All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 21 - Chapter 30

58 Chapters

第21話 元婚約者の言い訳

 テーブルの上で、スマートフォンが震えた。 征臣からではない。 東都経済新聞の続報通知だった。 見出しには、私の名前と、さらにひどい言葉が並んでいた。 有馬関係者「彼女は以前から婚約に不満を漏らしていた」 不満。 漏らしたことなどなかった。 むしろ、飲み込んできた。式場の席順も、莉々花のドレスも、父の命令も。 なのに、飲み込んだものまで、都合よく誰かの言葉にされる。 悠真の顔から、血の気が引いた。「違う、澪。これは有馬の誰かが勝手に」 言い終える前に、悠真は自分の言葉の薄さに気づいたようだった。勝手に、という便利な箱へ入れれば、自分は少し外に立てる。昔の彼は、もっと上手に笑ってそれをした。「私の名前を使っておいて、誰か、で済ませるんですね」 悠真は唇を噛んだ。謝りたい人の顔ではない。責められすぎない位置を探している顔だった。 画面の文字を、悠真も見ていた。 有馬関係者。 便利な言葉だ。 誰でもない顔をして、誰かの口を借りる。 白鳥家でも、有馬家でも、こういう言葉はいつも私より先に用意されていた。本人が何を言ったかより、家がどう見られるかの方が大事だった。「違う」 悠真はすぐに言った。「僕じゃない」「そうですか」「本当に。僕はそんなこと、記者に話していない」「では、有馬家のどなたかですか」 悠真は答えなかった。 沈黙が、そのまま答えだった。 私はスマートフォンを伏せた。画面を見続けると、知らない人たちの言葉で自分の輪郭が削られていく気がした。「澪、頼む。今は表に出ない方がいい。君が反論すれば、また記事になる」「ならないように、誰かが先に話したのではないですか」「家同士の話なんだ」 また、家。 白鳥家。 有馬家。 鷹宮家。 私の名前は、いつも家の後ろに置かれる。「悠真さん」 そう呼ぶと、悠真がかすかに顔を上げた。「私
last updateLast Updated : 2026-07-08
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第22話 君なら分かってくれる

 都合のいい帳簿係としてだけ、まだ信じられていることの方が、たぶん痛い。「好きではなかったことより、必要な時だけ私を呼ぶことの方が、ずっと傷つきました」 悠真の顔が歪む。 でも、それをなだめる役はもう降りた。 扉が静かに開いた。 征臣が入ってくる。私の前に立たない。悠真を睨まない。ただ、テーブルの端に一枚の書類を置いた。「有馬家広報から、東都経済新聞への情報提供履歴だ」 悠真が息を止める。 私は書類の一行目を見た。 送信者欄には、有馬家の広報担当者の名前があった。 その下に、莉々花の名前が添えられていた。「莉々花が、僕を守ろうとして」「私を踏み台にすることで?」 悠真の肩が跳ねた。かばいたい相手を間違えた顔ではなく、かばい方を間違えて損をした顔だった。「君なら分かってくれると思ったんだ。白鳥家の事情も、有馬家の立場も」「分かります。だから、もう利用されないと決めました」 莉々花の名前が、白い紙の上に細く載っていた。 送信者欄は有馬家の広報担当者。宛先は東都経済新聞の記者。添付ファイル名には、白鳥家長女、遺産持ち逃げの疑い、とある。 その下に、備考のように莉々花の名前。 備考。 人を貶める時でさえ、彼女は本文ではなく余白に入り込む。「これは……」 悠真の声がかすれた。 その先が続かない。いつものことだ。都合の悪い時、悠真の言葉から主語が消える。誰が送ったのか。誰が頼んだのか。誰が止めなかったのか。そういう部分だけ、きれいに抜け落ちる。「知らなかった、って言うんですか」 私が尋ねると、悠真は一度、征臣を見た。 助けを求める目ではない。自分がどこまで言えば許されるか、相手の温度を測っている目だった。 征臣は何も言わない。椅子の背に触れたまま、ただ書類を見下ろしている。怒っている時ほど声を出さない人なのだと、最近分かってきた。「状況が、そういう流れになっていたんだ」「状況、ですか」 声に
last updateLast Updated : 2026-07-08
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第23話 書類に添えられた名前

 征臣は私の半歩後ろで止まった。前へ出たいのが丸見えで、少し腹が立つ。けれど、そこで止まったことだけは認めたかった。 莉々花は涙を出す前に、必ず誰かの顔を見る。昔はそれを心細さだと思っていた。今は違う。あれは、誰が自分の味方になるかを数える目だ。「莉々花さんには、無理なんだ」 悠真はぽつりと言った。 謝罪でも、弁明でもなかった。愚痴に近い声だった。 すぐに返せば、また彼の言い分を受け取ったことになる気がした。私はカップの縁に指を添えたまま、黙っていた。 応接室のテーブルには、冷めた紅茶が三つ並んでいる。私のカップだけ、ほとんど減っていない。白い陶器の縁に、指を添える。熱はもう残っていなかった。「彼女は、人前で話すのは上手い。でも、書類を読めない。金の流れも追えない。白鳥家と有馬家の提携資料だって、君がいないと」「私がいないと」 悠真は、自分の言葉がどこに刺さったのか分かっていない顔をした。 婚約者として戻ってきてほしいのではない。 好きだったから惜しいのでもない。 白鳥家関連会社の財務資料を整え、有馬家との契約条件を読み、表に出ない帳尻の穴を埋める手が必要だっただけだ。 私の名前ではなく、私の仕事だけが惜しかったのだ。 あの人たちの成果として並べられてきた紙の端に、私の名前だけはなかった。 怒りが来ると思った。 でも、実際に来たのは、細い疲れだった。長い廊下を歩ききった後みたいに、足元だけが少し重い。「君なら分かってくれると思ったんだ」「分かるよ」 悠真の顔に、うっすら安堵が浮かぶ。 ひどい人だ。まだ、私がその顔を拾うと信じているような目だった。「あなたが必要だったのは、私じゃない。私が合わせた帳尻です」「そんな言い方は」「違う?」 悠真は黙った。 指輪のない左手を、膝の上で軽く握る。母の指輪を守った時の熱が、まだ皮膚の奥に残っている。「もう、白鳥家の帳尻合わせはしません。有馬家の帳簿も見ません。莉々花の嘘も、あなたの曖昧な言葉も、私の仕事じゃないんです
last updateLast Updated : 2026-07-09
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第24話 濃紺の招待状

「疲れたか」 征臣が尋ねる。 冷めた紅茶の表面に、薄い膜が張っていた。返事をする前に、私はカップの縁を見てしまう。疲れた、と言えば休ませられる。平気です、と言えば、いつもの癖で済む。「……少し」 口にしてから、自分で驚いた。 征臣は頷き、カップを私の手元から少し離した。取り上げるほどではない。もう無理に飲まなくていい、と言う距離だった。「それ、もう冷めています」「分かっている。無理に飲むものでもない」「では、淹れ直す」「いいです。そうやって、すぐ整えようとしないでください」「……悪い」 征臣が本当に考え込んでしまったので、少しだけ肩の力が抜けた。紅茶を叱ったつもりはないのに、たぶん彼は今、茶葉の種類から見直している。「明日の夜、鷹宮財団の定例パーティーがある」 濃紺の封筒が、テーブルに置かれた。蝋封の端に、鷹宮の紋が押されている。「君の分の招待状を用意した」 用意した、という言葉に喉の奥が詰まる。決められた席、差し替えられた名前、私の知らないところで進んだ話。体が先に、あの会場へ戻った。「私に聞く前に?」 征臣の指が、封筒から離れた。「招待状だけだ。出るかどうかは君が決める」「順番が、逆です」「そうだな」 あっさり認められて、少し拍子抜けした。「君を紹介したい。鷹宮に助けられた人間としてではなく、俺の隣に立つ人として」「言い方は悪くないです。でも、それなら最初に聞いてください」「分かった」「今の『分かった』、ちゃんと聞いた人の返事には聞こえませんでした」「……違うつもりだった」「つもり、ですか」 困ったように、征臣の視線が落ちる。完全に正しい答えを探している顔だった。白鳥家でその顔を見たら、次に来るのは言い訳か命令だった。けれど征臣は、どちらも出さない。「怒っているか」「はい」「なら、怒ったままでいい」
last updateLast Updated : 2026-07-09
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第25話 鷹宮家次期当主の婚約者として

 それだけで、少し呼吸がしやすかった。  淡い青のドレスの袖口を直す。火傷の包帯は、薄い布で隠してある。隠したつもりでも、征臣の視線は一度そこへ落ちた。 「その手、痛むか」 「少しです。……と答えると、信用されない顔をしていますね」 「信用しにくい。君の『少し』は、だいたい少しではない」 「……では、かなり大丈夫です。たぶん」  言ってから、しまったと思った。冷静な返事をするつもりが、変な日本語になった。しかも、たぶん、と付け足したせいで、余計にごまかせていない。  征臣の口元がかすかに動く。笑った、というほどではない。けれど、会場へ入る前の緊張が、その小さな動きで少しほどけた。 「今のは、笑いましたね」 「笑ったつもりはない。ただ、少し安心した」 「それを笑ったと言うんじゃないですか」  受付の女性が席札を確認し、すぐに背筋を伸ばした。 「白鳥澪様。鷹宮副社長がお待ちです」  視線が集まる。  東都経済新聞の記事は、もう財界サロンの人たちに届いているらしい。好奇心、警戒、同情に似せた薄い優越感。いくつもの目が、ドレスの裾から指先までを測っていく。  征臣が隣に立った。  私を隠す位置ではない。  半歩だけ横。並んで歩ける距離。 「無理なら、ここで止まれる」 「行けます。……今は、止まりたくないんです」  答えた瞬間、会場の奥がざわついた。  白いドレスが見えた。  会場は美しかった。磨かれた床も、薄いグラスも、笑顔の角度まで整っている。だからこそ、白いドレスで近づく莉々花の足音だけが、汚れた音に聞こえた。  鷹宮家次期当主の婚約者として紹介される場で、私は初めて、自分の肩書きが他人の盾にも檻にもなることを知った。笑っていれば安全だと思われる。その安全に、少し腹が立った。  征臣は何か言いかけて、やめた。仕事なら迷わず結論を出す人が、私の言葉を待っている。その遅さに少し苛立ち、同時に少し助けられた。  私は一度、席札から目を上げた。「それは、私に黙って座っていろという意味ですか」声に棘が混じった。隣で征臣が息を止めたのが分かる。きれいな場ほど、黙ることを礼儀にされる。それが一番嫌だった。  莉々花だった。悠真の腕に手を添え、こちらへ向かって微笑んでいる。  征臣は前へ出かけたが、私が横目で見ると足を止めた。少し不
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第26話 変わった席次

 征臣が受付の担当者へ視線を向けた。 担当者はすぐに別の席札を差し出す。「本日の主賓席は、鷹宮征臣様、白鳥澪様、久我山理事長の並びでございます」 莉々花の指が、悠真の袖を握った。 一瞬。 けれど、縫い目が引きつるほど強かった。「私たちは」 悠真が尋ねる。 受付の女性は丁寧に微笑んだ。「有馬様は一般招待席でございます。白鳥莉々花様は、ご同伴者席へ」 ご同伴者席。 莉々花の頬から、色が薄く引いた。 私が何かをしたわけではない。席札が置かれた。ただそれだけなのに、会場の目が静かに向きを変えた。 征臣は私の椅子を引いた。 触れない。急かさない。 ただ、私が座る場所がここだと、音もなく示す。 席札には、白鳥澪、とだけ印字されていた。 泣く準備をする莉々花の目が、まず征臣を探した。悠真ではない。その一瞬で、悠真の顔から色が消えた。 柔らかい空気の中で、私だけが椅子の硬さを感じていた。父は家を、瀬里奈さんは娘を、莉々花は自分の立ち位置を守っている。私を守る人間だけが、あの家にはいなかった。 彼は慰めの言葉を探さなかった。その代わり、私が立っている場所を空けておいた。今はそれでよかった。 莉々花は「お姉様」と甘く呼んだ。甘い声のあとで、誰かが私を責めてくれるのを待っているように見えた。そういう待ち方を、私はもう知っている。 招待客の笑い声は柔らかいのに、その輪の中心だけが冷えていた。父は家の顔色を、瀬里奈さんは莉々花の涙の角度を、莉々花は征臣の視線を見ている。私の傷だけが、誰の話題にもならなかった。 席次表の白い紙が、また目の前にある。今度は震えを隠すためではなく、次の言葉を選ぶために息を吸った。曖昧に笑えば、また誰かに都合よく読まれる。 前菜の皿が運ばれても、莉々花の視線は落ち着かなかった。 白いナプキンを膝に置き、グラスに触れ、また征臣を見る。悠真が何か話しかけても、返事の端だけを返す。 悠真の横顔が、少しずつ硬くなっていくのが見えた。 あの夜、彼も見たはずだ。
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第27話 妹が震える声で呼んだ名

 莉々花の涙は、いつも落ちる場所を選ぶ。母の前、父の前、悠真の前。今日はその涙が、どこへ落ちればいいのか分からず迷っていた。 征臣が、小さく身を乗り出した。莉々花の声がまた甘く震えたからだ。 私はテーブルの下で、母の指輪を親指で押さえた。「待って。今、あなたが黙らせたら、莉々花はまた『怖かった』だけで逃げます」 征臣の目がこちらへ向く。「黙らせるつもりはない」「……ありますよね。今の顔、取引先を一言で黙らせようとしている時と同じでしたよ?」「……それ、褒めていないな」「まったく褒めていません」 莉々花の睫毛が、小さく跳ねた。私が征臣を止めたことが、予想外だったのだろう。だからこそ、今は私が聞かなければならない。 莉々花の胸元で、小さな銀色の鈴が光っていた。 瀬里奈さんの声は優しかった。優しいからこそ、逃げ道を塞ぐ時の形がよく分かる。私はその声に昔ほど怯えなかった。 莉々花が震える声で呼んだ名に、場の視線が寄った。私は短く息を吸う。ここで曖昧に笑えば、また彼女の涙に話を奪われる。 紅茶の香りの奥に、誰かの焦った息が混じった。整った部屋の中で、そこだけが妙に人間らしかった。 莉々花の胸元の銀鈴は、照明を拾うたびに細く光った。 大きすぎない。けれど、見落とされない場所にある。彼女らしい選び方だった。「私、その時に約束したんです。いつかまた会えたら、って」 声が震える。 会場の数人が、分かりやすく息を詰めた。美談は扱いやすい。特に、白いドレスの少女が涙をこらえて語る過去は、疑う方が悪者に見える。 悠真の横顔が青ざめていた。 自分の婚約者が、別の男との再会を、これほど丁寧に飾っている。今さら気づいたのだろうか。莉々花が欲しかったものは、有馬家の席ではなく、最初から征臣の視線だったのだと。そう見えてしまうほど、彼女の目は征臣だけを追っていた。「ハンカチ」 征臣が短く言った。切り捨てる短さではなく、こちらへ余計な言葉を押しつけない短さだった。 莉々
last updateLast Updated : 2026-07-11
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第28話 銀鈴を名乗る妹

 喉が詰まった。その名前の形について話すたび、昔の自分が黙ろうとする。私はその癖を押し戻すように、ゆっくり息を吸った。「銀鈴」という名を莉々花の口から聞いた瞬間、頬の筋肉がこわばった。笑えば、また彼女の物語に取り込まれる。私は不出来な顔のまま、彼女の濡れた目を見返した。 音はしなかった。 優しい言葉をかけられたら、私はまた笑ってしまう。だから、征臣の沈黙が少しありがたかった。 銀鈴という名を、莉々花の口から聞くたびに、胸の奥がざらつく。優しい思い出まで彼女の涙の小道具にされたくなかった。 莉々花がつまんだ銀鈴には、細い青のリボンが結ばれていた。 会場の照明では色が少し暗く見える。けれど、布の端に走る糸だけは妙にはっきり見えた。 縫い目が、外へ向いている。 普通は内側へ隠す場所だ。母なら絶対にしない。母の刺繍は、裏を見ても表と同じくらい整っていた。子どもの頃、私はそれを不思議に思って、どうして裏まできれいにするのかと聞いたことがある。 見えないところで手を抜くと、表の形も崩れるのよ。 母はそう言って、糸切りばさみの先で私の失敗した縫い目をほどいた。 莉々花のリボンは、表だけがきれいだった。「見せていただけますか」 口に出すと、莉々花の指が止まった。「え?」「その銀鈴です。近くで見たいの」 会場の空気が少し固まる。 莉々花はすぐに笑おうとした。けれど、唇の端がうまく上がらない。「お姉様、疑っているんですか」「見せてほしいだけです」「ひどい……大切な思い出なのに」 泣き声になる一歩手前。 いつもなら、ここで誰かが莉々花の味方をする。可哀想に、と言う。姉なら譲れ、と父が低く命じる。 けれど、ここに父はいない。 征臣が静かに口を開いた。「俺も見たい」 莉々花の目が揺れた。 銀鈴を握る指に、力が入る。青いリボンの端が折れ、外へ向いた縫い目がもう一度見えた。 その形を、私は覚えていた。 カップの縁に唇をつ
last updateLast Updated : 2026-07-11
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第29話 征臣が笑わない理由

「お姉様、ひどいです。私の大切なものを、そんなふうに」 涙の膜が、もう目のふちに用意されている。 会場の誰かが小さく息を吸った。莉々花の涙には、いつも人を少し慌てさせる力がある。泣かせた側を悪者にする、細い糸のような力。 けれど征臣は、笑わなかった。 慰める顔も、信じた顔もしない。テーブルの上に置かれた白いナプキンを一度だけ見て、それから莉々花の胸元へ視線を戻した。「大切なら、隠す理由にはならない」 低い声だった。 莉々花の睫毛が揺れる。「征臣様まで、私を疑うんですか」「疑っているんじゃない。確かめている」「同じことです。私だけ、いつも信じてもらえない」 莉々花はそこで、ちらりと悠真を見た。慰めてほしいのではない。自分の涙に誰が最初に膝を折るのか、確かめる目だった。 悠真は動かなかった。その一拍で、莉々花の目元に焦りが走る。「疑うとは言っていない」「じゃあ、信じてくださるんですよね」 甘く伸ばした声が、最後だけ少し急いだ。 私は膝の上の指をほどけなかった。 征臣がすぐに否定してくれたら、胸の内側に刺さったものは抜けたかもしれない。違う、と。彼女ではない、と。 けれど征臣は、答えを急がなかった。「今ここで、決めつける気はない」 莉々花の顔から、作った涙とは別の色が引いた。 その場の何人かが、返事の意味を測りかねたように黙る。美談として受け取れば楽な話だったのに、征臣の一言で、急に証拠が必要な話になってしまった。 私の胸にも、冷たいものが残る。否定しないことと、信じることは同じではない。頭では分かる。分かるのに、指先だけが母の指輪を探してしまう。 悠真が隣で椅子をかすかに鳴らした。「莉々花、その話は、あとで」 止めようとした声は弱かった。婚約者を気遣うというより、自分がこれ以上傷つきたくない声だった。 莉々花は悠真を見なかった。 征臣も私を見なかった。 見なかったからこそ、こちらへ何かを押しつける気がないのだと分かった。 
last updateLast Updated : 2026-07-12
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第30話 図案帳の青い鈴

 鷹宮邸へ戻っても、銀鈴の音は耳の奥に残っていた。 鳴っていない鈴の音ほど、消えにくいものだと初めて知る。 部屋に戻るなり、私は母の図案帳を机に広げた。革の表紙は角が擦れ、指で触れると乾いた粉のような感触が残る。白鳥邸を出る時、帳簿と一緒に抱え込んだ一冊だ。 母は数字を書く時、かすかに左へ傾ける癖があった。刺繍の図案でも同じだった。花弁の横に小さく残された寸法、糸番号、布の種類。どれも整っているのに、どこか息をしている。 ページをめくる音だけが部屋に落ちた。 銀鈴。青いリボン。 記憶の中の言葉を追いながら、薄い紙を一枚ずつめくる。 そして、指が止まった。 小さな鈴の図案があった。青い糸で縁どられ、鈴の下に細いリボンが結ばれている。莉々花が胸元に下げていたものと似ている。けれど、違う。 リボンの縫い目が、内側へ消えていた。 母ならそうする。見えない裏まで整える人だったから。「見つかったか」 背後ではなく、扉の外から声がした。 私は振り返らなかった。 征臣は部屋に入ってこない。ノックの後、半歩だけ離れた位置に立っている気配がある。「ありました」 声は思ったより低く出た。「莉々花のものとは、縫い目が違うんです」「そうか」 それだけだった。正解を褒めるでも、すぐに使えと言うでもない。 私は図案の端に目を落とした。 鈴の横。花の茎に見える細い線の途中に、薄い数字が並んでいる。糸番号にしてはおかしい。 一二七。三〇四。「これ、糸の番号ではありません」「何に見える」 答えを知っている声だった。 少しむっとして顔を上げると、征臣はまだ敷居の外にいた。「私に言わせるんですね」「君が見つけたものだ」 数字を指でなぞった瞬間、母の帳簿の厚みが頭に浮かんだ。 寄付帳簿のページ番号と、同じ桁だった。 母の図案帳には、余白が多い。けれど、その余白が空っぽだったことはない。布の厚み、糸の癖、渡す相手の名前。母は作品を作る時、
last updateLast Updated : 2026-07-12
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