のラッチを外す。 カチャリ、という鋭い金属音が、静寂の廊下に響き渡った。 扉が開かれた瞬間。 温室の中に満ちていた、真夏のような猛烈な熱気と湿気が、暴力的な圧力となって私の顔を撫でた。 喉が一瞬で塞がれそうになる。 噎せ返りそうな土の匂いと、白灰蘭の香りが、肺の奥を侵食していく。「……凛花お嬢様。私はここまでです」 黒瀬は温室の敷居の手前で足を止め、深く頭を下げた。 彼の手は、ズボンの脇で固く握りしめられている。「私の職務は、お嬢様をこの場所へご案内することまで。ここから先は、私の記録の手の届かない領域でございます」 黒瀬は敷居を越えなかった。私は、それ以上を求めなかった。「十分よ、黒瀬さん」 私は彼を一瞥することなく、温室の湿った空気の中へと、一歩、足を踏み入れた。「ここから先は、私が私の名前で、私の記録を残すわ」 パンプスの底が、柔らかく湿った土を踏みしめる。 扉が背後で閉まり、外界のノイズが遮断された。 シューッ、という自動散水装置のかすかな水音が、植物の巨大な葉を叩く湿った衝突音となって耳を支配する。 私は鬱蒼と絡み合うツタとヤシ科の植物が作る緑の壁へと向かって、重い足取りを引きずりながら進んだ。 葉の表面についた結露が、私の剥き出しの手首に触れ、ひどく冷たい水滴となって伝い落ちる。 薄暗い。 けれど、その緑の壁の奥。 か
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第174話 本邸には来るな③

 透の叫びが、温室のガラス屋根に反響する。「それなのに、母さんは、僕が恐怖で動けなかったせいで理沙が死んだと……そう言って、僕を何年間も騙し続けた!」「あら、理沙さんは死んだわよ。あの子はとてもお心が弱かったから、階段から落ちて亡くなられたの。何が違うというの?」 美津子はそっと一輪の白い花びらに真っ白な指先を触れ、愛おしそうに撫でた。「あの子はね、あなたの重荷だったのよ。あなたが天野家を継ぐために、余計な『病気』を持ち込む存在。だから、わたくしが排除してあげたの。あなたがこれ以上、傷つかないように」「遠ざけた……?」 透の顔から、さぁっと血の気が引いていく。「お前が動かなかったからよ、透」 美津子の声が、甘いシロップのような温度を保ったまま、決定的なナイフとなって透の胸元に突き刺さった。「あの日、お前が離れに逃げ込まなければ。お前が臆病で、外からかけられた『しつけの鍵』の前で泣き叫んでいなければ、火事なんて起きなかったのよ。理沙さんが煙を吸うことも、お前がその醜い傷跡を一生背負うこともなかった」 透の身体が物理的な打撃を受けたように激しくよろめいた。 彼の左手が自分の火傷の痕を、痛みを堪えるように強く握りしめる。「お前が近づく人は、みんな不幸になる。……それは事実よ、透。お前が弱くて、臆病だから。今回の、あの水科の娘もそう。お前が彼女に余計な同情をして、逃がそうと動いたから、彼女は今、あのお部屋で息ができなくなっているのよ」 美津子はゆっくり透に顔を近づけた。 強烈なジャスミンの香水が、温室の湿気と混ざり合って、透の気道を塞ぎにかかる。「あの子はもう終わりよ。自分で、お薬をすべて飲み干してしまったもの。……お前が彼女をこのお屋敷に連れてきたから、彼女は壊されたの。お前のその『呪い』が、また人を殺したのよ、透」「違う……!」 透の喉から、かすれた否定が漏れた。 透の左手が、火傷の痕を強く掴んだ。「違
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第175話 本邸には来るな④

「なぜ……なぜここにいる! 帰れと、本邸には来るなと言ったはずだ!」 透が、激しい焦燥とともに私に向かって叫んだ。「僕は……僕は君を逃がすために、母さんと……! ここに君がいたら、本当に母さんに壊される!」 彼は私を自分の背後に隠そうとするように、半歩前に出ようとした。 その彼の動きを、私は一ミリも動かない乾いた視線で制止した。「壊されません」 私は彼に向かって、一歩、歩みを進めた。 大理石の床を踏みしめるように、土の感触を確かめながら。「美津子様が用意した『お薬』なら、すべて飲みました。足も舌も、まだ思うようには動きません。……それでも、誰の言葉に従うかくらいは、自分で決められます」 美津子の微笑みが、消え失せた。 彼女の瞳に、初めて、自分の手入れから外れたものを見るような嫌悪と警戒が浮かんだ。「透さん。あなたの言ったことは、すべてただの自己満足です」 私は透の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。「あなたが一人で母と刺し違えて、私が安全な場所で息をしていれば、それで解決すると思っているの? ……冗談じゃないわ。勝手に守られて、勝手に置いていかれるのは、もうたくさん」「凛花、君は何もわかっていない! 母さんは、僕の近くにいる人間を……!」「わかっています!」 私は彼の言葉を遮った。「理沙さんを死に追いやったのも、二人目の花嫁を窓辺へ追い込んだのも、あなたの『呪い』なんかじゃない。……すべて、美津子様が自分の支配を守るために作った、冷たい仕組みです」 温室の空気が、その一言を受け止めた。 美津子のルビーのネックレスが、月光を反射して、小さく揺れた。「そして、私の命は私のものです。あなたが背負うべき罪でも、あなたが自分の身を削って守るべき『か弱い小鳥』でもない」 私は透の目の前まで近づき、彼の、あの引き攣れた火傷の痕がある右腕
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第176話 呪いの正体①

 チャリ、という硬い金属音が、温室の湿った空気に響いた。 美津子が差し込んだ真鍮の鍵が回り、焼け焦げた木製の扉が、キイッという蝶番の音を上げて内側へと開かれる。 そのとき。 温室のむせ返るような熱帯の空気の中に、まったく異質な匂いが流れ込んできた。 乾燥した、ひどく古い灰の匂い。 それから、何十年も光と風から遮断されていた空間特有の、カビと澱んだ土の冷たい気配。 扉の向こう側は、暗闇だった。 けれど、月明かりがわずかにその奥を照らし出すと、そこには焼け落ちた梁や、炭化した家具の残骸が、当時のままの姿で、当時の時間を閉じ込めたように残されているのが見えた。「……十数年前の、あの日」 美津子は開かれた暗闇の前に立ち、ふうっと甘い吐息を漏らした。 彼女の横顔は、古い記憶を確かめるような、静かな陶酔を帯びていた。「ここは、お前が一番可愛らしかった場所よ。透」 透の右手が私の手を握ったまま小さく震え始めた。 彼の呼吸が浅く乱れる。「……あんただったのか」 透の喉から、低く掠れた声が絞り出された。「消防と警察の、現場見分調書を見た。……あの扉には、温室側から新しい南京錠がかけられていたと。そして出火の直前、あんたが南京錠を持って温室から戻ってくるのを見た人間がいる」 透はそこで一度、息を吸い直した。 彼の声はまだ震えていたが、その震えは、母に許しを請う子どものものではなかった。凛花が送った記録を、何度も読み返し、自分の記憶と照合し、ようやく言葉にした人間の震えだった。「通報時刻も、僕が病院に運ばれた時刻も、全部見た。……火が出てから、通報まで二十分以上空白がある。屋敷の人間なら、温室の煙に気づかないはずがない」 彼は右腕の火傷痕を美津子の目の前に晒したまま、なおも続けた。「理沙の搬送記録もあった。彼女はその火事で死んでいない。煙を吸って倒れたが、数日後には退院している。なのにあなたは、僕に『理沙はあんな目に遭った』
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第177話 呪いの正体②

 美津子の目が、冷たく細められた。「理沙は……生きていた!」 透が、奥歯を噛み締めて言った。「あの火事では、誰も死んでいなかった。理沙は煙を吸っただけで、命に別状はなかった。……あんたが僕に、嘘をついたんだ!」「嘘ではないわ」 美津子は悪びれる様子もなく、甘く優しい声で肯定した。「お前が動かなかったせいで、理沙さんは煙を吸って倒れたのよ。お前が臆病だから、理沙さんはあんな目に遭ったの。……そう教えてあげたら、お前は本当に従順な、良い子になったわね」「洗脳……したのか。僕を」「そうしなければ、お前は一生わたくしのそばにいると誓わなかったでしょう? お前の心に『罪悪感』という鎖を打ち込むために、必要なことだったのよ」 透の肩が、大きく波打っている。 彼の色の薄い瞳から、涙が溢れ出し、頬を伝って顎から温室の土へと落ちていく。 透は涙を拭わなかった。「……理沙を、二年前に階段から突き落としたのも、あんたか。二人目の婚約者も」「殺しただなんて、人聞きの悪い」 美津子は足元の白灰蘭に視線を落とし、煤で汚れた花びらを指先で払った。「理沙さんは、天野の資金の流れに気づき、お前の心を乱そうとした。二人目のお嬢様は、お前のその火傷の痕に同情して、わたくしとあなたの間に入り込もうとした。……彼女たちは、お前には重すぎたのよ。だから、乱れた枝を払うように、わたくしが遠ざけてあげたの」 美津子の指が、白灰蘭の花びらを一枚、爪で折った。 落ちた花びらは、湿った土の上で白く汚れた。透の手は私の手の中で、まだ冷たく震えていた。「……透さん」 私は震える彼の手を、両手でしっかりと握りしめた。 彼の指の冷たさを確かめ、私は親指をその甲へ重ねた。「聞いて。あなたは、誰も殺してなんかいない」 私の声は、温室の湿った空気の中で、はっきりとした輪郭を持
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第178話 呪いの正体③

 母さん、ではなかった。「僕はもう、お前の人形にはならない。……お前の作ったこの腐った箱庭ごと、全部を終わらせる」 透は一度、温室の入り口の方へ視線を走らせた。 入口の向こうには黒瀬がいる。その胸ポケットには凛花の手帳があり、屋敷のどこかには千尋の証言が残っている。 透の視線は入口から黒瀬の胸ポケットへ移り、屋敷のどこかに残る千尋の証言を確かめるように廊下の奥で止まった。それから私の顔へ戻り、三つの名前を数えるように唇が一度だけ動いた。「黒瀬も、千尋も、凛花も……あなたの駒じゃない。僕の罪悪感を支えるための道具でもない」 最後の『凛花』だけ声がわずかに掠れ、私を握る指に力が戻った。「もう誰にも、あなたの筋書きの中で死なせない」 美津子の顔から、完璧な微笑みが消えた。 美津子の指が、白灰蘭の茎を一本折った。折れた断面から透明な汁が滲み、白い花が彼女の靴先へ倒れた。それでも美津子は花を見ず、透だけを見ていた。「……そう。本当に、残念だわ、透」 美津子の声が、低く、冷たく響く。「お前も、あの方たちと同じように、余計なものに心を乱されてしまったのね。わたくしの愛がわからないなんて……。このままでは、わたくしの望む天野の当主にはなれないわ」 彼女の目が、透から私へと、鋭く突き刺さるように移動した。「すべては、このお嬢さんが来てからよ。お前が透の心を乱し、わたくしの整えたお庭に影を落とした。……お前さえいなければ、透はまた、わたくしの腕の中で泣く従順な息子に戻るのに」 美津子はゆっくり焼け焦げた扉の枠から手を離し、温室の奥の暗がりへと手を伸ばした。 そこには、庭師が使うための農薬か、あるいは燃料の入ったポリタンクが置かれているのが見えた。「あなたには、もう少し静かに退いていただくつもりだったけれど。……予定を変更するわ。お前たちは今夜、この温室で、不慮の『火災』に巻き込まれて死ぬのよ」 私の心臓
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第179話 あなたの不幸にならない①

 ドボッ、ドボッと、ポリタンクから透明な液体が吐き出される音が、温室の静けさを壊した。 美津子は白いショールが汚れるのも構わず、焼け焦げた柱の根元と白灰蘭の土へ液体を撒いていく。湿った植物の匂いを押しのけて、鼻の奥を刺す揮発臭が広がった。 ガソリンだった。 足元の土だけではない。美津子は柱と古い木枠にも液体をかけている。火がつけば、出口まで数秒で燃え広がる配置だった。 温室の入口は私たちの斜め後ろにある。走れば届く距離だが、美津子の手元には銀色のライターが見えた。背を向けた瞬間に火をつけられれば、炎の進む方向を見失う。 私は息を浅くした。刺激臭で喉がひりつく。まだ燃えていないのに、空気そのものが危険なものへ変わっていた。「母さん、やめろ!」 透の声が震えた。捲れた袖の下で、右腕の古い火傷痕が引きつるように痙攣している。匂いだけで、彼の身体は十数年前の炎へ連れ戻されていた。 透が半歩下がる。私は離れかけた左手を、両手で掴んだ。「透さん。私を見て」 呼びかけても、焦点がすぐには戻らない。私は彼の手を握ったまま、自分の足で土を踏みしめた。「今は、あの日じゃありません。あなたの隣に、私がいます」 透の喉が鳴った。荒い呼吸を二度繰り返し、ようやく私の顔を見る。「……凛花」「はい。ここにいます」 それだけで十分だった。右腕の震えは消えなかったが、彼はもう後ろへ下がらなかった。 透は自分の手を確かめるように一度握り返した。震えを止めたのではない。震えたまま、ここに立つことを選んだのだ。「出口は分かるか」 小声で問われ、私は目だけで頷いた。美津子を刺激せず、いつでも走れるように、二人の身体の向きを少しずつ入口側へ変える。 その動きを、美津子は見逃していたわけではなかった。むしろ、逃げようとする子どもを眺めるように楽しんでいる。 美津子は空になったポリタンクを放り出し、私たちの手を見て笑った。「本当にお気の毒。透は、わたくしが傷一つつかないように育てたのよ。それなのに、お前が来てから、言うことを聞かなく
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第180話 あなたの不幸にならない②

「私が来る前から、透さんは苦しんでいました」 私は美津子を見たまま言った。「あなたの前で息をすることも、誰かを大切に思うことも、怖がっていた。私が壊したのではありません」 美津子の微笑みが止まる。「お前に何が分かるの」 美津子の声は怒鳴り声ではなかった。けれど、それまでの優雅さが薄れ、長く隠していた苛立ちが表へ出ていた。 私を睨む目の奥にあるのは、息子を奪われる悲しみより、自分の説明が通じないことへの困惑だった。「全部は分かりません。親子の時間を、外から来た私が分かったふりをするつもりもない」 言葉を切り、隣の透を見上げた。「でも、透さんが今、誰の手を取るかは、あなたが決めることではないわ」 私は握っていた手に力を込めた。「私は、この人の不幸になりません。あなたがそういう名前をつけても、なってあげない」 言い切った途端、胸の奥で何かがほどけた。透を救えると約束したわけではない。彼が苦しむ未来を全部防げるとも思っていない。 ただ、私の存在を不幸と呼ぶ権利を、美津子へ渡さない。その一点だけは、自分で決められた。 透が、私の手を握り返した。「母さん。僕も、もうあなたのために孤独ではいない」 声はまだ掠れていたが、逃げなかった。「誰にも近づかず、誰も信じず、あなたの言う通りにしていれば安全だと思っていた。でも、それは生きていることじゃなかった」 美津子の目が細くなる。「わたくしは、お前を守ったのよ」「守るなら、僕が何を怖がっているかを聞くはずだ。誰といたいかも。あなたは一度も聞かなかった」 透の声は途中で掠れた。母へ反論する言葉を、幼い頃から何度も飲み込んできたのだろう。今も身体のどこかでは、口を閉じろという命令を待っている。 それでも彼は、私の手を離さなかった。「僕が嫌だと言っても、あなたはいつも、僕のためだと答えた。僕の返事は、最初から必要なかった」 透の言葉に、美津子の指がショールの端を掴んだ。「聞く必要なんてなかったわ。わたくしには分かっていたもの」「何
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