表現の微妙な差を扱うとき、まず狙い(からかいなのか本気の嫌味なのか)を見誤らないことが肝心だと考えている。僕は台本を読むとき、そのセリフが誰のためにどう効いているか、場面の力学を頭の中で再現してから翻訳に入るようにしている。
イケズは単なる「悪口」ではなく、キャラクターの立ち位置や親密さを表す手段だから、単に語を強めるだけだと元の有機的な関係性が壊れることが多い。例えば相手をからかうトーンなら、直接的な罵倒よりも皮肉や言い換え、軽い侮蔑を交えた言い回しのほうが自然に響く場合がある。
次に、言葉の選び方とリズムに注意する。関西弁や独特の語尾が持つ“軽さ”や“引っかかり”は、日本語から英語(あるいは別の言語)へ移す際に単純に置き換えられない。だから僕は、直訳を避けつつも同じ心地よい不快感を与えられる表現を探し、場合によっては方言的なニュアンスを別のローカル表現で補う。ただし、文化的ギャップに無理な当てはめをすると不自然になるので、ターゲット言語の聞き手が「それっぽく」感じる範囲で調整するようにしている。
演技や字幕・吹き替えの制約も忘れてはいけない。字幕なら文字数制限や表示時間、吹き替えなら口の動きとテンポに合わせた語数調整が必要だ。僕は必ず声に出して読んで確かめ、相手の反応を想定して微調整する。場合によっては注釈や訳注で補足する選択肢もあるが、乱用すると没入感を壊すので最小限にとどめるべきだ。最後に、キャラクターごとの一貫性を保つこと。ある人物が常にイジワルな冗談を言うなら、その語感は作品全体で統一しておくと読者の理解が深まる。こうした配慮を重ねることで、イケズのセリフはただ訳された言葉ではなく、作品内で生きた振る舞いとして伝わっていくと信じている。