All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話 針穴に残った数字

 母は、私に何を見つけてほしかったのだろう。 図案帳の隣に、寄付帳簿を置く。ページの角は少し焦げている。白鳥邸の暖炉から引き上げた時、火が紙の端を舐めていた。まだ指先の皮膚が、あの熱を覚えている。 一二七ページ。 そこには、児童養護施設への寄付記録があった。施設名の欄だけ、薄く削られている。上から別の紙を重ね、何かで擦った跡だ。 金額は残っていた。送金日も、承認印も残っている。そこだけ消す方が、かえって目立つ。けれど、名前がなければ、誰も追えない。そう考えた人間がいた。「削ったのに、数字だけ残した」 母らしい、と思った。 全部を言葉にしない。けれど、見ようとする人には残す。 背後で、かすかな金属音がした。 振り向くと、征臣が机の端に小さな鍵を置いていた。「帳簿室の奥の棚だ。古い寄付関連の資料がある」「知っていたんですか」 責めるつもりはなかったのに、少し硬くなった。 征臣は一拍置いた。「可能性だけだ。答えを見つけたのは、君だ」 鍵は私の方へ滑らされない。机の端で止まっている。取るかどうかは、こちらに残されていた。 それが優しさなのか、用心なのか、まだ分からない。 私はその小さな銀色を見つめた。母の針穴が、まだ光の中で細く並んでいた。 針穴を読み取るには、紙を少し斜めにしなければならなかった。真正面から見ると、ただの傷にしか見えない。角度を変えた時だけ、母の残した数字が浮く。 白鳥家での私も、そうだったのかもしれない。真正面から見れば、聞き分けのいい長女。少し角度を変えれば、削られた欄や、伏せられた名前ばかりが見える。 考えすぎだと、昔の自分ならそこで閉じた。 けれど今は、閉じなかった。 寄付帳簿の焦げた端をそっと押さえる。燃え残った紙は、思ったより脆い。息を吹きかけただけでも崩れそうで、私は呼吸を浅くした。 征臣の視線が、その呼吸まで拾った気がした。何か言いかけて、結局、言わない。言われなくてよかった。今優しくされると、手元が揺れる。 鍵は、思ったより冷たかった。 
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第32話 答えを急がせない男

 視線を図案帳へ戻したその横顔が、妙に腹立たしいほど優しかった。 その一言が少しずるい。平気ではないと暴くでもなく、無理をするなと包み込むでもない。ただ、私が今使える言葉を、そのまま置いておく。 帳簿室の扉は、鷹宮邸の北側にあった。 厚い木の扉に鍵を差し込むと、古い紙と乾いた糊の匂いが流れ出す。白鳥家の帳簿室は、いつも父の葉巻の匂いがした。ここにはそれがない。 棚は整っていた。整いすぎていて、逆に少し怖い。誰がいつ見ても困らないように、書類が年月ごとに並んでいる。「この辺りですか」「おそらく」「おそらく、ばかりですね」 つい口に出る。 征臣の眉がかすかに動いた。「はっきり言った方がいいか」「いいえ」 すぐに答えてしまい、自分で少し驚いた。 断定されたいわけではない。答えを渡されたいわけでもない。 ただ、隠されるのが嫌なのだ。 征臣は棚の前から一歩引いた。「なら、君が見て確かめてくれ。俺は手を出さない」 近すぎず、遠すぎない位置。守ると言わないのに、背中を預けられるぎりぎりの距離。 私は返事をしないまま、寄付関連資料の箱を引き出した。 背表紙の間に、不自然な隙間がある。 抜き取られたページの跡。 紙の粉が、指先に白く残った。 箱を開ける前に、私は一度だけ深く息を吸った。古い紙の匂いに、薄い防虫剤の匂いが混じっている。白鳥邸なら、ここで父の声が背中に落ちていたはずだ。余計なものを見るな、と。 ここでは、誰も言わない。 それだけで、膝の奥に入っていた力が少し抜けた。 言われないことが、こんなに不安になるとは思わなかった。自分で選べる場所は、逃げ道がない場所でもある。「無理なら、明日でいい」 征臣が低く言った。「明日にしたら、怖くなくなりますか」「ならないだろうな」 正直すぎて、ふっと笑いそうになった。こんな時に笑う自分もどうかと思う。けれど、その小さなズレのおかげで、指が動いた。 古い紙の匂いに、乾い
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第33話 寄付帳簿の欠番

「白鳥家の事業とは関係ない施設ですか」「表向きはな」「表向き……ですか」 言葉を返すと、征臣が少し黙った。 その沈黙で、まだ言っていないことがあるのだと分かる。 私は顔を上げた。「今、全部聞いたら、あなたは答えますか」 征臣はすぐに頷かなかった。正直な沈黙だった。腹立たしいくらいに。「答えられることなら」「では、今は聞きません」 自分でも少し意地が悪いと思った。 けれど、聞いてしまえば、また彼の知っている道を歩くことになる。今は母の残した針穴を、自分の目で追いたかった。 箱の底に、薄い茶封筒が挟まっていた。 中には、欠番ページのコピーが一枚。 右上に、チャリティーガラの資料袋と同じ青い封緘が貼られていた。 その青だけが、新しい傷みたいに浮いていた。 コピーの紙は新しくなかった。折り目が何度もついていて、端が柔らかくなっている。誰かが長い間、隠し場所を変えながら持っていた紙だ。 裏を見ると、薄く鉛筆の跡があった。子どもたち、と読める。母の字だった。 それだけで、喉の奥が熱くなる。施設名は消されても、母はそこにいた人たちを数字だけにはしなかった。「この施設、今もありますか」 尋ねると、征臣の目が少し伏せられた。「名称を変えて、別法人に吸収されている」「消えたわけではないんですね」「消したがった人間はいる」 その響きで、まだ先があると分かった。私は封筒の青い封緘を爪でなぞった。剥がすには、少し勇気が要った。 莉々花の唇から、血の気が引いた。泣くには早く、怒るには遅い。可哀想な妹の顔を作る前に、本音だけが一瞬、目の奥に出た。 夜になっても、数字は目の裏に残っていた。 ベッドに入る気になれず、私はもう一度帳簿室へ戻った。廊下の照明は半分落とされていて、足元の絨毯だけが薄く見える。鷹宮邸は広いのに、夜は妙に音が少ない。白鳥邸の夜は、誰かの機嫌をうかがう音でできていた。ここにはそれがない。 帳簿室の鍵を回す。
last updateLast Updated : 2026-07-14
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第34話 夜更けの帳簿室

 考えてしまった自分に、少し腹が立つ。 彼を信じるには、まだ早い。 それでも、扉の外に置かれたカップは冷めきっていなかった。 席次表の端だけが、まだ少し温かかった。 ミルクティーを一口飲む。熱すぎない。喉を通った後に、かすかに胃のあたりが緩む。こういう温度を選べる人なのだと、また余計なことを考えた。 征臣は正しいことを言う時より、何も言わずに置いていくものの方が厄介だ。 私はカップを机に戻し、席次表をもう一度見た。莉々花の名前の横には、作品出展者、慈善企画協力、と肩書きが二つ並んでいる。彼女が自分で作ったものなら、誇らしい欄だ。 けれど、もし母の図案を使っているのなら。 白い会場で、母の手がまた奪われる。 そう思っただけで、椅子から立ち上がりそうになった。慌てて座り直す。今動いても、会場はまだない。莉々花の布も、展示台も、明日まで待っている。 待つのは苦手だ。けれど、怒りだけで動けば、また可哀想な妹をいじめる姉にされる。 私は席次表を図案帳の間に挟んだ。紙の角が、母の青い鈴の横で止まった。 チャリティーガラの会場は、白で統一されていた。 白い花。白いクロス。白いライトに照らされた展示台。善意という言葉は、こういう色をしているのかもしれない。汚れが見えないように、最初から何もかも白くしておく。 私は受付で名を告げ、胸元の小さな名札を受け取った。 白鳥澪。 その下に、鷹宮財団招待客、とある。 まだこの肩書きに慣れない。紙一枚で、立つ場所が変わる。変わったように見える。けれど、紙の裏側まで見なければ、本当に変わったかどうかは分からない。 会場奥の展示台に、人だかりができていた。 中心にいたのは莉々花だった。 今日は薄い水色のドレスを着ている。白ではない。けれど照明を受けると、ほとんど白に見えた。胸元には、あの銀鈴がある。「亡くなった方々への祈りと、これから育つ子どもたちへの願いを込めて刺しました」 柔らかい声が、会場にほどけていく。 展示台の上には、白い布が広げられていた。 青い銀鈴
last updateLast Updated : 2026-07-14
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第35話 ガラ会場の白い刺繍

 莉々花はそのたびに、かすかに首をかしげた。褒め言葉を受け取り慣れている角度だ。涙より先に鏡を見る子だと、私は知っている。 悠真もそばにいた。婚約者として隣に立っているのに、莉々花の説明が征臣に届くかどうかばかり気にしている。彼の横顔には、まだ前回の傷が残っていた。「素敵でしょう、お姉様」 莉々花が布にそっと手を添える。 私は頷かなかった。「よくできていると思う」 褒めたつもりはない。けれど周囲には、姉が妹を認めたように聞こえたらしい。ほっとした空気が一瞬流れる。 その空気の下で、莉々花だけが私の声の硬さに気づいた。「お姉様、怖い顔をなさらないで」 莉々花が小さく笑った。声だけは怯えているのに、指先は刺繍の縫い目をなぞっている。「せっかく、皆さんが私のことを心配してくださっているのに」 心配。便利な言葉だった。彼女はそれを盾にして、会場の視線を少しずつ私の方へ向ける。 近くの夫人が囁いた。「やっぱり、お姉様の方がきついのね。記事も、全部嘘ではなさそう」 聞こえる距離だった。聞かせるための距離でもあった。 莉々花は否定しなかった。否定しない優しさを装って、噂だけを私の足元に置いていく。 その時、征臣がグラスを置いた。音は小さかったのに、会話だけが止まった。「本人の前で確かめもせず、事実ではない噂を広げる。それは社交ではなく、加担です」 布の裏側に、母の癖が残っていた。 莉々花がどれほど表を飾っても、裏の糸は嘘をつかない。青い鈴の輪郭を追う糸は、外から見えない場所で小さく交差している。母がよく使っていた処理だ。 見えないところで手を抜くと、表の形も崩れるのよ。 子どもの頃に聞いた声が、針先みたいに戻ってくる。 私は展示台へ一歩近づいた。 莉々花がすぐに布の前へ立つ。「あまり近くで見ないでください。繊細な作品なので」「繊細ですね」 花弁の数を目で追う。 一つ目の花は十二。次が七。葉の数が三。 一二七。 寄付帳簿の欠番ページと
last updateLast Updated : 2026-07-15
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第36話 暗号を隠した花

 私はその笑い声を拾わないことにした。拾えば、手元が濁る。 布の裏をめくると、莉々花の息が近くで止まった。「触らないで」 今度は、甘い声ではなかった。 素の声が出た。少し幼くて、少し乱暴で、欲しいものを取られそうな子どもの声。 私は手を止めない。「触られると困るものを、展示したの?」 マイクが拾った自分の声は、思ったより静かだった。 周囲の笑いが消える。司会者が息を詰め、悠真が莉々花の腕へ手を伸ばしかけて止めた。 征臣は何も言わない。けれど、隣にいる。私の声が途切れた時だけ受け止めるように、半歩後ろにいる。 私は花弁の数をもう一度数えた。十二、七、三。母の図案帳の針穴と同じ並び。 証拠は声を荒らさない。 ただ、そこにあった。 数字を読み上げた瞬間、会場の空気が一瞬変わった。 白い布の表側だけを見ていた人たちが、ようやく裏側を見る。糸の結び目。花弁の数。青い鈴の輪。華やかな照明の下では隠れていたものが、マイクの前で急に輪郭を持つ。 莉々花の指先が、展示台の縁を掴んでいた。「お姉様、何を……」「十二、七、三。寄付帳簿の百二十七ページ」 私はマイクを持つ手を少し下げた。声を大きくする必要はなかった。会場はもう、布の裏側に耳を寄せている。「この図案には、母が帳簿の欠番を示す時に使っていた数字の置き方があります。表の花弁は飾りです。でも裏の針目は、番号になっている」 誰かが、展示台の横に置かれていたパンフレットをめくった。 莉々花は泣きそうな顔をした。けれど涙は出ない。出す順番を間違えたみたいに、瞼だけが震えている。「そんなの、偶然です」「偶然なら、裏側を見せても困らないはずです」 母の名前を出したい衝動を、歯の裏で止めた。ここで母を盾にしたら、莉々花と同じになる。欲しい言葉を取るために、死んだ人の優しさまで使うことになる。 私は司会者へ視線を向けた。「会場の寄付帳簿を確認できますか」 司会者は一度、莉々花を見た。莉々花はす
last updateLast Updated : 2026-07-15
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第37話 消えた施設名

 帳簿の空欄は、思っていたより目立った。 そこだけ紙の色がかすかに違う。後から削られたのか、貼られたのか、照明の角度で細く白く浮いている。 私は指で触れなかった。触れば、誰かに汚したと言われる。そういう言い方を、白鳥家の人間はよく知っている。「このページに記載されていた寄付先を、別資料で確認できますか」 司会者ではなく、財団スタッフへ尋ねた。若い男性スタッフは慌ててタブレットを操作し、顔を上げる。「旧台帳に、同番号の寄付先があります。名称は……若葉の家」 会場のざわめきが、低く広がった。 聞き覚えのない施設名だった。けれど、母の字が紙の端に残っているだけで、無関係とは思えない。 莉々花が、そこでようやく涙を作った。「そんな施設、知りません。私、そんなところと関係ないです」 言い切ったあと、自分の声の強さに気づいたのだろう。彼女は慌てて口元に手を当てた。 周囲の視線が変わる。 莉々花は、さっきまでこの刺繍を自分の慈善活動の象徴だと語っていた。支援先の子どもたちを思って縫ったと、淡い声で言ったばかりだ。「知らない施設のために、刺繍を?」 問いかけたのは私ではなかった。 悠真だった。 自分でも驚いたように、彼は唇を閉じる。莉々花がすがるように彼の袖を掴んだ。「違うの。今のは、そういう意味じゃなくて」「じゃあ、どういう意味?」 悠真の声はまだ柔らかい。けれど柔らかさの底が、少し冷えている。 私は帳簿の別紙へ目を落とした。 若葉の家。閉鎖日。小さな印字を追う。 母の死亡日の、前日。 指輪の跡が残る指が、帳簿の端で止まった。 あの夜、母は病室の白い天井を見ていた。私はそう聞かされていた。白鳥家で、父と瀬里奈から、何度も。 けれど帳簿の紙は、別の場所を指している。「閉鎖日は、母が亡くなる前日です」 言葉が落ちた瞬間、征臣の視線が帳簿へ走った。 消えた施設名の行だけ、紙が薄く擦れていた。誰かが何度も指でなぞったのかもし
last updateLast Updated : 2026-07-16
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第38話 空欄の寄付先

 征臣がケースの横に立った。「俺が開ける」 短い声だった。けれど手は伸びない。 私は顔を上げる。「開けてください。でも、中を見るのは私がやります」「分かっている」 少し早い返事だった。 分かっている、と言いながら、本当は今すぐ全部を調べて、危ないものを先に取り除きたい顔をしている。カフスに触れた指が、その気持ちを隠しきれていなかった。 ケースの蓋が開く。 中にあったのは、若葉の家の寄付関連資料だった。寄付先欄には、やはり施設名がない。けれど余白に、母の筆跡で同じ言葉が残っていた。 子どもたちへ。 何度見ても、六文字だけだ。 母は、誰かに見つかることを恐れて、名前を書けなかったのかもしれない。けれど消してしまうこともできなかったのだろう。 胸の奥が、じわりと熱くなった。 泣くより先に、紙の端を確認する。癖みたいなものだ。悲しい時ほど、細かいところを見る。そうしないと、足元が崩れる気がする。 資料の束の間に、薄い台帳のコピーが挟まっていた。 薬品管理台帳。 施設名は、若葉の家。 日付は、母が亡くなる二日前から前日にかけて。「澪、無理に言葉にしなくていい」 征臣が名前を呼んだ。止めるためではなく、倒れたら受け止める位置を確かめるような声だった。「大丈夫……と言いたいです。でも、少しだけ待ってください」 自分で言って、少し嘘だと思った。 台帳の端に、青いインクで小さな印がついている。 台帳の紙は冷たいのに、空欄だけが妙に生々しかった。母が何を書こうとして、何を消されたのか。そこを記載漏れで片づける気にはなれなかった。 守られるだけなら、たぶん楽だった。けれど空欄の寄付先のことを前にして黙っていれば、私はまた安全な場所という名の箱に戻される。征臣がそれに気づくまで、私は視線を逸らさなかった。 喉が乾いていた。けれど水を飲めば、目の前の空欄から逃げたことになる気がした。私は唇を湿らせるだけで、寄付先の名が消された行を見据えた。
last updateLast Updated : 2026-07-16
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第39話 施設に残る匂い

 私はページをめくった。 担当者印が一つ、他の欄より一瞬薄い。日付の数字も、上からなぞったように濃さが違う。「この欄、変です」 征臣が隣から覗き込む。近い。肩が触れるほどではないのに、シャツの洗剤の匂いが台帳の薬品臭をわずかながら薄めた。「担当者印と日付が合っていない」「印の方が古いです。日付だけ、後で書き直しているように見えます」 私の声は、思ったより落ち着いていた。 台帳の余白に、薬剤名らしき文字が残っている。途中で消されていたが、完全には消えていない。 視界の端で、征臣の指がカフスに触れた。「母の死亡診断書を」 言い終える前に、彼は封筒を差し出した。 私はその早さに、かすかに笑いそうになった。こういう時だけ、恐ろしく有能だ。 封筒から診断書の写しを取り出す。 誰かが息を呑んだ。その小さな音で、施設に残る匂いがただの出来事ではなくなったと分かる。私はその場のざわめきを味方にするように、ゆっくり口を開いた。 余白に残った文字が、台帳の消し跡と重なった。「お姉様」と呼ぶ時の莉々花は、必ず半歩だけ弱く見える位置に立つ。誰かが庇いやすい角度だ。私はもう、その角度に立たされない。 紙に触れた瞬間、母の部屋の埃っぽい匂いが戻った。数字だけなら、こんなに胸は痛まない。そこに母の時間が挟まっているから、私は目を逸らせなかった。 私は声を抑えた。抑えた声の方が、かえって相手の逃げ道を狭めることを、その場の全員が分かっていた。莉々花の睫毛が小さく震える。今度は、その震えに譲らない。 診断書の余白に残っていた薬剤名は、完全な文字ではなかった。 けれど、台帳の消し跡と合わせると読めてしまう。読めてしまうことが、怖かった。 母の死は、ずっと病気の終わりだと聞かされてきた。 苦しんだけれど、穏やかに逝った。父はそう言った。瀬里奈はその横で、白いハンカチを目元に当てていた。莉々花は私の袖を掴んで、泣いていいよ、お姉様、と言った。 あの時のハンカチの白さまで覚えている。 私は台帳の次のページを開いた。 来
last updateLast Updated : 2026-07-17
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第40話 菜月の最後の訪問

 薬品管理。 そこだけ、職員の筆圧が少し強い。「母は、何かに気づいていたんですね」 声に出すと、紙の上の文字が急に重くなった。 征臣はすぐに答えなかった。答えを持っていない沈黙だった。 私は次のページをめくる。 母の訪問日の翌日、投薬記録が差し替えられていた。 母の名前が胸をかすめるたび、怒りだけでは立っていられなくなる。菜月の最後の訪問の奥には、会いたいという幼い感情がまだ残っている。それでも読み、言葉にする。母を可哀想な人で終わらせないためには、私が最後まで声を失わないことが必要だった。 征臣の指がページの端にかかり、紙が半分だけ持ち上がる。「閉じないでください」 手が止まった。「……分かった。最後まで読む」 差し替え理由の欄だけが、空欄だった。 帳簿の紙は乾いていた。けれど私の指には、病室の湿った空気がまとわりつく。証拠とは、こんなに生々しいものだったのかと思った。 悠真は口を開いたが、莉々花の方を見た瞬間に言葉を失った。守りたい女を見る目ではない。自分が何に使われていたのか、ようやく数え始めた男の目だった。 差し替えられた投薬記録は、整いすぎていた。 日付、担当者印、薬剤名、数量。必要なものが全部並んでいる。だからこそ、変だった。現場で使われる書類は、もっと端が汚れる。誰かの急いだ線や、押し直した印や、読みにくい数字が残る。 この一枚だけ、白すぎる。 征臣がスマートフォンへ手を伸ばした。「相沢を呼ぶ」「その前に、私に読ませてください」 画面の直前で指が止まり、彼は端末を伏せた。 光の消えた画面の横へ、私は台帳を広げ直した。紙をめくる乾いた音が、資料室の壁に返る。 顔を上げると、彼の眉間に細い皺が寄っていた。危ないものを遠ざけたいのだろう。その気持ちは分かる。 分かるから、余計に怖い。 父も、昔は同じような顔で言った。 お前は知らなくていい。 母のことは大人に任せなさい。 私は台帳に目を戻した。
last updateLast Updated : 2026-07-17
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