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渡れなかった愛

渡れなかった愛

By:  むずむずむCompleted
Language: Japanese
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今江渡(いまえ わたる)が父親になったことを、最後に知ったのは私だった。 病院に着くと、彼が秘書に指示しているのが聞こえた。 「子どものことは誰にも漏らすな。陸野幸(りこの さき)が戻ってきたら、きっと騒ぎ出す」 十年間彼を想い続けた私は、一年前に想いを打ち明けた。 その時、彼はこう言った。 「君が勉強を終えて帰ってきたら、一緒になろう」 今思えば、本当に馬鹿げた話だった。 私はもう、以前のように感情的になることも、なぜ騙したのかと問い詰めることもしなかった。 ただ再び飛行機に乗り、海外へと旅立ち、そして、最近私に想いを寄せてくれている男のプロポーズを受け入れた。 それ以来、私は二度と渡を想うことはなかった。

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Chapter 1

第1話

今江渡(いまえ わたる)が父親になったことを、最後に知ったのは私だった。

病院に着くと、彼が指示しているのが聞こえた。

「子どものことは誰にも漏らすな。陸野幸(りこの さち)が戻ってきたら、きっと騒ぎ出す」

十年間彼を想い続けた私は、一年前に想いを打ち明けた。

その時、彼はこう言った。

『君が勉強を終えて帰ってきたら、一緒になろう』

今思えば、本当に馬鹿げた話だった。

「渡、あんたがどれだけ情報を封じても無駄よ。もし陸野が突然戻ってきたら、どうせ全部知られるわ」

病室の中、窓辺に立つ女性が渡に話しかけていた。

渡は腕の中に赤ん坊を抱き、目を細めて慈しむような表情を浮かべている。

その言葉を聞いた瞬間、彼の眼差しは冷たくなった。

「戻ってくるなら戻ってくればいい。もし本当に知ったのなら、ちゃんと話すつもりだ。ただ、今は彼女が受け止めきれずに騒ぎ立てるのが面倒なんだ。

だって、あいつが俺のことをどれだけ好きだったか、みんな知ってるだろ。昔は何度も揉めたことがある」

私は病室の扉の前で、凍りついたように立ち尽くしていた。

そう。私は確かに彼のことが大好きだった。

彼のそばに他の女の人がいれば、すぐに追い払っていた。

他の女性と少しでも話していれば、「私のこと、もう好きじゃないの?」と詰め寄っていた。

「まあね、彼女の性格なんてみんな知ってるし」

女性は笑ったが、次の瞬間、顔に翳りを帯びた。

「それで、結婚する時も情報を隠すつもり?」

渡は赤ん坊にキスをすると、優しく答えた。

「その時になってみないと分からない」

そう言い終えると、高木思帆(たかき しほ)がトイレから出てきた。

渡はすぐさま子どもを寝かせ、彼女の元へ駆け寄って支えた。

「思帆、ゆっくり、気をつけて」

「やだもう、思帆って本当に幸せ者ね。こんなに素敵な婚約者がいて」

「未婚のまま妊娠したのも、納得だわ」

心臓がぎゅっと縮み、息が止まりそうになった。

高木思帆――彼女はかつて私の一番の親友だった。

私は渡航前、彼女にこう頼んだのだ。「渡のこと、お願いね」って。

それなのに今、彼女は渡の婚約者になっていた。

まさか、自分の身にドラマでしか見たことのないような修羅場が降りかかるなんて思いもしなかった。

私はもう、自分が中に入っていいのかどうかすら分からなかった。

たとえ入ったとして、彼に何を言える?

そもそも、私たちは正式に付き合っていたわけではないのだから。

一年前、彼が口にしたのはただの約束だった。

――「君が勉強を終えて帰ってきたら、一緒になろう」

私はスマホを取り出し、渡のトーク画面を開いた。

彼からはもう長らく連絡がない。最後にLINEが届いたのは一週間前、「ご飯食べた?」という短いメッセージだった。

私は「食べたよ」と返し、海外での出来事を彼に話した。

道端で小さな子猫を見つけた――そんな他愛のないこと。

だけど、それに対する返信はなかった。

私は新たにメッセージを送った。

【渡、今なにしてるの?】

その瞬間、病室の中から渡のスマホの通知音が聞こえた。

彼は画面を見て一瞥すると、何も返さず電源を切った。

隣にいた友人がその様子を見て笑いながら言った。

「なんで返さないんだよ?」

渡は思帆の手を取り、優しく撫でながら淡々と言った。

「返す必要なんてない。俺はずっと、あの子のことが嫌いだったんだ。

もし父さんが養女として引き取っていなければ、あんな茶番に付き合うこともなかった。

俺が好きなのは、最初からずっと思帆だけだよ」

自分がどうやって病院を出たのか、まるで覚えていない。

ただ、足元がふらつき、何度も人にぶつかりながら歩いたことだけは記憶にある。

ようやく玄関まで辿り着いたとき、渡の友人のひとりと鉢合わせた。

彼は花束を手にしていて、私の顔を見るなり、驚いたような表情を浮かべた。

「幸、いつ帰国したんだ?」

「それに、どうしてここに?」

二つの問いかけに、私はつい数日前の出来事を思い出した。

一年間の留学がようやく終わり、私は帰国したばかりだった。

飛行機を降りた後、少し体調が優れなかったので、病院を訪れた。

まさか、こんな偶然があるなんて思いもしなかった。

たまたま通りかかった病室が、渡のいた部屋だったのだ。

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第1話
今江渡(いまえ わたる)が父親になったことを、最後に知ったのは私だった。病院に着くと、彼が指示しているのが聞こえた。「子どものことは誰にも漏らすな。陸野幸(りこの さち)が戻ってきたら、きっと騒ぎ出す」十年間彼を想い続けた私は、一年前に想いを打ち明けた。その時、彼はこう言った。『君が勉強を終えて帰ってきたら、一緒になろう』今思えば、本当に馬鹿げた話だった。「渡、あんたがどれだけ情報を封じても無駄よ。もし陸野が突然戻ってきたら、どうせ全部知られるわ」病室の中、窓辺に立つ女性が渡に話しかけていた。渡は腕の中に赤ん坊を抱き、目を細めて慈しむような表情を浮かべている。その言葉を聞いた瞬間、彼の眼差しは冷たくなった。「戻ってくるなら戻ってくればいい。もし本当に知ったのなら、ちゃんと話すつもりだ。ただ、今は彼女が受け止めきれずに騒ぎ立てるのが面倒なんだ。だって、あいつが俺のことをどれだけ好きだったか、みんな知ってるだろ。昔は何度も揉めたことがある」私は病室の扉の前で、凍りついたように立ち尽くしていた。そう。私は確かに彼のことが大好きだった。彼のそばに他の女の人がいれば、すぐに追い払っていた。他の女性と少しでも話していれば、「私のこと、もう好きじゃないの?」と詰め寄っていた。「まあね、彼女の性格なんてみんな知ってるし」女性は笑ったが、次の瞬間、顔に翳りを帯びた。「それで、結婚する時も情報を隠すつもり?」渡は赤ん坊にキスをすると、優しく答えた。「その時になってみないと分からない」そう言い終えると、高木思帆(たかき しほ)がトイレから出てきた。渡はすぐさま子どもを寝かせ、彼女の元へ駆け寄って支えた。「思帆、ゆっくり、気をつけて」「やだもう、思帆って本当に幸せ者ね。こんなに素敵な婚約者がいて」「未婚のまま妊娠したのも、納得だわ」心臓がぎゅっと縮み、息が止まりそうになった。高木思帆――彼女はかつて私の一番の親友だった。私は渡航前、彼女にこう頼んだのだ。「渡のこと、お願いね」って。それなのに今、彼女は渡の婚約者になっていた。まさか、自分の身にドラマでしか見たことのないような修羅場が降りかかるなんて思いもしなかった。私はもう、自分が中に入っていいのかどうかすら分から
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第2話
何かを言いたかった。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。だから、そのまま走って逃げた。タクシーに乗って、ようやく気づいた。ひとつの、あまりにも残酷な現実に。――好きだった人は、もう私のものじゃない。彼は私を騙していた。そして、私の一番の親友も、同じように私を裏切った。どうしてなのか、まったく分からなかった。そんな時、渡から電話がかかってきた。「幸、帰ってきたのか?」いつもと変わらない、穏やかな声だった。もし今日、病院であの光景を見ていなかったら、私はまだ彼の嘘に気づかず、信じ続けていたかもしれない。「うん、帰ってきたよ」私は静かに答えた。「どうして前もって言ってくれなかったんだ?迎えに行けたのに。さっき友達が病院で君を見かけたって……体調でも悪いのか?」「うん、ちょっと診てもらいに」なぜだろう、私は彼の嘘を暴こうとは思わなかった。心のどこかで、まだ彼に期待していたのかもしれない。自分の口からすべてを話してほしかった。「じゃあ今すぐ会いに行くよ。ちょうど近くにいるから」それから間もなくして、渡の車が私の前に止まった。彼はすでに服を着替え、髪も整えていた。私が彼をじっと見ていると、彼は慌てたように笑って言った。「一年ぶりだね、君は相変わらず綺麗だよ。だけど、俺はちょっと太っちゃったかも。……幸、君は俺のこと、嫌いになってないよね?」私はすぐには返事をしなかった。彼の鎖骨にあるタトゥーが目に入ったからだ。【TS1997.3.08】それは思帆の名前のイニシャルと、彼女の誕生日だった。身体中が冷たくなった。あの約束をしたのは、ちょうど一年前だった。彼は私に好意を示してくれた。部屋に私を招き入れ、頬にキスしながら言ってくれた。「幸、俺たちは小さい頃から一緒だった。俺の気持ちは分かってくれてるよね?大丈夫、君が帰ってくるのを待ってるから」……でも今の彼は、私に平気で嘘をついている。「ううん、嫌いじゃないよ」私の答えを聞いた彼は、安心したように息を吐いた。「それなら良かった。まずはご飯にしよう。君の帰国祝いだ」車に乗ると、後部座席に女性用のシャツと、赤ちゃんの哺乳瓶が置かれていた。「こ、これはね、前に友達夫婦が遊びに来たと
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第3話
「まだ卒業してないんじゃなかったっけ?」渡は、すべてを忘れていた。私の嫌いな食べ物も、使いたくないティッシュも──そして、私との約束すらも。私はセロリと牛肉の炒め物を一切れ取り、無理に口へ運んだ。「卒業したよ……」言い終える前に、テーブルの上に置かれた彼のスマホが突然鳴り始めた。画面には「妻」の文字が点滅していた。彼の目に一瞬、動揺の色が浮かび、慌ててスマホを手に取って通話ボタンを押す。声が漏れないように、ボリュームを下げることに必死だった。相手が何を言ったのかはわからない。彼は「すぐに戻る」と答えた。通話を切った後、私のほうを見て言った。「友達がちょっとトラブっててさ、行かなきゃならないんだ」「幸、一人で食べてて。明日また改めて歓迎会やるから」私が返事をする前に、彼はもう鍵を取って出て行った。その背中を見送る私の胸には、鋭利な刃物が突き刺さったような痛みが走った。この一年、私は毎日、日数を数えていた。彼に会える日を心待ちにしていた。なのに──今は、すべてが崩れてしまった。彼との約束は、泡のように跡形もなく消えていった。私が十歳のとき、今江家に引き取られた。父と渡の父親は親友で、父が癌を患ったとき、私のことを渡の父親に託したのだ。今江家に来た当初、私に優しくしてくれたのは渡の父親だけだった。養子という立場のせいで、家政婦たちや渡の母親からはまともに扱われなかった。私はいつもびくびくしながら今江家で暮らしていた。食事の量にも気をつけ、小遣いがなくても我慢するしかなかった。ある晩、一日中何も食べていなかった私は、深夜こっそりキッチンへ行き、食べ物を探していた。そこで家政婦に見つかり、ひどく怒鳴られた。そのとき──渡が偶然、家に帰ってきた。彼は「誰がこの子にそんな口のきき方を許した?」と怒鳴った。それが、私が彼と初めて出会った瞬間だった。あとで知ったのは、彼が今江家の長男で、私より六つ年上の高校生だったということ。それからというもの、彼は毎日帰ってくるようになり、彼がいると誰も私をいじめようとしなかった。彼はいつも言っていた。「幸、俺が守ってやる」そして、私が成人を迎えた日の夜──酔っ払った彼が突然、私の部屋に入ってきた。彼は自ら私に口づ
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第4話
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第5話
渡のその一言で、私の心は完全に砕け散った。冷たく笑って、私はそのまま踵を返し、何も言わずにその場を去った。昔、誰かが私に言ったことがある──「約束なんて、この世で一番意味のない言葉だ。大事なのは行動だけ」あのときは信じなかったけれど、今は信じている。私はタクシーに乗って今江家へ向かった。渡の父親の顔を見たらすぐに帰るつもりだった。途中、景山林(かげやま りん)からビデオ通話がかかってきた。「幸、見て、道路脇のチューリップがすごく綺麗だよ。イギリスって本当に素敵なところだね。君は本当に帰ってこないの?」彼は私の同級生で、私がイギリスに交換留学していた一年間、ずっと私を追いかけていた。聞いたところによると、彼は幼い頃からイギリスで育ったらしく、考え方もかなり自由でオープンだ。彼が告白してくるたび、必ずプロポーズの形だった。「父さんが言ってたんだ。好きな人ができたら、すぐに勇気を出して奪いに行けって。じゃないと他のやつに取られちゃうぞって!」「ちゃんと帰るよ。三日後には戻る」そう言うと、彼の目がぱっと輝いた。……今江家に着くと、使用人たちが式場を準備している。家のあちこちに、結婚式に関連する装飾がびっしりと飾られている。「お嬢さま、お帰りになったんですね?」使用人の一人が驚いたように声をかけた。渡の父親も驚いた様子で近づいてきて、「どうして急に帰ってきたんだ」と聞いてきた。「少しだけ顔を見に来ただけです。すぐにまた戻らないといけないので」「もうちょっとゆっくりしていけばいいのに。お前の兄さんが結婚するんだぞ」渡の父親は満面の笑みで私を見つめている。彼は私が渡を好きだなんて、これっぽっちも知らない。「いえ、学業がまだ忙しいので……」「そうか、まあ仕方ないな」彼は残念そうにため息をついた。「そうだ、お前の未来の義姉さんが三日前に出産してな、男の子だったんだよ。知らせようと思ったけど、お前の兄さんが『学業に集中させたい』って言って、知らせるなって」彼は知らない。渡が意図的に私に隠していたことを。私が騒ぎ立てるのを恐れてのことだ。私は微笑みながら言った。「それじゃあ、お義姉さんにくれぐれもお体を大切にって伝えてください」「おう、もちろんだとも」渡
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第6話
けれど今、彼は他の人との間に子供をもうけている。渡が私の方を見ているのに気づいて、私は笑顔で尋ねた。「お兄さん、この子、名前は何ていうの?」「安成(やすなり)」先に答えたのは思帆だった。「渡が言ってたの。ずっと穏やかに成長するほしいから、安成って名前にしたんだって」私はその場に固まった。ずっと前、渡が言っていたのだ。「将来、俺たちの子どもには安成って名前をつけたいんだ。ずっと幸せでいてほしいから」――なんて皮肉なんだろう。もうここに居たくなくて、「体調が悪い」とだけ言ってその場を後にした。気分を落ち着かせようと、庭園に出た。昔から、悲しいときはいつもここに来ていた。そして、いつも渡がそばに来てくれて、一緒に話したり、ボードゲームをしたりしてくれた。ぼんやりとそのことを思い出していると、不意に渡が私の隣に現れた。「どうしたんだ?」その言葉に、私は思わず笑ってしまった。よくもそんなことが言えるな、と。自分で分かってるはずなのに。「お兄さん、昔、私と交わした約束、もう忘れたの?」彼の目を見つめながら尋ねる。あんなに好きだったはずなのに、不思議と今は心が静かだった。彼は少し眉をひそめ、冷たい声で言った。「あれは冗談だったんだ」「君とは歳が離れすぎてる。俺たちは合わない」でも、じゃあ、思帆とは歳が近いっていうの?「思帆は若いけど、大人だし、責任感もある。だからもう、俺のことは諦めてくれ。俺は君のこと、好きじゃない。これからは、兄として仲良くしたいと思ってる」「兄」なんて言葉が、彼の口から出てくるなんて思ってなかった。だって昔、彼はこう言っていたのだから。「幸、俺のこと『お兄さん』なんて呼ぶなよ。将来、幸の旦那になるんだから」彼は一枚のカードを差し出してきた。「この意味、分かるだろ。穏やかに別れよう」そのカードが、まるで目を刺すように私の心を貫いた。冷たい風が吹いてきた。私は静かに笑ってカードを受け取った。「分かった。もう、戻ってこない」背を向けて歩き出すと、彼が後ろから声をかけてきた。「もし時間があるなら……俺の結婚式に出てから行ってくれ」「いいえ、時間なんてないから」私はそのまま屋敷を後にした。車に乗る前に、最後にもう一
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第7話
もう彼のことを愛することはないだろう。飛行機を降りると、迎えに来てくれていたのは林だった。彼は駆け寄ってきて、私をぎゅっと抱きしめた。「よかった、また帰ってきてくれて!ご飯食べに行こうよ。僕、ついに運転免許取ったんだ。今日は僕が運転する!」彼はとても明るくて、芯の強い男の子だった。それまで私は彼を避けてきたし、告白も断り続けてきた。それでも諦めずに想い続けてくれた。正直、そんな彼を少し尊敬している。車に乗ると、彼は嬉しそうに喋り始めた。「ダッシュボードに無香料のティッシュ入ってるよ。君のために買ったんだ」食事の時も、彼は店員さんにわざわざ伝えていた。「全部の料理、セロリ抜きでお願いします。彼女が苦手なので」私は驚いた。彼が私の好みをそこまで把握していたことに、胸がじんとした。セロリが嫌いなこと、香り付きのティッシュが苦手なこと――そんな細かいことまで覚えてくれていたなんて。私がじっと見つめていると、彼は笑いながら言った。「そんなに見つめて、どうしたの?」「別に」「もしかして考えごとしてた?僕って意外とイケメンだし、頼りになるし、結婚相手にぴったりだなーって?」「うん」私がうなずいた瞬間、林は椅子から立ち上がって目を見開いた。「えっ、今なんて……!?」「うん、って言ったの」「僕と結婚してくれるってこと!?」「そうだよ」「うそだろ……夢みたい……!」彼は大きく両腕を広げ、私を強く抱きしめた。かつての私は、恋愛に固執していた。愛がなければ結婚なんてできないと思い込んでいた。でも今は違う。「合う」ことが何より大切だと思っている。林は私を笑顔にしてくれる。そして私と同じように音楽が好き。それだけで、もう充分だった。……私と林はすぐに婚約し、式の日取りも決めた。一緒に指輪を選び、ウェディングドレスも決めた。彼は本当に嬉しそうで、その写真を誰かに送っていた。「従兄に送ったんだ。僕たち、すごく仲がいいんだ。やっと心から好きな人を手に入れたって、報告したくて。幸、僕たちはこれからきっと幸せになるよね」私は彼の頭をそっと撫でた。「なるよ、絶対に」すべてが決まったあと、以前会った芸能事務所のスカウトを訪ねて、そ
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第8話
1ヶ月ほど経った頃、私は渡の友人から電話を受けた。「幸、明日渡が赤ちゃんの百日祝いをするんだけど、戻って来て顔を見せてくれないか?」どうして彼がそんなことを私に聞いてくるのか分からなかった。私と渡がすでに関係を絶ったことは、彼もよく知っているはずなのに。「行かない」そう答えて電話を切ろうとした瞬間、不意に渡の声が聞こえてきた。「幸、最近そんなに忙しいのか?甥っ子の百日祝いにすら来ないのか?」「渡、あなたって本当に矛盾してると思う。帰ってくるなって言ったのはあなたでしょ。私はその言葉を受け入れて戻らないって決めた。それなのに今になって、なぜ来ないのかなんて聞いてくる。それにお守りだって、まだ返してくれない。あなたは、何がしたいの?」渡は黙り込み、何も答えないまま電話を切った。私はそのままこの番号を着信拒否にした。もう彼らとは一切関わりたくなかった。その後、私は事務所に向かった。最近私の曲が大ヒットして、かなりの収入が入っていた。そこで今後の活動について社長と打ち合わせをした。社長は、私のファンの一人が黙って大量に投げ銭してくれていたことも教えてくれた。誰かはわからなかったが、心の中でその人に深く感謝した。家に戻ると、林がすでに食事の用意をして待っていた。「早く食べよう!」と彼は笑顔で言った。「そうだ、近いうちに僕の従兄が遊びに来るから、その日は外で食べようね」私は頷き、それ以上は何も聞かなかった。けれど、まさかその「従兄」が渡だとは、夢にも思わなかった。……渡は私の姿を見た瞬間、呆然と立ち尽くした。私もその場に固まってしまった。数か月ぶりに見る彼の姿は、少し痩せたように見えた。きっと、子どもの世話で疲れているのだろう。「兄さん、彼女って前に話した人だよ。幸。もうすぐ僕たち、結婚するんだ」林は私の手を取りながら、嬉しそうに話した。その瞬間、渡の手から何かが「パタン」と音を立てて床に落ちた。「……いつ知り合ったんだ?」渡が低く尋ねた。だが林はまだ事の異変に気づかず、笑いながら言った。「僕と幸は同級生だよ。簡単には振り向いてくれなくてさ、1年もかかったんだ。ずっと好きな人がいるって言ってたけど、僕が諦めなかったから、最後には結婚OKしてくれたん
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第9話
翌朝、林が朝食を買いに出かけた。その隙に、渡が部屋を訪ねてきた。「君、俺を怒らせたいだけだろ」「……は?」彼は嘲るように鼻で笑った。「幸、そんな子どもみたいな真似、もうやめろよ。俺はもう君なんか好きじゃない」「何の話か、よく分からないけど」彼の顔を見つめながら答えると、彼の言葉はますます支離滅裂に聞こえた。「君、俺の結婚式にも来なかったし、子どものお祝いにも来なかったよな。で、今度は『自分が結婚する』ってわざわざ俺に知らせてきた。全部俺に見せつけて、苛立たせたいんだろ?まぁ……賢くなったじゃない。ちゃんと策略を変えてきたんだな」彼はそう言いながら薄く笑った。「でもな、そんな手段、俺には効かないよ」私はふと吹き出した。「お兄さん、頭がおかしくなったんじゃない?私は林と心から愛し合ってる。彼があなたの従兄だなんて、つい最近まで知らなかったのよ」「君……」彼の顔色が一瞬で曇った。「幸、昔はあんなに俺のことが好きだったろ」「そうね、昔はね。でも今はもう違うの」「それより、せっかく来たんだし、あのお守り、返してもらえる?」彼は一瞬言葉を失い、しぶしぶバッグからそれを取り出して投げてきた。「……俺のこと、好きじゃなくていいさ。そうすれば、もう君にかき乱されることもない」その瞬間、林が戻ってきた。私は彼の前でそのお守りを差し出した。「父が言ってたの。『本当に愛する人に渡せば、その人と自分の両方を守ってくれる』って」かつては渡に渡すつもりだったものだった。でも、私は気づいた。この人には、それだけの価値がなかったのだと。林が受け取ったとき、渡の顔は凍りついたように冷えきっていた。そのまま、彼は無言で部屋を後にした。渡はこのまま帰るだろうと思っていた。だが、彼は私の勤務先にまで現れた。そして開口一番、こう言った。「俺、君のファンだったんだ。たくさん投げ銭してた」まさか、それが彼だったなんて――驚いた。けど、どうしてそんなことを?「それはどうも、お兄さん。ありがとうね」私がそう返すと、彼の顔が一瞬で曇った。数秒黙った後、口を開いた。「……俺、思帆と離婚しようと思ってる。最近は性格も体型も昔と違ってきたしさ。君だったら、子どもができ
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第10話
「本当に嬉しいです。ここで、お兄ちゃんとお義姉さんが末永く幸せでありますようにと、心から願っています」そう言い終えた瞬間、彼はさらに激しく泣き崩れた。私は林の手をそっと握り、彼にだけ聞こえるように囁いた。「あなた……愛してる」その瞬間、私は初めて、自分が本当に幸せになれたのだと実感した。【後日談】まさか、幸が本当に林と結婚するなんて、信じられなかった。あれほど俺のことが好きだったのに。大雨の中、ずぶ濡れになりながら俺に告白してくれた。「お兄ちゃん、私、あなたのことが好き。一緒にいてくれませんか?」あのとき、俺はまだ彼女の幼い顔を見て、思ったのだ――駄目だ、俺はこの子と一緒になっちゃいけない。だって、彼女は「妹」だから。でも、彼女が十八になった年のある夜、俺は酒に酔って、気づけば頭の中が彼女のことでいっぱいになっていた。感情を抑えきれずに彼女を訪ね、そして自分からキスをした。「俺も、お前のことが好きだよ」そう言ってしまった。けど、翌朝、現実が襲ってきた。もし他人に知られたらどうなる?俺が父親の養女と付き合っているなんて、笑いものだ。だから、俺は彼女を傷つけないために、大学を卒業したら一緒になろうと曖昧な約束をした。彼女の大学最後の年、俺は学校に頼んで彼女が海外の交換留学生に選ばれるよう仕向けた。彼女が遠くにいれば、きっと気持ちも落ち着くと思った。そして、彼女が旅立ったあと、俺は思帆と付き合い始めた。思帆は落ち着いていて、俺に尽くしてくれて、表面的には「ちょうど良い女」だった。子どもを作るつもりはなかった。でも酔った勢いで一度だけ関係を持って……その一度でできてしまった。……結婚式場を出たあと、俺はトイレの個室に駆け込み、崩れるように泣いた。自分を何度も何度も平手打ちした。どうして、あのとき勇気を出して幸と向き合わなかったのだ。なんで、自分を裏切ったのだ。彼女が離れていくのが分かっていたのに、どうして引き留められなかったのだ。思帆が自傷行為をしたとき、俺はそれを口実にして彼女を遠ざけた。そうすれば、彼女は諦めると思っていた。でも本当に離れていこうとしたとき、俺は焦った。離れてほしくない。でも思帆とも別れたくない。長い時間一緒にいて、子どもまでい
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