Alle Kapitel von 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Kapitel 31 – Kapitel 40

154 Kapitel

第31話 針穴に残った数字

 母は、私に何を見つけてほしかったのだろう。  図案帳の隣に、寄付帳簿を置く。ページの角は少し焦げている。白鳥邸の暖炉から引き上げた時、火がページの隅を舐めていた。まだ指先の皮膚が、あの熱を覚えている。  一二七ページ。  そこには、児童養護施設への寄付記録があった。施設名の欄だけ、薄く削られている。上から別の紙を重ね、何かで擦った跡だ。  金額は残っていた。送金日も、承認印も残っている。そこだけ消す方が、かえって目立つ。けれど、名前がなければ、誰も追えない。そう考えた人間がいた。 「削ったのに、数字だけ残した」  母らしい、と思った。  全部を言葉にしない。けれど、見ようとする人には残す。  背後で、かすかな金属音がした。  振り向くと、征臣が机の端に小さな鍵を置いていた。 「帳簿室の奥の棚だ。古い寄付関連の資料がある」 「知っていたんですか」  責めるつもりはなかったのに、少し硬くなった。  征臣は一拍置いた。 「知っていたわけじゃない。あるかもしれないと思っただけだ。見つけたのは君だ」  鍵は私の方へ滑らされない。机の端で止まっている。取るかどうかは、私に任されていた。  それが優しさなのか、用心なのか、まだ分からない。  私はその小さな銀色を見つめた。母の針穴が、まだ光の中で細く並んでいた。  針穴を読み取るには、紙を少し斜めにしなければならなかった。真正面から見ると、ただの傷にしか見えない。角度を変えた時だけ、母の残した数字が浮く。  白鳥家での私も、そうだったのかもしれない。真正面から見れば、聞き分けのいい長女。少し角度を変えれば、削られた欄や、伏せられた名前ばかりが見える。  考えすぎだと、昔の自分ならそこで閉じた。  けれど今は、閉じなかった。  寄付帳簿の焦げた端をそっと押さえる。燃え残った紙は、思ったより脆い。息を吹きかけただけでも崩れそうで、私は呼吸を浅くした。  征臣の視線が、その呼吸まで拾った気がした。何か言いかけて、結局、言わない。言われなくてよかった。今優しくされると、手元が揺れる。  鍵は、思ったより冷たかった。  指先でつまむと、金属の縁が火傷の跡に少し当たる。痛みというほどではない。けれど、体が勝手にその熱を思い出した。  征臣は私の手を見た。  見たけれど、触れなかった。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-13
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第32話 答えを急がせない男

 視線を図案帳へ戻したその横顔が、妙に腹立たしいほど優しかった。  その一言が少しずるい。平気ではないと暴くでもなく、無理をするなと包み込むでもない。ただ、今の私が言えることだけを、そのまま受け取っている。  帳簿室の扉は、鷹宮邸の北側にあった。  厚い木の扉に鍵を差し込むと、古い紙と乾いた糊の匂いが流れ出す。白鳥家の帳簿室は、いつも父の葉巻の匂いがした。ここにはそれがない。  棚は整っていた。整いすぎていて、逆に少し怖い。誰がいつ見ても困らないように、書類が年月ごとに並んでいる。 「この辺りですか」 「おそらく」 「また『おそらく』ですね」  つい口に出る。  征臣の眉がかすかに動いた。 「はっきり言った方がいいか」 「いいえ」  すぐに答えてしまい、自分で少し驚いた。 「いいえ」と口が先に動いた。何を知りたいのか、自分でもまだうまく言えない。  隠されたままにされるのだけは嫌だった。  征臣は棚の前から一歩引いた。 「なら、まず自分で確かめてみてくれ。俺にも見てほしいところがあれば言ってほしい」  近すぎず、遠すぎない位置。守ると言わないのに、背中を預けられるぎりぎりの距離。  私は返事をしないまま、寄付関連資料の箱を引き出した。  背表紙の間に、不自然な隙間がある。  抜き取られたページの跡。  紙の粉が、指先に白く残った。  箱を開ける前に、私は一度だけ深く息を吸った。古い紙の匂いに、薄い防虫剤の匂いが混じっている。白鳥邸なら、ここで父の声が背中に落ちていたはずだ。余計なものを見るな、と。  ここでは、誰も言わない。  それだけで、膝の奥に入っていた力が少し抜けた。  言われないことが、こんなに不安になるとは思わなかった。自分で選べる場所は、逃げ道がない場所でもある。 「無理なら、明日でいい」  征臣が低く言った。 「明日にしたら、怖くなくなりますか」 「ならないだろうな」  正直すぎて、ふっと笑いそうになった。こんな時に笑う自分もどうかと思う。けれど、その小さなズレのおかげで、指が動いた。  古い紙の匂いに、乾いた埃とインクの苦みが混じっていた。箱の中にあるのは、ただの資料ではない。誰かが隠しておきたかった時間が、母の細い字の間からこちらを見ていた。  私は箱の蓋を持ち上げた。  抜き取られ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-13
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第33話 寄付帳簿の欠番

「白鳥家の事業とは関係ない施設ですか」 「表向きはな」 「表向き」  言葉を返すと、征臣が少し黙った。  その沈黙で、まだ言っていないことがあるのだと分かる。  私は顔を上げた。 「今、全部聞いたら、あなたは答えますか」  征臣はすぐに頷かなかった。正直な沈黙だった。腹立たしいくらいに。 「答えられることは話す。何が知りたい?」 「では、今は聞きません」  自分でも少し意地が悪いと思った。  けれど、聞いてしまえば、また彼の知っている道を歩くことになる。今は母の残した針穴を、自分の目で追いたかった。  箱の底に、薄い茶封筒が挟まっていた。  中には、欠番ページのコピーが一枚。  右上に、チャリティーガラの資料袋と同じ青い封緘が貼られていた。  その青だけが、新しい傷みたいに浮いていた。  コピーの紙は新しくなかった。折り目が何度もついていて、端が柔らかくなっている。誰かが長い間、隠し場所を変えながら持っていた紙だ。  裏を見ると、薄く鉛筆の跡があった。子どもたち、と読める。母の字だった。  それだけで、胸の内側が熱くなる。施設名は消されても、母はそこにいた人たちを数字だけにはしなかった。 「この施設、今もありますか」  尋ねると、征臣の目が少し伏せられた。 「名称を変えて、別法人に吸収されている」 「消えたわけではないんですね」 「消したがった人間はいる」  その言い方が引っかかった。私は封筒の青い封緘を爪でなぞる。剥がすには、少し勇気が要った。  莉々花の唇から、血の気が引いた。泣くには早く、怒るには遅い。可哀想な妹の顔を作る前に、本音だけが一瞬、目の奥に出た。  夜になっても、数字は目の裏に残っていた。  ベッドに入る気になれず、私はもう一度帳簿室へ戻った。廊下の照明は半分落とされていて、足元の絨毯だけが薄く見える。鷹宮邸は広いのに、夜は妙に音が少ない。白鳥邸の夜は、誰かの機嫌をうかがう音でできていた。ここにはそれがない。  帳簿室の鍵を回す。  机の上に、図案帳とコピーを並べた。  青い封緘。欠番ページ。児童養護施設。  何かがつながりかけているのに、指の間からこぼれる。母はなぜ、刺繍に数字を隠したのだろう。帳簿だけでは足りなかったのか。あるいは、帳簿が燃やされることを知っていたのか。  考えれば
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-14
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第34話 夜更けの帳簿室

 考えてしまった自分に、少し腹が立つ。  彼を信じるには、まだ早い。  それでも、扉の外に置かれたカップは冷めきっていなかった。  ミルクティーを一口飲む。熱すぎない。  扉の外で足音がして、私は顔を上げた。 「これ、あなたが?」  戻ってきた征臣は、空いている手をポケットへ入れた。 「砂糖は入れていない」 「よく覚えていますね」 「朝、残していただろう。甘い方だけ」  そんなところまで見られていたのか。カップを持ち直すと、彼は用が済んだように踵を返した。 「少し、飲んでいきませんか」  呼び止めてから、もう一つのカップがないことに気づく。  征臣は扉の前で止まり、私を見た。 「俺の分も持ってくる」  戻ってくるまでに、向かいの椅子から資料をどけた。二人で飲むには小さい机なのに、席が空くと、さっきより部屋が広く見えた。  私はカップを机に戻し、席次表をもう一度見た。莉々花の名前の横には、作品出展者、慈善企画協力、と肩書きが二つ並んでいる。彼女が自分で作ったものなら、誇らしい欄だ。  けれど、もし母の図案を使っているのなら。  白い会場で、母の手がまた奪われる。  そう思っただけで、椅子から立ち上がりそうになった。慌てて座り直す。今動いても、会場はまだない。莉々花の布も、展示台も、明日まで待っている。  待つのは苦手だ。けれど、怒りだけで動けば、また可哀想な妹をいじめる姉にされる。  私は席次表を図案帳の間に挟んだ。紙の角が、母の青い鈴の横で止まった。  翌日、チャリティーガラの会場は、白で統一されていた。  白い花。白いクロス。白いライトに照らされた展示台。善意という言葉は、こういう色をしているのかもしれない。汚れが見えないように、最初から何もかも白くしておく。  私は受付で名を告げ、胸元の小さな名札を受け取った。  白鳥澪。  その下に、鷹宮財団招待客、とある。  まだこの肩書きに慣れない。紙一枚で、立つ場所が変わる。変わったように見える。けれど、紙の裏側まで見なければ、本当に変わったかどうかは分からない。  会場奥の展示台に、人だかりができていた。  中心にいたのは莉々花だった。  今日は薄い水色のドレスを着ている。白ではない。けれど照明を受けると、ほとんど白に見えた。胸元には、あの銀鈴がある。 「亡
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-14
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第35話 ガラ会場の白い刺繍

 莉々花はそのたびに、かすかに首をかしげた。褒め言葉を受け取り慣れている角度だ。涙より先に鏡を見る子だと、私は知っている。  悠真もそばにいた。婚約者として隣に立っているのに、莉々花の説明が征臣に届くかどうかばかり気にしている。彼の横顔には、まだ前回の傷が残っていた。 「素敵でしょう、お姉様」  莉々花が布にそっと手を添える。  私は頷かなかった。 「よくできていると思う」  褒めたつもりはない。けれど周囲には、姉が妹を認めたように聞こえたらしい。ほっとした空気が一瞬流れる。  その空気の下で、莉々花だけが私の声の硬さに気づいた。 「お姉様、怖い顔をなさらないで」  莉々花が小さく笑った。声だけは怯えているのに、指は刺繍の縫い目をなぞっている。 「せっかく、皆さんが私のことを心配してくださっているのに」  心配。便利な言葉だった。彼女はそれを盾にして、会場の視線を少しずつ私の方へ向ける。  近くの夫人が囁いた。 「やっぱり、お姉様の方がきついのね。記事も、全部嘘ではなさそう」  聞こえる距離だった。聞かせるための距離でもあった。  莉々花は否定しなかった。否定しない優しさを装って、噂だけを私の足元に置いていく。  その時、征臣がグラスを置いた。音は小さかったのに、会話だけが止まった。 「本人に確かめもしないで広げるんですか。……それを社交とは呼べないでしょう」  布の裏側に、母の癖が残っていた。  莉々花がどれほど表を飾っても、裏の糸は嘘をつかない。青い鈴の輪郭を追う糸は、外から見えない場所で小さく交差している。母がよく使っていた処理だ。  見えないところで手を抜くと、表の形も崩れるのよ。  子どもの頃に聞いた声が、針先みたいに戻ってくる。  私は展示台へ一歩近づいた。  莉々花がすぐに布の前へ立つ。 「あまり近くで見ないでください。繊細な作品なので」 「繊細ですね」  花弁の数を目で追う。  一つ目の花は十二。次が七。葉の数が三。  一二七。  寄付帳簿の欠番ページと同じ数字だった。  胸の底で、何かが静かに噛み合う。怒りは大きな音を立てなかった。代わりに、手が冷えていく。 「莉々花」  名前を呼ぶと、彼女の笑みが少し固くなった。 「この図案、いつ作ったの」 「去年です。お母様……いえ、瀬里奈お母
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-15
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第36話 暗号を隠した花

 私はその笑い声を拾わないことにした。拾えば、手元が濁る。  布の裏をめくると、莉々花の息が近くで止まった。 「触らないで」  今度は、甘い声ではなかった。  素の声が出た。少し幼くて、少し乱暴で、欲しいものを取られそうな子どもの声。  私は手を止めない。 「触られると困るものを、展示したの?」  マイクから返った声は静かだった。  周囲の笑いが消える。司会者が息を詰め、悠真が莉々花の腕へ手を伸ばしかけて止めた。  征臣は口を挟まず、半歩後ろにいる。私の声が途切れた時だけ受け止めるような距離だった。  私は花弁の数をもう一度数えた。十二、七、三。母の図案帳の針穴と同じ並び。  証拠は声を荒らさない。  ただ、そこにあった。  数字を読み上げた瞬間、会場の空気が一瞬変わった。  白い布の表側だけを見ていた人たちが、ようやく裏側を見る。糸の結び目。花弁の数。青い鈴の輪。華やかな照明の下では隠れていたものが、マイクの前で急に輪郭を持つ。  莉々花の指先が、展示台の縁を掴んでいた。 「お姉様、何を……」 「十二、七、三。寄付帳簿の百二十七ページ」  私はマイクを持つ手を少し下げた。声を大きくする必要はなかった。会場はもう、布の裏側に耳を寄せている。 「この図案には、母が帳簿の欠番を示す時に使っていた数字の置き方があります。表の花弁は飾りです。でも裏の針目は、番号になっている」  誰かが、展示台の横に置かれていたパンフレットをめくった。  莉々花は泣きそうな顔をした。けれど涙は出ない。出す順番を間違えたみたいに、瞼だけが震えている。 「そんなの、偶然です」 「偶然なら、裏側を見せても困らないはずです」  母の名前が喉まで上がり、飲み込んだ。ここで口にするのは、違う気がした。  私は司会者へ視線を向けた。 「会場の寄付帳簿を確認できますか」  司会者は一度、莉々花を見た。莉々花はすぐに小さく首を振る。可憐に見える角度だった。けれど遅かった。  鷹宮財団のスタッフが、革表紙の帳簿を運んでくる。古い紙の匂いが、花と香水の間に混じった。  征臣はまだ前に出ない。けれど帳簿を受け取ったスタッフが私の前で立ち止まるよう、目だけで指示していた。  私は百二十七ページを開く。  そこには、施設名がなかった。  寄付先欄だけが、細
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-15
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第37話 消えた施設名

 帳簿の空欄は、思っていたより目立った。  そこだけ紙の色がかすかに違う。後から削られたのか、貼られたのか、照明の角度で細く白く浮いている。  私は指で触れなかった。触れば、誰かに汚したと言われる。そういう言い方を、白鳥家の人間はよく知っている。 「このページに記載されていた寄付先を、別資料で確認できますか」  司会者ではなく、財団スタッフへ尋ねた。若い男性スタッフは慌ててタブレットを操作し、顔を上げる。 「旧台帳に、同番号の寄付先があります。名称は……若葉の家」  会場のざわめきが、低く広がった。  聞き覚えのない施設名だった。けれど、母の字が書類の角に残っているだけで、無関係とは思えない。  莉々花が、そこでようやく涙を作った。 「そんな施設、知りません。私、そんなところと関係ないです」  言い切ったあと、自分の声の強さに気づいたのだろう。彼女は慌てて口元に手を当てた。  周囲の視線が変わる。  莉々花は、さっきまでこの刺繍を自分の慈善活動の象徴だと語っていた。支援先の子どもたちを思って縫ったと、淡い声で言ったばかりだ。 「知らない施設のために、刺繍を?」  問いかけたのは私ではなかった。  悠真だった。  自分でも驚いたように、彼は唇を閉じる。莉々花がすがるように彼の袖を掴んだ。 「違うの。今のは、そういう意味じゃなくて」 「じゃあ、どういう意味?」  悠真の声はまだ柔らかい。けれど柔らかさの底が、少し冷えている。  私は帳簿の別紙へ目を落とした。  若葉の家。閉鎖日。小さな印字を追う。  母の死亡日の、前日。  指輪の跡が残る指が、帳簿の端で止まった。  あの夜、母は病室の白い天井を見ていた。私はそう聞かされていた。白鳥家で、父と瀬里奈から、何度も。  けれど帳簿には、病室だけでは説明のつかない日付が残っている。 「閉鎖日は、母が亡くなる前日です」  言葉が落ちた瞬間、征臣の視線が帳簿へ走った。  消えた施設名の行だけ、紙が薄く擦れていた。誰かが何度も指でなぞったのかもしれない。消したつもりの名前ほど、跡が残る。その跡を見て、声が自然と低くなった。 「この閉鎖日の原票も、見せてもらえますか」  征臣がこちらを見る。  私は帳簿から目を上げなかった。 「今は、ここを先に確認したいです」  莉々花
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-16
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第38話 空欄の寄付先

 征臣がケースの横に立った。 「留め具が固そうだな。俺が開けようか」  征臣はケースへ目を落としたが、まだ手は伸ばさなかった。  私は顔を上げる。 「開けてください。でも、中を見るのは私がやります」  征臣の手がケースの留め具で止まった。 「ああ。開けたら、君に渡す」  そう言ってから、征臣は留め具に指をかけた。  ケースの蓋が開く。  中にあったのは、若葉の家の寄付関連資料だった。寄付先欄には、やはり施設名がない。けれど余白に、母の筆跡で同じ言葉が残っていた。  子どもたちへ。  何度見ても、六文字だけだ。  母は、誰かに見つかることを恐れて、名前を書けなかったのかもしれない。けれど消してしまうこともできなかったのだろう。  胸の奥が、じわりと熱くなった。  泣くより先に、紙の端を確認する。癖みたいなものだ。悲しい時ほど、細かいところを見る。そうしないと、足元が崩れる気がする。  資料の束の間に、薄い台帳のコピーが挟まっていた。  薬品管理台帳。  施設名は、若葉の家。  日付は、母が亡くなる二日前から前日にかけて。 「澪」  征臣が名前を呼んだ。 「大丈夫……と言いたいです。でも、少しだけ待ってください」  自分で言って、少し嘘だと思った。  台帳の端に、青いインクで小さな印がついている。  台帳の紙は冷たいのに、空欄だけが妙に生々しかった。母が何を書こうとして、何を消されたのか。そこを記載漏れで片づける気にはなれなかった。  黙っていれば、調査から外される気がした。私は視線を逸らさなかった。  喉が乾いていた。けれど水を飲めば、目の前の空欄から逃げたことになる気がした。私は唇を湿らせるだけで、寄付先の名が消された行を見据えた。  母の図案帳にあった銀鈴と、同じ丸だった。  薬品管理台帳は、紙そのものが少し波打っていた。  湿気を吸ったのか、保管状態が悪かったのか。端を持ち上げると、古い糊と消毒液の匂いがかすかに立つ。  私は息を浅くした。  その匂いに、母の病室が重なった。  母の病室で嗅いだ匂い。白いシーツ。窓際の花瓶。看護師が取り替えてくれたばかりの水。父が持ってきた果物籠の甘い匂いの奥に、これと似たものがあった。 「顔色が悪いな。少し座らないか」  征臣が言う。 「今は、まだ読めます」
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-16
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第39話 施設に残る匂い

 私はページをめくった。  担当者印が一つ、他の欄より一瞬薄い。日付の数字も、上からなぞったように濃さが違う。 「この欄、変です」  征臣が隣から覗き込む。近い。肩が触れるほどではないのに、シャツの洗剤の匂いが台帳の薬品臭をわずかながら薄めた。 「担当者印と日付が合っていない」 「印の方が古いです。日付だけ、後で書き直しているように見えます」  私の声は落ち着いていた。  台帳の余白に、薬剤名らしき文字が残っている。途中で消されていたが、完全には消えていない。  視界の端で、征臣が一度だけ拳を握った。 「母の死亡診断書を」  診断書を机へ置く前に、私は撮影時刻と資料番号を確認した。紙の匂いに記憶を引かれても、順番だけは崩したくなかった。  言い終える前に、彼は封筒を差し出した。  私はその早さに、かすかに笑いそうになった。こういう時だけ、恐ろしく有能だ。  封筒から診断書の写しを取り出す。  余白に残った文字が、台帳の消し跡と重なった。  診断書の余白に残っていた薬剤名は、完全な文字ではなかった。  けれど、台帳の消し跡と合わせると読めてしまう。読めてしまうことが、怖かった。  母の死は、ずっと病気の終わりだと聞かされてきた。  苦しんだけれど、穏やかに逝った。父はそう言った。瀬里奈はその横で、白いハンカチを目元に当てていた。莉々花は私の袖を掴んで、泣いていいよ、お姉様、と言った。  あの時のハンカチの白さまで覚えている。  私は台帳の次のページを開いた。  来訪者記録。  菜月の名前があった。  死亡日の二日前。午後三時四十分。若葉の家、面談室二。  母の筆跡ではない。施設職員の丸い字だ。けれど名前の横に、小さな追記がある。  絵本十二冊。刺繍糸。青。  母は、そこにいた。  病室にいるはずだった母が、施設へ行っていた。  膝の上に置いた手が、少し震えた。私はすぐに指を組む。震えたことを隠すには、これが一番早い。 「少し休むか」 「いいえ。……水だけ、ください」  征臣はそれ以上聞かず、入口の職員へ手を上げた。  届いたのは、よく冷えたグラスではなく、未開封の常温のボトルだった。  紙の上の母から、ようやく目を離せた。  ボトルを受け取る手に、少し時間がかかった。 「水だけ」と遮るように答えた声
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-17
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第40話 菜月の最後の訪問

 薬品管理。  そこだけ、職員の筆圧が少し強い。 「母は、何かに気づいていたんですね」  声に出すと、紙の上の文字が急に重くなった。  答えを持っていない沈黙だった。  私は次のページをめくる。  母の訪問日の翌日、投薬記録が差し替えられていた。  母の名前が出るたび、ページをめくる手が遅くなる。最後の訪問、と読むと、調査より先に「会いたかった」が浮かんだ。私は一度だけ目を閉じ、次の行へ指を置いた。 「今、ページを閉じようとしましたよね」 「すまない。つらそうで、つい閉じかけた」 「……いいです。そこ、もう一度見せてください」  征臣は口を閉じた。  私は次のページへ視線を戻した。  差し替え理由の欄だけが、空欄だった。  帳簿の紙は乾いていた。けれど私の指には、病室の湿った空気がまとわりつく。証拠とは、こんなに生々しいものだったのかと思った。  差し替えられた投薬記録は、整いすぎていた。  日付、担当者印、薬剤名、数量。必要なものが全部並んでいる。だからこそ、変だった。現場で使われる書類は、もっと端が汚れる。誰かの急いだ線や、押し直した印や、読みにくい数字が残る。  この一枚だけ、白すぎる。  紙の端を光へ傾けると、担当者印の周囲だけ繊維がわずかに毛羽立っていた。一度押した印を削り、上から押し直したようにも見える。断定はできない。だからこそ、見つけた違和感を小さく書き留めた。  母も、こうして断定できないものを一つずつ残したのだろう。誰にも信じてもらえないかもしれないまま、それでも消されない形にして。 「澪。……今は、黙っていてもいい」  征臣が低く呼ぶ。 「弁護士を入れる」  言い終える前から、話が私の手を離れていく気がした。  正しいのだろう。それでも、まだ紙から手を離したくなかった。 「待って」  短く鋭い声が出た。  征臣の手が止まる。スマートフォンを取り出しかけていた指が、画面の手前で動かなくなった。 「でも」 「最後まで、読ませてください」  父も、昔は同じような顔で言った。  お前は知らなくていい。  母のことは大人に任せなさい。  私は台帳に目を戻した。 「母のことを、私抜きで進めないで」  部屋が少し静かになる。財団スタッフが息を詰めた気配まで伝わってきた。  征臣は答えず、
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-17
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