瀬里奈さんの優しい声は、扉を閉める音に似ている。穏やかな言葉で退路をふさぎ、こちらが声を荒げれば、ほら怖いでしょう、と微笑む。昔はそれが怖かった。今は、怖いままでも見返せる。 莉々花の声は柔らかい。柔らかい声で、母の名前も私の席も消してきた。だから私は、柔らかさに返事をしなかった。 ハンカチを握る瀬里奈さんの指が、白くなっていた。娘を庇いたい母と、家を守りたい妻。その二つが同じ笑顔の裏で喧嘩している。 投薬記録の違和感は、まだ形にならない小さな刺だった。誰かに都合のいい結論へ押し込まれる前に、その刺の向きを覚えておきたかった。 折れ目は小さかった。けれど、急いでしまい込んだ人間の癖がそこに残っている。きれいに整えたつもりでも、紙は嘘に慣れていなかった。 白鳥邸の二階、莉々花の部屋には大きな鏡がある。 母の部屋から運び込まれた鏡だ。縁に小さな鳥の彫刻がある。澪が子どもの頃、菜月が髪を結う時に使っていたものだった。 莉々花は、その鏡の前で涙の角度を確かめていた。 右から見れば、頬に落ちる。左から見れば、瞳の縁で留まる。上目遣いにすると幼く見えすぎるから、顎は少し引く。「怖かったんです。お姉様が、急に……」 声に震えを混ぜる。 背後の扉が開いたことに、莉々花はすぐ気づかなかった。 悠真は、入口に立ったまま動けずにいた。ノックをしなかった自分が悪いのか、見てはいけないものを見たのか、どちらか分からない顔をしている。「莉々花」 呼ぶと、莉々花は鏡越しに微笑んだ。 涙が一瞬で消える。代わりに、可愛い婚約者の顔が出てくる。その切り替わりの早さを、悠真は初めて正面から見た。「悠真さん。どうしたの?」「今の……練習?」 莉々花は小さく首をかしげた。いつもの角度だ。けれど鏡に映る彼女の指は、ドレッサーの縁を強く掴んでいた。「違うの。明日の茶会で、ちゃんと話せるようにしていただけ」「ちゃんと、って」「だって、お姉様は上手なの。何も言わないで、私を悪者にするんだもの」
Last Updated : 2026-07-18 Read more