田中美月は派遣家政婦として働く22歳。真面目で質の高い仕事ぶりが評価されていた。 そんなある日、特別な仕事が舞い込んでくる。 それは、日本有数の大企業グループの御曹司、鳥羽翔吾の住み込み家政婦になるというもの。 翔吾は当初、美月に冷たい態度を取り続けるが、彼女の整える温かい家に少しずつ心を開いていく。 だが翔吾は大きな問題を抱えていた。政治家である父の基盤固めのために、望まぬ政略結婚を強いられていたのだ。 「美月さん。君に頼みがある。結婚の話が白紙になるまで、俺の婚約者のふりをしてくれないだろうか?」 思いもよらぬ提案に、美月の運命が大きく動き始めた。
View More滑るように走るドイツ製の高級車の中で、美月と翔吾は並んで座っていたが、二人の間には気まずい沈黙が流れていた。 ハンドルを握る翔吾は、固い表情で前だけを見つめている。その指が、革のステアリングを強く握りしめているのが見て取れた。車内には、低いエンジン音だけが響いている。 窓の外を、都心のきらびやかな夜景が流れていく。しかし、美月の目には何も映っていなかった。頭の中では、麗華の冷たい言葉と、自分を守るために激昂した翔吾の姿が何度も再生されていた。 逆光に照らされた翔吾の横顔は、まるで彫刻のような美しさ。美月はいつものことながら、気後れを感じた。(翔吾様、私のためにあんなに怒ってくれた。偽物の婚約者なのに……) 彼の行動に、契約関係以上のものを感じてしまい、心臓が戸惑うように高鳴る。(でも、彼の立場を、もっと悪くしてしまったんじゃないだろうか。あんなに、お父様と対立してしまって) 感謝と同時に、自分が彼の重荷になっているのではないかという罪悪感が押し寄せてきた。 ペントハウスに戻ると、張り詰めていた緊張感がどっと体にのしかかってくる。疲労のあまり、美月はすぐにでも自室に引っ込みたかった。だがその前に、どうしても言わなければならないことがあると感じた。 彼女は翔吾に向き直り、深く、深く頭を下げる。「本日は、申し訳ありませんでした。私のせいで、翔吾様にご迷惑をおかけしてしまって」「君が謝ることじゃない」 翔吾は、美月の言葉を遮るように言った。その声は、いつもよりずっと穏やかだった。「悪いのは俺と、俺の家の問題だ。――それより君こそ、大丈夫か?」 美月は弾かれたように顔を上げる。彼の瞳が、初めてまっすぐに自分を、そして自分の心を気遣っている。そうと気づいて、堪えていたものが込み上げてきた。 堰を切ったように、目に涙が滲む。慌てて手の甲で拭い、ぶんぶんと首を横に振った。「は、はい、大丈夫です。翔吾様……翔吾さんが、
決戦の日の午後。 美月は与えられた自室で、翔吾が用意したシンプルだが上質なワンピースに着替えながら、落ち着かない時間を過ごしていた。頭の中では、昨日暗記した『偽りの設定』がぐるぐると回っている。(どうしよう、心臓が口から飛び出しそう……。私なんかが、鳥羽様のご子息の婚約者だなんて、絶対にすぐバレてしまう) 鏡に映る自分は、あまりにも普通で、これから会うであろう人々とは不釣り合いに思えた。「でも、これは翔吾様を助けるための仕事。私がしっかりしないと!」 震える手で、ぎゅっとスカートを握りしめる。 リビングに出ると、スーツ姿の翔吾が待っていた。美月の緊張を見透かしたように、低い声で言う。「余計なことは考えるな。相手は敵だと思え。君はただ、俺の隣で頷いていればいい」 その言葉は冷たく響いたが、彼女の役割を単純化してくれるものでもあり、美月の心は少しだけ軽くなった。 都心の一等地に佇む、格式高い料亭の個室。部屋に通された瞬間、美月は息を呑んだ。 重厚な木のテーブルを挟み、翔吾の父である鳥羽恭一郎、そして有栖川麗華とその父、有栖川芳正がすでに着座していた。空気が鉛のように重い。 恭一郎は、翔吾をさらに鋭く厳しくしたような顔立ちの、威厳のある男だった。 麗華は、写真で見た以上に華やかな美女。美月を一瞥すると、まるで値踏みでもするかのように冷たい視線を向けた。(空気が重い。これが、翔吾様がいつも戦っている世界) 美月は、法廷に呼び出された被告人のような気分になった。練習した通り、背筋を伸ばして完璧な角度でお辞儀をする。 翔吾は動じることなく、美月を促して席につかせると、静かに口を開いた。「父さん、有栖川さん。こちら、俺が結婚を決めた、田中美月さんだ」 食事が運ばれてくるが、会話は麗華が主導する、美月への尋問のようだった。「田中美月さん、でしたね」 麗華は作り物めいた笑みを浮かべ、口火を切った。
契約を結んだ翌朝、キッチンの空気は昨日までとは明らかに違っていた。静かではあるが、どこかぎこちない緊張感が漂っている。 美月は約束通り、栄養バランスを考えた和朝食を準備した。湯気の立つご飯、焼き鮭、丁寧に巻かれただし巻き卵、そして具沢山の味噌汁。 やがてスーツ姿の翔吾がダイニングに現れて、自らテーブルの席についた。約束どおりとはいえ、初めてのことだ。彼は無言で、一品一品を確かめるように食事を進めて、すべてを綺麗に平らげていく。(よかった、ちゃんと約束を守ってくれてる) 美月はほっと胸をなでおろした。けれど同時にこれから始まるであろう未知の日々を思い、不安が胸をよぎる。(本当に私に、婚約者のふりなんてできるのかな……) 食事を終えた翔吾は、ぽつりと言った。「……美味かった」「お粗末様です」 と美月が答える間もなく、彼は続ける。「今日、今後の打ち合わせをする。夕食後、リビングに」 部下に仕事を指示を出すような、事務的な口調だった。 日中、翔吾が仕事で不在の間、美月は家事をこなしながらも心は落ち着かなかった。休憩時間になると、スマートフォンを手に取って、震える指で検索窓に文字を打ち込む。『鳥羽翔吾』『有栖川麗華』。 画面には、きらびやかな世界の写真が並んでいた。パーティーで完璧な笑みを浮かべる翔吾。その隣で、自信に満ち溢れた輝くような美女、麗華が寄り添っている。 経歴を見れば、非の打ちどころのないエリート官僚。一流大学を優秀な成績で卒業後、上級資格を取って財務省入りしている。 有栖川家の系譜を辿れば、有力な政治家や官僚、学者などが多く名を連ねていた。 美月の学歴は高校まで。大学に行く余裕はなかったし、奨学金を取るほどの成績でもなかった。 当時は病気で弱っていく祖父母の面倒を見るのに必死で、日々を過ごしていた。(麗華さん……なんて綺麗な人。それに、す
その夜、美月はベッドに入ったものの、全く眠ることができなかった。 天井をぼんやりと見つめながら、翔吾の言葉を何度も頭の中で反芻している。『俺の婚約者のふりをしてほしい』。あまりにも現実離れした言葉。そして、その言葉を口にした時の、彼の必死な瞳。(私なんかに、そんな大役が務まるわけがない……) 鳥羽グループの御曹司の婚約者。彼の家族や、本来の婚約者だという女性に会う。マスコミの取材だって来るかもしれない。考えただけで、心臓が縮み上がる思いだった。(でも、あの時の鳥羽様の顔……本当に追い詰められていた。今まで見たことのない、助けを求めるような目だった) 彼の孤独が、自分の孤独と重なる。あの氷のような仮面の下で、彼もまた一人で戦っている。(あの人も、私と同じ。ただ温かい家庭が、安らげる居場所が欲しいだけなのかもしれない……) 彼を助けたいという気持ちと、自分には不相応だという気持ちが、天秤の上で揺れ動いていた。 結局ほとんど眠れないまま朝を迎えて、美月は少しぼんやりとした頭で仕事の準備をしていた。その時、スマートフォンの通知音が鳴る。開いてみると、先日まで担当していた、育児中の母親からのメッセージだった。家事代行の事務所から転送されてきたのだ。『田中さん、その節は本当にありがとうございました。おかげさまでゆっくり休めて、昨日、初めて息子を連れて夫と三人で公園に行けたんです。田中さんは、本当に私の救い主です』 感謝の言葉と、赤ん坊の可愛らしい写真が添えられている。そのメッセージを読んだ瞬間、美月の心にもやがかかっていた霧が、すうっと晴れていくようだった。(そうだ。私は、誰かの役に立てるのが嬉しいんだ。おじいちゃんとおばあちゃんにも、そう教わったじゃない) 彼女の心に、静かだが固い覚悟が決まる。(鳥羽様を助ける……。それは、私が家政婦としてできる、一番大きな『おせっかい』なのかもしれない
翌朝、美月がキッチンに立つと、カウンターの上に空になったお茶漬けの茶碗と盆が、きれいに重ねて置かれていた。昨夜の出来事が夢ではなかったことの、小さな証明だった。 やがて身支度を整えた翔吾が、リビングを横切って玄関へ向かう。美月が「いってらっしゃいませ」と声をかけると、彼は一瞬だけ足を止め、こちらを向いて、ほんのかすかに頷いてみせた。(今、会釈してくれた……?) ほんの小さな変化。氷の城に差し込んだ一筋の光のように、美月の心を温かく照らす。(よかった。私のしたこと、無駄じゃなかったんだ) 胸にじんわりと喜びが広がり、そっとエプロンを握りしめた。 その日の夜。美月がリビングの拭き掃除をしていると、書斎のドアの向こうから、翔吾のものではない年配の男性の声が聞こえてきた。ひどく厳格で威圧的な声。ビデオ通話のようだ。「いいか、翔吾! 有栖川家との縁談は決定事項だ。お前の個人的な感情など関係ない。これは鳥羽グループの、そして私の立場のための重要な一手だ。来月には婚約発表の準備を進めろ!」 美月は思わず、書斎のドアを見た。翔吾の声は聞こえない。何も言い返さずに黙っているようだ。通話が切れた直後、ドン、と机を叩く鈍い音が響く。(望まない結婚? だからあんなに追い詰められているの?) 初めて、彼の抱える問題の核心に触れた気がした。大企業の御曹司というのも、大変なんだな。美月は、何もしてあげられない無力感に胸を痛めた。 さらに時間が経った深夜、書斎から出てきた翔吾は、ひどく消耗した顔をしていた。彼は何も言わずキッチンへ向かうと、冷蔵庫を開ける。美月が作り置きしておいた鶏肉の煮物の容器を、少しだけためらうように手に取った。「召し上がりますか? すぐに温めます」「……ああ、頼む」 温められた煮物から、湯気と共に甘辛い香りが立ち上る。翔吾はダイニングテーブルにつき、黙々と食事を始めた。彼が初めて自発的に美月の料理を求めた瞬間だった。
翔吾の家で働き始めてから、数日が過ぎた。 美月の新しい日常は、静寂と共にあった。早朝に起きて、広大なペントハウスを完璧に清掃する。翔吾は美月が活動を始める前にはすでに出勤しているか、書斎に籠っているかのどちらかだ。 毎朝、指示通りにブラックコーヒーを淹れて食卓の上に置く。季節のフルーツや軽食を添えるが、食べてくれる時もあれば、そうでない時もあった。 翔吾の帰宅はいつも深夜。彼は美月の「お帰りなさいませ」という声には答えず、影のように通り過ぎて書斎に消える。二人の間に会話は一切なかった。(私がやっていることに、意味はあるのかな……) 日に日に募る無力感。だが、プロとしての務めを投げ出す気はない。(諦めたら駄目。いつか、この家の空気が少しでも温かくなると信じて。これが私の仕事なんだから) 遠目に見る翔吾の顔色が悪くなっていくのが、美月には気がかりだった。 その日、翔吾の帰宅は特に遅かった。窓の外では、冷たい雨がガラスを叩いている。 玄関のドアが開く音に、リビングで待機していた美月は顔を上げた。 現れた翔吾は、立っているのがやっとという様子だった。その顔は青白く、額には脂汗が滲んでいる。壁に手をつき、浅い呼吸を繰り返していた。 美月の存在に気づいていないかのように、ふらつく足取りで書斎へ向かおうとする。その体が、ぐらりと大きく傾いだ。「鳥羽様!」「手出しするな」 思わず支える手を差し出した美月を、翔吾は拒絶する。 美月は手を所在なく握り合わせた。翔吾は書斎に去っていく。腹部を押さえていた。(胃が痛いのかも。空っぽの胃にコーヒーばかりじゃ、当たり前だわ)『私的なことはするな』。彼の言葉が頭をよぎる。しかし目の前の光景は、そんな規則を呑み込んでしまうほどの切実さに満ちていた。(駄目、放っておけない!) 美月は決意を固め、キッチンへと急いだ。今の彼に必要なのは、温かく、胃に優しいもの。
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