あの資金は、すべて会社のものだ。それをすべてこのプロジェクトにつぎ込むわけにはいかない。もし最後にすべてが無駄に終わったら......そうなれば、このプロジェクトに使われた現金は全て凍結され、損失はさらに拡大する。紗雪は赤い唇をぎゅっと結んだ。こんな状況は、あとから取り返しのつくような話ではない。それに気づいたからこそ、彼女はジョンとのこの一歩を「間違いだった」と思ったのだ。理由はわからない。けれど、彼女の胸には焦りが広がっていった。次に何をすればいいのか、まったく見えなくなっていた。こんな紗雪を見るのは、秘書にとっても初めてだった。彼女にどうやって手を差し伸べればいいのか、彼にも分からなかった。「でも、会長......その資金を使わないのなら、海外のプロジェクトはどうすれば......」秘書も焦りをにじませる。いつまでも保留にしておくわけにはいかない。こんなふうに時間ばかりが過ぎていくのは、両方にとって損だ。この案件自体が両刃の剣だというのに、時間が経てば経つほど、両者にとって時間も労力も無駄になっていく。最終的に、利益どころか、このプロジェクトをちゃんと完了できるかどうかも怪しくなる。そう考えるからこそ、紗雪は不安になる。もしこのプロジェクトが最後まで完遂できなかったら......ジョンの方は、一体どうしちゃったのか。以前とはまるで別人のように、冷酷になってしまった。紗雪は秘書をちらりと見て、なんとか笑顔を作った。「......まずは戻りましょう。あとのことは私が何とかするから」そう言って、紗雪はひとりで車を出してその場を去った。秘書はその背中を見送るしかなかった。悔しい気持ちはあったが、今いちばん大切なことは、紗雪の負担にならないこと。余計なことをすれば、みんなにとって何の得にもならない。紗雪にとっても、今の状況はいいものとは言えない。でも、彼女自身にも、今はこれといった打開策がなかった。彼女は自宅に戻ると、この件はいったん脇に置くことに決めた。まずはジョンの裏側を探る必要がある。彼がなぜ、突然こんなことを言い出したのか。これまでジョンは、彼女に対してずっと好意的だった。価格を変更するような素振りもなかった。それが今回は、
ある言葉だけは、紗雪も間違ってはいなかった。自分は商人だ。だからこそ、利益こそが最も重要なのだ。この言葉は、どこに行っても通用する。だからこそ、ジョンは価格を変えることを選んだ。自分の利益をもっと増やすために。それこそが商人の本質だ。どこにいても、優先されるのは利益。そして、誰かが彼に教えてくれたからこそ、ジョンは価格を引き上げることを考えたのだった。もしそれがなければ、紗雪は本当にいいビジネスパートナーだったと言える。これまでのやり取りの中で、彼女の能力は誰の目にも明らかだった。だからこそ稼げると思ったから、ジョンは態度を変えたのだ。彼の顔に浮かぶ笑みは、徐々に陰りを帯びていく。「紗雪、私を恨むなよ。恨むとしても、海外マーケットを開拓するのに私を頼らざるを得なかった自分を恨むんだな」「これは仕方ないことだよ?私に依存するなら、それ相応の代償を払ってもらうだけさ」そう思うと、ジョンの口元は再び冷ややかな笑みを浮かべた。......紗雪がスタジオを出ると、外で待っていた秘書の姿が目に入った。彼女の表情を見た秘書は、何とも言えない不安を覚えた。まさか、話がまとまらなかったのか?だがそれも、彼のただの憶測にすぎない。彼は小さな声で問いかけた。「会長、ジョンの方はどうでしたか?」彼もまた、早くこの件が片付くことを願っていた。しかし次の瞬間、紗雪はただ首を振った。「やめておこう。ジョンのルートはもう捨てる。他の方法を探すしかない」秘書の胸が「ドクン」と鳴った。「社長、それってどういう......?」紗雪はただ首を振り、ため息をついた。「いや。ただ、彼はうちには合わないだけの話だ」「今回は、私の判断ミスだったわ。彼は私たちに資金があまりないことを知っていて、今になってこのプロジェクトが儲かると見るや、急に値段を吊り上げてきた」紗雪の美しい瞳が鋭くなった。「そんな人間とは、組むべきではない」その言葉に、秘書も思わず驚きの色を浮かべた。「まさかあんな人だったなんて......」紗雪はまたしても首を振った。「私も初めて知ったよ」彼女の瞳には明らかな失望の色が浮かび、体の横に垂れていた手が静かに握りしめられた。今回ばかりは、完全に見誤っ
紗雪は細めた美しい目で言った。「つまり、以前の契約を反故にされるおつもりなのですね?」「えっ?」ジョンは小さく声を上げ、納得がいかない様子で言い返した。「どうしてそれが反故になるんですか?これは正常なコストの引き上げですよ」「あなたもご存知でしょう、うちのLC社が国際市場でどれだけの評判を持っているかを。あなた方と取引すること自体、すでに大きなリスクを背負っているのですよ」紗雪はただ黙って、ジョンが話し続けるのを見つめた。「それで?」「ですから、このプロジェクトに関しても、妥当だと判断した範囲内でコストを少し調整しただけなのです」「ふん......ジョンさん。その話、可笑しいと思いませんか?」紗雪は思わず言い返した。彼の厚かましさには、さすがの彼女も驚かざるを得なかった。LC社を選んだのは、その将来性を見込んでのことだった。だが、まさかその中の人間が、利益の話ばかりをして、しかも途中で値を吊り上げてくるとは。この点は、完全に彼女の誤算だった。そう考えながら、紗雪は拳をゆっくり握りしめ、瞳の奥に怒りを押し殺した。ジョンはそんな彼女の怒った様子を見て、むしろ面白がっているようだった。この女、普段は無表情のくせに、今は随分と怒っているじゃないか。なかなか面白い。ジョンは愉快そうに笑った。「可笑しいと仰るのですか?二川さん、あなたも商売は初めてではないでしょう?こうなることぐらい、予想できたはずですが?」紗雪は深く息を吸い込んだ。確かに、予想しておくべきだった。「交渉の余地は?」彼女がそう尋ねると、ジョンは彼女がそんな低姿勢になること自体が新鮮だったようで、からかうように言った。「あなたがそんな顔をなさるとは思いませんでしたよ。感情を見せることもあるのですね。さぞ焦っているでしょう?」その言葉を聞いて、紗雪は思わず笑ってしまった。怒りが極まったときの、あの冷えた笑いだった。この男を、まともな取引相手だと思っていた自分がバカだった。こんな状況になっても、まだ人をからかう余裕があるなんて。会社の資金がもっと潤沢なら、こんな男と丁寧に話す必要などなかったのに。「つまり、交渉の余地はない、と?」紗雪は最後にもう一度だけ確認した。ジョンは「ふん」と鼻を鳴らし
紗雪は秘書を連れて再びジョンのスタジオへと向かった。今回は、紗雪本人が来たと聞いて、ジョンもさすがに態度を改め、わざわざ出迎えに出てきた。「まさかご自身でいらっしゃるとは思いませんでした。お迎えが遅れてしまい、申し訳ありません」ジョンは笑顔を浮かべながら紗雪を迎えに出た。先日秘書が来た時とはまるで別人のようだった。そんなジョンの姿を見ても、紗雪は何も言わなかった。あたかも前に何も起こっていなかったかのように、にこやかに言う。「そんな、迎えるも何も。私たちの間柄で、形式ばったことは要りませんよね?」この言葉を聞いて、ジョンの顔には一瞬固い表情が浮かんだ。だがすぐに笑みに戻り、「では、どうぞ中へ」と案内する。紗雪は微かに頷き、ハイヒールの音を響かせながらジョンの横を並んで歩き、オフィスへと入っていった。二人はソファに向かい合って座ったが、室内にはどこか気まずい空気が漂っていた。紗雪は余裕のある態度で静かに腰掛け、ジョンが話し出すのを待っている。ビジネスの世界では、忍耐と冷静さがものを言う。先に口を開いた者が、すなわち先に屈したことになる。このことは、紗雪もジョンもよくわかっていた。しかしジョンがいくら待っても、紗雪は一向に動じず、まるで本当にお茶を飲みに来ただけのように、穏やかに茶を口にしていた。その顔色すら微塵も変わらない。その様子を見て、ジョンは思わず拳を握りしめる。この女、一体どういうつもりだ。わざわざ自分のスタジオまで来ておいて、こんなにも高飛車な態度を取るとは。先に口を開いた者が、すなわち先に屈したということを、わかっていないのか?だが紗雪の表情は終始穏やかだった。もちろん彼女は、その道理を理解している。だからこそ、先にここへ来るという行動だけで、すでに一度頭を下げている。次に口を開くのはジョンの番だ。でなければ、二川側には何の得にもならず、ただただ不利な立場に置かれるだけ。ついに耐えきれず、ジョンが口を開いた。「二川さん、わざわざスタジオまでいらっしゃって......何かご用でしょうか?」紗雪はようやくカップを置き、口元に微笑を浮かべて言った。「ビジネスの話ですから、遠回しな言い方はやめにしましょう」その瞬間、ジョンはまさに奥歯を噛み砕
ジョンのアシスタントは、それまでの媚びへつらうような態度を一変させ、傲慢な態度を見せた。「君が二川会長の部下だって言うなら、会長本人が来ればいいだろう?わざわざ小物一人をよこす必要なんてなかったのに」秘書は拳を握りしめ、歯を食いしばりながら言った。「私は会長の唯一の補佐です。私が来たってことは、会長を代表できるってことなんです!」しかしアシスタントはまったく意に介さず、流暢な英語で言い放った。「だったら、なおさらご本人に来てもらわないと困る。これが我々のジョンさんの意向だ」そう言って、ジョンのアシスタントはさっさとスタジオに戻り、ドアの外に立っている秘書のことなど気にも留めなかった。その態度を見て、秘書は内心かなり腹を立てたが、どうすることもできなかった。あの程度のアシスタントがこんなにも傲慢になれるということは、きっとジョン自身の命令があったに違いない。でなければ、こんな真似をするはずがない。仕方なく、秘書はしょんぼりした様子で帰り、そのままの内容を紗雪に報告した。紗雪は頬杖をつきながら、気だるげで自由な様子で言った。「それで、そのアシスタント、本当にそんな態度で話してきたの?」秘書はうなずいた。「はい。全部そのままの言葉です。あのアシスタント、ほんとにろくでもない奴ですよ。前はあんな態度じゃなかったのに!」紗雪はまるで気にした様子もなく微笑んだ。「まあ、よくある話よ。結局は、主に従ってるだけだから」その言葉を聞いた秘書は、たちまち冷静さを取り戻した。自分が二川会長に忠誠を尽くしているのと、同じようなものだ。紗雪の姿勢があるからこそ、彼の対人態度も決まる。背くなんてあり得ない。「わかりました、会長」紗雪はくすりと笑った。「いいのよ。ジョンが私に来てほしいって言うなら、行ってあげればいいさ」彼女は真紅の唇を上げ、不敵に微笑んだ。秘書はまだ少し心配そうだった。「でも、会長......どうもジョンって、以前と様子が違いますよ。前はこんな態度じゃなかったのに」紗雪は当然のように言った。「人が変わる時って、大抵は利益が絡んでる」「お金の話なら、まだ交渉の余地があるってこと」その言葉に、秘書も大きくうなずいた。確かに、一理ある。だが、それでもどこか腑
「頼んだよ。この件、君に任せておけばきっと大丈夫」紗雪は微笑みながら、去っていく秘書の背中を見送った。秘書も、紗雪の意図をしっかりと理解していた。彼女の分析を聞いたことで、自分自身が冷静になり、頭も冴えてきたように感じた。一見、彼女はこの事態に無関心のように見えるが、実際はすでに策を練っているのだ。そう思えばこそ、彼女の落ち着いた様子も納得できた。彼女の器の大きさに、秘書の尊敬の念はさらに深まった。もし許されるなら、これからも彼女にずっとついていきたい。そう強く思った。外に出た秘書は、自分のデスク近くで社員たちが集まって、あれこれ噂話をしているのを見かけた。その声は次第に大きくなり、彼の耳にも内容が届いてくる。彼は机をバンッと叩き、苛立ちをあらわにした。「今は勤務時間中だぞ。君たちは何をやっているんだ」「そんなに仕事をしたくないのか?だからこんな風に堂々と話してるのか?」その一言で、その場の空気は一変した。社員たちは一斉に黙り込み、秘書を見つめた。彼の言っていることが的を射ていることは、皆理解していた。しかし。事が実際に起こった以上、話題にするなというのも無理があるのでは?と感じる者もいた。そんな中、勇気を出して一人が声を上げた。「それなら教えてください。噂は、本当なんですか?」「つまり、ジョンさんは本当に、うちと協力したくないってことなんですか?」その質問に、秘書は思わず苦笑した。この人たちは、自分を何様だと思っているんだろうか。二川グループの社員であることが、全てをコントロールできる立場だとでも?「知ったところで、どうなるというのだ」そう言われて、質問した社員は言葉を失った。口をもごもごと動かし、やっとの思いで言った。「でも......ただ、事実を知りたいんです。それが、私たち全員にとってもフェアだと思いますし......」秘書は鼻で笑いながら言った。「真実を知って、それから?」「ジョンさんは君のことを知ってるのか?それとも、君が会長の代わりに交渉しに行くのか?」その言葉を聞いて、質問者は自然と視線を下げた。何も言い返せなかった。確かに、言い方はキツいかもしれない。だが、彼の言っていることは間違っていない。真実を知ったと