音川は、毎日のインド組との定例会は1時間まるごと雑談に当ててもいいと考えていた。話の分かる人間とざっくばらんに語らうことで、インド滞在中の速水と高屋のストレスを少しでも軽減しようというのが真の目的だからだ。
会社では公にしていないが、音川は中学から20歳頃までポーランドで過ごした帰国子女であり、異文化圏でなにかを遂行する難しさをよく知っているから愚痴も面白く聞けるし、的はずれなアドバイスをしない思慮深さも持ち合わせている。加速する日焼けに比例して、どんどんやつれていく2人は、気象と立場の両方の意味で過酷な環境にいる。
特に高屋の疲労感は酷かった。「高屋さん、目の隈がすごい」
「そう?」
高屋はモニターを鏡代わりにして見ながら顔に手をやった。確かに目の周辺が窪んで、頬もこけたように思う。
「寝不足?」
「うん。本来はどこでも眠れるはずなんだけどね、今回はそうもいかないみたい」そう言って高屋は目を伏せた。
「なにか、心配事ですか?」
それまで、にこやかに先輩3人の雑談を聞いていた泉が、ふと口を挟んだ。
「ケータイが無いからだろ」と音川は端的に言った。
「そう……連絡しなきゃいけない人がいるのに……連絡先がわからなくて」
さらに沈んだトーンになった高屋に、音川が「その相手って、帰国後に事情を説明しても、分かってくれなさそう?」と少し踏み込んで問いかける。
「恐らく理解してくれると思う。でも、毎週末泊まりに行く習慣なんだ。それを急に連絡もなくすっぽかすことになって……向こうからおれの番号にかけても音信不通だろう。心配かけていると思うとね、自分を責めてしまって。眠れない」
「恋人ですか?」と泉がさらりと訪ねた。
毎週末の泊まりや憔悴した様子からして聞くまでもないことだろうと、音川と速水は敢えて言及しなかったが。「いや……友達、かな」
高屋のその答えに、30代2人は椅子から転げ落ちそうになった。
「んだよ、てっきり……」
「なんで2人共ちょっと怒ってるの?」
高屋がキョトンとした表情で、向かいにいる速水と画面に映る音川を交互に見た。
「呆れてんの。俺、海外出張でもわざわざ友達に言わない」
「俺も。それに、そこまで仲が良いのなら、多少の音信不通程度で縁が切れるなんてありえん」と速水が賛同する。
しかし、泉は「僕が思うに、その人は高屋さんにとって友達じゃないのでは……」とポツリと言った。
「えっ?あ、どうして?」高屋はやつれてより大きく見える瞳を更に見開いて、泉に問いかける。
「連絡出来ないことをとても気に病むのも、心配かけていることを心苦しく思うのも、きっと特別な存在だからですよ。ただの友達なら、速水さんの言う通り、そこまで不安にならないと思って」
「なるほど。うん、それならわかる。この中で泉くんが年長者な気がしてきた」と速水が言うと音川が即座に同意した。
「普通はそう思いません?」と泉は純粋に不思議そうな顔を音川に向けた。
「普通ってなんだよ。俺が鈍感みたいな言い方するじゃねぇか」
速水は、泉が無言で笑いをこらえている顔が映し出されたモニターを一瞥した。音川が後輩に好き勝手言わせ、それを楽しんでいるかのようなやりとりは大変に珍しいことだが、コンビネーションが上手く行ってそうなのは疑いようが無い。
「どうやら高屋さん、図星だったようで」と音川はテーブルに突っ伏している高屋に向けて同情を含んだ声を出す。
「あ〜……帰りてぇ」と高屋からくぐもった悲痛な叫びが漏れる。
「まあでも、モチベになっていいじゃねーの。速水も奥さんが待ってることだし」
「そうだよな。もし音川がこっちに来ることになっていたら……インドの雑踏に消えて、もう帰って来ないかもしれない」
「どういう意味だよ」
「カレーが好きな上に、待ってる人が居ない」
「居るっつの」
そう答える音川の背後で、ニャーンと可愛らしい鳴き声がした。
「ほら、ちゃんと返事してるだろ。じゃ、そろそろ終わるぞ」
退出ボタンを押すとほぼ同時に、飼い猫がデスクの上に飛び乗り、PCのキーボードと音川の間を往復する。鼻先に体の横側をこすりつけられむず痒い。18時の夕飯のおねだりだ。
「マックスさん、ごはんにしよう」
在宅勤務になってから、すっかり甘えん坊になってしまった飼い猫は『ごはん』という言葉の響きを理解していて、大慌てでデスクから飛び降りてお皿に向かって駆けて行く。
その姿を目を細めて見ていた音川は、突然、高屋の苦悩が身に突き刺さった。
もしこの子を残したまま1ヶ月も帰れなかったら……。 想像するだけでぎゅっと心臓が縮む。 前例ができたということは、繰り返される可能性がある。次にトラブルが発生したらインド行きは自分かもしれない。音川は猫に食事を与えるとすぐに仕事部屋に戻り、業務用のチャットアプリで高屋を検索した。個人的にメッセージを送るのは初めてだ。
『俺でよければ、家の様子を見てこようか?』
『ありがたい!』と高屋からすぐに返信があり、続いて自宅の住所が書き込まれた。特に置き配の荷物で玄関前が散らかってはいないか心配らしい。
続けて音川は『あと、さっきの連絡したい人には?』と入力してみたものの、すぐに思い至って削除した。
セキュリティに関してはどの職業よりも敏感でなくてはならない現代のシステムエンジニアが、第三者の個人情報を求めてはいけない。たとえば急病などの非常事態であればやむを得ないため、高屋からインプットしてくるはずだ。『平日の9時から17時なら管理人さんが居るから、不在の件を伝えて欲しい。ごめんね』
『気にするな。ちょうど会社に取りに行きたい物があるから』と入力して画面右上に表示させている日付を見る。明日は金曜で、会議の予定も無い。『明日の午前中に行ってくる』
高屋から再度感謝の言葉が書き込まれ、それに軽く返事をしてから、次は泉との会話画面を開いて、『明日、出社する』と送った。
その直後、音川は少し違和感を持った。
ほとんどのエンジニアが在宅勤務に慣れた今では、誰がどこで仕事をしていようが業務連絡に差し障りはない。気まぐれに出社する場合でも知らせは無用だ。 それなのに。 なぜ泉へメッセージを送ったのか。 自分でも明確な意図に思い当たらないまま音川の指はキーボードの上で静止していた。普段なら、何か道理が通らない事象に直面した際、音川の頭には靄がかかったような不快感が現れて、何かがおかしいと直感で分かる。
しかし、今湧き上がった違和感には、不快な要素が感じられなかった。 頭だか胸だか、身体のどこかしらにちょっとしたざわつきがあるだけだ。翌朝。
トレーニングを終えた音川は喫茶へ直行し、モーニングを食べてから自宅に戻り、シャワーと着替えを済ませるとちょうど10時。 いつもなら始業開始だが、今朝は、高屋のマンションへ移動するためにタクシーを呼ぶ。タクシーで15分ほど走ったところで、運転手が「このあたりは住環境がいいでしょう?」と声を掛けてきた。
高屋のマンションにほど近いはずで、音川の自宅からすれば会社とは逆方向だ。そのため出不精の音川にとっては初めて見知るエリアとなる。 車窓を見ると、大きな公園が目に入る。「そのようですね。この辺りは初めて来ますが」
「そうでしたか。静かでね、地盤も硬い。戦争中に学者やら外国人の貿易商なんかが疎開してきたせいで今でも洋風の家がいくつもあってね、特に公園の周辺は見事なもんです」
「散歩によさそうですね」と話を合わせる。
年配者の話を聞くのは嫌いじゃない。一度、病院の待合室で音川にのど飴をくれた老婆がいて、そのままおしゃべりで長い待ち時間を潰したことがあるほどだ。「すみませんね、早とちりで。このあたりは昔から外国人さんが多いから」と運転手はバックミラー越しにチラリと音川を見た。
どうやら目的地の住人だと思っていたらしい。 平日の午前中にマンションからマンションへタクシーで移動する外国人風の男は、接客のプロの目にはどのように映るのか。ま、朝帰りの遊び人……というのが妥当だろうな、と音川は正しく自己分析する。音川は日本で生まれて公立の小学校へ通ったのだから、一番多く接したのは日本語であり母語だと言える。しかし言葉とは裏腹に、音川の外見は成長するに連れてどんどん母方に近づいていった。骨格や髪質が変わり、細く高い鼻梁や目元の彫りの深さが目立つようになった。
そして、20代後半から鍛え始めた筋肉は長い手足にほどよくまとわりつき、オーロラのようにゆらりと男の色気を立ち昇らせている。本人が知覚しにくいところではあるが、外見だけで周囲を魅了してしまう。音川は運転手の言葉に肯定も否定もせずただ微笑み返した。パスポートも運転免許証も2国分ある以上、日本人とも外国人ともどちらであっても音川には同じことだった。
タクシーがマンションの前に停車すると、運転手に待機を頼み、駆け足でエントランスに向かう。 ちょうど管理人が集合ポストの前をほうきで掃いているところだった。「すみません、301号室の高屋の代理の者ですが」
「ああ!よかった。心配してたんですよ!」と管理人はほっとしたような表情を音川に向けた。枯れ木のように痩せているが快活な老男性だ。
音川はあらかじめ用意してきた名刺を手渡し、手短に事情を説明すると、帰国までの間は管理人室で郵便物等を預かってくれることになった。 高屋の心配の種を一つ減らすことができたようだ。丁寧に礼を述べてから、駐車場に待機させていたタクシーで会社へ移動する。
まず本社があるフロアでエレベーターを止めた。 自動ドアからひょっこり覗き込むと、デザイナーの阿部が見える。彼女が金曜日に出社しているのは珍しい。「よう」
声を掛けると、阿部は億劫そうに振り向いた。出社がダルいと全身で表明しているかのようだ。
「ガサツなマッチョで悪かったな」
「事実でしょ。また成長したんじゃない?」と阿部は自分の二の腕を叩いて音川に言った。「音川くんが出社なんて、どういう風の吹き回し?」
「本を取りに寄っただけ。ついでに昼飯、どう?」
「子供のお迎えがあるから午後は在宅の予定だけど……今なら時間あるよ」
「じゃ、コーヒーでも」と音川は阿部を誘い出した。
全社的にリモートワークが主流となったため休憩室は無人で、込み入った話にはもってこいだ。音川は阿部の好みを覚えていて、カプセル式コーヒーマシンにモカを投入する。自分にはカプチーノだ。マシンが工事現場のような爆音を響かせて抽出を終えると、阿部と横並びで外の景色が見えるソファに座った。「久しぶりねぇ」
「ん」
「で、なによ」
「新人の泉だけど。仲が良いんだって?」
「2年目よ。多田さんが辞める時に、直々に頼まれたのがきっかけ。いい子でしょ」
「いい子かどうかはまだ良くわかんねぇな。優秀なのは間違いない」
多田とは、保木から謂れのない責任を擦り付けられたのをきっかけに退職した元デザイン部の課長だ。立場は2番手だったが、実力では保木より上で人望もあったし、大手のWebマーケティング企業で要職に就いたと聞いている。
「デザインも開発もできるし、さっぱりと明朗で心持ちの良い青年よ。入社してきてくれたことが奇跡の人材」
「えらく買ってるじゃねぇか。しかし、骨を折っていたらしいな、例の件で」
「彼なら誰にでも同じことをしたと思う」
「へぇ。正義感の強いタイプか」
「というより、理不尽なことが嫌いらしい。それを聞いて、あんたと速水くんのことを思い出したんだよね。昔の2人も、保木から何をされても一切ダメージ受けてなかったでしょ。理が通らない人間は相手にするに値しないと思っていたから。泉くんもそっちのタイプ」
「それで、彼が代表して被害に遭っていた子を守ってたのか」
「何を言われても耳にノイズキャンセリング機能が付いてるから平気、って冗談言っていたくらいよ。多少の強がりはあったのかもしれないけれど」
軽く笑う音川に、「彼、信頼できるよ」と言い阿部はさらに話を続けた。
「それに、デザイン部のみんなは、保木の古い考え方のせいで評価が下がっている状況を悔しがってた。本来なら部長の保木が危機感を持つべきなのに、何もしないどころか足を引っ張り続けて。その上、一番実力のあった多田さんを経営会議で晒し者にしたでしょ……。
被害に合ってた彼女はね、そういうのも含めて対策しない人事に見切りをつけて、復学を選んだの。夢を持って入社して来た若者にあんな仕打ちするなんてね。それでみんな、限界がきちゃった」「で、共同出資でボイスレコーダーを買った、と」
「ペッパースプレーもね」
「阿部は知ってたのか」
「まあね」
「用意周到だったわけだ。つーか、そんなにヤバかったの?」泉は『保木さんは欲でおかしくなっていた』と言っていたが。
「何度か会社の前で待ち構えていて、自分のタクシーに引っ張り込もうとしていたらしいわ。ほら、いつも呼んでたでしょ」
保木はほぼ毎日夜7時を過ぎると社屋の駐車場にタクシーを待機させていた。電車がある時間であってもタクシーで帰宅するのが日課で、もちろん経費だ。
「そんな状況に麻痺していたのが異常だったな。泉には、いや、デザイナーたち皆に、悪いことをした」
「開発の音川くんが気に病むことじゃないけど……まあうちの若手の大半があんたに懐いてるし、仕方がないか。デザイン部はブラックな働き方が常識になっていたから……いずれにせよ立て直しは必要だっただろうね。だから、泉くんがそっちへ行ったのはかなり痛手のはず」
「元からシステム希望だったんだろ?」
「泉くんがそう言ってた?」
「ああ」と音川は答えて、カプチーノを啜った。めずらしく無糖だ。
「そうだ、今度みんなで飲みにいかない?泉くんの歓迎会という名目でさ。公園の所にカフェバーあるでしょ。前に誘ったけど、会社から反対方向だからって断ったの覚えてる?高屋さんがたまにバイトしてるから、すごくサービスしてくれるんだ」
「はあ?あの忙しさで、副業までしてんの?」
「気分転換に良いんだって。音川くんの筋トレと同じじゃない?私からすればどっちもしんどくて無理」
そう言うと阿部はスマートウォッチで時間を確認し、「そろそろ帰るわ。お迎えいかなきゃ」とソファから立ち上がった。
「そうだ。泉くん、もう来てるよ」
「えっ!?」
「あら?てっきり出社させたのかと」
音川は頭を掻いた。
「呼んでねーけど……ああ、開発環境が家に無いとは聞いたが……」
「まあ、せっかくだしランチに誘ってあげたら?」
「んー、そうだな。じゃ、歓迎会は速水たちが帰国したらすぐに」と軽く約束をして、音川は阿部と休憩室の前で別れ、エレベーターへ向かった。
エレベーターの庫内で鏡に映る自分を見て、なんとなく服のホコリと猫の毛を払った。そして、顔にかかる髪を整えようとしたが、そのままとりやめた。
「クソ、なんか調子狂うんだよな」
「すまん、金曜日に残業なんて」音川が発する申し訳無さそうな声色は本心から来るものだと、泉はちゃんと分かっていた。とりあえず謝っておけばいいというおざなりさとは感情の深みが違う。 それに、静かに合わされた視線が——優しい。「本当にいいんですよ。むしろ、嬉しいです」「残業好きなの?変わったヤツだな」「違います。早く検証して貰いたかったので」「そうか。まあこれまでの単体テストでも問題は無かったから、今日は総仕上げだな。検証用サーバーで動きだけ見れたらいいよ。ぱぱっと終わらせて早く帰ろう」「お急ぎですか?」「俺?いや、そういうわけじゃ……」音川としては、泉が早く帰りたいだろうと思ってのことだった。残業好きでないというのなら。「この後、ジムの予約があるとか?」「それは朝」「うわ、すごい」「すごかねぇよ。どうせモーニング食いに駅前の喫茶まで行くからな」「毎朝モーニングですか?」2人は話しながらテキパキとテレフォンカンファレンスの機材を片付け、モニター等々の電源を落としたことを確認してから会議室を後にした。 出社する人数が極端に減った今、会議室はほとんど使われておらず、うっかり付けっぱなしにしておくといつまでもそのままになってしまう。「ウォーキングを兼ねてな。雨なら行かない」「面倒なんですね」「うん。ジムの日なら雨でも車で行くけどね」「僕、いわゆる喫茶のモーニングって食べたことがないです」「ほんまに?」「あ。音川さんの関西弁、始めて聞きます」ドアの傍で立ち止まり、音川は口をあんぐりと開けた。 大阪を離れ20年ほど経った今では、実家の家族や友達と会う時でさえ最初は標準語が出てしまう。それがまさか、職場で、しかも部下の前で咄嗟に関西弁が出てしまうとは自分でも信じがたい。 さらに大阪弁が出るかもしれないと思えば迂闊に口を開けない。いや、別に何の問題もないのだが、またしても『らしくない』自分の行動に少し動揺しそうになり、軽く咳払
社に戻るとすぐに音川は高屋にチャットを送っておいた。仕事ではなく私用の方だ。連絡できない相手がいるという一番の心配は取り除いてやれないが、それでも、夕方の定例会議で音川に礼を述べる高屋は安堵したように微笑み、顔色もやや血色が戻ったように見えた。次の安心材料として、「こっちは概ねスケジュール通り進んでるよ」と音川は丁寧な声色で開発状況について報告する。泉の進捗を精査したわけではないが、ちらほらと見た感じでは画面上の動作に違和感は全く無く、むしろ元よりずいぶんスムースな動きに感じられた。それにもし無理難題だったなら、泉は臆せず音川にヘルプを求めてくるはずだ。「泉くん主導でやってくれているんだってね。音川さんのつもりでスケジュール引いてるから、厳しそうなら言ってね」「はい。ありがとうござ……」と泉が言い終わらないうちに、「俺がマンツーマンで付いてるから大丈夫だ」と音川が割り込み、高屋と速水を交互に見る。「二人しかいないんだから必然だろ」と速水は辛辣に言い、高屋は「音川さんから直接指導が受けられるなんていいね」とにこやかに頷く。「それはそうですね……でも放置……いえ、自由にやらせてもらっています」泉の返答に高屋は「上手く言い換えたね」と笑い、音川はいたずらがバレた子供のように不満顔を作った。「実は教えることがほとんど無いんだよ」「それは優秀だ。泉くん、本社に来ない?」ニヤリと笑う速水に「だめ」と音川が即答した。速水の勧誘は半分冗談だが、音川は内心、こんなに優秀なやつ渡してなるものかと本気の拒絶だ。「そうだ、速水さん。インド料理のレシピ本を買ってきてもらえないでしょうか。もちろん代金は払います」「いいよ代金なんて。俺もこっちの本屋に興味があるからついでだし、インドのエンジニア向けの出版物なんて日本じゃ手に入らないからな。それに奥さんにも文房具だの雑貨を頼まれてんだよなあ。どこかで買い物に出なきゃならん」「ありがとうございます。お願いします」「泉くん、料理するの?」と高屋が音川
音川の役職は最高技術責任者だ。コンサルティング会社である本社には、技術面の諸判断を行うために速水がいるが、両社合せてこの肩書を持つのは音川だけだ。ゆえに部長や課長といった一般的な序列とは別のルートであり、孤高の存在である。普段、音川本人は自分の立場の強さをおくびにも出さず、あくまで一般技術者として開発目線で行動しているが、いざというときは全責任を負う立場として顧客と交渉する。学生から、『キーボードを持って生まれてきた男』と揶揄されるほど開発に没頭してきたが、今の役職ではシステムやデータベース設計の上流工程を受け持つだけで、社内で開発そのものに取り掛かることは非常に稀だった。そのせいもあり、音川は副業の方で思う存分アプリケーション開発をしている。今のところ開発も設計もデザインも自分独りのワンマンで、実験的なことをやりたい放題、出資者はいるが、受け取っているのは金銭ではなくデータのため、共同開発者と呼べる。納期もない趣味の延長のようなもの——周囲にはそう見せかけているが、其の実、音川は明確なゴールを持って開発に取り組んでいる。いずれ完成すれば、今の会社務めの方が副業になるだろう。音川が子会社のフロアに到着する頃、泉は開発部のオフィスで独り、ヘッドフォンを装着して目下の課題にのめり込んでいた。高屋から提供されたサーバー再構築のスケジュールは音川が担当することを想定して組まれているためタイトだが、自分にも不可能ではないと判断した。泉は——この日がくるのを夢見てずっと独学でプログラミングの鍛錬をしてきたのだ。デザイン部では開発の音川の目に留まることを期待して懸命にやってきたが、今与えられているチャンスはそれとは比較にならない。これからは開発部の一員として、あの孤高の存在であるエンジニア——我こそ右腕にならんと皆を切磋琢磨させるカリスマ性に誰もが憧れている——と仕事ができる。憧れが昂じて恋に変化している者もいないとは言い切れない。まさに、泉自身がそうであるからだ。昨夜、その音川から出社の連絡を受けた時は、心臓が躍動し
音川は、毎日のインド組との定例会は1時間まるごと雑談に当ててもいいと考えていた。話の分かる人間とざっくばらんに語らうことで、インド滞在中の速水と高屋のストレスを少しでも軽減しようというのが真の目的だからだ。 会社では公にしていないが、音川は中学から20歳頃までポーランドで過ごした帰国子女であり、異文化圏でなにかを遂行する難しさをよく知っているから愚痴も面白く聞けるし、的はずれなアドバイスをしない思慮深さも持ち合わせている。加速する日焼けに比例して、どんどんやつれていく2人は、気象と立場の両方の意味で過酷な環境にいる。 特に高屋の疲労感は酷かった。「高屋さん、目の隈がすごい」「そう?」高屋はモニターを鏡代わりにして見ながら顔に手をやった。確かに目の周辺が窪んで、頬もこけたように思う。「寝不足?」「うん。本来はどこでも眠れるはずなんだけどね、今回はそうもいかないみたい」そう言って高屋は目を伏せた。「なにか、心配事ですか?」それまで、にこやかに先輩3人の雑談を聞いていた泉が、ふと口を挟んだ。「ケータイが無いからだろ」と音川は端的に言った。「そう……連絡しなきゃいけない人がいるのに……連絡先がわからなくて」さらに沈んだトーンになった高屋に、音川が「その相手って、帰国後に事情を説明しても、分かってくれなさそう?」と少し踏み込んで問いかける。「恐らく理解してくれると思う。でも、毎週末泊まりに行く習慣なんだ。それを急に連絡もなくすっぽかすことになって……向こうからおれの番号にかけても音信不通だろう。心配かけていると思うとね、自分を責めてしまって。眠れない」「恋人ですか?」と泉がさらりと訪ねた。 毎週末の泊まりや憔悴した様子からして聞くまでもないことだろうと、音川と速水は敢えて言及しなかったが。「いや……友達、かな」高屋のその答えに、30代2人は椅子から転げ落ちそうになった。「んだよ、てっきり……」「なんで2人共ちょっと怒ってるの?」高屋がキョトンとした表情で、向
音川は失言を回避できたことにひとまず胸を撫で下ろした。職場の人間に対して『かわいい』などと言ってしまえば、自分より目下に見ているせいだと誤解される可能性がある。もしも泉が女性だったなら、容姿についての感想だとしてセクハラにもなりかねない。ずいぶん神経質に思えるかもしれないが、これには、7月の夏真っ盛りである中途半端な時期に実施された泉の人事異動に関連した事情がある。泉は元々デザイン部の有望な若手だった。デザイン部と開発部は同じフロアだが、廊下の端と端という位置で、休憩室がちょうど中間地点にあり、ちょっと話に行くには億劫な距離で基本的にそれぞれの一般社員たちは往来をしない。休憩室で顔を合わす程度の交流だ。リーダー格以上となれば本社を含めた会議などそれなりの交流はあるため、音川もデザイン部の課長とはよく話をする。なんせ、デザインが上がってこない限り開発もすすめられないから、本来なら二人三脚で進めるべきなのだ。それがなぜ袂を分かつかのように距離ができたのか——デザイン部部長は保木という40代後半の男で、10年前に元の勤務先から顧客をごっそり連れての中途入社だった。顧客を奪うのはまともな転職ではないが、本社から独立したばかりの子会社にとっては大きな機動力となる。保木と社長とは故知の仲らしく、チーフデザイナーとしての採用で給与も高く、地位も約束されていた。しかし保木には、社長には絶対に見せない、裏の顔があった。デザイナーはダメ出しされるのも仕事のうちだと言われる。しかし、それが技術の未熟さではなく、上司の機嫌で左右されるとなると、まごうことなきパワハラだ。当初は同じオフィスだった開発部からデザイン部へ『声が大きくて集中力をそがれる』という申し入れがされた。実際は保木部長の怒鳴り声とその内容に耐えかねた批判だった。それが当のデザイン部内部からの発出であれば対策も立てられたかもしれないが、若手デザイナー達はよくも悪くも職人気質であり、理不尽にジッと耐えていた。というのも、保木が持っている案件は誰もが知る大手企業ばかりで、それに関わることは自分の実績に箔がつくことになる。イコール、転職に優位となる。耐えて実績を積み華麗に転職する—— それが若手デザイナー全員の共通意識だった。音川と速水は、保木が中途入社した年の新入社員だった。独立したことで、
『音川君、今ちょっといい?』ピコン、という通知音と共に送られてきたメッセージを見てすぐ、音川はヘッドセットを装着した。 在宅勤務となり4年目。IT会社に務める音川にとっては出社してようが在宅だろうがチャットによるコミュニケーションは常だったが、通話は以前に比べて圧倒的に増えた。『はい、大丈夫です』チャットではどうしても堅くなるな、と表示された自分の返信を見ながら、メッセージの送り主である課長からかかってきた通話を受ける。これが口頭なら、『いっすよ』だっただろう。「お疲れ様でーす」と課長の軽快な掛け声が思ったより大きく、音川は急いでボリュームを下げた。「おつかれっす」「急にごめんね。ちょっと相談なんだけど、T社の件について何か聞いてる?」「ああ、あの揉めてるやつ」「こっちはもうカツカツで人が増やせないから、音川君どうかなって」T社とは、自社のWebアプリケーションのカスタマイズを一手に引き受けてくれているインドの開発会社だ。 最近先方でボイコットがあり、本社の企画と開発が現地入りしていると音川は本社の開発担当の速水から直接チャットで聞いていた。 騒動の内容と、音川の手を借りることになるだろうという話も。「えー、めんどくさい」「ホンネがすぎる」と課長が言うが、音川のこういった素直さを何よりも頼りにしているのは当の課長だった。 営業の持ってくる仕事を選別する際に、音川のように現場の声をダイレクトに伝えてくれるエンジニアがいると大変に助かる。 ただ今回は、『忙しい』ではなく『めんどくさい』なのが厄介だ。「で、やれそう?」「いけるっちゃいける」「助かるよ。まいどまいど。で、新人を付けるから、教育も兼ねて欲しいんだよね」「あっ。そっち?……余計にめんどくさい」「まあそう言わずに。いい機会だから育ててみてよ。元デザイン部の貴重な人材なんだ」課長は、今年度から開発部に配属された新人の名前を出した。フルネームは青木泉というが、社内に同じ青木姓がすでにいるため、慣例に沿って新人は名前の『泉』だけを通称にしており、混乱を避けるため社内SNSも同様とのことだ。「ああ、彼か」「知ってるの?」「名前と仕事は一致するよ。いいデザインをあげてくるコ。話したことは、ないかな。たぶん」開発部門には、前業務や勤続年数に関わらず、配属された時を