Alle Kapitel von 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Kapitel 21 – Kapitel 30

154 Kapitel

第21話 元婚約者の言い訳

 テーブルの上で、スマートフォンが震えた。  征臣からではない。  東都経済新聞の続報通知だった。  見出しには、私の名前と、さらにひどい言葉が並んでいた。  有馬関係者「彼女は以前から婚約に不満を漏らしていた」  不満。  漏らしたことなどなかった。  むしろ、飲み込んできた。式場の席順も、莉々花のドレスも、父の命令も。  なのに、飲み込んだものまで、都合よく誰かの言葉にされる。  悠真の顔から、血の気が引いた。 「違う、澪。これは有馬の誰かが勝手に」  言い終える前に、悠真は自分の言葉の薄さに気づいたようだった。勝手に、という便利な箱へ入れれば、自分は少し外に立てる。昔の彼は、もっと上手に笑ってそれをした。 「私の名前を使っておいて、誰か、で済ませるんですね」  悠真は唇を噛んだ。謝りたい人の顔ではない。責められすぎない位置を探している顔だった。  画面の文字を、悠真も見ていた。  有馬関係者。  便利な言葉だ。  誰でもない顔をして、誰かの口を借りる。  白鳥家でも、有馬家でも、こういう言葉はいつも私より先に用意されていた。本人が何を言ったかより、家がどう見られるかの方が大事だった。 「違うんだ」  悠真はすぐに言った。 「僕じゃない」 「……そう。じゃあ、有馬家の誰ですか」 「本当に。僕はそんなこと、記者に話していない」  悠真は口を開きかけ、そのまま黙った。  答えの代わりに、視線だけがテーブルへ落ちた。  悠真は何も言わない。テーブルの木目を見たまま、指だけが一度動いた。  私はスマートフォンを伏せた。画面を見続けると、知らない人たちの言葉で自分の輪郭が削られていく気がした。 「澪、頼む。今は表に出ない方がいい。君が反論すれば、また記事になる」 「それで、私はどうすればいいんですか」  悠真はすぐには答えなかった。 「……しばらく、白鳥家に戻ってくれないか」 「戻る?」 「莉々花が落ち着くまででいい。君なら――」 「それ、前にも聞きました」  悠真の目が止まった。 「君なら少し待ってくれる。君なら分かってくれる。そうやって、いつも私が最後なんですよね」  テーブルの下で膝が震えた。私は手をつかずに立ち上がった。 「戻りません」 「澪」 「私に何かさせたいなら、何をしてほしいの
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-08
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第22話 君なら分かってくれる

 好きではなかったと言われるより、都合のいい帳簿係としてだけ信じられている方が痛かった。 「あなたが莉々花さんを選んだことより、都合のいい時だけ私を呼ぶ方が、ずっときつかったです」  悠真の顔が歪む。  でも、それをなだめる役はもう降りた。  扉が静かに開いた。  征臣が入ってくる。私の前に立たない。悠真を睨まない。ただ、テーブルの端に一枚の書類を置いた。 「有馬家広報から、東都経済新聞への情報提供履歴だ」  悠真が息を止める。  私は書類の一行目を見た。  送信者は、有馬家の広報担当者だった。  その下に、莉々花の名前が添えられていた。 「莉々花が、僕を守ろうとして」 「そのために、私の記事を出したの?」  悠真の肩が跳ねた。かばいたい相手を間違えた顔ではなく、かばい方を間違えて損をした顔だった。 「君なら分かってくれると思ったんだ。白鳥家も、有馬家も、今すぐ崩すわけにはいかない」 「事情は分かりました」  私は書類の莉々花の名前を指で押さえた。 「でも、これを私が片づける話じゃないです」  莉々花の名前が、白い紙の上に細く載っていた。  宛先は東都経済新聞の記者。添付ファイル名には、白鳥家長女、遺産持ち逃げの疑い、とある。  その下に、備考のように莉々花の名前。  備考。  人を貶める時でさえ、彼女は本文ではなく余白に入り込む。 「これは……」  悠真の声がかすれた。  その先が続かない。いつものことだ。都合の悪い時、悠真の言葉から主語が消える。誰が送ったのか。誰が頼んだのか。誰が止めなかったのか。そういう部分だけ、きれいに抜け落ちる。 「知らなかった、って言うんですか」  私が尋ねると、悠真は一度、征臣を見た。  助けを求める目ではない。自分がどこまで言えば許されるか、相手の温度を測っている目だった。  征臣は椅子の背に触れたまま、書類を見下ろしている。怒っている時ほど声を出さない人なのだと、最近分かってきた。 「気づいた時には、もうそういう流れになってたんだ」 「流れ」  声に出した瞬間、その言葉の軽さに腹の底が冷えた。人の人生を壊すには、軽すぎる響きだった。 「記者が書いて、有馬家の広報が送って、莉々花さんも関わっている。……悠真さんは、どこで止めようとしたんですか」 「澪、僕は」 「何
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-08
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第23話 書類に添えられた名前

 征臣は私の斜め後ろで止まった。前へ出たいのが丸見えで、少し腹が立つ。けれど、そこで止まったことだけは認めたかった。 「莉々花さんには、無理なんだ」  悠真はぽつりと言った。  謝罪でも、弁明でもなかった。愚痴に近い声だった。  すぐに返せば、また彼の言い分を受け取ったことになる気がした。私は返事をせず、冷めたカップを見ていた。  応接室のテーブルには、冷めた紅茶が三つ並んでいる。私のカップだけ、ほとんど減っていない。白い陶器の縁に、指を添える。熱はもう残っていなかった。 「莉々花には無理なんだ。人前では話せても、書類も数字も追えない。君がいないと、提携の話が回らない」 「私がいないと」  悠真は、自分の言葉がどこに刺さったのか分かっていない顔をした。  婚約者として戻ってきてほしいのではない。  好きだったから惜しいのでもない。  白鳥家関連会社の財務資料を整え、有馬家との契約条件を読み、表に出ない数字の穴を埋める手が必要だっただけだ。  私の名前ではなく、私の仕事だけが惜しかったのだ。  あの人たちの成果として並べられてきた紙の端に、私の名前だけはなかった。  怒りが来ると思った。  でも、実際に来たのは、細い疲れだった。長い廊下を歩ききった後みたいに、足元だけが少し重い。 「君なら分かってくれると思ったんだ」 「分かるよ」  悠真の顔に、うっすら安堵が浮かぶ。  ひどい人だ。まだ、私がその顔を拾うと信じているような目だった。 「あなたが必要だったのは、私じゃない。私の数字です」 「そんな言い方、しなくても」 「違う?」  悠真は黙った。  指輪のない左手を、膝の上で軽く握る。母の指輪を守った時の熱が、まだ皮膚の奥に残っている。 「もう白鳥家の数字は見ません。有馬家の帳簿も、莉々花の嘘も、あなたの言い訳も。私の仕事じゃないです」  征臣が一歩だけ近づき、そこで止まった。  椅子を引けば通れるだけの距離が残っている。  悠真の視線が、その距離に引っかかった。 「澪」  名前を呼ばれても、もう足は止まらなかった。  テーブルの端に置かれた紙だけが、まだ莉々花の名前をこちらへ向けていた。  有馬悠真が帰った後、応接室には紅茶の匂いだけが残った。  甘くも苦くもない。冷めた茶葉の、少し湿った匂い。ホテルの
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-09
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第24話 濃紺の招待状

「疲れたか」  征臣が尋ねる。  簡単な言葉なのに、すぐには返せなかった。疲れた、と言えば休ませられる。平気です、と言えば嘘になる。白鳥家では、だいたい後者を選んできたせいで、今も口が先に嘘を選びかける。 「少しだけ。人が多くて」  口にしてから、自分で驚いた。  征臣は頷いただけだった。大げさに心配しない。すぐ解決策を並べもしない。黙って、私の前の冷めたカップを少し脇へ寄せる。  その動作が妙に丁寧で、息が詰まりかけた。 「それ、もう冷めてますよ」 「熱いのは苦手だったな。ただ、これは冷めすぎたか」  征臣はカップを見たまま黙った。 「明日のことで、君にも相談したい」  征臣は封筒を取り出した。 「明日の夜、鷹宮財団の定例パーティーがある」  私は黙って続きを待った。 「出席者名簿に、君の名を入れた」  一瞬、返事が遅れた。入れた、という言葉が父の声に似て聞こえた。 「私に聞く前に?」  征臣の指が招待状の上で止まった。 「席だけ押さえた。嫌なら――」 「嫌なら消せばいい、ですか」  征臣は口を閉じた。招待状の角へ落としていた視線が、私へ戻る。 「……違うな」  短く言い直した。 「紹介はする。ただ、『鷹宮家が守っている相手』なんて言い方はしない」 「じゃあ、何て?」 「白鳥澪。それでいい」  肩の力が少し抜けた。それでも、勝手に名簿へ入れられたことまで消えたわけではない。 「行くかどうかは、今決めます」  征臣は黙って会場図をこちらへ向けた。 「窓側にしてください」  封筒の裏には、白い席札が一枚挟まっていた。名前はまだ入っていない。空白のままの札を見て、息が少し浅くなる。 「席札の肩書きも、こちらで見ていいんですか」 「もちろん。気になるところがあれば、一緒に直そう」 「肩書きは、白鳥澪だけでお願いします」 「分かった」  その返事があまりに真面目で、今度こそ少し笑った。怒りは残っている。それでも、明日の席札を想像した時、さっきまでほど肩に力は入らなかった。  白い席札を机に置く。前の席次表と同じ白なのに、今度はまだ何も印刷されていない。私は端を指で押さえた。  その余白なら、かすかに怖くても見ていられる。  私は招待状を封筒へ戻さず、机の端に置いた。明日までに、もう一度見直すつもりだ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-09
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第25話 鷹宮家次期当主の婚約者として

 それだけで、少し呼吸がしやすかった。  淡い青のドレスの袖口を直す。火傷の包帯は、薄い布で隠してある。隠したつもりでも、征臣の視線は一度そこへ落ちた。 「その手、痛むか」 「少しです」  征臣は包帯の端を見た。 「会場に入るくらいなら、大丈夫です」  言い切ったものの、指にはまだ鈍い痛みが残っていた。  征臣は歩調を少し落とした。  受付の女性が席札を確認し、すぐに背筋を伸ばした。 「白鳥澪様。鷹宮副社長がお待ちです」  視線が集まる。  東都経済新聞の記事は、もう財界サロンの人たちに届いているらしい。好奇心、警戒、同情に似せた薄い優越感。いくつもの目が、ドレスの裾から指先までを測っていく。  征臣が隣に立った。  私を隠す位置ではない。  半歩だけ横。並んで歩ける距離。  征臣の肩越しに会場を見る必要はない。私の目にも、受付も席札も、こちらを測る人々の顔も見えている。見えたまま進めることが、今日は大事だった。 「無理なら、ここで止まれる」 「行けます。……今は、止まりたくないんです」  答えた瞬間、会場の奥がざわついた。  白いドレスが見えた。  会場は美しかった。磨かれた床も、薄いグラスも、笑顔の角度まで整っている。だからこそ、白いドレスで近づく莉々花の足音だけが、汚れた音に聞こえた。  鷹宮家次期当主の婚約者として紹介される場で、私は初めて、自分の肩書きが他人の盾にも檻にもなることを知った。笑っていれば安全だと思われる。その安全に、少し腹が立った。  征臣が会場の奥を見た。 「莉々花が来ても、無理に相手をしなくていい」  私は席札から目を上げた。 「それは、私に黙って座っていろという意味ですか」  声に棘が混じった。隣で征臣が息を止めたのが分かる。きれいな場ほど、黙ることを礼儀にされる。それが一番嫌だった。 「そうじゃない。君が話したいなら、俺も隣で聞く」  言い直したところで、白いドレスの裾が人波の向こうに見えた。  莉々花だった。悠真の腕に手を添え、こちらへ向かって微笑んでいる。  征臣は前へ出かけたが、私が横目で見ると足を止めた。少し不満そうな横顔に、こちらまで腹が立って、同時に少し力が抜けた。  莉々花の白いドレスは、婚約披露の夜より控えめだった。  それでも白は白だ。  彼女は、その
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-10
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第26話 変わった席次

 征臣が受付の担当者へ視線を向けた。 担当者はすぐに別の席札を差し出す。「本日の主賓席は、鷹宮征臣様、白鳥澪様、久我山理事長の並びでございます」 莉々花の指が、悠真の袖を握った。 一瞬。 けれど、縫い目が引きつるほど強かった。「私たちは」 悠真が尋ねる。 受付の女性は丁寧に微笑んだ。「有馬様は一般招待席でございます。白鳥莉々花様は、ご同伴者席へ」 ご同伴者席。 莉々花の頬から、色が薄く引いた。 私が何かをしたわけではない。席札が置かれた。ただそれだけなのに、会場の目が静かに向きを変えた。 征臣は私の椅子を引いた。 触れない。急かさない。 ただ、私が座る場所がここだと、音もなく示す。 席札には、白鳥澪、とだけ印字されていた。 泣く準備をする莉々花の目が、まず征臣を探した。悠真ではない。その一瞬で、悠真の顔から色が消えた。 柔らかい空気の中で、私だけが椅子の硬さを感じていた。父は家を、瀬里奈さんは娘を、莉々花は自分の立ち位置を守っている。私を守る人間だけが、あの家にはいなかった。 彼は慰めの言葉を探さなかった。その代わり、私が立っている場所を空けておいた。今はそれでよかった。 莉々花は「お姉様」と甘く呼んだ。甘い声のあとで、誰かが私を責めてくれるのを待っているように見えた。そういう待ち方を、私はもう知っている。 招待客の笑い声は柔らかいのに、その輪の中心だけが冷えていた。父は家の顔色を、瀬里奈さんは莉々花の涙の角度を、莉々花は征臣の視線を見ている。私の傷だけが、誰の話題にもならなかった。 席次表の白い紙が、また目の前にある。今度は震えを隠すためではなく、次の言葉を選ぶために息を吸った。曖昧に笑えば、また誰かに都合よく読まれる。 前菜の皿が運ばれても、莉々花の視線は落ち着かなかった。 白いナプキンを膝に置き、グラスに触れ、また征臣を見る。悠真が何か話しかけても、返事の端だけを返す。 悠真の横顔が、少しずつ硬くなっていくのが見えた。 あの夜、彼も見たはずだ。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-10
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第27話 妹が震える声で呼んだ名

 莉々花の涙は、いつも落ちる場所を選ぶ。母の前、父の前、悠真の前。今日はその涙が、どこへ落ちればいいのか分からず迷っていた。  征臣が、小さく身を乗り出した。莉々花の声がまた甘く震えたからだ。  私はテーブルの下で、母の指輪を親指で押さえた。 「待って。今、あなたが黙らせたら、莉々花はまた『怖かった』だけで逃げます」  征臣の目がこちらへ向く。  征臣は前へ出かけた足を止めた。 「私に聞かせてください」  征臣は莉々花から視線を外した。  莉々花の睫毛が、小さく跳ねた。私と征臣を交互に見ている。私は一度、唇を湿らせてから口を開いた。  莉々花の胸元で、小さな銀色の鈴が光っていた。  瀬里奈さんの声は優しかった。優しいからこそ、逃げ道の塞ぎ方がよく分かる。私はその声に昔ほど怯えなかった。  莉々花が震える声で呼んだ名に、場の視線が寄った。私は短く息を吸う。ここで曖昧に笑えば、また彼女の涙に話を奪われる。  紅茶の香りの奥に、誰かの焦った息が混じった。整った部屋の中で、そこだけが妙に人間らしかった。  莉々花の胸元の銀鈴は、照明を拾うたびに細く光った。  大きすぎない。けれど、見落とされない場所にある。彼女らしい選び方だった。 「私、その時に約束したんです。いつかまた会えたら、って」  声が震える。  会場の数人が、分かりやすく息を詰めた。美談は扱いやすい。特に、白いドレスの少女が涙をこらえて語る過去は、疑う方が悪者に見える。  悠真の横顔が青ざめていた。  悠真は莉々花を見たあと、征臣へ目を向けた。莉々花はその視線に気づかず、征臣だけを見ている。私は二人の間を見比べたが、悠真が何を考えたのかまでは分からなかった。 「ハンカチ」  征臣が短く言った。切り捨てる短さではなく、こちらへ余計な言葉を押しつけない短さだった。  莉々花は待っていたように頷いた。 「はい。青い刺繍のハンカチです。端に銀の鈴が縫ってあって」  膝の上で、私の手が止まった。  青い刺繍。  銀の鈴。  母の手紙の封筒に残っていた青い封緘。謝罪会で見た同じ色。偶然にしては、同じ青が続きすぎる。  征臣はまだ何も言わない。  否定しない沈黙が、一瞬胸に刺さった。  違うなら、違うと言ってくれればいい。  そう思いかけて、すぐに飲み込む。これは私
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-11
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第28話 銀鈴を名乗る妹

 喉が詰まった。銀鈴の話になると、昔の自分が黙ろうとする。私はその癖を押し戻すように、ゆっくり息を吸った。 「銀鈴」という名を莉々花の口から聞いた瞬間、頬の筋肉がこわばった。笑えば、また彼女の物語に取り込まれる。私は不出来な顔のまま、彼女の濡れた目を見返した。  音はしなかった。  優しい言葉をかけられたら、私はまた笑ってしまう。だから、征臣の沈黙が少しありがたかった。  銀鈴という名を、莉々花の口から聞くたびに、胸の奥がざらつく。優しい思い出まで彼女の涙の小道具にされたくなかった。  莉々花がつまんだ銀鈴には、細い青のリボンが結ばれていた。  会場の照明では色が少し暗く見える。けれど、布の端に走る糸だけは妙にはっきり見えた。  縫い目が、外へ向いている。  普通は内側へ隠す場所だ。母なら絶対にしない。母の刺繍は、裏を見ても表と同じくらい整っていた。子どもの頃、私はそれを不思議に思って、どうして裏まできれいにするのかと聞いたことがある。  見えないところで手を抜くと、表の形も崩れるのよ。  母はそう言って、糸切りばさみの先で私の失敗した縫い目をほどいた。  莉々花のリボンは、表だけがきれいだった。 「見せていただけますか」  口に出すと、莉々花の指が止まった。 「え?」 「その銀鈴です。近くで見たいの」  会場の空気が少し固まる。  莉々花はすぐに笑おうとした。けれど、唇の端がうまく上がらない。 「お姉様、疑っているんですか」 「見せてほしいだけです」 「ひどい……大切な思い出なのに」  泣き声になる一歩手前。  いつもなら、ここで誰かが莉々花の味方をする。可哀想に、と言う。姉なら譲れ、と父が低く命じる。  けれど、ここに父はいない。  征臣が静かに口を開いた。 「俺も見たい」  莉々花の目が揺れた。  銀鈴を握る指に、力が入る。青いリボンの端が折れ、外へ向いた縫い目がもう一度見えた。  その縫い目を、私は覚えていた。  カップの縁に唇をつけても、紅茶の味は分からなかった。視線が多すぎる。誰も大声では責めないのに、私がどう振る舞うかだけを待っている。  母の図案帳の端に、同じ銀鈴の刺繍があった。  莉々花は弱い声を出した。けれど、指先はしっかりテーブルの縁を掴んでいる。倒れる場所を探しているような手だった
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-11
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第29話 征臣が笑わない理由

「お姉様、ひどいです。私の大切なものを、そんなふうに」  涙の膜が、もう目のふちに用意されている。  会場の誰かが小さく息を吸った。莉々花の涙には、いつも人を少し慌てさせる力がある。泣かせた側を悪者にする、細い糸のような力。  けれど征臣は、笑わなかった。  慰める顔も、信じた顔もしない。テーブルの上に置かれた白いナプキンを一度だけ見て、それから莉々花の胸元へ視線を戻した。 「大切なら、隠す理由にはならない」  莉々花の睫毛が揺れる。 「征臣様まで、私を疑うんですか」 「疑っているんじゃない。確かめている」 「同じことです。私だけ、いつも信じてもらえない」  莉々花はそこで、ちらりと悠真を見た。慰めてほしいのではない。自分の涙に誰が最初に膝を折るのか、確かめる目だった。  悠真は動かなかった。その一拍で、莉々花の目元に焦りが走る。 「疑うとは言っていない」 「じゃあ、信じてくださるんですよね」  甘く伸ばした声が、最後だけ少し急いだ。  私は膝の上の指をほどけなかった。  征臣がすぐに否定してくれたら、胸の内側に刺さったものは抜けたかもしれない。違う、と。彼女ではない、と。  けれど征臣は、答えを急がなかった。 「今ここで、決めつける気はない」  莉々花の顔から、作った涙とは別の色が引いた。  その場の何人かが、返事の意味を測りかねたように黙る。美談として受け取れば楽な話だったのに、征臣の一言で、急に証拠が必要な話になってしまった。  私の胸にも、冷たいものが残る。否定しないことと、信じることは同じではない。頭では分かる。分かるのに、手だけが母の指輪を探してしまう。  悠真が隣で椅子をかすかに鳴らした。 「莉々花、その話は、あとで」  止めようとした声は弱かった。婚約者を気遣うというより、自分がこれ以上傷つきたくない声だった。  莉々花は悠真を見ない。征臣も私を見ず、しばらく銀鈴を握る莉々花の手だけを見ていた。  何を考えているのかは分からなかった。その分、胸のざわつきだけが残る。  銀鈴は莉々花の手の中で、音もなく隠れていた。  皿の上の白いソースが、もう冷え始めていた。誰も食事に戻らない。戻れない。銀鈴の話は、ただの昔話ではなくなってしまった。  莉々花はようやく悠真の方を見た。助けを求めるというより、う
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-12
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第30話 図案帳の青い鈴

 鷹宮邸へ戻っても、銀鈴の音は耳の奥に残っていた。  鳴っていない鈴の音ほど、消えにくいものだと初めて知る。  部屋に戻るなり、私は母の図案帳を机に広げた。革の表紙は角が擦れ、指で触れると乾いた粉のような感触が残る。白鳥邸を出る時、帳簿と一緒に抱え込んだ一冊だ。  母は数字を書く時、かすかに左へ傾ける癖があった。刺繍の図案でも同じだった。花弁の横に小さく残された寸法、糸番号、布の種類。どれも整っているのに、どこか息をしている。  ページをめくる音だけが部屋に落ちた。  銀鈴。青いリボン。  記憶の中の言葉を追いながら、薄い紙を一枚ずつめくる。  そして、指が止まった。  小さな鈴の図案があった。青い糸で縁どられ、鈴の下に細いリボンが結ばれている。莉々花が胸元に下げていたものと似ている。けれど、違う。  リボンの縫い目が、内側へ消えていた。  母ならそうする。見えない裏まで整える人だったから。 「見つかったか」  背後ではなく、扉の外から声がした。  私は振り返らなかった。  征臣は部屋に入ってこない。ノックの後、わずかにだけ離れた位置に立っている気配がある。 「ありました」  声が低く出た。 「莉々花のものとは、縫い目が違うんです」  征臣は縫い目を見直した。 「ここか」  正解を褒めるでも、すぐに使えと言うでもない。  私は図案の端に目を落とした。  鈴の横。花の茎に見える細い線の途中に、薄い数字が並んでいる。糸番号にしてはおかしい。  一二七。三〇四。 「これ、糸の番号ではありません」 「何に見える」  答えを知っている声だった。  少しむっとして顔を上げると、征臣はまだ敷居の外にいた。 「私に言わせるんですね」 「君が見つけたものだから、まず君の考えを聞きたい」  数字を指でなぞった瞬間、母の帳簿の厚みが頭に浮かんだ。  寄付帳簿のページ番号と、同じ桁だった。  母の図案帳には、余白が多い。けれど、その余白が空っぽだったことはない。布の厚み、糸の癖、渡す相手の名前。母は作品を作る時、必ず誰かの生活まで考えていた。  莉々花の語った思い出には、それがなかった。きれいな言葉ばかりで、手の汚れも、針を落とした音も、冬の温室の冷たさもなかった。  その言葉を聞いた瞬間、腹の奥がざらついた。嫉妬、と考え
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-12
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