娘が生後1ヶ月を迎えたあの日、藤井遙華(ふじい はるか)はこの子を連れて、この世界から出て行くことにした。 「宿主、本当に出て行くのですか?」 それを聞いて、遙華の腕の動きは一瞬で止まった。ただそのまま赤ちゃんを抱き上げていた。しかし、遙華はすぐに固い決意を表している目つきで、「はい」と答えた。 そのような迷いもない答えを得るとは思っていなかったからか、システムは少し残念そうな口調で、「もう少し待ちませんか?広瀬景市(ひろせ けいいち)はもうすぐ記憶が取り戻せるかもしれませんし」と言った。 それに対して、遙華はまるで何の感情もないような目をして、ただ落ち着いた口調で、「もう待ちくたびれた。こんなに長い間、ずっとずっと待ってたから」といった。 遙華の話を聞いて、システムもこれ以上何を言っても無駄だと分かった。 「カウントダウンが始まりました。7日後、宿主は完全に元世界へ戻ります!」 日差しが窓の外から、色とりどりのガラスを越して、机の上に置いてある写真を照らした。遙華は目つきが微妙に変わった。そして写真を手に取って、その中に映っている景市の顔を優しく触っていた。 遙華は攻略ミッションの執行者であることを、誰でも知らなかった。 小さい頃から、遙華はミッションの世界に来て、景市を攻略し始めた。この十年間、二人は学生時代の出会いから白無垢の日まで辿り着いた。 景市は遙華のことを死ぬほど愛していると、誰もが言っていた。 遙華に伝説の結婚式を挙げるために、何千万円も使って海外からバラを1万枚航空便で運送してもらったもの。
View More景市が亡くなったあの瞬間、遙華はいきなり心が何か刺されたかのようにチクッと痛みだした。そして不安が全身に襲ってきた。遙華はどうして自分はこうなるのか分からなかった。看護師がその手紙を冬夢に渡して、冬夢がまた遙華に渡したら、ようやく答えが見つかった。「何、これ?」冬夢は躊躇しているような目で遙華を見ていた。そしてようやく困った口調で、「広瀬が遙華に書いたお別れの手紙だ」と答えた。遙華は呆然としていた。しばらく迷っていたら、やっと冬夢からその手紙を受け取った。この手紙はあまりに短く、遙華は一瞥しただけで全てを飲み込んだ。だが、この手紙はあまりに長く、彼女は長い時間をかけてようやく現実に戻ってこられた。。「ごめん」から始まって、「さようなら」に終わる手紙だった。最後の1行に、景市は「遙華が来世、もう俺なんかに会わないように」と伝えた。涙が遙華の目を濡らした。10歳の景市が遙華の目に浮かんだ。景市は影みたいにずっと自分についてきて、「好きだ」と言った。17歳の景市も目に浮かんだ。景市は自分に告白した男性を全員倒して追い出して、「付き合おう」と言った。22歳の景市も目に浮かんだ。景市は大金を使って島を丸ごと買ってくれた。「結婚しよう」と言った。最後、23歳の景市も目に浮かんだ。景市は夜中に車で病院に向かって走ってきて、「俺たちの愛の結晶の爆誕を見届けたい」と言った。最後の最後、スーツを着ていて、自分の大好きなバラを持っている景市も目に浮かんだ。景市は微笑んで、「さようなら」と言った。遙華は深く息を吸った。気づいたら、冬夢がもう指で自分の涙を拭いていた。冬夢に向かって、遙華は笑顔で答えた。「大丈夫よ。ただ急すぎただけ。あいつの死に対して、何を言えばいいか分からないけど、昔のすべてもそれと同時に消えるべきなんじゃないかなって思って。私も自分の人生を歩み続けないと。これから、あいつが私にとって、ただの無関係の人よ」言い終わったら、遙華は迷いもせずにこの手紙を暖炉の火の中に捨てた。その手紙はすぐに炎に燃やされた。灰も残されずに。ショックを受けていないか心配だからか、遙華に何かに遭わないように、ここ数日、冬夢はずっと遙華から離れずに守っていた。そのような冬夢を見て、遙華はずっと自分は大丈夫だから
景市は顔を上げて、横の窓のほうを向いた。自分の痩せっている姿がガラスに映っていた。自分の身体を長らくじっと見つめていて、ようやく悔しそうな口調で、「俺のミッションは完全に失敗した、な?」と聞いた。システムがそれに対する返事は沈黙だった。本当は最初から景市はこのミッションを達成できる気がしなかった。むしろ、このシステムも、このミッションも、ここ数日であったことも全部走馬灯だと思っていた。自分はとっくに死ぬべきだった。今日じゃなくて、事故に遭って記憶を失ったあの日に死ぬべきだった。まだそのように執着していたのは、ただ奇跡を期待していただけだった。奇跡的に遙華と仲直りができることを期待していた。昔遙華が自分のプロポーズを受け入れてくれるように、プロポーズ前日にわざわざ額ずきながら999段の階段を上って、その上の寺で願いをかけたように。額ずきながら階段を上ってきた翌日、遙華は本当に涙で顔を洗いながら受け入れてくれた。あの時、景市は本当にこの世に奇跡が存在していると信じていた。しかし今はどれだけ願っても、奇跡は訪れなかった。景市は無気力にベッドで長らく座っていた。最後はようやくあの灰になっても覚えている電話番号を押した。戻る前に、遙華とちゃんと別れを告げたかった。しかし1回目、2回目、3回目……電話がずっと繋がらなかった。景市の目にあったハイライトもどんどん消えていった。安ちゃんが危篤状態の時に、遙華が自分にかけた電話が繋がらないその絶望感がようやく分かった。第99回目の電話も繋がらなかった。ここで景市はようやく諦めた。それから何も言わずに紙とペンを取り出して、長いお別れの手紙を書いた。そしてちゃんと遙華に届くように、看護師に遙華に渡すよう何度もお願いした。最後、景市はシステムを呼び出した。「システム、攻略ミッションは諦めた。今元の世界に連れ戻して」白い光が差した。その後、病室のベッドに誰もいなかった。同時に、あっちの世界で、1ヶ月以上も眠った景市はようやく目が覚めた。その瞬間、無数の医者がその部屋に入ってきた。景市が目覚めたのは医学的な奇跡だと称賛しようと思ったら、その体に様々な不治の病が診断され、歓喜な目が悲しみに満ちた目になった。最後、主治医は暗い顔をして
「俺は……」景市は何か言いたそうなところで、いきなり目を丸くした。「危ない!」次の瞬間、遙華は景市にしっかりと身で守られた。パーン!クリスタルのようなペンダントライトが景市の頭上の天井から勢いよく落ちて、景市の頭にぶつかった瞬間、爆散した。ガラスの破片は景市の血と混ざって粉々に飛び散った。手術室の外で、遙華は椅子に座ってぼうっとしていた。景市が自分を守った時のことが頭から離れなかった。隣に座っている冬夢は遙華の手を握りしめて、手に伝わる温度で慰めていた。ついに、手術室のドアが開けられた。二人はすぐに立ち上がったら、医者に厚く重なった診断書を渡された。「患者さんの状況は少々複雑ですね」遙華はぼんやりしていた。そして診断書を受け取って、冬夢と一緒に捲りながら医者の説明を聞いていた。聞けば聞くほど、二人の気持ちが重くなっていた。遙華は景市がひどい怪我をしたとは思っていたが、まさかそこまでとは思っていなかった。医者の話によると、景市は記憶障害を負ったので、記憶を取り戻したものの、すでに頭に取り返しのつかない損傷を残してしまったそうだ。それから、景市は重ね重ね事故に遭ってしまい、身体能力はもう限界だそうだ。いくら良い治療や薬を使っても、もう長く生きられないのだと。遙華は手を握りしめて、結局それを聞けなかった。だが景市が病室に搬送されてから、遙華はようやく口を開いた。「入って見てもいいですか?」医者に許可されたら、遙華は冬夢に頷いて、景市のいる病室に踏み入れた。窓の外から温かい日差しが入って、景市の顔を照らした。しかしそれでも、景市の顔は血の気のないままだった。ぐっすり眠っているその顔を見て、色々な感情が遙華の胸に渦巻いた。前回二人きりになったのはいつだったか、もう思い出せなかった。ぼんやりした記憶の中で、毎回景市に会っただけで、喧嘩して、不愉快な空気で別れた。遙華は深くため息をついた。もう一度目を開いたら、景市のその淀んだ目と合った。「遙華……」遙華は落ち着いた顔で景市を見ていた。「景市、どうせ同じことを言うんでしょ?でも私の性格、あんたも分かってるはずだよ。私、何かを嫌いになったら、もう好きになることはないよ。小さい頃、1回魚の骨が喉に刺さったことがあって、そ
遙華はじっと冬夢を見つめていた。その目には自分のことしかなかった。手をギュッと握りしめながら、遙華は心の底の複雑な気持ちを抑えた。冬夢が自分のことも、自分の娘のことも大切にしているのは知っている。しかしそこまで大切にしているとは思わなかった。自分の娘を実の娘のように可愛がってきただけでなく、娘の1歳の誕生日のためにそんなに手間のかかる準備をしているとは。もし娘と自分に出会わなかったら、冬夢のような男はきっとモテるだろう。それなのに自分を選んでくれたなんて。言葉ではまとまらないくらい色々な感情が混ざっていた。しばらくしたら、遙華は一言しか発さなかった。「なんでそこまで……?」「遙華、僕のしているすべてがちゃんと考えてから決めたんだ。遙華とこの子に出会ったことに後悔したことは一度もない。もうこの子の産まれた日と生後1ヶ月の記念日を見逃したから、今回の1歳の誕生日は絶対に見逃したくないんだ」遙華は涙を堪えて、冬夢を抱きついた。時間が流れていき、遙華はようやく細い声で、「ありがとう……」と言った。遙華の娘の1歳の誕生日パーティーに、たくさんの人がお祝いに来た。みんな素直に祝福して、くれたプレゼントもどれも素敵だった。冬夢は片手で娘を抱き上げながら、片手で遙華と手を繋いで、来てくれたゲストに1人ずつ挨拶をした。1歳の誕生日に、娘のあだ名も決められた。「安ちゃん」という名前だった。遙華は娘に多くは求めていなかった。ただ安泰な人生を歩んでほしいだけだった。パーティーの途中で、会場の前からいきなり騒ぎが起こっているような物音がした。すぐに、パーティーの担当者がやってきて、ひそひそと冬夢に耳打ちをした。冬夢の顔色は微妙に変わった。そして担当者に「先に警備員にそのままあいつを止めてもらって。すぐに行くから」隣りにいる遙華は一瞬で誰が起こした騒ぎか分かった。遙華は冬夢の手を引っ張って、「やっぱり私が行こう。私の原因もあるし」と言った。冬夢は反対しているような顔をしたが、遙華は自分の手をポンポンと叩いた。「大丈夫。ちゃんと自分の身を守るから」会場の外の隅っこで、景市は何人かの警備員に椅子に固定された。やってきた遙華を見て、景市は冷静を失い、椅子から立ち上がろうとした。「遙華!」しかし遙華の次
言い終わった瞬間、景市の濡れた瞼が遙華の目に入った。遙華の記憶で、景市の涙は稀なものだった。数回だけ涙を流したのは、全部自分のためだった。景市の涙を見たら、遙華はどれほど冷たい態度を取ったとしても、すぐに慰めたから。自分の涙は遙華の弱みだと知って、景市は毎回遙華に傷つけられた時、瞼を濡らした。しかし今、景市がどれくらい泣いても、遙華は何もしてあげなかった。興味も持たずに、後ろを向いて外に出ようとした。次の瞬間、遙華はその人に後ろから抱きつかれた。そのドキドキする心臓の鼓動と、震えている声が遙華の耳に入った。「遙華、君と娘が離れてから、俺は死ぬほど苦しんでた。どんな説明でも通じないのは分かってる。でもやっぱり『もしかしたら』って思って、もしかしたら、遙華は情けをかけて許してくれるかもしれないって」遙華は微動もしなかった。言葉も発さなかった。ただ静かに立っているだけだった。その姿を見て、景市はますます辛くなってきた。ここ数日、遙華は自分に手を出したり、怒ったり、無視したりしてきた。情けだけどうしてもかけてくれなかった。景市は震えながらポケットから数珠つなぎになっているお守りを取り出して、遙華に見せた。「遙華が言ったんだ。俺が一回遙華を傷つけてしまたら、お守り1本を取ってあげるって。ほら、こんなにもお守りを取ってあげたぞ。どうか許してくれないか?」自分でも無理やりすぎると思っていたか、景市はまた譲歩して、「少なくとも、償うチャンスがほしいんだ。本当に悪かったんだ。俺たちにはまだ娘もいるし、そういうチャンスをくれないか?」といった。遙華はただ黙り続けて、自分を抱きついている腕から抜け出した。そして、振り返って景市を見ていた。「景市、あんたはいつもそう。毎回私を傷つけた後、いつも自分が謝れば償えば済むって思ってる。しかしあんたがいくら謝っても、償っても、娘と私が負った傷は変わらないよ」遙華は深く息を吸って、言い続けていた。「それに、それはもう傷つけるレベルじゃないわ。娘と私は命を落としそうなところだったよ」景市が何か言いたそうなところで、焦っている声が後ろから届いてきた。「遙華!」次の瞬間、遙華は急いで帰ってきた冬夢に腕に抱きしめた。「何かされてないよな?」帰ってきた冬夢を見て、遙華は
でかい衝撃の音が前から耳に入った。エアバッグがすぐに出てきて、勢いで前にぶつかる遙華をしっかりと受け止めた。その一瞬、遙華は心臓が止まると思っていた。まだ息も整えていないうちに、そのラングラーが自分たちの車を越して、そのままその白い車にぶつかった光景が目に映った。パーン!一瞬で、事故現場は大騒動になった。パトカーと救急車のサイレン音と周りの人の泣き声が混ざりあって、そのすべてが顔色が真っ青になった遙華の目に入った。隣の冬夢にギュッと肩を掴まれえ、焦っている声で自分の名前を呼ばれて、遙華はようやく我に返った。不意に後ろのジュニアシートのほうを見て、娘は無事だと確認したら、遙華はやっと娘を冬夢に渡した。そして片手で髪を揉みながら、ドアを開けて車から降りた。道中は惨状だった。景市の車は前の白い車に入り込んで、フロントバンパーは丸ごと凹んでいた。運転席で、景市の頭はすでに血だらけなのに、両手はハンドルを握りしめたままだった。遙華は深呼吸して、広い歩幅でその車の前まで行って、ドアを開けて、その中から死にかけた人を引っ張り出した。「遙華……」目の前の遙華を見て、景市は目を輝かそうとするところで、遙華からビンタを食らった。「景市、あんたはあと何回娘と私を殺そうとするの!?娘と私が追い詰められて死んじゃわないと、許してくれないの?」景市は傷ついたような目をした。そして慌てながら口を開いた。「ち、違うんだ、遙華……俺はただ遙華を止めて、そして遙華と……」「もういい、景市!」遙華は怒りのあまり全身が震えていた。絶望に満ちた口調で、「あんたの言い訳なんか聞きたくない。今すぐ消えてください。もう娘と私を邪魔しないで」と言った。そして、遙華はもう二度と振り返らずに、後ろを向いて戻ろうとした。それを聞いた景市は一瞬で焦りだした。本能で追いかけようとしたが、次の瞬間、視界が暗くなって、完全に意識を失ってしまった。それからの数日間、娘にまた何かあるのが怖くて、遙華は一歩も離れずにずっと娘のそばで守っていた。冬夢も子どものことが心配で、毎日早めに病院から帰ってきた。しかし今日だけ、冬夢がずっと家に帰ってこなかった。遙華はどんどん不安になってきて、すぐに冬夢に電話をした。だが、向こうから届いたのか助教の声で、「
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