164 2月末日に辞令が下り、2週間後に相馬は新しい部署に着任した。 相馬の異動が決まり、それに伴いまことしやかに流れた相馬と自分との噂に、やはりというか、その日を境に相原からの誘いはピタっとなくなってしまい、花は寂しくてたまらなかった。 思っていた以上に心地よい相原との関係に依存してしまっていたようだ。 相原のことを好きなのだと気づかされもした。 けれど、どうすることもできず、時間だけが過ぎてゆく。 そんな中、花は夜間保育も辞めさせてもらい、社内でもなるべく相原には近づかないようにしていた。 それは自分の心を守る術でもあった。*春がきた* 春になり、新しい月が訪れ、桜見物の頃になると、花が相馬と付き合ってはいないことなどが周囲にも知れ渡るようになり、今までは相馬の存在があったことで言い寄ってこなかった他部署の真鍋祐貴という一つ年下の男性《ひと》から花はデートに誘われることになる。 ◇ ◇ ◇ ◇ 真鍋は相馬付になった掛居花のことがしばらくして気になる存在となった。 だいたいが相馬綺世のようなデキる美男子と仕事を組むとなると、大なり小なり女を出す女子社員が大半なのに花は全く違って見えたからだ。 これまでに辞めていった女子社員や遠目からいつも相馬のことを注視しているような女子社員と同じように相馬の彼女になりたいだとか、そこまでいかなくともなんとかして近づきたいとかというような、所謂下心というものを花の中に見てしまっていたら真鍋はそこで花に対する興味を失っていたかもしれない。 しかし、だからといってデートに誘うとか告白するとかをするつもりはなかった。 花は午前中は相馬とその日の打ち合わせに熱心で、その後は仕事に邁進、そして時々相馬に呼ばれてブースに入ると熱心に相馬とディスカッションをする。 それとなく何気にふたりのことを注視している周りの社員たちの前で繰り広げられるそんな光景は日々のルーティンとなっていった。 2人の関係は今日も順調だ。 ……ということは仕事だけの関係性で恋愛感情を持ち込んではいなさそうだなと確認をし、皆またその日自分たちの仕事に彼らふたりがそうであるように真摯に向き合うのだ。 おかしな話ではあるが周りをそんなふうに元気づけてくれるのが相馬と掛居 の《どうし
163「相馬さん、私相馬さんと二人三脚での仕事か充実していてすごく楽しかったです。 あと、最低でも2年は一緒にお仕事したかったです。 そしたらもっと相馬さんのこと、知れるかななんて思ってました。 でも今相馬さんがいなくなってしまったら、もう相馬さんのことを知るチャンスはなくなります。 相馬さんへの返事にはもっと時間が必要でした。 相馬さんが異動願いを出した時点でこのお話はGame Overなんです。 交際はできません。ごめんなさい」「いやいや、ちょっと待って。 勝手に異動願いを出したことは姑息だったと思うけど、俺の気持ちも分かって。 早く掛居さんと付き合いたかったから……だから」 私はいろいろ言い訳する相馬さんに深々とお辞儀をし、ブースから退出した。 私はこれまでのことを上司に話し、相馬さんが公私混同をし、自分《花》の仕事環境への配慮を怠り、自分を混乱させているということを訴えた。 またその際、自分が向阪茂の孫であることも話した。 伝家の宝刀を抜いたのだ。 その上で明日から相馬が異動のための引継ぎをする間、自分は関わりたくないので席の移動も兼ねて他の人の仕事補佐に付けてくれるよう、頼み込んだ。 花は卑怯と言われても今後徹底的に相馬を避けることを選択したのだ。 相馬のことを軽く憎んですらいるというのに、明日からどんな顔をして相馬に向かえというのだ。 翌日からは同部署の端にデスクを移動し働くようになった花に、声を掛けたくても話し掛けるな全開オーラで声を掛けられようはずもなく、傷心の相馬はその後異動までの日々をひっそりとそして淡々と引継ぎ業務をこなした。 自分の知る物腰の柔らかかった花のスルーには肝を冷やすほどの強い拒絶の意志を感じた。 引継ぎの日々、何も知らない周囲の人間から『席が離れ離れで辛いわな、もうすぐ異動で職場が離れ離れになるっていうのに、上司は何やってんだか』と可哀想がられたりするのも、相馬には苦痛の種で、曖昧に笑ってやり過ごすしかなかった。
162 相原との、遠い先の見えない付き合いを始めた花は、自分たちの 付き合いが……というより、相原の本意がどこにあるのか、もう少し 鮮明になった時、自分がどこに向かって進めばいいのか考えればいいと 思っていたのだ。 自分が非常に曖昧な場所《ところ》にいることは百も承知している。 相馬が当初の主張を覆してきた時も困惑したものだが、今回のことは どう考えてもあり得ない話で本当に困ったことになった。 周囲のお祭り騒ぎも沈静化した頃、花は相馬の袖を引っ張り ブースへと誘った。 「どういことなの? どうしてこんなことになってるの? ちゃんと説明して下さい」 相馬が石田ひまりの話を始めると花は口を挟まず静かに 最後まで聞いていた。 そして言った。「そこのところだけを聞けば、相馬さんの気持ちも分からなくもないし、 私だとも発信してないから責めることができないのは分かりました」 「そう言ってもらえて助かったー」 そう安堵の気持ちを吐露する相馬には間違った噂が流れているというの に危機感が皆無に見える。 これから私がどんなふうに返事をするか知っていたとしても同じ態度で いられるだろうか。「この話をこんなところ《社内》で訊くのもなんなんだけど、ちょうど 良い機会だから返事を聞かせてもらえないだろうか」 「私、相馬さんの異動がこんなに早く決まるなんて思ってもみなくて。 おかしくないですか? 私を相馬さんに付けておいて1年もしないうちに仕事の先輩である 相馬さんを異動にするなんて。 会社は何を考えているのだろうって思ってしまいます」 『絶対おじいちゃんに言いつけてやる』と、そこまで考えていたのに、 相馬が思ってもみなかったことを言い出した。 「会社側からの意向じゃなくて、俺が12月に異動を願い出たんだ。 掛居さんの返事を聞いたすぐあとだったかな。 駄目元で。 そしたらすんなり通っちゃってさぁ、俺が一番驚いてる」 「相馬さんが……」 花は絶句するしかなかった。 私は相馬さんとは仕事の相性が良くて、ここでしばらく頑張りたくて、 どちらかが異動になったらその時に交際申し込みの返事を考えてみるって 答えた。 この人は私の気持ちが全然分かってなかったのだ。
161「聞いたわよー。上手いことやったわね。相馬さんをGetするなんて」「えっ、そんなこと私……」「掛居さん」 呼ばれて相馬さんの方を見ると困った様子で手を合わせて『お願い・頼む』って感じのポーズをとっていた。 エアーボイスで『どういうこと?』と訊くと、『あとで話すから』と彼からもエアーボイスで返ってきた。 周囲から『良かったね』とか『おめでとう』というような声が掛かり、私がハッとして相原さんのデスクの方に視線を向けると……。 彼は祝福を受けている私のことを憮然と見ていた。 よくよく見てみると彼の表情は憮然としているようでもあり、悲し気でもあり、表情をなくしているようでもあり。 自分の焦りのせいなのか同じ人の顔の表情がくるくる変わって見えるなんて……自分の余裕のなさを感じる。『どうしてこんなことに……』 どんな事情があるにせよ、火元は相馬に違いなかった。 こうなってみると花自身には何の責任はないものの、さりとて、なら相原がこの状況を微塵も気にせずにいられるかというと、それも違うだろう。 好意を寄せている女性が自分以外の男とこれから付き合うらしく、しかも公認になり周囲からは祝福までされているのだから。 12月のクリスマスの告白からおよそ2か月、熱烈な恋人たちとはほど遠い幼子を挟んでのゆったりとした穏やかな付き合いを互いに育んできて、互いの持つ寂しさなどを埋めてきたのだ。 花の方だってそうだ。 相馬との約束はまだまだ先のことで、時間を掛けて決断すればいいと考えていたのだ。 これでは突然の嵐にあったようなもの。
160『掛居』の2文字が出た時、ダンボの耳が大きく動いた気がする。 そして相原の胸に動揺が走った。 彼女たち2人が話し始めた時、相原はすでに缶コーヒーを手に窓際に立っていたのだ。『相馬』の2文字でダンボになりかけた耳は聞いていくうちにすっかりダンボになり、最後の方では動きそうになるぐらい彼女たちの話を聞き逃すまいとダンボ耳が強く反応してしまった。 そして相原も同じように掛居のことだろうと思った。 自分は掛居とは親しくしているが正式な交際を申し込んでいるわけでもない。 だから掛居が相馬と交際するかもしれないという先の予定をわざわざ自分に話す義理などないのだ。 分かってるさ、分かっている。 だが本当のところはどうなのか。 彼女に聞かなければとも思うし、聞きたくないという気持ちもある。 心中複雑なものがある。 以前彼女に相馬とは付き合ってないのかと尋ねたことがあり『付き合ってはいない』との返事だった。 だからずっと仲良くなって、自分だけを見てくれていると思っていたのにそれが独りよがりだったなんて……。 相原は身体から力が抜けていきそうになるのを感じるのだった。 ぼーっとあれこれ思い巡らせているうちにいつの間にか女子社員たちはいなくなっていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 片思いが砕け散りそうになったのは、果敢に相馬に質問した石田ではなく、2人の会話を、俯き食事しながら傍で聞いていた渡辺楓の方だった。 相馬の想い人が掛居花だとすれば、今まで何の接点もなく遠くから見ていただけの自分では到底敵わないと思った。 石田が訊いてくれたお蔭で吹っ切れそうな気がした。口から産まれたような石田ひまりの流布した噂話は、さも付き合うことが確定されたかのような話へと、特に同フロア内全体に流れてゆき、2月の末に正式に 相馬の異動の辞令が発令され掲示板に貼り出されると、フロアーでは新しくカップルができそうだと活気づいた。 そこへ何も知らず出社してきた花は相馬が同僚たちから『異動決まったようだな。寂しくなるな。時々はこっちにも顔を出せよ』などと話しているところに遭遇し、初めて相馬の異動を知る。『異動? そんな馬鹿な。 私たち一緒に仕事するようになってまだ1年も経ってないっていうのに』 異動の話だけでも驚いていると
159「相馬さん、付き合ってる人いらっしゃるんですか?」 あまりに突然で露骨に直球を投げられ、相馬は目が点になった。『いきなりすごい質問だなぁ~』 質問してきた女子社員の横にいる女子《こ》は対照的に俯いてスプーンを 動かしていて心なしか、耳が赤く染まって見える。 自分の返事を知りたがっているのがその彼女か、はたまた質問してきて いる彼女か、どちらかは分からないが、どちらにしても今自分が想い人 以外他の誰とも付き合う気がないということは、ちゃんと意思表示して おいたほうがいいだろう、そう相馬は判断した。 本当のところは付き合うなんて決まってはいないのだが、過去気のない 女性に執拗に付きまとわれて困った経験からここは決まっていることにして 話すことにした。 そしてこの数時間あとのこと。 相馬から自分が振られたわけでもないのに質問した石田は自販機の前で 一緒にいた同僚に声を潜めるでなし、誰かが近くを通れば聞こえてしまう かもしれないくらいの普通の話し声で相馬の話をしていた。「今日、相馬さんに彼女がいるかどうか聞けたのよ~」「やったぁ~。すごいじゃん。……で?」「それがさぁ、ちょっと変わった返事だったのよね」「どんな?」「『今は付き合ってないけど、もう少し先で付き合うことになってる人がいる』って言ったの」 「どういうことなんだろ? もしかして石田さん、牽制されたとか!」「そうなのかな、やっぱり。 でもそれなら普通に付き合ってる人がいるって言えば済むことなんじゃ ない?」 「それもそうよね」「あ、そうそう忘れてた。 確かね『自分が異動になったら付き合うことになってる』って 言ってたな」 「あっ、閃いた」「なになに」「異動になったら付き合うって、アレじゃないの。相手、掛居さん」 「あー、そうよね……そうかも」 「あー、こりゃあ失恋決定だわ。かわいそうに」 さっきから話をしている女子社員は失恋したというのに 他人事のような反応をしている。 最近の女性は強いのだなぁ~と感心して耳をダンボにして聞いていたの は少し離れた場所《ところ》で窓の外を見ながら缶コーヒーを飲む相原 だった。