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春はやがて冬を去っていく

春はやがて冬を去っていく

Par:  オレンジComplété
Langue: Japanese
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「お母さん、決めたよ……明国に行って、お母さんのところに行く。そして結婚するの」 唐澤静香(とうさわ しずか)は深く息を吸い、嬉しい声で言った。 「春子ちゃん、やっとわかったのね!お母さんが紹介したあの人、本当にいい人よ。きっと幸せになれるわ!」 「……うん」 電話を切ると、唐澤春子(とうさわ はるこ)は無気力に床に腰を下ろした。 机の上に置かれた彼氏・柳原冬樹(やなぎはら ふゆき)のスマホは、まだ画面がついていて、メモアプリが開かれていた。 最新のメモは今日書かれたもので、写真にはハート型のピンクダイヤモンドの指輪が写っている。 それは春子の右手の薬指にある指輪と、まったく同じだった。 写真の下には小さな文字でこう書かれていた―― 【この指輪をつける人が明菜だったら、どれほどいいだろう】と。 明菜は、冬樹の元カノだった。

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Chapitre 1

第1話

「お母さん、決めたよ……明国に行って、お母さんのところに行く。そして結婚するの」

唐澤静香(とうさわ しずか)は深く息を吸い、嬉しい声で言った。

「春子ちゃん、やっとわかったのね!お母さんが紹介したあの人、本当にいい人よ。きっと幸せになれるわ!」

「……うん」

電話を切ると、唐澤春子(とうさわ はるこ)は無気力に床に腰を下ろした。

机の上に置かれた彼氏・柳原冬樹(やなぎはら ふゆき)のスマホは、まだ画面がついていて、メモアプリが開かれていた。

最新のメモは今日書かれたもので、写真にはハート型のピンクダイヤモンドの指輪が写っている。

それは春子の右手の薬指にある指輪と、まったく同じだった。

写真の下には小さな文字でこう書かれていた――

【この指輪をつける人が明菜だったら、どれほどいいだろう】と。

鈴木明菜(すずき あきな)は、冬樹の元カノだった。

涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。春子の頭の中に、冬樹がプロポーズしてきた日の光景がよみがえった。

花束もなければ、片膝をつくこともなく、場所は彼女が最も苦手なフレンチレストランだった。

それでも、ピンクダイヤモンドの指輪を見た瞬間、彼女の目には涙が浮かび、すすり泣きながら「うん」と答えていた。

五年間付き合っているから、春子は冬樹がもともと細かいことに無頓着な人だと思い込んでいた。

だからあまり気にしないようにしていた。

しかし、今偶然見てしまったメモですべてを悟った。

そこには明菜の好みがぎっしりと書かれていた。

【明菜は洋食が好き……

明菜は木製の家具が好き……

明菜はピンクダイヤモンドが好き……】

春子は薬指にはまったピンクの指輪をじっと見つめた。

冬樹は細かいところに気を配らないわけではなかった。

気にしていなかったのは、彼女だったのだ。

息が詰まりそうになった。

聞き慣れた足音が近づいてくるのを聞くと、とっさに立ち上がろうとして、机の角に頭をぶつけてしまった。

しゃがみこんだ彼女を見て、冬樹は眉をひそめた。

彼女はよく、意味のわからないやり方で自分の注意を引こうとするなと、思ったのだ。

二歩近づいてやっと気づいた。春子の体が震えていて、額を押さえた手の隙間からうっすら赤い血が見えた。

冬樹の表情がさらに険しくなった。

「今度は何だよ?」

「急に立ち上がったら……角にぶつけちゃって……」

春子は咄嗟に真実の一部を隠した。

「頭がわるいのか?いい歳して、まだそんなミスするのかよ」

非難の口調に、堪えていた涙がまたぼろぼろと溢れた。

春子の額のこぶを見て、冬樹はため息をついた。

「ちょっと我慢しろ。ソファまで連れて行って、ちゃんと見てやるから」

冬樹が手を伸ばして支えようとしたが、春子はその手を振り払った。

「触らないで!」

その言葉が出た瞬間、二人ともそこで凍りついた。

付き合って五年、春子が冬樹にこんな態度を取るのは初めてだった。

冬樹の顔にははっきりと驚きが浮かんでいた。

彼の目に「真剣」と「探求するような視線」が同時に現れたのを、春子は初めて見た。

それが明菜の「おかげ」だと思うと、なんとも皮肉だった。

春子は絶望的な気持ちで目を閉じた。

今になってようやく気づいた。

明菜が何の努力もせずに手に入れたものを、自分は五年かけても得られなかったのだと。

冬樹は不審そうに机の上のスマホを見た。

「お前は……」

春子は自分の反応があまりに不自然だったことに気づき、慌てて口を開いた。

「この机の角、本当に鋭すぎるのよ……」

冬樹の目の疑いの色が消え、再び苛立ち混じりの声になった。

「だからもっと気をつけろって言ってるんだ」

春子はこれまで何度も、この机が重すぎて角が危ないと文句を言った。

そのたびに冬樹は「お前の不注意だ」と返してきた。

ふと、メモ帳で見た内容が脳裏をよぎった。

【明菜は木製の家具が好き。クラシックなインテリアが好き】。

もし今日、頭をぶつけたのが明菜だったら――

彼はすぐにでもこの机を買い替えていたに違いない。
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第1話
「お母さん、決めたよ……明国に行って、お母さんのところに行く。そして結婚するの」唐澤静香(とうさわ しずか)は深く息を吸い、嬉しい声で言った。「春子ちゃん、やっとわかったのね!お母さんが紹介したあの人、本当にいい人よ。きっと幸せになれるわ!」「……うん」電話を切ると、唐澤春子(とうさわ はるこ)は無気力に床に腰を下ろした。机の上に置かれた彼氏・柳原冬樹(やなぎはら ふゆき)のスマホは、まだ画面がついていて、メモアプリが開かれていた。最新のメモは今日書かれたもので、写真にはハート型のピンクダイヤモンドの指輪が写っている。それは春子の右手の薬指にある指輪と、まったく同じだった。写真の下には小さな文字でこう書かれていた――【この指輪をつける人が明菜だったら、どれほどいいだろう】と。鈴木明菜(すずき あきな)は、冬樹の元カノだった。涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。春子の頭の中に、冬樹がプロポーズしてきた日の光景がよみがえった。花束もなければ、片膝をつくこともなく、場所は彼女が最も苦手なフレンチレストランだった。それでも、ピンクダイヤモンドの指輪を見た瞬間、彼女の目には涙が浮かび、すすり泣きながら「うん」と答えていた。五年間付き合っているから、春子は冬樹がもともと細かいことに無頓着な人だと思い込んでいた。だからあまり気にしないようにしていた。しかし、今偶然見てしまったメモですべてを悟った。そこには明菜の好みがぎっしりと書かれていた。【明菜は洋食が好き……明菜は木製の家具が好き……明菜はピンクダイヤモンドが好き……】春子は薬指にはまったピンクの指輪をじっと見つめた。冬樹は細かいところに気を配らないわけではなかった。気にしていなかったのは、彼女だったのだ。息が詰まりそうになった。聞き慣れた足音が近づいてくるのを聞くと、とっさに立ち上がろうとして、机の角に頭をぶつけてしまった。しゃがみこんだ彼女を見て、冬樹は眉をひそめた。彼女はよく、意味のわからないやり方で自分の注意を引こうとするなと、思ったのだ。二歩近づいてやっと気づいた。春子の体が震えていて、額を押さえた手の隙間からうっすら赤い血が見えた。冬樹の表情がさらに険しくなった。「今度は何だよ?」「急に立ち上がったら
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第10話
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