Alle Kapitel von 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Kapitel 191 – Kapitel 200

208 Kapitel

第191話 それでも、生きていてよかった①

 けたたましいサイレンの音が、冬の冷たい夜空を切り裂き、赤と青の強烈な警告灯が、コンクリートの搬入口の壁を激しく明滅させていた。 酸素マスクのゴムの匂いが、鼻腔をきつく覆う。 ストレッチャーに乗せられ、救急車へと運び込まれる振動の中、私はひどく重い泥の底へ沈んでいくような感覚に抗いながら、右手に残る確かな熱だけを必死に握りしめていた。 透の、煤と血に塗れた手。 救急隊員が彼を引き離そうとする気配があったが、彼は私の指に自分の指を強く絡ませ、絶対に離そうとはしなかった。「……いる。僕は、ここにいる」 かすれた、煙に焼かれた彼の声が、私の鼓膜を震わせる。 その声の響きと、手のひらから伝わる規則的な心臓の鼓動だけを道標にして、私はようやく、完全な暗闇へと意識を手放した。 次に目を開けた時、視界を埋め尽くしたのは、染み一つない純白の天井だった。 ツンとした消毒液の匂いと、一定のリズムで稼働する加湿器のかすかなモーター音。 首をゆっくり右へ巡らせると、分厚いガラス窓の向こうに、雲一つない冬の澄み切った青空が広がっている。 天野家の、あの息の詰まるような分厚い遮光カーテンはない。 私は清潔で冷ややかなシーツの中で、ゆっくり肺に空気を吸い込んだ。気管の奥にまだかすかな痛みが残っていたが、酸素は確実に私の身体の隅々にまで行き渡った。 生きていた。 ベッドの脇のキャビネットに、見覚えのないタブレット端末が置かれていた。 私が身じろぎした音を聞きつけて病室に入ってきた看護師が、点滴の数値を書き込みながら「面会にいらした方からのお預かり物です」と教えてくれた。 グレーのヨレたスーツを着た、タバコの匂いのする男性。 佐伯律だ。 私はベッドの背もたれを少し上げ、左手でそのタブレットを引き寄せた。 電源を入れると、ロックはかかっておらず、すぐにブラウザの画面が立ち上がった。 画面いっぱいに並んでいるのは、日本中の主要なニュースサイトと、週刊誌の電子版の見出しの羅列だった。『名門・天野グループの闇。ペーパーカンパニ
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第192話 それでも、生きていてよかった②

 この『前後の流れ』と『共犯の構造』をロックした記録の束は、誰にも切り取られることなく、言い逃れのできない事実として社会の至る所に着弾し、炎上していた。 記事の後半には、さらに決定的な追撃が記されていた。 告発データが拡散された翌朝、警察の捜査の手が天野本邸に入った。 その際、天野家の執事である黒瀬誠司が、自ら警察に歩み寄り、『西翼・入室記録』の原本と、自身が長年書き溜めてきた黒革の手帳を提出したのだという。 彼は自分が記録の改ざんに加担していた罪を被ることを承知の上で、美津子が人を追い詰める手順を、細部まで証言した。 さらに、専属侍女であった小坂千尋も、解雇される恐怖を乗り越え、理沙が転落した夜の物音と、二人目の花嫁に飲まされていた『錆びた鉄の匂いのするお茶』について、警察に証言を行ったと書かれている。 内部の人間たちが、沈黙を破り、記録を繋いだのだ。 記事の片隅には、佐伯の署名入りの短い追記があった。『本件の資料は、単独の暴露ではなく、複数の内部証言と外部記録の照合により成立している。記者は当初、水科凛花氏を情報源として利用するつもりで接触した。しかし、彼女が求めたのは自分だけの救済ではなく、前後の流れを削られた死者たちの声を、再び記録の中へ戻すことだった』 あの男らしい、少し乱暴で、けれど逃げない文章だった。 画面の下には、病院の受付に届いたという小さな伝言も転送されていた。『小坂千尋様より。お嬢様が目を覚まされたら、どうかお伝えください。私はもう黙っていません、と』 みぞおちが、熱く痛んだ。 彼女はまだ怯えているだろう。職を失い、住む場所を失い、天野家の名に守られない世界へ放り出される。それでも、彼女は自分の声を選んだのだ。 私の指先が画面の下へと進む。 水科ホールディングスの名が、大きく太字で踊っていた。 天野家の資金洗浄の隠れ蓑として機能していた水科家。警察の強制捜査に対し、継母である佳乃が、密かに離れの蔵に隠し持っていた『古い帳簿の原本』を自ら提出した。 その決定的な物証により、私の父・惣一郎は、資金洗浄と脱税の共犯として逮捕され、現在取り調べを
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第193話 それでも、生きていてよかった③

 家のために黙って消費される生贄になることを、私は自分の意志で拒絶した。私の命の値段は、もう誰の借金とも結びついていない。 画面の隅には、温室火災の被害状況が記されていた。美津子は崩落したガラス屋根と鉄骨の下から救助され、重度の気道熱傷と一酸化炭素中毒で意識不明のままだという。 彼女が目を覚ましたとしても、完璧だと信じた箱庭はもうない。天野グループの役員たちも、不正への関与を問われ、次々と聴取を受けていた。 私はタブレットを置き、息を吐いた。 コン、コン。 病室のドアが二度叩かれ、天野透が顔を見せた。 隙のないスリーピースではなく、無地のニットと黒いスラックス。首筋から頬、右腕には新しい包帯が巻かれている。「入ってもいいか」「どうぞ」 透はパイプ椅子を引き寄せたが、すぐには座らなかった。「凛花。先に、謝らせてくれ」 私は黙って彼を見た。「君を逃がそうとした時、邪魔だと言った。君が何を望んでいるか分かっていたのに、聞く時間がないと切り捨てた」 包帯のない左手が、椅子の背を強く掴む。「守りたかったのは本当だ。でも、だから傷つけていいわけじゃない。僕は安全という言葉で、君の返事を消そうとした。母と同じことをした」「傷つきました」 私は曖昧に笑わず、そのまま答えた。 透の喉が動く。「理由が分かっても、言われたことがなくなるわけではありません」 あの朝、路上で「邪魔だ」と言われた時の冷たさは、今も胸のどこかに残っている。彼の手が震えていたことも、嘘だと分かっていたことも、その痛みを相殺はしなかった。 理解できることと、許せることは別だ。私はその二つを、今度こそ曖昧にしたくなかった。「分かっている。許してくれとは言わない。ただ、二度と勝手に君の答えを決めない。そう約束したい」「約束だけでは信用しません」「……そうだな」「信用は、これからの行動で決めます」「それでいい」 透は即座に答えた。待つ覚悟だけは、言葉より先にできているようだった。
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第194話 それでも、生きていてよかった④

 透はその問いを投げた後、自分の右腕を見下ろした。 包帯の端から覗く火傷痕は、消毒液に濡れて、普段よりも生々しい赤を帯びている。彼は一度だけ唇を噛み、それでも布の下へ隠そうとはしなかった。 私もまた、左手の甲に残った小さな火傷の痕を見た。白い皮膚の上に、淡い赤い線が斜めに走っている。痛みはもう鈍い。だが、その線は、あの炎の中で私が確かに透の手を掴んだ証だった。「記録は、残せたわ」 私はぽつりと言った。「でも、それだけなら、私はあの温室で死んでもよかったことになる。データだけが外へ出れば、私の役目は終わるって」 透の顔が、苦しげに歪む。「違う」「ええ。違うの」 私は彼の言葉を受け取って頷いた。「私は記録だけを残して消えたいわけじゃなかった。生きて、自分の声で、これは私が見たことだと証言したかった。過去の人たちの声を残すためにも、私自身が消えないことが必要だった」 透の視線が、再び私へと戻ってくる。 透は私の返事を待った。「僕があれほど君を遠ざけようとして、君を逃がすために封筒まで突きつけたのに。君はそれを拒絶して、わざわざ死の危険がある本邸に戻り、僕の手を引いて炎の中を走った。……そこまでして、この痛みを抱えた世界で、なぜ生きようとした」 私は彼の腕から手を離し、自分の膝の上で両手を重ねた。 あの時の私は声が誰にも届かない絶望に疲れ果て、ただ波風の立たない静けさだけを求めて虚空へ足を踏み出した。 その結果、言葉を持たない赤ん坊として、誰にも一人の人間として認識されないまま、短い命を散らした。 あの暗闇の中で、私が最後に感じた、肺を焼き尽くすような強烈な渇望。「生きていたかったからよ。……それだけなら、あなたのところへ戻る理由には足りないけれど」 私は透の目を真っ直ぐに見据えて、はっきりと答えた。「静かに消えてなくなるなんて、もう二度と嫌だと思った。……理不尽で、痛くて、うるさくて、誰かの悪意に傷つけられるような世界でも。それでも、私は自分の言葉
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第195話 それでも、生きていてよかった⑤

 透の左手が伸び、膝の上に重ねていた私の手を包んだ。「……そうか」 彼は掠れた声で呟き、私の手へ額を押し当てた。しばらくして顔を上げると、目元が赤かった。「僕も、君と生きたい」 言葉を探すように、途中で一度息を止める。「遠くへやるのではなくて。怖くても、間違えても、隣にいる方を選びたい」「また、勝手に決めてしまうかもしれない」「その時は怒ります」「……頼む。遠慮なく止めてくれ」「止めても聞かなかったら?」 透は少し考えた。「その時は、もっと怒ってくれ」「怒るだけで済まないかもしれません」「何をされる」「少なくとも、勝手に用意した航空券は破ります」 透は返事に詰まり、やがて小さく頷いた。「あれは、もうしない」「お金で解決しようとするのもです」「……努力する」「そこは、やめると言い切ってください」「やめる」 今度は迷わなかった。「当然です」 あまりに真面目に答えるので、私は笑った。透も遅れて、目元だけを緩めた。 窓の外では、冬の雲がゆっくり流れていた。 窓の外で雲が動くあいだ、私たちは手を重ねたまま、次に聞くべき言葉を急がなかった。 透の手は温かかった。以前なら、その温度に意味をつけ、彼が本当は何を考えているのかを読み解こうとしただろう。 今は、分からないことは聞けばいいと思えた。聞いても答えない時は、答えるまで待つか、怒ればいい。それは記録や証拠より曖昧で、だからこそ人と生きる方法なのだと思う。 窓から入る冬の光が、重なった手を照らしていた。 退院の日取りが決まったのは、それから三日後の午後だった。 病室の窓の外では、冬の雲が流れている。ベッド脇の小さなテーブルには、看護師が置いた常温の水と、退院手続きの書類が揃っていた。 私は枕元の引き出しから革張りのメモ帳を取り出した。 火災の夜、黒瀬が守り抜き、警
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第196話 それでも、生きていてよかった⑥

「書かないと、不安になるの」 私は正直に答えた。「書いておかないと、また誰かに違う形で覚えられてしまう気がする。私が何を見て、何を感じて、何を選んだのか。残しておかないと、消えてしまう気がするの」 透はすぐには返事をしなかった。 包帯の巻かれた右腕を膝の上に置き、ゆっくり息を吐く。窓から差し込む光が、彼の火傷の痕を覆う白い布を淡く照らしていた。「消えない。……少なくとも、僕が勝手に消さない」 やがて彼は低く言った。「君の声は、僕の中に残っている」 顔を上げると、透はまっすぐ私を見ていた。「君があの温室で何を言ったか。僕の手をどう掴んだか。僕がまた一人で残ろうとした時、君がどんな声で怒ったか。僕は覚えている」 肋骨の内側が、痛いほど静かに震えた。「でも、人の記憶は曖昧よ」「そうだな。だから、君が疑うのは間違っていない」 透は小さく頷いた。「だから、記録は必要だ。君が書くことも、僕が覚えていることも。どちらか一つで足りるとは思わない。……ただ」 彼は言葉を少し探し、それから不器用に続けた。「今は、君一人で全部を紙に背負わせなくてもいい。君が忘れそうになったら、僕が言う。僕が逃げそうになったら、君が怒る。そうやって、二人で前後をつなぎ直していけばいい」「あなたも、残してくれるの? 私一人のためじゃなくて、あなた自身の言葉で」「僕の言葉でよければ」 透は困ったように、口元だけで笑った。「うまくは書けないかもしれない。けれど、君が一人で証明し続けなくてもいいように、僕も覚えて、必要なら書く」 私はメモ帳へ視線を落とした。 誰かと同じ出来事を、同じ温度で確かめ合うためにも使えるのだ。 私は書きかけの行の続きを、ゆっくり書いた。『透さんと話す。記録は残す。けれど、私は記録だけに生きるのではない。生きて、話して、確かめ続ける』 ペン先を紙から離す。 その一行を読み返してから、私はメモ帳をそっと閉じた。 
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第197話 春の先まで①

 匂いがない。  温度もない。  視界の果てまで、ただ果てしない白だけが無限に広がる空間。  私は自分の足の裏が何を捉えているのかもわからないまま、その完全な静寂の中に立っていた。  あの時と同じだ。  非常階段の冷たい手すりを乗り越え、風の轟音の後に全身を包み込んだ、あの生温かくひどく粘度の高い泥のような暗闇を抜けた先。  自分が誰なのか、なぜここにいるのかすら曖昧になる、意識の漂白。  だが、今の私はあの時とは違う。  私のみぞおちのあたりには、ドクン、ドクンと規則正しく血液を送り出す心臓の鼓動が、確かな重さを持って存在していた。  視界の少し先に、小さな影が浮かび上がった。  ゆらゆらと、ひどく頼りなく揺れる、皺だらけの赤い手。  声を持たず、自分の痛みを訴える言葉の代わりに、ただ不快なノイズとしての泣き声を上げるしかできなかった、あの短い二度目の生の肉体。  酸えたアルコールの匂いと、安い煙草の煙に塗れた部屋で。  誰の耳にも届かない悲鳴を上げながら、車のダッシュボードに頭を打ちつけて呆気なく消えた、あの名もなき赤ん坊。  私はゆっくり足を踏み出し、その頼りなく揺れる小さな赤い手に向かって、自分の右手を伸ばした。  指先が空中でそっと触れ合う。  温度はなかった。それでも、小さな指は消えずにそこにあった。 「……大丈夫よ」  私は白濁した空間に、自分自身の声帯を震わせた音を響かせた。  誰かに切り取られることも、ノイズとして消費されることもない、私だけの真っ直ぐな言葉。 「私は今、私の声で息をしているわ」  小さな赤い手が微かにピクリと動いた気がした。  非常階段の風と、赤ん坊の泣き声が、一度に胸へ戻ってきた。  その結果、言葉を持てない命の理不尽さを、骨の髄まで味わうことになった。  生まれた場所が違うだけで、声を持たないだけで、いとも簡単にゴミのように踏み潰されていく命があること。  その痛みを知っているからこそ、私は現世で、天野美津子が用意した「言葉を奪い、精神を殺す箱庭」の中で、決して自分の輪郭を手
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第198話 春の先まで②

 朝の、ひどく冷たくて、けれど新しい季節の気配を含んだ風の匂い。  私は溶けていく光を見送りながら、深く、静かに息を吸い込んだ。  ウィーン……。  遠くで、コーヒー豆を挽く電動ミルの低いモーター音が聞こえた。  ゆっくりまぶたを持ち上げる。  視界の端から、柔らかい春の朝の光が、アイボリー色のコットンのカーテンを透かして部屋の中に滑り込んできている。  天野本邸の、あの分厚く重い遮光カーテンはもうない。  肌に触れるシーツも、冷たくなった高級なシルクではなく、柔軟剤の匂いがする、洗い立ての麻の感触だった。  私はベッドの中で小さく身をよじり、深く息を吐き出した。  肺の奥に、焙煎されたコーヒーの香ばしい匂いと、フライパンでバターがかすかに焦げる匂いが流れ込んでくる。  生きていた。  私はシーツを押し除け、ベッドサイドに置かれたカーディガンを羽織って立ち上がった。  フローリングの床を素足で踏む。  あのペルシャ絨毯のように、自分の足音を吸い込んでしまう無気味な浮遊感はない。ペタ、ペタと、自分の体重が床板に伝わる微かな音が、私の耳に確かに届く。  寝室のドアを開け、リビングダイニングへと続く短い廊下を歩く。  ここは、都心から少し離れた、緑の多い住宅街にあるマンションの一室だ。  広さは、天野本邸の私室一つ分にも満たない。  キッチンから、コーヒーミルの音とフライパンを置く音が聞こえた。  キッチンのカウンターの向こう側。  天野透が、洗いざらしの白いシャツにグレーのスウェットパンツというラフな姿で、コーヒーのドリップポットを傾けていた。  彼が細いお湯の線をフィルターに落とすたびに、コーヒー粉がふっくらと膨らみ、白い湯気とともに濃厚な香りが立ち昇る。  彼の手元に視線を落とす。  捲り上げられたシャツの袖から伸びる、右腕。  肘から手首にかけての、赤黒く爛れ、ケロイド状に引きつれたあの古い火傷の痕。  彼はもう、その傷を隠そうとはしていなかった。  包帯を巻くこともなく、春の朝の光の下に堂々と晒したまま、左手で
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第199話 春の先まで③

 水科家もまた、資金洗浄の共犯として父が逮捕され、家名も資産も何もかも消滅した。佳乃が私に帳簿を託してくれたおかげで、隠蔽の全貌を暴くことはできたが、彼女自身も厳しい取り調べを受けた後、今は遠方の親戚の元でひっそりと暮らしている。  私たちの手元に、天野本邸も水科の家も残らなかった。  私はコーヒーを一口飲み、ダイニングテーブルの方へ歩み寄った。  そこには、朝食のトーストの皿と、何十枚もの書類の束が、同じテーブルの上で微妙な緊張関係を保っていた。  透は几帳面に書類の角を揃えようとしているのに、自分の袖口にジャムがついていることには気づいていない。 「透さん、袖」 「袖?」 「赤ペンではなく、苺ジャムです」  彼は一瞬、世界の重要な前提が崩れたような顔をした。 「……気をつけていた」 「気をつけていても、つく時はつきます。人間なので」  そう言って濡らした布巾を渡すと、透はばつが悪そうに受け取った。こういう時の彼は、冷酷御曹司というより、失敗を報告する小学生に近い。  私が引き寄せた一番上の書類のタイトルには、『一般財団法人・児童支援基金 設立趣意書案』と印字されている。  その書類の右下には、まだ空白の署名欄があった。  設立発起人代表。  肩書きとしては、いくらでも別の呼ばれ方があった。旧天野家関係者。水科家元令嬢。事件の被害者。告発者。どれも間違いではないし、世間はきっとそのどれかで私を呼ぶだろう。  けれど、私はボールペンの先を紙に置き、ゆっくり自分の名前を書いた。  水科凛花。  隣で、透も自分の名前を書き込む。  天野透。  その筆跡は、婚約契約書で見た時のように冷たく整いすぎてはいなかった。線はかすかに揺れ、けれど最後の払いには、逃げない人間の確かな力があった。  二つの名前が並んだ紙面を見下ろしながら、私はふと、あの婚約契約書を思い出した。  あの日、私の名前は、死んでも誰も困らないようにするための準備として置かれた。  今、同じ名前は、声を持てない誰かの生を少しでも拾い上げるための、最初の線としてここにある。
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第200話 春の先まで④

 透が、フライパンからスクランブルエッグを皿に移しながら答える。  皿の上に落ちた卵は、形だけならかなり自由だった。 「……これは、スクランブルエッグで合っていますか」 「合っている。たぶん」 「たぶん」 「料理本の写真とは、少し方向性が違うだけだ」  その言い訳があまりにも真面目だったので、私はフォークを持ったまま笑ってしまった。  私たちが今、全部を失った後に手元に残されたわずかな個人資産と、黒瀬たち元使用人らの協力を得て立ち上げようとしているもの。  それが、この児童支援基金だった。  テーブルの端には、何通もの封筒が重ねられている。  一つは、黒瀬から届いたものだ。彼は今、捜査に全面協力しながら、司法取引に近い形で証言を続けている。手紙には、硬く整いすぎた字でこうあった。 『私は罰を免れたいとは思いません。今後は記録を削る側ではなく、残す側として働きたいと願っています』  もう一つは、千尋からのものだった。  彼女は天野家を離れ、遠方の小さなホテルで住み込みの仕事を始めたらしい。便箋の端には、慣れない手つきで描かれた小さな白い花があった。 『私はまだ怖いです。でも、怖いままでも、言葉にしていいのだと、お嬢様に教えていただきました』  それから、佐伯から届いたメモには、相変わらず乱暴な字で、こう書かれていた。 『基金の記者発表をやるなら、余計な美談にはするな。あんたが嫌うだろうからな。必要なら、言葉の前と後ろを勝手に削られないよう見張ってやる』  私はその文字を見て、口元だけで笑った。  佳乃からは、返事のいらない葉書が届いていた。  遠方の小さな町の消印。宛名の字は少し震えていたけれど、本文は丁寧だった。 『帳簿を渡したことを、私は後悔していません。あなたが私を母と呼べる日が来なくても構いません。ただ、あなたが自分の足で歩いていることを、遠くから祈っています』  私はその葉書を、基金の書類と一緒に保管している。  許しも、和解も、急がなくていい。  泣き声を「うるさい」と切り捨てられ、抱き上げられることもなく、助けを呼ぶ言葉さ
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