All Chapters of 雨女と水神の契約結婚: Chapter 11 - Chapter 20

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第三章:ひとしずくの想い、揺らぐ水面③

「――まったく、お兄様ったら何を考えていらっしゃるのっ!?」  翌日の午前中。澄花は時雨の部屋を訪れた足で紅雨の部屋へと足を運んでいた。昨日の礼として、今朝仕上げたばかりの菓子を紅雨と水霜に届けるためだった。  紅雨は澄花の作った菓子を喜んで受け取ってくれた。しかし、時雨の部屋を訪れたときの顛末を聞くなり、彼女は青筋を立てて声を荒らげたのだった。彼女から発せられた声の衝撃で、澄花の視界で止まることなく波紋が生まれては連鎖していく。  まあまあ、と澄花は紅雨を宥めようとする。しかし、怒りを露わに紅雨はきっぱりと首を横に振った。 「せっかく、澄花が訪ねていったというのに部屋にも入れないだなんて、論外ですわ! 漣も漣ですわよ! 澄花を追い返すだなんて!」  二人まとめてとっちめてやりますわ、と紅雨は息巻いた。大丈夫ですから、と澄花は困ったように眉尻を下げる。このようなことには慣れているのか、水霜は特に口を挟もうとしない。 「紅雨様、わたしが悪いんです。特にお約束もないのに突然時雨様のお部屋を訪ねてしまったんですから。それに、漣さんにお願いして時雨様にお菓子は渡していただけましたし、充分です」 「澄花は欲がなさすぎです。それに澄花を追い返した理由も理由で、わたくしは妹として心底情けないですわ」  先ほど、澄花が時雨の部屋を訪ねたとき、今は障りがあるからという理由で漣に訪問を拒まれた。何か予定があったのだろうと思って澄花は菓子を漣に預けて、その場を辞したのだが自分には思い至らないような理由でもあったのだろうか。普段は澄花に厳しい態度を取る彼にしては珍しく、妙に同情的だったがそれが何か関係あるのだろうか。 「漣は、澄花が訪ねてきたことに舞い上がっているお兄様の姿を見せたくなかったのでしょうね。そんな姿、神としての威厳も何もありませんもの。ましてや、澄花が自分のために好物を拵えてくれたとあっては、小躍りするほど喜ぶでしょう。……いえ、この水の揺らぎ方は今ごろ実際に部屋で踊っていますわね」  紅雨は深々と溜息を吐く。澄花は紅雨が話していることが信じられなかった。自分の知っている時雨の姿と紅雨が語ったことはあまりにかけ離れすぎていた。 「|紅
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第三章:ひとしずくの想い、揺らぐ水面④

 いつのことだったか、雨で陽菜の小学校の運動会がなくなってしまったことがあった。澄花が運動会の応援に行ったところ、開始直前に大雨が直撃し、急遽中止に追い込まれてしまったからだ。 「運動会できないからって代わりに宿題のプリントいっぱい出されたんだけど!! せっかくの土曜日なんだからどっか遊びに行きたいよー」  澄花はダイニングでプリントの山と格闘する陽菜を横目にリビングのソファでスマホをいじっていた。掃き出し窓を雨が叩く音がイアホンの音楽に混ざって、ドラムのようにビートを刻んでいる。  宿題に飽きてしまった陽菜はシャーペンのキャップをかちかちと押し続けている。澄花はふと思いついて、隣駅のショッピングモールにある映画館のウェブサイトにアクセスした。 (あ……今からなら十四時半の回に間に合いそう)  妹の陽菜は小学生にも関わらず、刑事ドラマにハマっている。両親が仕事で留守の間、夕方の再放送を見ているうちにハマってしまったらしい。  陽菜が好きだと言っていた刑事ドラマの劇場版が先週から上映されていた。しかし、今日はこの天気が祟ったのか、まだ座席はガラガラだ。 (確か……誕生日にもらった映画のギフトカードがまだ残っていたはず)  澄花は見やすそうな席を並びで二席押さえると、決済をした。そして、澄花はソファから立ち上がると、陽菜に声をかける。 「陽菜、わたしと出かけよう。テーブルの上片付けて、出かける支度してきて」 「お姉ちゃん、どこ行くの?」 「映画館。隣駅のショッピングモールの。先週公開された映画、見たがってたでしょ?」  澄花の言葉を聞いた陽菜の目がぱぁぁっと輝いた。彼女の笑顔はまるで春の太陽のようだと澄花は思う。  陽菜はプリントと筆記用具をばたばたと片付けると、二階にある自室へと上がっていく。どたばたと落ち着きのない足音を追いかけて、澄花も階段を上がっていった。  自室に入ると、澄花は白のミニショルダーの中にスマホや財布、ハンカチやリップを入れていった。家の鍵を手に取ったとき、「お姉ちゃん早くー!」陽菜がどんどんと部屋の扉を叩く音が響いた。  苦笑混じりに返事をすると、澄花は部屋を出て陽菜と共に階段を降りて
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第三章:ひとしずくの想い、揺らぐ水面⑤

「澄花は妹さんと仲がよろしかったんですのね」  澄花の話を聞き終えた紅雨はそう口にした。しかし、澄花は自分が陽菜と仲が良かったのかどうかよくわからなかった。自分と陽菜は八歳も歳の差があり、家族でありながらもどこか遠い存在に感じていた。――とりわけ、陽菜が生まれて、家族の中心が彼女になってしまってからは。  躊躇いながら澄花がそう言うと、あら、と紅雨は可愛らしく小首を傾げてみせた。 「わたくしとお兄様は千と数百年の歳の差がありますが、そのようなことはあまり感じたことがありませんわ。わたくしたち神と人間では違うのかしら?」 「……そうかもしれません。歳の離れた妹にわたしはどう接したらいいのかわからなくて……」  陽菜を疎んじたこともあった。テレビは妹の陽菜が優先だった。食べたいものだって、行きたいところだって陽菜が優先された。そのことに澄花が異議を申し立てようとしても、お姉ちゃんでしょ、の一言で全ては片付けられた。  とはいえ、澄花だって陽菜が可愛くなかったわけではない。陽菜が好きなアニメがあると言えば、見様見真似で画用紙にキャラクターの絵を描いてあげた。陽菜が出先でお気に入りのぬいぐるみを失くしてしまったときは、家にあったフェルトでクマのぬいぐるみを作ってあげた。母の留守の際に、一緒に炊飯器でケーキを作ったりもした。どれもお世辞にも良い出来だったとは言えないが、それでも陽菜はいつだって喜んでくれた。 ――おねえちゃん、ありがとう!  そんなことを澄花が話すとふふ、と紅雨は微笑んだ。幼い顔立ちに似合わない慈愛に満ちた笑みだった。 「澄花はちゃんと、"姉"をしていますわよ。わたくしも欲しかったですわ。澄花のようなお姉ちゃんが」  そんなふうに言われたのは初めてだった。今まで誰かに姉としての自分を肯定してもらえたことはない。ただそれが当たり前だと言う態度を両親は取り、自分もそれを当たり前だと諦めていた。 「それにしても、わたくし、無神経でしたわね。いつもいつもお兄様の話ばかりして。妹さんと離れ離れになって、さぞ寂しいでしょう?」 「わかりません。それに、時雨様のお力がなければどのみち地上にはいけませんから。
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第四章:初めての恋に祈りを込めて①

「――何だって言葉にしてくれないとわからないじゃないですか!」 「言葉……」  声を荒らげる澄花に、時雨はそう反芻した。澄花の声が渦を巻いて水を伝播していく。そうですと頷くと、澄花は言葉を続けていく。 「わたしは時雨様が何を考えているか、話してほしいです! なんで時雨様がわたしを避けているのかだって、この前のお菓子が口に合ったかどうかだって、ちゃんと全部、知りたいです!」  澄花、と彼女の名を呼んだ声が掠れた。彼女はこうして自分の気持ちを言葉にしてくれた。ならば、自分もその想いに応えるべきだ。漣にも自分の心に正直になるようにと諭されたばかりだ。 「――笑わないで聞いてほしい。それに、私は君が思っているような男ではないかもしれない。……きっと、君はがっかりする」 「笑いませんよ。それに、時雨様についてのお話は紅雨様からいろいろと伺っていますから、今更何を聞いたところでがっかりしたりなんてしません。――だから、話してください。他でもない時雨様ご自身の言葉で」  わかった、と時雨は首を縦に振った。こんなことを口にするのは情けないし、居心地が悪い。それでもと意を決すると時雨は口を開いた。 「雨乞いの儀式のとき、必要なことであったとはいえ、君の唇を奪ってしまっただろう。好きでもない男とそんなことをするなど、嫌だったんじゃないかと気にかかっていた。しかし、敢えて蒸し返す気にもなれなくて、君にどう接したものかとわからなくなってしまっていたんだ」 「え……」  思ってもいなかった時雨の言葉に澄花は言葉を失った。かあっと顔が熱くなっていくのを感じる。澄花は魚のようにしばらく口をぱくぱくさせていたが、どうにか蚊の鳴くような声で言葉を絞り出す。 「事前にお話をいただいていましたし、そういう儀式だって理解していましたから大丈夫です。それにわたしは……時雨様のなさることなら何だって嫌じゃありません」  それはどういう、と時雨は怪訝そうな表情を浮かべる。はっとして澄花は手で口を覆った。しかし、一度発してしまった言葉はこぼれ落ちてしまった水と同じで元には戻らない。あわあわする澄花につられて、自分の耳が熱くなっていくのを時雨は感じた。ぱちっと水泡が弾ける。 「……それはそうと、先日のお菓子はお口に合いましたか? 紅雨様から時雨様は葛がお好きだと伺
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第四章:初めての恋に祈りを込めて②

 時雨と毎食の食事を摂るようになって数日。澄花は時雨の部屋に招かれて茶を飲んでいた。  床の間に活けられているのは今日はホタルブクロだ。飾り棚の香炉からは漂う煙からは睡蓮の匂いがした。 「――澄花。何か、欲しいものはないか?」  白い雲と青い雨粒があしらわれた湯呑みを座卓の上に置くと、時雨はそう問うた。今日のお茶は花束のような香りが華やかな煎茶だった。 「欲しいもの……ですか?」  着物や小物類は充分すぎるくらいに与えてもらっている。食事だって、住むところだって与えてもらっている。――こうして、時雨と過ごす時間だって。  今は六月。例年ならば、母と梅酒を漬けている頃合いだった。母直伝の梅酒を時雨のために漬けるのはどうだろう。それは何だかとてもいい思いつきのように思えた。 「あの、梅と氷砂糖、ブランデーを用意してもらえませんか? 時雨様のために梅酒を漬けたいんです」 「澄花はつくづく欲がないな。そのくらいでよければ、すぐに手配させよう。――漣」  障子の脇に控えていた漣が返事をする。しかし、その表情は険しい。何か漣の気に障ることを言ってしまっただろうかと澄花は直前の発言を省みる。 「時雨様……お酒は控えられた方が……」 「構わない。私は澄花の作った梅酒が飲みたいんだ」  時雨がそう言うと、どうなっても知りませんからねと漣は溜息をつく。残念なものを見るような視線をちらりとこちらに寄越すと、漣は障子を開けて時雨の部屋を出ていった。  すっと障子が閉まり、漣の足音が遠ざかっていくと、澄花は時雨を見た。先ほど漣が言いかけたことが気にかかる。 「漣さんがお酒を控えられた方がいいと仰っておられましたが……もしかして、時雨様は肝臓がお悪いのですか?」 「いらぬ心配をかけてしまったようで済まない。恥ずかしい話なのだが、私は下戸なのだよ」 「下戸って……どのくらいですか?」 「酒を一口でも飲めばたちどころに真っ赤になり、眠ってしまうらしいんだ。正直、酒を水のようにざばざば呑める紅雨が羨ましい。……どうせ、澄花が作った梅酒もほとんど紅雨が呑んでしまうのだろうから」  拗ねたようにそう口にする時雨が何だか少しおかしくて、澄花は小さく笑った。むっとした表情を白皙の美貌に乗せる時雨に、澄花はこんなことを提案した。 「それじゃあ、梅
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第四章:初めての恋に祈りを込めて③

 深縹に藤納戸。御召御納戸に留紺。色とりどりの着物を前にどうしたものかと澄花は考え込んでいた。彼女を見守るように水が穏やかに波打っている。  今、澄花がいるのは時雨の着物が仕舞われた桐箪笥が立ち並ぶ納戸だ。初めて朝餉を共にした日の夜から、漣に頼まれて時雨の着物を選ぶのは澄花の仕事になっていた。  今日の時雨の着物に合わせた帯は濃藍に薄灰色の縞模様のものだ。明日は違う色の帯を使いたい。 (あ……)  澄花はさらりとして柔らかい薄紫の帯を手に取った。雨上がりの朝、一日が始まる前の温かな空の色に似ていた。 (それなら深縹……? それとも留紺が……?)  手に持った帯を澄花は着物に当てがってみる。どちらが時雨には似合うだろうか。澄花の脳裏に時雨の美しい顔と優しい微笑みが浮かぶ。穏やかな声で彼が自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。 「――様、澄花様」  自分の名前を呼ぶ声に、はっとして澄花は意識を現実に引き戻される。水鞠がにこにことした笑みを浮かべて、納戸の入り口から顔を覗かせていた。 「水鞠さん」 「時雨様のお着物を選んでいらっしゃったんですね。精の出ることです」  水鞠は澄花の手元を覗き込む。最初は着物の知識がなかった澄花が自分で時雨の着物を選べるようになってきていることに、彼女の成長を感じた。 「深縹と留紺で迷っているんです。どちらが時雨様にお似合いになるでしょうか……?」 「それは澄花様がお決めになることですよ。それに時雨様なら、澄花様がどちらを選んでもきっと喜んでくださいます」 「そうでしょうか……」  迷う澄花の瞳には愛しい人を思う色が浮かんでいた。熱くて、切なげで、不安げで。それは誰から見てもわかる、恋する乙女の顔だった。 「澄花様は、時雨様のことをどうお思いですか?」  水鞠が口にしたのは以前の紅雨の問いと同じものだった。しかし、それは今の澄花にとっては、以前と異なる意味をもつものだった。 「時雨様はお優しくてお美しい方だとは思います。神としてだけでなく、男性としても素敵な方だって思います。だけど、わからないんです。どうして、時雨様のことが頭から離れないのか。どうして、わたしはいつも時雨様のことを考えているのか」  神らしく静かに凪いだ表情。ふとしたときに美しい顔を彩る柔
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第五章:二人の巫女と迷いの夜①

(――見つけた)  白い漆喰壁の蔵の中、古い書物を漁っていた漣はとある記述に目を留めた。墨の匂いが彼の鼻腔をしっとりと満たす。  初めての雨乞いの儀式から、何回も時雨と澄花は儀式を繰り返してきた。儀式を行った直後こそ、雨は降るが、連日の暑さによってだんだんと猛川は水位を減らしつつあった。  ここ十数年続く日照りには何か原因があると漣は睨んでいた。歴史上、類を見ないほど強力な力を持つ雨催いの巫女である澄花をもってしても、この旱魃に太刀打ちできないのには何か理由があるはずだ。  時雨が澄花と結ばれてから数日。中庭の祠にある時雨の御霊石がじわじわと小さくなり始めた。澄花の前では取り繕っているつもりのようだが、時折具合が悪そうにしているのを漣は知っていた。本人に問いただしたところ、早めの夏バテだろう、心配ないと苦笑していたが。その笑みがどこか儚げで、遠からず時雨も先代の水神であった樹雨(きさめ)のように消えてしまうのではないかと、漣は不安だった。 (――私の役目は時雨様を護ることだ。私は樹雨(きさめ)様に時雨様を託されたのだから)  漣は、元々は先代の水神である樹雨(きさめ)の眷属だった。しかし、水難からこの地を守ろうとした結果、彼は力を使い果たして消えていってしまった。――時雨を助けてやってくれ、ただその一言だけを残して。 (紅雨様にしても、水神として覚醒するまでにあと何百年、何千年かかるかわからない。それまでに時雨様が儚くなられて、この猛川に水神がいないなんてことになってはならない。――それに何より私は時雨様を樹雨(きさめ)様の二の舞にしたくはない)  漣は澄花と時雨の二人が惹かれ合うように仕向けてきた。最後に二人の背を押したのは水鞠と紅雨だが、陰で二人が意識し合うように仕組んできたのは漣だった。――澄花を時雨のために動く手駒とするために。 (……今の澄花様ならば、時雨様のために命をも捧げるだろう)  その純粋さを利用するのは残酷だ。だが、躊躇う余地はない。使えるものは使うまでだ。 (それにしても……日輪の巫女か)  澄花とは反対に太陽を招く存在。本来なら豊穣をもたらすものだ。だが、行き過ぎればその恵みも禍となる。  毎年のように大地を焦がす日差し。それを
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第五章:二人の巫女と迷いの夜②

 その日の夜、屋敷の裏にある蔵へと澄花は呼び出されていた。紙と墨の匂いが漂う薄暗い蔵の中で、澄花はとある人物を待っていた。  午前中に漣が澄花の元へ持ってきた手紙。その差出人は紅雨ではなかった。あの手紙を書いた主――今ここに澄花を呼び出しているのは漣だった。 ――時雨様についてお耳に入れたい話があります。今夜、夜十時に蔵に来てください。水鞠は連れずに、お一人で。  可愛らしい便箋の意匠に反して、内容はひどく簡潔だった。一人で、というのが気に掛かりはしたが、まさか漣が自分に危害を加えることもないだろう。漣は時雨の右腕――時雨が澄花のことをどう思っているか誰より知っている人物なのだから。  ギィと蝶番が軋む音と共に、青銅の扉が開いた。扉の隙間から、宙を舞う水泡と蛍の二色の光が淡く差し込んでくる。  すっとチャコールグレーのスーツに身を包んだ男は扉の隙間に身体を滑り込ませると、静かに扉を閉める。蔵の中がどうにかお互いの顔が確認できるくらいの仄暗い闇に包まれると、漣は口を開いた。 「澄花様、お待たせして申し訳ありません」 「いえ、わたしも先ほど来たところですので。それより、時雨様についてお話があるとのことですけど、どのような――」 「澄花様はこの先も、時雨様と共にいたいですか?」  直球な漣の質問に顔が熱くなった。午前中の様子を漣に見られてしまった手前、彼とうまく目を合わせられない。 「あっ……当たり前です。わたしは……時雨様を誰より大切に思っているんですから」 「あなたは時雨様のためなら、なんだってできますか?」  それが自らの手を汚すようなことであっても。その言葉は漣は自分の口の中に閉じ込めておく。余計なことを言って澄花を躊躇わせたくない。今は言質を取るのが先だ。 「もちろんです。わたしは時雨様のためなら、生命だって差し出せます。――時雨様が望むのなら」  それは漣にとって充分な答えだった。かかった、と漣は怜悧な笑みを浮かべる。 「時雨様が最近体調がよろしくないことは澄花様もご存じですね。それを夏バテだと仰っておられることも」  ええ、と澄花は頷いた。漣は話を続ける。 「澄花様は中庭の御霊石がだんだんと小さくなってきているのをご存じですか?」 「――え?」  唇が震えるのを澄花は感じた。|御霊石《ごり
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第五章:二人の巫女と迷いの夜③

(――ん?)  時雨は己の御霊石に異変を感じて、手に持っていたグラスを文机に置いた。ガラスの中にはクリーム色がかった白色の液体が揺れている。 (――地上への道が開かれている?)  この気配から察するに、中庭の祠が地上へと繋がっている。時雨が何をしたわけでもないのに、そんなことが起きているのは明確な異常だった。  今日は儀式の日ではない。川の世界と地上を結ぶ道を開いたのが自分でないのであれば、こんなことができるのは他に一人しかいない。――澄花だ。  時雨は自身の指へと意識を集中する。薬指に結ばれた水の糸は澄花へと繋がっている。 (澄花の気配が……遠い……?)  一体澄花はどこにいるというのだろう。この感じでは彼女はこの屋敷にいない。彼女はどこへいったんだ。時雨はさーっと血が下がっていくのを感じた。  居ても立っても居られなくて時雨は文机の前から立ち上がった。その拍子に足元が一瞬ふらりとする。冷や汗が背中を伝う。目の前が真っ暗になりかけたが、時雨は歯を食いしばって意識を現実へと連れ戻す。 (水鞠なら、何か知っているかもしれない)  時雨は部屋を出ると、早足で廊下を歩く。体力が落ちているのか、たったそれだけのことではあはあと息が上がった。 「――水鞠、いるか? 澄花のことで聞きたいことがある」  水鞠の部屋を訪ねると、時雨は彼女の部屋の外から声をかける。すぐに返事があり、すっと障子が開かれる。もう寝る前だったのか、水鞠は浅縹の寝間着に身を包んでいた。 「すまない。寝るところだったのだな」 「いえ、構いませんよ。ところで、澄花様がどうかなさったのですか?」 「澄花が今、どこにいるか知らないか?」 「澄花様ですか? そういえば、紅雨様からお手紙が来ていたようですが」  水鞠に言われ、今朝そんなこともあったと時雨は思い出す。確か、澄花との時間を過ごしている最中に、漣が紅雨からの手紙を持ってきたのだった。 「紅雨にも話を聞いてみよう。水鞠、こんな夜遅くに済まなかったな」 「いえ、とんでもございません。……時雨様、よろしければ私が紅雨様のお部屋までご一緒しましょうか?」  顔色の悪い時雨に水鞠はそう声をかける。悪いな、と時雨はその申し出を大人しく受け入れた。  水鞠は時雨の
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第六章:見えない銀河に幸せを祈る①

「――その話、私にも聞かせてもらおうか」  玉砂利を踏む音と共に低い声が響いた。いつもは穏やかで優しい声も今は荒れた川のような激しさを内包している。 「時雨様……」  澄花はその人の名を呼ぶ。しかし、時雨は水鞠を伴って澄花の前を通り過ぎ、祠へと向かう。 「――閉じよ、一夜の夢を繋ぎし路。世界のあわいは閉じられ、別々の夢を見るだろう。水を司る者の名の元に、幸せな夢が訪れんことを祈らん」  時雨は低い声でそう唱えた。祠の御霊石から青い光がすうっと消えていく。あたりには宙を舞う水泡と蛍の光が舞うばかりだった。  ふいに時雨の身体が傾いだ。咄嗟に澄花は時雨の身体を支えようとする。大丈夫だ、と時雨は澄花の手を払った。 「お兄様、場所を移しましょう。どうやら、漣からも澄花からも話を聞かないといけないようですから」  紅雨の言葉にそうだな、と時雨は頷いた。中庭に集まっていた面々は中庭を横切り、沓脱石で下駄を脱ぐと、時雨の部屋へと向かった。  時雨の部屋に着くと、水鞠は四人分の座布団を用意した。時雨は上座のそれに腰を下ろすと、紅雨に澄花、漣に座るように言った。 「水鞠、すまなかったな。部屋に戻ってくれ」 「水霜も今日はもう部屋に戻ってちょうだい」  水神の兄妹にそう言われ、水鞠と水霜の二人は時雨の部屋を辞した。二人とも、今宵一体何が起きていたのかと思うと眠れそうになかった。 「――さて、お兄様。わたくしの部屋で待っているように言ったのに、そんなこともできないなんて犬以下なんですの? いえ、お兄様のお説教は後にいたしましょう。 ――漣。何があったのかを洗いざらい吐いてもらいますわよ」  一瞬向けられた矛先に時雨はびくりとする。しかし、今はそんな場合ではないと咳払いをして居住いを正すと、漣へと厳しい視線を向ける。 「――漣、何があった? 澄花に何をさせた?」  怒りを孕んだ二対の双眸が漣に向けられる。わたしがいけないんです、と澄花は居た堪れなくなって口を開いた。 「わたし……時雨様のために何もできませんでした。時雨様のためだからと、漣さんに頼まれたのに……できなかったんです。――妹を殺せなかったんです」 「なっ……漣、あなた、自分が澄花に何をさせようとしたかわかってるんですの!? あなた、心がないんですの!
last updateLast Updated : 2026-08-20
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