とある東方の交易都市。路地裏に小さく店を構える、異国の武具職人のもとへ、ロホは偶然、足を踏み入れた。壁に並ぶのは、異国の武器たち。見慣れない細身の剣、湾曲した刃、短く美しい脇差し。その中で──ひときわ静かに、しかし不思議な存在感を放つ一本があった。白鞘に収められた、一本の──刀。ロホは、その刀に近づく。指先をそっと鞘に添え、静かに引き抜くと──細身で、美しくわずかに反った刃が、月光を受けて淡く輝いた。すう、と息を呑む。刃が鳴った。わずかに、まるで歌うように、空気を震わせた。ロホは、その瞬間、心のどこかで確信した。「──これは、“生きる”ための刃だ。」豪奢でもない。威圧でもない。ただ、一振り、一閃のなかに、生きるか死ぬかの覚悟だけが込められていた。ファドがそっと囁く。「ロホ……それ、好きなんだね。」ロホは、目を細めたまま答える。「……この刃は、無駄がない。 “必要なもの”だけを、研ぎ澄ました形。」彼女の声は、いつになく、優しかった。店主が、にこりと笑う。「それは、東の国で“刀”と呼ばれるものです。切る突く叩くが全て出来る命を断ち、命を守るためだけに、形を磨いた武器。」「一本を持った者は、何百の兵にも劣らぬと──そんなふうにも言われます。」ロホは、静かに刀を鞘に戻し、礼をして返した。そして、ぽつりと呟いた。「……いつか、これを手にする日が来るかしら。」ファドが笑う。「ロホが持ったら、また無敵になっちゃうね!」ロホも、少しだけ、肩を揺らして笑った。刀はまだ、彼女の手にはない。だが。心の奥深く、一本の刃が、静かに根を下ろした。それは、冬の終わりを告げる冷たい風が吹く頃だった。ロホは、東の山中、人里離れた小さな庵を訪れた。庵には、世にも名高い刀匠が住んでいるという。ただし、彼は気に入った者にしか刀を打たない。それも、金や名誉には一切動かないと噂されていた。戸を叩くと、中から現れたのは、白髪の老人だった。だがその目は、鋼のように研ぎ澄まされ、一瞬で人の芯を見抜く光を宿していた。老人は、ロホをじっと見つめると、ふっと笑った。「……ねぇさん。あんた、相当修羅場をくぐってきたね。」「しかも──やむを得ず、な。」ロホは、一瞬、身構えかけた。この世界において、ここまで深く、自分の“傷”を見抜い
緩やかな丘陵を越えた先。風に乗って甘い香りが漂う村に、ロホとファド、ぺガスはたどり着いた。小さな市では、袋詰めの胡桃(くるみ)が山のように積まれている。村人たちは誇らしげに言った。「ここは胡桃の名産地なんだよ!」ファドは、丸い殻を手に取り、くるくると転がしながら首をかしげた。「ねぇロホ、これ、どうやって食べるの?」ロホも、胡桃を手に取ってしばし観察した。すると、近くの村人が笑いながら教えてくれる。「ハンマーか割り器で叩いて割るんだ。 硬いから気をつけてな!」ロホは小さく頷き、懐から──なにも取り出さず。そのまま、胡桃を片手に挟み込むと。ぐしゃり。乾いた音とともに、胡桃は粉々に割れた。中から見事な実だけが、ころんと掌に残る。「……」村人たち、凍りつく。一人、また一人、顔を見合わせ、誰からともなく囁く。「……今、素手で割ったよね……?」「しかも、潰したってレベルじゃない……」「あの人、何者……」ファドは一瞬驚いたが、すぐに嬉しそうに声をあげた。「さすがロホー! すごーい!! もうオレにもやってやって!」ロホは少し首を傾げ、ファドにも胡桃を一個手渡した。そして──また、ぐしゃり。今度は音すら軽く、胡桃は割れた。ファドは両手で大事そうに胡桃の実を受け取った。村人たちは、ぽかんと口を開けたままだった。ロホは気にも留めず、普通に胡桃の実を頬張りながら言った。「香ばしくて、美味しいわね。」ファドもにこにこしながら頷く。「うん!ナッツってこんなに美味しいんだね!」ロホはふと思い、村人たちに問いかけた。「もしかして、……この方法、推奨されない?」村人たちは全力で首を振った。「無理です無理です普通の人は絶対無理です!!!!」その夜、村の広場では小さなお祭りが開かれた。胡桃の殻割り大会──ただし「素手部門」は廃止となった。だが、村の子供たちは、「銀髪のお姉さんみたいに強くなりたい!」と、張り切って胡桃割りの練習を始めたという。そして、誰もが噂するようになった。「あの旅人は──胡桃よりも、強い。」
町外れの、石畳の市場。賑やかに人が行き交う中、ロホとファドは、屋台の一つに腰を下ろしていた。香ばしい香りの立つ鉄板。手際よく焼き上げられる野菜と肉。旅の疲れを癒すには、これ以上ないご馳走だった。ふと、通りに面した道を、立派な馬車が通り過ぎた。金の縁取り、立派な紋章。馬車の窓から顔を出した男が、屋台の主に向かって軽く手を振る。「やぁ、元気か!」屋台の主は、鉄板を返す手を止めずに、にかっと笑って返した。「よぉ、相変わらず派手なこった!」馬車は、ひときわきらびやかに、市場の奥へと走り去っていった。ファドが、ぽかんと口を開けた。「ねぇロホ、今の人だあれ?」ロホは水を飲みながら、屋台の主に目を向けた。主は、豪快に笑った。「あれか? あれは俺の弟だ。 この町一番の大店の主さ。」ファドはさらに目を丸くする。「ええっ!? 兄弟なのに、こんなに違うの!?」屋台の主は、肉をひっくり返しながら、飄々と答えた。「あいつは昔から味オンチでね。 商売はうまいけど、食べ物の良し悪しはさっぱりだ。」肩をすくめながら、でもどこか、嬉しそうだった。食事を終え、礼を言って屋台を後にしたロホ。しばらく歩いても、彼女は珍しく、ずっと微笑みを絶やさなかった。ファドが不思議そうに尋ねる。「ロホ、どうしたの?そんなにニコニコして。」ロホは、街の喧騒を眺めながら答えた。「……自分の仕事に、誇りを持つ人は、素晴らしいわ。」その声は、焚火にくべた小枝のように、静かで、けれどあたたかかった。それは剣でも、魔法でもない。歩き続けることでもない。ただ一皿の料理を、一杯の水を、に人に届けること。それを、何より誇りに思う者がいる。ロホは、その事実に、の底から嬉しくなったのだった。
静かな町の広場。夕暮れの光が、赤く石畳を染めるなか。一人の学生風の若者が、旅人──ロホの前に立った。若者は、震える声で問いかけた。「ロホさん……ひとつ、教えてください。」ロホは、焚火に薪をくべながら、小さく顎を動かして促した。若者は、拳をぎゅっと握りしめたまま続けた。「一人を殺せば……殺人の罪に問われます。 でも、戦場で百人を殺せば英雄になる。 ──この違いは、なんなのでしょうか?」しばらく、沈黙。火が、ぱち、と爆ぜた。ロホは、ゆっくりと薪を押し込みながら言った。「……違いはないわ。」若者は、目を見開いた。ロホは、火を見つめたまま、続けた。「たった一人だろうと、百人だろうと。 命を奪えば、本来は、同じだけの重さを背負う。」「違いがあるとすれば── それを『称える者』がいるかどうかだけ。」ロホは、そっと掌を火にかざした。「戦いを命じた者、戦いを支えた者、彼らが、“都合よく”、英雄をつくる。」「でも、命を奪った事実そのものは、何も変わらない。」若者は、唇を噛んだ。ロホは、今度はその瞳を、静かに見据えた。「だから──」「殺した者が英雄と呼ばれたとき、その者自身が、己に問いかけなければならない。」「『私は、本当に誇れるのか』と。」若者は、言葉を失った。ロホは、立ち上がり、旅支度を整えながら付け加えた。「……称賛は、風と同じ。 吹けば形を変える。 消えることもある。」「でも、自分が奪った命だけは、永遠に、自分だけが覚えている。」だからこそ──英雄も、罪人も、本当は同じ孤独を抱えている。それがロホの、この長い旅路で得た答えだった。ロホは最後に、こう結んだ。「人は、世界の声よりも、自分の心に問いかけて歩かなきゃいけないの。」「そうしないと、たとえ旗を立てても、どこにも辿りつけない。」焚火の火が、ふうっと揺れた。ロホは、振り返らずに、また一歩を踏み出した。若者は、その小さな後ろ姿を、ただじっと見つめていた。胸の奥で、何かが静かに燃え続けていた。
小さな宿の、湯殿。湯気のなか、ロホは静かに、背を流していた。ぺガスは厩に、ファドは部屋で丸まっている。今この時間、彼女は一人きりだった。──そんな油断を突くように、闇が、湯殿に忍び寄った。男たちが、無音で扉を押し開ける。下賤な欲望を、醜く湛えた目。だが。ロホは、湯に映るわずかな影の揺れで、全てを察知していた。次の瞬間──湯に浸かったまま、彼女の指先が、髪をまとめていた簪を引き抜く。それは、細く鋭い、手裏剣だった。月光をはじくように放たれた刃が、先頭の男の喉を裂く。湯殿に、鈍い音と血飛沫が散る。裸のまま、ロホは湯から立ち上がった。無駄な動きは、一切ない。倒れた男の短剣を拾い上げると、まるで舞うように──次の男たちを、容赦なく仕留めていった。恐怖に駆られて逃げようとした最後の男の腕を折り、ロホは、冷ややかに問う。「誰の命令?」男は泣き叫びながら、一人の貴族の名を吐いた。それを聞き終えると、ロホは淡々ととどめを刺した。湯を払い、装備を整え、濡れた髪を乱れたまま、ロホは階下へと降りた。そこで彼女が見たのは──宿屋の家族が、無惨に横たわる光景だった。小さな子供も、老婆も、全て。ただ、貴族の「証拠隠滅」という理由で。ロホは、しばらく無言だった。ただ、剣を握る手が、静かに震えていた。それは怒りではない。悲しみでもない。──「理」。世界の歪みを正す、冷たく、確かな意志。その夜、月も雲に隠れた。ロホは、闇に紛れて、件の貴族の館へと向かった。警備を掻い潜ることも、正面から切り伏せることも、ロホにとっては、些細なことだった。館に踏み込み、恐慌する者たちを次々に制圧していく。そして。館の玉座で、震える貴族を見据え、ロホは静かに剣を構えた。一切の言葉も、赦しもない。「あなたは、自分で撒いたものを、刈り取るのよ。」ただ一閃。刃が閃き、館に沈黙が訪れた。夜が明けるころ。ロホは、町の外れに立ち、静かに一礼した。この土地の無念に、哀悼を捧げるために。そしてまた、誰にも知られずに──歩き出した。
ある日のこと。ロホは、旅の途中で立ち寄った町で、一人の若き書生に呼び止められた。痩せた手に筆を持ち、額には知識への飢えと苦悩が滲んでいた。書生は、ためらいがちに尋ねた。「ロホ様……教えてください。 武器を作る者は、効率よく殺すために励みます。 鎧を作る者は、武器を防ぐために励みます。 ならば、武器を作る者は悪人で、鎧を作る者は善人なのでしょうか?」ロホはしばらく何も言わず、近くの湧き水を手ですくい、掌からこぼした。そして、静かに言った。「……水に、善悪はないわ」書生は目を瞬かせた。ロホは続ける。「水は、喉を潤すことも、命を救うこともできる。 でも、流れを誤れば、村を飲み込んでしまう」「武器も、鎧も、同じよ。 それをどう使うかを決めるのは──手にした人間」書生は苦しそうに俯いた。「でも……武器を作った者は、その責任を負うべきではないのですか?」ロホは優しく、しかし厳しく答えた。「責任は、背負うべきよ。 でも、“善い武器”も、“悪い鎧”も、本当は存在しないの」「作った者が祈るのは、それが“誰かを守るために使われますように”──ただそれだけ」ロホは小さな木片を拾い、指で弾いた。「弓を作ったときも、私はそう祈った。 それが、誰かを傷つけるために使われるとは、祈らなかった」「でも──人は、祈り通りには生きられないものなのよ」書生は、ただ黙ってその言葉を聞き、そして深く、深く頭を下げた。ロホは最後に、そっと言った。「あなたが作るものが、誰かの命を守るものでありますように」そしてまた、静かに歩き出した。書生が、深く頭を下げたまま、しばらく動かなかった。やがて、手にしていた古びた筆と木片を胸に抱きしめ、ぎこちなく、でも確かな足取りで町の奥へと歩いていく。ロホはそれを、黙って見送っていた。肩の上、ファドがちょこんと座り直し、くいっとロホの耳元に顔を寄せる。「……ああいうの、ロホは好きなんでしょ?」小さなからかいの声。だけど、どこか、嬉しそうでもあった。ロホは、ふっと目を細める。「……好きよ。」素直に答えるその声は、どこまでも静かだった。ファドは得意げにしっぽをぴんっと立てた。「やっぱりなぁ~! ロホ、なんだかんだで“頑張る人”に甘いもん!」ロホは、わずかに肩をすくめた。「甘いんじゃないわ。ただ