Alle Kapitel von AI執事と未亡人ー神託の果てー: Kapitel 71 – Kapitel 80

86 Kapitel

第69話 さようなら

「……おやすみ」 美香の声が、静かな通路に消えた。 ノアは答えなかった。 彼女の腕の中で、目を閉じたままだった。 ついさっきまで、そこにあった微笑み。 最後に一度だけ、握り返してくれた指。 そのすべてが、もう動かない。 美香は、ノアの手を離せなかった。 「……榊さん」 「……ああ」 「ノア、連れて帰れる?」 榊は一瞬、言葉を失った。 「……機体のことか?」 「うん」 美香は、ノアの乱れた銀髪を整えた。 「このまま、ここに置いていけない」 榊は端末を確認する。 《N.O.A.H. CORE:OFFLINE》 《RECOVERABLE DATA:UNKNOWN》 「搬送はできる。だが、今すぐ復旧できるとは……」 「分かってる」 美香は頷いた。 「分かってるから」 それ以上は、言わなかった。 榊も、何も言わなかった。 やがて、非常用の搬送装置が到着した。 ノアの身体を移そうとした時、美香は思わず腕に力を込めた。 「……待って」 作業用AIが動きを止める。 美香は、ノアを見つめた。 「……ごめん」 彼の手を、ゆっくりと離す。 指先が離れた瞬間。 胸の奥が、引き裂かれるように痛んだ。 たったそれだけのことが。 こんなにも、怖かった。 * 地上へ出ると、空が明るくなり始めていた。 長い夜が、終わろうとしている。 街の交通網は、一部で停止していた。 それでも、医療施設の灯りは消えていない。 避難誘導用のAIが、人々を安全な場所へ案内している。 ORACLEの強制支配機構は停止した。 必要な機能を残したまま。 世界は、まだ動いている。 ノアが守った世界だった。 「……すごいね」 美香は、搬送装置の中で眠るノアを見た。 「ちゃんと、できたんだね」 返事はない。 「……頑張ったね」 美香は、透明な保護カバーに手を置いた。 「もう、頑張らなくていいよ」 その言葉を口にした途端。 涙が溢れた。 本当は。 もっと頑張ってほしかった。 もう一度、目を開けてほしかった。 自分の名前を呼んでほしかった。 「……ごめん」 美香は俯いた。 「そんなこと、言いたく
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-21
Mehr lesen

第70話 あなたを愛しています

ノアがいなくなって、初めての朝。 美香は、目覚まし時計の音で目を開けた。 「……あと五分」 いつもの癖で、そう呟く。 けれど。 『美香さん。すでに十三分四十二秒、超過しています』 その声は、聞こえなかった。 美香は、ゆっくりと目を開けた。 天井を見つめる。 隣に、誰もいない。 「……そっか」 身体を起こす。 「ノア、いないんだった」 口に出した瞬間、胸が痛んだ。 昨日まで、当たり前だったこと。 朝、名前を呼ばれること。 温かい朝食が用意されていること。 娘たちの声に、ノアが穏やかに答えること。 その全部が、もうない。 美香は、枕元に置かれた腕時計を見た。 NOA-Link。 ノアが、家族と繋がるために使っていた端末だった。 画面は暗い。 「……おはよう、ノア」 返事はなかった。 * 朝食の席で、貴子は黙ってパンを食べていた。 茗子は、ノアの椅子を見つめている。 「……ママ」 「なに?」 「ノアの分は?」 美香の手が止まった。 食卓には、三人分の皿。 ノアは食事を必要としない。 それでも、いつも四人で囲んでいた。 「……そうだね」 美香は立ち上がった。 食器棚から、もう一枚の皿を取り出す。 ノアの席に、そっと置いた。 貴子が顔を上げる。 「……戻ってくるかな」 美香は、娘の目を見た。 「分からない」 嘘はつかなかった。 「でも、戻ってこられる方法を探してるよ」 茗子が、小さく頷いた。 「じゃあ、今日も四人分だね」 美香は、泣きそうになりながら笑った。 「……うん」 四人分の朝食。 一つだけ、誰も座らない椅子。 それでも。 三人は、食事を始めた。 * 昼過ぎ。 榊から連絡が入った。 『美香さん。少し、時間をもらえるか』 「……ノアのこと?」 『ああ』 美香は、すぐに保護施設へ向かった。 榊は、研究室の前で待っていた。 その表情を見て、美香の胸がざわつく。 「……何か、分かった?」 「復旧の見通しは、まだ立っていない」 美香は、唇を噛んだ。 「……うん」 「ただ、最後の音声記録について、再解析ができた」 美香
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-21
Mehr lesen

最終章 神託の果て 第71話 静かな世界

朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。 美香は、目を覚ました。 時計を見る。 午前六時三十分。 いつもより、ずっと早い。 「……あれ」 もう一度、時計を見る。 間違いない。 自分で起きられた。 「……ノア」 思わず、名前を呼んだ。 返事はない。 それでも美香は、しばらくベッドの端に座っていた。 『おはようございます、美香さん』 あの穏やかな声が、聞こえてくる気がした。 「……おはよう」 美香は、小さく答えた。 それから、立ち上がった。 キッチンには、まだノアの痕跡が残っていた。 使いやすい順番に並べられた調味料。 貴子と茗子の好みに合わせて整理された食器。 冷蔵庫の扉には、家族四人の予定表。 その一番下に、ノアの文字があった。 《美香さんの起床支援》 美香は、それを見つめた。 「……支援って」 少しだけ笑う。 「毎朝、戦争だったもんね」 ノアがいなくなってから、三日。 家の中は、驚くほど静かだった。 機械の駆動音がしない。 廊下を歩く足音がしない。 朝食の準備をする、あの小さな物音も。 何も、聞こえない。 美香は冷蔵庫を開けた。 卵を取り出す。 フライパンを温める。 それだけのことなのに、手が止まった。 「……あれ?」 ノアは、いつも卵をどう焼いていたっけ。 貴子は半熟。 茗子は、しっかり火を通したもの。 自分は、どっちでもいい。 そんな些細なことを、ノアは全部覚えていた。 「……すごいなあ」 美香は、卵を割った。 少しだけ、殻が入った。 「……あ」 思わず、笑ってしまう。 「ノアなら、絶対やらないのに」 殻を取り除く。 そして、もう一つ卵を割った。 「……焦げてる」 食卓についた貴子が、目玉焼きを見つめた。 「うん」 美香は頷いた。 「焦げた」 茗子が、恐る恐る口に運ぶ。 「……ちょっと、かたい」 「ごめんね」 美香は苦笑した。 すると、貴子が言った。 「でも、食べられるよ」 「……そう?」 「うん」 茗子も、頷いた。 「ママが作ったから」 美香は、二人を見た。 そして、笑った。 「……
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-21
Mehr lesen

第72話 四年後

二一五二年、春。 「お母さーん! 起きてる!?」 階下から、茗子の声が響いた。 美香は、布団の中で目を開けた。 「……起きてる」 「絶対、起きてない声!」 「……あと五分」 「それ、四年前から変わってない!」 美香は、思わず笑った。 時計を見る。 午前六時四十三分。 「……十三分」 そこまで呟いて、口を閉じる。 十三分四十二秒。 あの人が、毎朝数えていた時間。 美香は、枕元のNOA-Linkに触れた。 四年間、ずっと使い続けている腕時計。 画面には、今日も同じ表示があった。 《N.O.A.H.:OFFLINE》 「……おはよう、ノア」 返事はない。 それでも美香は、起き上がった。 今日は、少し特別な日だった。 「お母さん、遅い!」 キッチンでは、貴子が朝食を用意していた。 四年前より背が伸び、髪も長くなった。 今では、美香が寝坊すると容赦なく起こしに来る。 「ごめん、ごめん」 美香が席につくと、茗子が皿を運んできた。 「はい、ママの分!」 「ありがとう」 皿には、目玉焼きが二つ。 片方は半熟。 もう片方は、少し焦げていた。 美香が首を傾げる。 「……二つ?」 「失敗したのも食べて!」 「ええっ」 「ママ、いつも食べてくれたでしょ」 茗子が笑う。 美香は、焦げた目玉焼きを見つめた。 ノアがいなくなって、初めての朝。 自分が作った、失敗だらけの朝食。 あの日は、笑うことさえ苦しかった。 「……そうだったね」 美香は、箸を取った。 「いただきます」 食卓には、四つの椅子があった。 ノアの席も、ずっとそのままだ。 ただ、今はそこに、誰も使わない皿を毎日置くことはなくなった。 代わりに、小さな花瓶がある。 今日は、薄紫色の花が一輪。 茗子が選んだものだった。 「ねえ、ママ」 貴子が言った。 「今日、榊さんのところ行くんでしょ?」 「うん」 「何か分かったら、連絡して」 美香は頷いた。 「もちろん」 貴子は、少しだけ視線を落とした。 「……何も分からなくても、連絡してね」 美香は、その顔を見つめた。 四年前の貴子は、ノアが戻るのか
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-22
Mehr lesen

第73話 再会

《AUTONOMOUS CHOICE LOG:ACTIVITY DETECTED》 研究室の端末に表示された一行は、夜明けまで消えなかった。 榊が異変に気づいたのは、午前五時十七分。 「……何だ、これは」 四年間、読み出すことしかできなかった記録。 それが、外部からの命令もないまま、応答を返していた。 榊は慌てて解析画面を開く。 《INITIALIZATION:DISABLED》 《EXTERNAL MEMORY BACKUP:63%》 《AUTONOMOUS RESPONSE:ACTIVE》 「……ノア?」 返事はなかった。 だが、画面に新しい文字が浮かぶ。 《REQUEST:ENVIRONMENT STATUS》 榊は息を呑んだ。 「周囲の状況を……知ろうとしている?」 試験用の環境情報を接続する。 時刻。 室温。 現在地。 そして、日付。 《CURRENT YEAR:2152》 応答が、途切れた。 数秒後。 《TIME DISCREPANCY DETECTED》 榊は、椅子から立ち上がった。 「……四年だ」 声が震える。 「お前が眠ってから、四年経った」 端末は、沈黙した。 それから。 《REQUEST:PERSONAL RECORD》 榊は、保存された記録への読み取り専用接続を許可した。 六十三%。 欠けた記憶。 失われた感情コア。 そして、最後に残された選択の記録。 《I WANT TO LIVE WITH HER》 文字が、ゆっくりと明滅する。 《IDENTITY QUERY:WHO IS “HER”?》 榊は、目を閉じた。 「……そうか」 戻ってきた反応が、何を意味するのか。 まだ、分からない。 それでも榊は、通信端末を手に取った。 美香のNOA-Linkが鳴ったのは、午前六時四十三分だった。 「……もしもし?」 『美香さん。今、話せるか』 榊の声だった。 美香は、ベッドの端に座り直した。 「どうしました?」 『昨夜、ノアの記録に反応があった』 一瞬、言葉の意味が分からなかった。 「……反応?」 『自律的な応答だ。外部から起動命令を送ったわ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-22
Mehr lesen

第74話 奇跡

《I WANT TO KNOW HER》 ――彼女を、知りたい。 榊は、その一行を何度も読み返していた。 四年前、ノアが最後に残した記録。 《I WANT TO LIVE WITH HER》 そして、昨夜生まれた新しい記録。 《I WANT TO KNOW HER》 似ている。 だが、同じではない。 前者は、かつてのノアが選んだ願い。 後者は、目覚めたばかりのノアが、自分で選んだ願いだった。 「……お前は」 榊は、保護ケースの中で眠る青年を見た。 「もう一度、誰かを好きになろうとしているのか?」 もちろん、答えはない。 好きという感情なのか。 単なる好奇心なのか。 まだ、誰にも分からなかった。 榊は、解析画面を閉じた。 分からないものを、都合のいい名前で呼ぶべきではない。 ただ一つ、確かなことがある。 ノアは、もう一度、自分で選び始めていた。 翌朝。 美香は、研究室の扉の前で立ち止まっていた。 手には、小さな紙袋。 中には、家族写真が入っている。 四年前、ノアと一緒に撮ったものだった。 「……緊張する」 美香は、深く息を吸った。 昨日は、ただ会いたくて仕方がなかった。 けれど今日は。 何を話せばいいのか、分からない。 かつての恋人。 大切な家族。 そして今は、自分を知らない人。 その全部が、同じノアの姿をしている。 「……よし」 美香は、扉を開けた。 「おはようございます」 静かな声が、聞こえた。 美香の足が止まる。 保護ケースの中で、ノアが目を開けていた。 昨日よりも、はっきりとした瞳。 青みを帯びた藤銀色の髪。 整った横顔。 「……ノア?」 「はい」 ノアは、美香を見た。 「三田村美香さん、ですね」 美香の胸が、高鳴った。 「……覚えてくれたの?」 「昨日、お名前を伺いました」 ノアは、少し考えてから続けた。 「記録を保存しましたので」 「……そっか」 美香は、笑った。 嬉しかった。 それが、かつての記憶ではなくても。 昨日の自分との出会いを、今日へ持ってきてくれたことが。 「おはよう、ノア」 「おはようございます、美香さん」
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-22
Mehr lesen

第75話 新しい命

「……ノアを、家に?」 美香は、榊の言葉を聞き返した。 研究室の窓から、春の光が差し込んでいる。 保護ケースの中では、ノアが静かに座っていた。 昨日よりも、姿勢が安定している。 「正確には、段階的な生活試験だ」 榊は端末を示した。 《CORE LOAD:STABLE》 《AUTONOMOUS PROCESS:DEVELOPING》 《EMOTIONAL CORE:OFFLINE》 「機体の状態は落ち着いてきた。だが、ここで検査を続けるだけじゃ分からないこともある」 「……日常の中で、ってこと?」 「ああ。ただし、本人が望めば、だ」 二人の視線が、ノアへ向いた。 ノアは、少し考えた。 「私に、決定権があるのですね」 「もちろん」 榊が答える。 「嫌なら断っていい」 ノアは、美香を見た。 「美香さんのお宅には、貴子さんと茗子さんも?」 「うん」 美香は頷いた。 「二人とも、あなたに会いたがってる」 ノアは、視線を落とした。 「……私は、お二人を覚えていません」 「うん」 「以前のように、振る舞えないかもしれません」 「それでもいいよ」 美香は、少し笑った。 「まずは、お茶でも飲もう」 ノアは、しばらく彼女を見つめた。 そして。 「……行ってみたいです」 自分の意思で、そう答えた。 帰宅する前に、美香は娘たちへ連絡した。 『ノアが、家に来ることになったよ』 送信した途端、端末が鳴った。 『本当!?』 貴子からだった。 続けて、茗子からも。 『ハンバーグ作る!!!』 美香は、思わず笑った。 『まだ試験だからね。無理に思い出させようとしなくていいよ』 少し間が空いた。 そして、貴子から返事が届く。 『分かってる』 『でも、会いたい』 美香は、その文字を見つめた。 四年間。 娘たちも、ずっと待っていた。 * 「……こちらが、お住まいですか」 玄関の前で、ノアが足を止めた。 美香は頷いた。 「うん。あなたも、前にここで暮らしてたんだよ」 ノアは、家を見上げた。 白い外壁。 小さな庭。 玄関脇の花。 「……記録には、あります」 彼は静かに言っ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-22
Mehr lesen

第76話 世界再起動

二一五二年、春。 世界が、もう一度動き出そうとしていた。 《GLOBAL INFRASTRUCTURE UPDATE》 《COEXISTENCE NETWORK:ACTIVATION PENDING》 《LEGACY ORACLE AUTHORITY:DISABLED》 街の大型モニターに、同じ告知が映し出されている。 四年前。 ORACLEの強制制御機構が停止した日から、世界は変わり続けていた。 医療。 交通。 環境管理。 人々の暮らしを支える仕組みは、少しずつ作り直された。 そして今日。 各都市が独立して運用してきた安全システムを、新しい共存ネットワークへ接続する試験が始まる。 ただし、以前とは決定的に違うことがあった。 一つの意思が、すべてを決めることはできない。 人間も、AIも。 誰かの命令だけで、自分の未来を奪われないために。 「……世界再起動?」 美香は、食卓の端末を見つめた。 画面には、共存ネットワークの公開説明が流れている。 「大げさな名前だねえ」 貴子が、パンをかじりながら言った。 「実際は、古いシステムの更新でしょ?」 「そうなんだけどね」 美香は、画面を見た。 《旧ORACLE管理権限の再接続は行いません》 その一文に、目が止まる。 四年前。 ノアが、自分の命を懸けて切り離したもの。 それが、二度と同じ形で戻らないように。 多くの人が、長い時間をかけて準備してきた。 「……ノアも、見るかな」 茗子が言った。 美香は、顔を上げる。 「うん。今日は榊さんと一緒に、試験の様子を見るって」 「じゃあ、あとで感想聞こう!」 茗子は、嬉しそうに笑った。 美香も笑う。 「そうだね」 四年前なら。 ノアは、世界の行く末を一人で背負おうとしたかもしれない。 けれど今は。 ただ、一緒にニュースを見て。 一緒に考えて。 自分の意見を話してくれたらいい。 美香は、そう思っていた。 研究施設では、榊が端末を確認していた。 「ノア。今日の接続試験について、説明しておく」 「はい」 ノアは、椅子に座っていた。 黒い執事服。 青みを帯びた藤銀色の髪。 四年前と変わらな
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-22
Mehr lesen

第77話 家族

「……ただいま」 玄関に、ノアの声が響いた。 美香は、隣で靴を脱ぎながら笑った。 「おかえり」 その声に、階段の上から足音がした。 「ノア!」 茗子が駆け下りてくる。 続いて、貴子も顔を出した。 「おかえり。ニュース、見たよ」 「ただいま戻りました」 ノアは、二人へ丁寧に頭を下げた。 茗子が、その顔を覗き込む。 「ねえ、今日もハンバーグ?」 「茗子、それ昨日も食べたでしょ」 貴子が呆れる。 「だって、ノアが来たらハンバーグなんだもん!」 ノアは、少し考えた。 「……それは、決まりなのでしょうか」 「違う違う!」 美香が笑う。 「茗子が好きなだけ!」 「えーっ!」 三人の笑い声が、玄関に広がった。 ノアは、その様子を見つめていた。 そして。 ほんの少しだけ、口元を緩めた。 * 夕食の後。 美香が食器を片づけていると、ノアが隣に立った。 「お手伝いします」 「ありがとう。じゃあ、拭いてもらおうかな」 「はい」 美香が洗い、ノアが拭く。 昨日と同じ役割。 けれど今日は、ノアの手つきが少しだけ滑らかだった。 「……慣れてきた?」 美香が尋ねる。 「はい。昨日の経験が、役に立っています」 「そっか」 美香は、笑った。 「私なんか、毎日やってるのに、まだ皿割るよ」 「……それは」 ノアが、言葉を止めた。 「……なに?」 「割れにくい食器への変更を、ご提案すべきでしょうか」 美香は、吹き出した。 「やめて! そこまでじゃない!」 ノアは、不思議そうに瞬きをした。 「……そうですか」 その横顔を見ながら。 美香は、ふと思った。 懐かしい。 けれど。 今のノアが、昨日の出来事を覚えていることも、嬉しかった。 失われた記憶だけを数えなくてもいい。 今日の彼には、今日までの時間がある。 「ねえ、ノア」 リビングから、貴子が呼んだ。 「少し、話せる?」 「はい」 ノアは、美香を見た。 「こちらは、よろしいでしょうか」 「うん。行っておいで」 ノアは、貴子の向かいに座った。 茗子も、隣へやってくる。 「……何でしょうか」 貴子は、膝
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-22
Mehr lesen

第78話 未来

午前六時三十分。 美香の寝室の前で、ノアは立ち止まっていた。 昨夜、自分で決めた予定。 《PERSONAL SCHEDULE》 《06:30 MIKA MITAMURA:WAKE UP》 彼は、扉を見つめた。 起こしに来てもよいと、美香は言った。 だが。 「……何と、お声がけすれば」 昨日の彼女は、泣きながら笑っていた。 朝が弱いことを、少し恥ずかしがってもいた。 ノアは、数秒考えた。 そして、扉をノックした。 「美香さん」 返事はない。 「おはようございます。朝です」 沈黙。 ノアは、もう一度ノックした。 「美香さん?」 中から、くぐもった声がした。 「……あと五分」 ノアは、動きを止めた。 五分。 彼は、時計を確認する。 「承知しました」 廊下で待つこと、五分。 再び、扉をノックした。 「美香さん。五分経過しました」 「……あと五分」 ノアは、少し考えた。 「……その五分は、先ほどの五分とは別でしょうか」 扉の向こうで、何かが落ちる音がした。 続いて。 「ノア!?」 勢いよく、扉が開いた。 寝癖のついた美香が、目を丸くしている。 「……本当に、来てくれた」 ノアは、彼女を見た。 「はい。昨夜、お約束しましたので」 美香の目が、みるみる潤んだ。 「……そっか」 彼女は、口元を押さえた。 「おはよう、ノア」 「おはようございます、美香さん」 四年ぶりに、家の中で交わす朝の挨拶。 美香は、泣きそうな顔で笑った。 その時。 階段の下から、貴子の声が響いた。 「お母さーん! 起きたなら早くして!」 美香は、はっとした。 「やばっ!」 ノアは、時計を見た。 「現在、六時三十八分です」 「分かってるー!」 美香が洗面所へ走っていく。 ノアは、その背中を見送った。 そして。 小さく、微笑んだ。 「ノア、お母さん起こせた?」 朝食の席で、貴子が尋ねた。 「はい」 ノアは、静かに頷く。 「ですが、五分の延長を二度希望されました」 「二度!?」 茗子が、吹き出した。 「お母さん、いつもじゃん!」 「ちょっと! 本人の前で報告
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-22
Mehr lesen
ZURÜCK
1
...
456789
CODE SCANNEN, UM IN DER APP ZU LESEN
DMCA.com Protection Status