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身体の距離と心の距離

作者: 中岡 始
last update 最終更新日: 2025-08-30 14:16:24

夜風は蒸し暑かったが、佐伯の吐く息はどこか緩んでいた。

飲み終えた帰り道、駅までの坂道を歩きながら、佐伯は無意識に佐山の肩に手を回していた。

「お前、ほんといいやつだな」

その言葉は酔いにまかせたものだろうが、佐山はその力加減を正確に測っていた。

強すぎず、弱すぎず、気を許した男が無意識にやる距離感。

だが、それは「ただの先輩後輩」にはギリギリ保たれない温度だった。

佐山は、嫌がる素振りを見せなかった。

むしろ、自然に寄り添うように体重を少しだけ預けた。

その動きは滑らかで、どこにも「違和感」はなかった。

だが、心の中では冷たい快感が広がっている。

「部長」

「ん?」

「今日も、飲みすぎですよ」

「はは、そうかもな」

佐伯は肩に置いた手をそのままに、ふらりと前を見た。

夜道に照明がぼんやりと浮かんでいる。

商店街のシャッターは半分以上が下りていた。

「俺さ、最近お前といると、楽なんだよな」

「……それ、嬉しいです」

佐山は、ほんの少しだけ声を落とした。

耳にかかるような低めのトーン。

それは無自覚な色気を帯びるように、あえて演出した。

「なんかさ、他のやつだとこういう話できねえんだよ」

「俺だけには話していいですよ」

佐山は、そう言いながら、肩に回された佐伯の腕をそっと掴んだ。

その手つきは「支えるため」に見えた。

だが実際には、軽く握り返すことで、佐伯の手を引き寄せていた。

佐伯の腕が、少しだけ震えたのを感じた。

それは酔いのせいだと、佐伯自身は思い込もうとしているだろう。

だが、佐山は知っていた。

それは「自分でも説明がつかない感情」の揺れだった。

「部長」

「ん?」

「俺、部長に頼られるの、嫌じゃないですよ」

その言葉は、意図的に境界を曖昧にするために選んだ。

「仕事の話」と「それ以外」の間を、自然に溶かす。
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  • 姉を奪われた俺は、快楽と復讐を同時に味わった~復讐か、共依存か…堕ちた先で見つけたもの   美咲への誘惑

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