All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 41 - Chapter 50

58 Chapters

第41話 投薬記録の違和感

 瀬里奈さんの優しい声は、扉を閉める音に似ている。穏やかな言葉で退路をふさぎ、こちらが声を荒げれば、ほら怖いでしょう、と微笑む。昔はそれが怖かった。今は、怖いままでも見返せる。 莉々花の声は柔らかい。柔らかい声で、母の名前も私の席も消してきた。だから私は、柔らかさに返事をしなかった。 ハンカチを握る瀬里奈さんの指が、白くなっていた。娘を庇いたい母と、家を守りたい妻。その二つが同じ笑顔の裏で喧嘩している。 投薬記録の違和感は、まだ形にならない小さな刺だった。誰かに都合のいい結論へ押し込まれる前に、その刺の向きを覚えておきたかった。 折れ目は小さかった。けれど、急いでしまい込んだ人間の癖がそこに残っている。きれいに整えたつもりでも、紙は嘘に慣れていなかった。 白鳥邸の二階、莉々花の部屋には大きな鏡がある。 母の部屋から運び込まれた鏡だ。縁に小さな鳥の彫刻がある。澪が子どもの頃、菜月が髪を結う時に使っていたものだった。 莉々花は、その鏡の前で涙の角度を確かめていた。 右から見れば、頬に落ちる。左から見れば、瞳の縁で留まる。上目遣いにすると幼く見えすぎるから、顎は少し引く。「怖かったんです。お姉様が、急に……」 声に震えを混ぜる。 背後の扉が開いたことに、莉々花はすぐ気づかなかった。 悠真は、入口に立ったまま動けずにいた。ノックをしなかった自分が悪いのか、見てはいけないものを見たのか、どちらか分からない顔をしている。「莉々花」 呼ぶと、莉々花は鏡越しに微笑んだ。 涙が一瞬で消える。代わりに、可愛い婚約者の顔が出てくる。その切り替わりの早さを、悠真は初めて正面から見た。「悠真さん。どうしたの?」「今の……練習?」 莉々花は小さく首をかしげた。いつもの角度だ。けれど鏡に映る彼女の指は、ドレッサーの縁を強く掴んでいた。「違うの。明日の茶会で、ちゃんと話せるようにしていただけ」「ちゃんと、って」「だって、お姉様は上手なの。何も言わないで、私を悪者にするんだもの」
last updateLast Updated : 2026-07-18
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第42話 「人のもの」の失言①

 翌日の茶会は、白鳥家と親しい夫人たちだけの小さな集まりという名目だった。 けれど小さな集まりにしては、スマートフォンを伏せて置く人が多い。伏せているのに、画面の端がこちらを向いている。録音しているかもしれない。そう考える自分が、かすかに嫌になった。 でも、嫌になるだけで済ませる段階はもう終わっている。 私は紅茶に口をつけず、カップの縁に映る自分の指を見ていた。 莉々花は開始から三分で泣いた。「私、本当に分からないんです。どうしてお姉様は、私の大切なものばかり……」 周囲の夫人たちが、気の毒そうに息を合わせる。征臣は隣にいたが、口を挟まない。私が話す場所を空けている。 莉々花はそれが気に入らないらしい。涙の向きを少し変え、征臣に見える角度でハンカチを押し当てた。「幼い頃から、そうでした。お姉様は昔から、人のものを欲しがるんです」 カップの底が、ソーサーに小さく触れた。 私ではない。 悠真だった。 彼は何かを言おうとして、やめた。昨日の鏡の前の声を思い出したのかもしれない。 私はハンカチの刺繍を見た。莉々花が持つ白い布には、青い鈴が小さく縫われている。盗まれた図案と同じ角度。「莉々花」 名前を呼ぶと、彼女はびくりと肩を揺らした。「私が欲しがったあなたのものって、何?」「え……」「婚約者は、あなたが私から奪った。母の指輪も、あなたが欲しがった。銀鈴の図案も、母の帳簿から出てきた。あなたのものは、どれ?」 声は荒れなかった。自分でも冷たいと思うくらい、短く落ちた。 莉々花の口元が引きつる。「そんな言い方、ひどいです」「答えて」 夫人たちの視線が泳ぐ。誰も助け舟を出さない。莉々花はハンカチを握り直した。いつもなら、その白い布だけで誰かが味方につく。けれど今日は、布がただ皺になるだけだった。「……お姉様は、我慢できるでしょう」 ぽろりと落ちた声に、茶会の空気が変わった。甘い涙声ではない。叱られ
last updateLast Updated : 2026-07-18
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第43話 「人のもの」の失言②

 莉々花のハンカチが、膝の上でくしゃりと潰れた。 莉々花の涙は、そこで一度止まった。泣き方を間違えた顔だった。私が「人のもの」という言葉をそのまま返さず、彼女の言い方だけを静かに拾ったからだ。「お姉様、そんな言い方……」「あなたが先に言ったのよ」 短く返すと、莉々花の唇が薄く震えた。怖がっている顔ではない。自分が投げた石の重さに、遅れて指先が触れたような顔だった。 莉々花のハンカチが膝の上で潰れたあと、ラウンジの空気はしばらく戻らなかった。誰かが匙を置く音だけが、妙に大きく聞こえる。 私はテーブルの縁に置いた指を一度だけ引いた。爪の先が冷えている。言い過ぎたとは思わなかった。ただ、言ったあとで自分の声の低さに少し驚いた。「お姉様、そんな……みんなの前で」 莉々花はまた涙を作ろうとした。けれど、目元を押さえる前に征臣の視線がハンカチへ落ちる。青い鈴の刺繍。母の図案に似せた、不自然に整いすぎた糸目。「みんなの前で始めたのは君だ」 征臣の声は低かった。怒鳴らない。だから余計に、カップを持っていた夫人の手が止まる。 莉々花は唇を噛んだ。悠真は彼女の隣で、何かを言いかけて、やめる。庇う言葉を探している顔ではなかった。自分が何を信じていたのか、急に分からなくなった人の顔だった。「帰りましょう」 私は椅子を引いた。謝罪会と呼ばれた場所に、謝罪は一つも落ちていない。代わりに、青い糸と嘘の匂いだけが残っていた。 車に乗ってからも、征臣はしばらく何も言わなかった。窓の外にホテルの灯りが流れる。ガラスに映った自分の顔は、泣いたあとでも、怒ったあとでもなかった。頬だけが妙に乾いていて、長く我慢しすぎた人間はこういう顔になるのかと思った。「怖くなかったか」 少し遅れて、征臣が言った。「怖いというより……疲れました。あの子の涙の後始末まで、まだ私がしなきゃいけない気がして」「そうか。……じゃあ、今夜は何も聞かない」 たったそれだけで、彼はそれ以上踏み込ま
last updateLast Updated : 2026-07-19
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第44話 温室の鍵

 鍵は、今の鷹宮邸には似合わない古さだった。真鍮の色はところどころくすみ、鈴の形をした飾りには細い傷がある。触れると、指先にかすかなざらつきが残った。 金属なのに、少し土の匂いがする。そう言うと変だろうかと思って黙っていると、征臣が先に口を開いた。「土の匂いがするか」「……します。今、言おうか迷っていました」「俺も、昔そう思った」 それだけの会話なのに、鍵が少しだけ証拠品ではなく、誰かが使っていた物に戻った気がした。「これは?」「昔の温室の鍵だ」 征臣はカフスに触れた。彼が困るときの癖だと、もう分かる。冷たい顔をしていても、指先だけがかすかに忙しくなる。「温室……」 言葉にした瞬間、湿った土の匂いが鼻の奥に浮いた。古い記憶は輪郭が曖昧で、色だけが強い。曇ったガラス。雨のあとに光る葉。誰かの荒い息。 私は鍵を箱に戻そうとして、うまく置けなかった。小さな鈴が、布の上で短く鳴る。 征臣が鍵箱の蓋に手を添えた。「今日はここまでにするか」「いいえ。今、思い出したいです」 蓋は閉じられず、小さな鈴が布の上で揺れた。 自分の声が思ったより早く出たことに、少し驚いた。白鳥家にいた頃なら、きっと先に相手の顔色を見た。今言っていいことか、相手を困らせないか、場を乱さないか。そうやって一度飲み込んで、飲み込みすぎて、何を言いたかったのか分からなくなる。 けれど、この鍵だけは違った。母の帳簿と銀鈴と同じ場所に、何かがつながっている気がした。「鷹宮さんは、その温室で何を覚えているんですか」「怪我をした」「誰かに助けられた?」 征臣は短く頷いた。 短い返事。けれど、その先が続かない。 征臣は窓の外へ視線を逃がした。夜の庭は暗く、石畳の端だけが外灯に浮いている。「雨の日だった。息が苦しくて、うまく立てなかった。大人を呼ぶ声がした。泣いていたのか、怒っていたのか、よく分からない声だった」「女の子?」「たぶん、女の子だった」
last updateLast Updated : 2026-07-19
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第45話 鍵の先に残る匂い

 翌朝、温室は邸の北側にあった。今は使われていないらしく、庭師が通る小道から少し外れた場所で、ガラスの屋根だけが薄く白んでいる。 征臣は鍵を差し込む前に、曇ったガラス越しの内部を確かめた。「中は埃がひどい。足元も悪そうだ」「それでも入ります」「分かった。俺の後ろを歩いてくれ」 彼が鍵穴へ向き直る。鈍い金属音に紛れて、肩の力が少し抜けた。 錠前は一度引っかかってから、鈍い音を立てて開いた。扉の隙間から、湿った土と古い木の匂いが流れてくる。胸の底ではなく、喉の手前に何かが触れた。 中は、取り残されたような場所だった。割れた鉢。乾いた蔓。曇ったガラスの下に、まだ緑を残した小さな葉。 私は一歩入って、右手の棚を見た。白い札がいくつか下がっている。文字は薄れていたが、その一枚に見覚えがあった。「ミヤノ……」 母の旧姓。 声に出した途端、足元の砂利が鳴った。征臣の靴音が一歩だけ近づき、止まった。 私は棚の前にしゃがんだ。札の裏に、小さな数字が鉛筆で書かれている。二十三、七、十一。図案帳の針穴と同じ並び。「母は、ここにも来ていたんですね」「書類上は、鷹宮財団のチャリティー事業の相談役だった」「書類上は?」「実際には、白鳥家の帳簿も見ていた可能性がある」 言葉は簡潔で、湿った温室の空気にすぐ溶けた。 今はそれでよかった。泣くより先に、確かめたかった。 温室の奥に、小さなベンチがあった。脚の一本が少し曲がっている。近づくと、古い木肌に薄く傷が残っていた。指でなぞると、ひらがなの一部のようにも見える。 み。 たぶん、ただの傷だ。そう思おうとしたのに、指が離れなかった。「そこに座っていた」 征臣が言った。「誰が?」「俺が。たぶん、泣いていた」「たぶん?」「覚えていたくないことは、都合よく薄くなる」 その確認の仕方が、かすかに幼く聞こえた。冷たい副社長ではなく、雨の温室で息を詰まらせていた子どもの声に近い。 背後で
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第46話 前にも聞いた声

 征臣の目がかすかに揺れた。赤い靴下。自分で言ってから、なぜそれが出てきたのか分からなかった。幼い頃の私は赤い靴下など履いていただろうか。母なら覚えていたはずだ。けれど、母はいない。残っているのは帳簿と手紙と、針穴ばかり。「鷹宮さんは」 名前を呼びかけて、少し迷った。「征臣でいい」「……急に言われると困ります」「そうか」「そうです」 あまりに真顔で返されて、変なところで力が抜けた。笑う場面ではないのに、息だけが少し漏れる。征臣もそれを見て、まぶたを落とした。「私は、昔の私が誰かを助けたから選ばれたんですか」 聞いた瞬間、空気が少し変わった。 庭師の鋏が二度鳴るまで、征臣は温室の曇った窓を見ていた。「最初は、確かめたかった」「最初は?」「今は違う」 ずるい言い方だと思った。今は違う、とだけ言われても、最初の理由が消えるわけではない。けれど、否定しないところが、余計に引っかかる。 私は青い手袋をはめた手を見た。母の指輪があった場所は、布の下に隠れている。隠れているのに、熱だけは残っていた。「今の私は、昔の誰かの代わりにはなれません」「分かっている」 私は温室の棚を見た。母の旧姓が残った札。数字。小さな傷。「昔のことを追うなら、母のことも知らせてください。結果だけ渡されるのは嫌です」 征臣は窓の外へ目をやり、短く息を吐いた。「分かった。調べる時は一緒に見る」 温室を出る時、扉の脇に置かれた古い傘立てが目に入った。底に、白鳥家の封筒と同じ青い封緘シールが一枚、乾いて貼りついていた。 約束できない、と正直に言われる方が、甘い言葉よりずっと厄介だった。信じていい理由にはならないのに、嘘ではないことだけは分かってしまう。 青い封緘シールは、傘立ての底で半分だけ剥がれていた。古い埃をかぶっているのに、色だけは妙に残っている。 私はしゃがみ込み、指先を伸ばした。「触るな。採取を頼む」 反射で手を引く。素手で痕跡を壊すところだった。
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第47話 剥がれない青

 その声を聞いて、背中が少し冷えた。私には触れる前に確認を求める人が、相手を白鳥家と見た瞬間、ためらいを消す。怖いと思うより先に、ああ、この人はこうやって生きてきたのだと思った。 「怖いか」 「……少し」 「君に向けたものではない」 「分かってます。でも、向け先が違えば怖くなくなるわけじゃないです」  言うと、征臣はスマートフォンを下ろした。  征臣はすぐに言葉を返さなかった。  親指で端末の側面をなぞる。そこで謝らないところが、彼らしかった。  代わりに、次の声は少し低さが抜けていた。 「覚えておく」  温室から戻る途中、スマートフォンが震えた。画面に出たのは、知らない番号ではない。白鳥家の使用人頭、遠山の名前だった。  出るか迷う。  迷っている間に、着信は切れた。すぐに短いメッセージが届く。  お嬢様、新聞の件で、奥様がお怒りです。明日の朝刊をご覧にならない方がいいかもしれません。 「新聞?」  小さく呟くと、征臣の視線がこちらへ来た。 「見せてくれ」 「まだ何も」 「白鳥家が先に動いたなら、何もないはずがない」  彼の言い方は冷静だった。けれど、指先はカフスに触れている。  数分後、鷹宮家の秘書が持ってきたタブレットに、掲載前の記事の画面が映った。見出しは大きい。  白鳥家長女、御曹司を誘惑か。  その下に、私が夜会で征臣の隣に立つ写真があった。青い手袋の手元だけが、不自然に切り取られている。  征臣は怖い。けれど、怖さを隠して優しい人のふりをしない。その不器用さを、私はまだうまく扱えなかった。  写真の中の私は、笑っていなかった。ただ隣に立っていただけだ。なのに、切り取られた手元と見出しが並ぶと、まるで私が何かを奪い取ったように見える。  青い手袋の指先が、征臣の袖に近い位置で止まっている。実際には触れていない。けれど、紙面では触れそうな角度だけが選ばれていた。 「削除させる」  征臣の声が落ちた。 「待って」 「待てない」 「まだ、私が読んでいます」  征臣の目がこちらを向く。怒っている。私にではないと分かっていても、体が少しこわばった。 「君を悪女に仕立てる記事だ」 「怒ってるんですか」  征臣の目が、タブレットへ落ちた。肯定は、それで十分だった。 「私の代わりに?」  征臣はすぐ
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第48話 悪女記事の手元

「莉々花だけでこの文章は作れない」  征臣はタブレットの画面を一瞥しただけで、秘書へ視線を向ける。 「東都経済新聞の出資構成を出せ。直近三か月の広告主も」 「分かりました。……ただ、一つだけ聞かせてください」  秘書が下がる。ドアが閉まったあと、部屋にはタブレットの薄い光だけが残った。 「……潰したい」 「やめてください」 「まだ何もしていない」 「しそうな顔をしています」  征臣は黙った。タブレットの縁にかかっていた指が、ゆっくり離れる。 「君は、どうしたい」  すぐには答えられず、私は記事の末尾をもう一度見た。  母の部屋を知る者。帳簿を盗品にしたい者。私が反論すれば、感情的な言い訳に見える。  なら、母の帳簿を使うしかない。 「訂正記事は待ちません。先に、母の慈善帳簿を出します」 「また君が傷つく」 「もう傷ついています」  言ってから、胸ではなく指先が痛くなった。青い手袋の下で、母の指輪の跡がじわりと熱を持つ。 「だから隠したくないんです。何をされたのか、帳簿を見れば分かる」  タブレットの画面に、青い手袋の指が映っていた。震えは、まだ止まっていない。  征臣は何かを言いかけたが、タブレットを私の方へ少し押しただけだった。  画面の中の私は、知らない誰かに名前を奪われているように見えた。  コメント欄は、すでに私の知らない私で埋まっていた。  青い手袋まで計算している。  妹の涙を利用して御曹司に乗り換えた。  名門家の長女って、こうやって全部奪うんだ。  一つ一つの言葉は軽い。けれど、束になると、会場で浴びた視線よりも重くなる。 「訂正文案が来ています」  相沢がタブレットを差し出した。白鳥家広報の名義だった。  ――当方の長女が一時的に感情を乱し、関係各所にご迷惑をおかけしました。  私の名前はない。ただ、長女、という言葉だけが加害者欄に置かれていた。 「これを出されたら、莉々花は可哀想な妹で、私はまた、妹を傷つけた悪い姉にされます」  私はタブレットを返さなかった。 「訂正はいりません。私の名前で、先に事実を出します」  帳簿室の鍵を回す音は、夜の邸内で小さく響いた。もう何度も入った部屋なのに、扉を開けるたびに少し緊張する。母の字が残っている場所は、私にとって安全で、同時に痛い。  
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第49話 慈善帳簿を開く

「だから、原本だけじゃ足りません。写しがどこにあったのかも、一緒に出します」 征臣が口を閉じた。少し目を細める。「準備していたのか」「母が。私は見つけるのが遅かっただけです」 言った途端、喉の奥が詰まった。母が生きているうちに見つけていたら、何か変わったのだろうか。考えても、紙は何も答えない。 帳簿の間から、薄い封筒が落ちた。青い封緘はない。角に鉛筆で小さく「東都」と書かれている。「東都経済新聞?」「いや」 征臣の声が少し硬くなった。「東都商事の略かもしれない」 聞き覚えのある社名だった。白鳥家の取引先で、母の寄付帳簿の空欄にも何度か影のように出てきた名前だ。 封筒の中には、古い振込控えの写しが数枚入っていた。宛先は慈善団体ではなく、東都商事の関連会社。日付は、新聞記事に出た母の帳簿持ち出し疑惑より、ずっと前だった。「これを出したら、記事だけでは済みませんね」「済まない」 紙を持つ指に汗がにじむ。「……出します。このまま、向こうの話だけで決められるのは嫌です」 征臣の手が封筒へ伸び、途中で止まった。「これは俺が預かる」「先に出したりしないでくださいね」「……しない」 返事までに、ほんの少し間があった。征臣は封筒を奪わず、手を引いた。「怖くないわけじゃありません」「なら、今日はやめてもいい」「そう言われると、余計に出したくなります」「……そうか」 私は封筒を閉じた。紙の角に、指先の汗が薄く移っていた。 翌朝、東都経済新聞の記事は予定より少し遅れて掲載された。見出しは掲載前より柔らかい。けれど、悪意は消えていない。 白鳥家長女、御曹司との急接近に波紋。 急接近、という言葉の下に、青い手袋の写真が使われていた。母の指輪の跡を隠すための布が、人を誘惑した証拠のように並べられている。 私はスマートフォンを伏せた。「もう閉じろ」
last updateLast Updated : 2026-07-22
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第50話 出資者の名前

 短い肯定が、思ったより重かった。 悠真はいつも、仕方なかったと言う。家同士のことだから。状況がそうだったから。君なら分かってくれると思ったから。 でも、分かってくれると思った相手を守るために動いたことは、一度もなかった。 書類の下に、もう一枚だけ付箋の貼られたページがある。秘書の字で、情報提供者候補と書かれていた。そこに並ぶ名前の中に、白鳥瀬里奈と、莉々花の名があった。 そして、最後に有馬悠真。 指先が紙の端で止まる。「面会の申し入れが来ている」 征臣が言った。「誰からですか」「有馬悠真から」「会います。もう逃げません」 返事は自分でも早かった。征臣の眉がかすかに動く。「一人で会うな」「一人で会うなんて言ってません」「場所は俺が用意する」「場所は私が決めます。出口に近い部屋がいいです」 言い切ると、征臣は黙った。止めたい顔をしていた。けれど、止めなかった。 伏せたスマートフォンが、テーブルの上で震えた。画面に表示された名前は、見なくても分かった。 今度は、逃げるための沈黙ではない。会うと決めた指先が、紙の上の悠真の名前を静かに押さえていた。 呼び出す側ではなく、受ける側でもなく、決める側に立つ。そう思うと、震えは少し細くなった。 面会場所に選んだのは、鷹宮邸の応接室ではなかった。 ホテルの小さな会議室。窓はなく、壁は白い。余計な絵も、花も、誰かの家の匂いもしない。テーブルの上には水のグラスが三つ置かれている。私の前に一つ。悠真の前に一つ。少し離れた席に、征臣の分が一つ。 征臣は同席した。けれど、私の隣ではなく、斜め後ろに座っていた。 守るというより、証人の位置だ。 悠真は入ってくるなり、こちらを見て、それから征臣を見た。口元が一度だけ動く。何か言いかけて、飲み込んだ顔だった。「澪、記事の件は」「座ってください。立ったままだと話しにくいです」 自分でも驚くくらい、声が平らだった。 悠真は椅子に手をかけたまま止まり、少し遅れて腰を下
last updateLast Updated : 2026-07-22
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