夜の帳が下り、王宮は一層の華やかさに包まれていた。
クリスタルのシャンデリアが幾重にも輝き、まるで星々が天井に降りてきたかのようだ。貴族たちの宝石が光を受けて煌めき、豪奢なドレスと燕尾服が舞踏会の広間を彩っている。 ルクレツィアは、公爵令嬢としての完璧な微笑みを浮かべながら入場した。 今日のドレスは淡いローズピンクのシルクに繊細なレースが重ねられ、煌びやかすぎず、品のある華やかさを演出している。背筋を伸ばし、静かに視線を巡らせると、見慣れた顔ぶれが次々と目に入った。 (ここが始まりの舞踏会……) ここからすべてが動き出す。聖女ソフィアの登場も、そして攻略対象たちの物語も――。 遠くに王太子アズライルの姿が見えた。漆黒の髪に深紅の瞳。その鋭い眼差しは今日も氷のように冷たい。 その隣には騎士アシュレイが控え、ダークブラウンの髪にスチールグレーの瞳を光らせながら、厳かに警戒を怠らない。 王太子アズライルは、ふとルクレツィアの姿に気づいたのだろう。遠くからその深紅の瞳がわずかに細められた。 いつもなら近づいても形ばかりの挨拶しか交わさない彼が、自ら数歩を踏み出してルクレツィアの前に現れる。 「ルクレツィア・アルモンド」 低く響く声。 冷ややかさは変わらぬものの、どこか妙に柔らかい。 いつものように距離を取るわけでも、無関心を装うわけでもなく、彼はわざわざルクレツィアの目の前で足を止めた。 「アズライル殿下。今宵もご機嫌麗しゅうございます」 完璧な所作で礼を取るルクレツィア。 だが、その内心はわずかに困惑していた。――これは、今までにない展開だ。 (……前回この舞踏会で私はアズライルに挨拶したかしら?) アズライルは彼女の礼にゆるやかに頷くと、視線を絡めたまま口を開く。 「随分と控えめな装いだな。だが――よく似合っている」 一瞬、胸の奥がざわつく。 褒め言葉。しかもこの王太子の口から――。 冷徹で人を称えるなど滅多にしない彼が、だ。 乙女ゲームの中でもソフィアにそれを口にしたのは王太子ルートに入ってからだけ。 (何? これは……) 「ありがとうございます、殿下」 表情に出さぬよう微笑むが、心の内は違和感で満ちていた。まるで、彼の態度だけが少しずれた別の世界のようだった。 アズライルはしばしルクレツィアを見つめた後、再び静かに言った。 「今夜の舞踏会、楽しむがよい」 「ええ、殿下も」 彼はそれ以上言葉を交わすことなく、再びゆるやかな足取りで去っていく。 背を見送りながら、ルクレツィアは思わず小さく息を吐いた。 (……やっぱり何かが違う) 死に戻りをしたこの「舞台」は、少しずつ微妙に、だが確実に前とは違う表情を見せ始めていた。 王太子が離れていった後も、ルクレツィアは微かな胸騒ぎを抱えたまま舞踏会場を歩いていた。 煌びやかなシャンデリアの光がドレスの刺繍を照らし、貴族たちの笑い声と音楽が絶え間なく響く。 (今夜は、まだ始まったばかり……) すると―― 「ルクレツィア様」 静かな低い声が背後からかかった。振り返ると、そこに立っていたのはアシュレイ・ヴォルク。 黒に近いダークブラウンの短髪、スチールグレーの冷たい瞳。その佇まいは騎士らしく直立不動だが、表情にはほんのわずかな柔らかさがあった。 「アシュレイ殿。今宵も殿下の護衛、お疲れ様です」 「恐れ入ります。……殿下のおそばにいるのは当然の務めですので」 彼の態度は基本的に寡黙で、礼儀を欠くことはない。それは前の周回と同じ。だが―― (少し……話しやすい?) 以前ならアシュレイは必要最低限の返答だけで、その後は沈黙を貫くだけだった。だが今日は、自ら話を続ける素振りを見せている。そもそも彼から話しかけること自体が最大の違和感なのだ。 「殿下も今宵は、幾分お心が穏やかなご様子でした」 「ええ。私も少々意外に思いましたわ」 ルクレツィアは探るように微笑んでみせる。 「……殿下は、貴女のことを信頼しておられるのでは?」 アシュレイがそんな言葉を口にした瞬間、思わずルクレツィアの胸に動揺が走った。 (何を――?) 「それは……お戯れを。殿下は常にご公務に集中されておりますもの」 「いえ。殿下は必要な人間を正しく評価されます。貴女は、そのひとりでしょう」 スチールグレーの瞳は相変わらず冷たいのに、不思議とその言葉には、ほんのわずかな――温度があった。 (やはり……違う) 死に戻る前には、アシュレイがこんな風に私を評価することなどなかった。むしろ、王太子の護衛として私にも常に一定の距離を取っていたはずなのに――。 「光栄ですわ。……では、そろそろ私もご挨拶回りに戻らなくては」 「お気をつけて、ルクレツィア様」 軽く一礼するアシュレイに、ルクレツィアも優雅に礼を返し、その場を離れた。 (アズライル殿下に続いてアシュレイまで……。 ――前と違いすぎるわ) 胸の内で静かに警戒心が膨らんでいく。 新たに始まったこの周回は、確実に前とは異なる軌道を描き始めていた。 アシュレイと別れを告げ、ルクレツィアは再び会場の賑わいの中へと戻る。 煌めくシャンデリアの光がドレスの刺繍を照らし、貴族たちの談笑と華やかな音楽が途切れることなく流れていた。 そんな中、不意に――視線を感じた。 振り返ると、柔らかな笑みを浮かべた青年が、まるで旧知の友のようにそこに立っていた。 「やあ、また会ったね、ルクレツィア嬢」 その声は明るく、親しみがこもっている――だが。 (……え? また会った?) ルクレツィアは一瞬、思考が追いつかずに言葉を失った。 彼――テオドール・グランチェスターは、伯爵家の子息であり、聖女ソフィアの幼なじみ。 乙女ゲーム内でもソフィア以外の女性にこれほど親しげに接する描写はほとんどなかったはず――ましてや私には。 だが当の本人は、無邪気な笑顔を浮かべたまま続ける。 「もしかして……はじめましてだったかな?」 自分で言いながら、少しだけ首をかしげてみせるその様子は、どこか彼自身も違和感を覚えているようでもあった。 「えぇ、おそらくは……はじめまして、テオドール様」 ルクレツィアは微笑みを整えながらそう答えたが、胸の奥にはまたひとつ、小さな違和感が積み重なっていく。 彼は、ミルクティーブラウンの柔らかな髪に琥珀色の優しい瞳を持ち、まるで春の陽だまりのような穏やかな雰囲気をまとっている。 その明るく人懐っこい笑顔は、ゲームの中でも聖女ソフィアにだけ向けられていたはずのものだった。 「君は今までお会いしたご令嬢の中でも、特に笑顔がよくお似合いだ」 屈託のない言葉とともに、テオドールは自然な間合いで話しかけてくる。 だが――その距離感は、前の周回で抱いていた彼の印象よりもわずかに近すぎる気がした。 (……この距離感は何?) 本来なら直接の接点などほとんどなかったはずなのに。 違和感を覚えながらも、ルクレツィアは微笑みを保ち続けた。 「これからもよろしくお願いします、テオドール様」 「こちらこそ。またすぐにお会いできるといいな、ルクレツィア嬢」 彼の琥珀色の瞳が優しく細められたその瞬間にも、ルクレツィアの中で微かな警戒の灯は消えずに残った。 舞踏会の賑わいはそのまま流れ続け、背後では軽やかな音楽が途切れることなく響いていた――。教会へ向かう馬車の中。 柔らかな陽光がレースのカーテンを透かして差し込み、ルクレツィアの膝上のドレスを金糸のように照らしていた。車輪の心地よい揺れが、かすかに彼女の身体を揺らす。春先の空気はまだ少し冷たいが、窓越しの日差しは穏やかで、どこか現実感の薄い静けさがあった。(まずはこの世界について、改めて整理しておきましょう) ここは乙女ゲーム『聖なる光と堕ちた神』の世界だ。 “聖なる光”は聖女ソフィアを意味し、物語は彼女が五人の攻略対象たちを救い、そのうちの一人と結ばれて、そして世界を救うまでを描いている。 何も干渉しなければ、物語は王太子ルートへ自然に流れていく。そのため、プレイヤーの間ではこれを「王道ルート」と呼んでいた。 事件が起こる順番は決まっている。 最初がイザヤ、次いでアシュレイ、テオドール、アズライル、そして最後にルーク――。 ソフィアはそれぞれの心の闇に寄り添い、救い、そのうちの誰かと恋愛関係に発展していく。 だが、事件で救えなかった場合、その対象者のルートへ進もうとするとバッドエンドが発生する仕様だ。 そして、悪役令嬢・ルクレツィアはと言えば――ほとんどモブのような存在だった。 たまに王太子の正式な婚約者として登場しては、周囲に聖女として持て囃されるソフィアに嫉妬し、嫌がらせを仕掛けたり、攻略対象たちとのイベントを邪魔したりする。 それが、彼女の役割の全て。(私の出番なんて、最初から限られていたのよね) そして必ず訪れる婚約破棄―― それはどのルートでも、各事件がすべて解決した物語の中盤に用意されていた。 このゲームが他の乙女ゲームと一線を画していたのは、攻略対象たちとの「救い」が序盤で完結する点だろう。 では後半は何を描くのか? それは堕ちた神を浄化し、世界を救う聖女としての戦いだ。 ここで、序盤に救った攻略対象たちが再び重要な役割を担う。 誰を救い、誰を救えなかったのか――その選択が神の浄化の難易度やストーリー展開そのものを大きく左右していく。
あれから2週間程がたった。ルクレツィアはあれからも2度寄進という名目で教会を訪れていたが、相変わらずイザヤには出会えていない。 ルクレツィアは執務机の前に座り、手元の文書に静かに目を通していた。 昼下がりの柔らかな日差しが、薄く開かれたカーテン越しに差し込み、彼女の金糸のような髪に淡い光を落としている。 彼女が読んでいるのはリリーに頼んでいたちょっとした調査書だ。教会に出入りする平民たちの噂、納入業者の帳簿、ささいな奉仕者の証言――それらを丹念に整理するのは、すでに日課となりつつあった。 ふと、隣からリリーが声をかける。「お嬢様……少々、気になる噂がございます」「噂?」「ええ。最近になって、異端審問官たちがやけに活発に動いているようなのです。各地の小教区でも審問が強化されているとか……」 ルクレツィアの手がぴたりと止まった。 胸の奥に冷たいものが走る。(異端審問――やはり始まったのね) 異端審問は、イザヤの事件の影に常に付きまとっていた。 それが早々に活発化してきたという事実は、想定よりも事態が動く速度が早いことを意味していた。「……具体的には、どの程度活発に?」「まだ表立って処刑や大規模な粛清には至っておりませんが、内部調査や査問の数が増えていると、納品に出入りする商人たちが噂しております」 ルクレツィアは静かに唇を噛んだ。 こうなると、教会への頻繁な出入りが自らの身にも危険を招きかねない。(ベルントには思ったより危険な役割を任せてしまったわね……)「お嬢様。恐れながら……しばらくの間、寄進という名目で教会に出向くのは、お控えになった方が良いのではないでしょうか」 リリーが、控えめながらも真剣な眼差しで進言する。 ルクレツィアは黙って考え込んだ。(ここで私が目立てば、異端審問官の目に留まる可能性もある。今はまだ“外部の貴族”でいられる立場を利用しなければならないのに……)「……ええ、わかったわ
《セラフィス教神聖序列書 抜粋》【第1位】教皇(Pope)教会の最高統治者。宗教教義の最終決定者であり、破門や教会法の執行権を持つ。王族にも影響を及ぼす。【第2位】大枢機卿(Grand Cardinal)教皇の最側近で、教会の実務と政策運営を担う枢機卿団の統括者。【第3位】枢機卿(Cardinal)教皇の顧問として政治・外交・教義運営に関与。・枢機卿団枢機卿の集まりのこと。【第4位】大司教(Archbishop)地方教会の統括者であり、異端審問局や神聖法廷を指揮することも。【第5位】司教・司祭(Bishop / Priest)各地の教会で信徒の導きや儀式を担当。民衆に最も近い存在。《セラフィス教 補助組織概要》【異端審問局(Inquisition)】異端思想・魔術・禁忌の研究など、教義に背く行為を摘発・処罰する組織。強力な調査権と秘密裁判の権限を持ち、時に王族すら対象とする。原則では大司教の指揮下であるが――【教義監察局(Doctrine Office)】教義の純粋性を守るための監視機関。聖職者の教育、査問、異端的思想の抑制を担う。教皇派が強く影響を持つが、中立的な立場を貫こうとする動きもある。枢機卿団の監視下にある。【神聖法廷(Ecclesiastical Court)】教会法に基づく裁判機関。信徒・聖職者問わず違反者を裁く。地方では大司教の管轄、重大案件は教皇庁の裁可が必要となる。本来は教皇直属の組織。【対外使節局(Diplomatic Office)】他国の教会・王侯貴族・異文化との交渉を担当する外交部門。教皇庁直属の組織ではあるが、教会の「顔」として諜報任務を担うこともあり、大枢機卿派の強い影響下にある。【財務管理局(Treasury)】教会の財産・寄付金・荘園収支を管理。莫大な資産と現場の運営力を有する。腐敗の温床とされることも
舞踏会から帰った夜。ルクレツィアは重たいドレスを脱ぎ捨て、ゆったりとした部屋着に着替えた。カーテンをわずかに開けたままの大きな窓のそばに立ち、ほの暗い月光の中でグラスを傾ける。赤く輝く液体――ワインが好物だった。けれど、今は怖くて飲めない。代わりに用意させた白桃のハーブティーの柔らかな香りだけが、ほのかに部屋に漂っている。カラン、と氷がグラスの中で音を立てた。(イザヤの事件まで、あと3ヶ月……。まずは計画を練りましょう)月に照らされた庭園は静寂に包まれていた。銀色の月光が、闇の中で静かに花々を照らしている。(乙女ゲーム…ソフィアが本来なら事件を解決して、イザヤを救うはず。でも、エリアスによるとそれだけじゃ足りないらしい……)(ただ予定通りに物語が進んでも――私は、きっとまた殺される)指先がわずかに震え、氷が再び揺れて淡い音を奏でた。冷たい液体が喉を滑るたび、微かな恐怖と焦りがじわじわと胸を満たしていく。(私はイザヤについて、トゥルーエンドで語られた話しか知らない。バッドエンドや隠しエンドはやる前に死んじゃったからなぁ……)彼の名が脳裏に浮かぶ。イザヤ・サンクティス。銀白の髪と金の瞳、神の寵愛を受けたかのような穢れなき存在。(彼は神以外、何も信じることが出来ない。神の選んだ聖女ソフィアを除いて)けれど、ルクレツィアは知っている。神にすがりながらも、決して癒されぬ彼の心の奥底に、どれほど深く闇が巣食っているのかを。(それを、ゲームの中でソフィアは優しく包み込んで救った。けれど――)その先は、誰にも語られていない。闇の本当の核心までは、誰一人として踏み込むことは許されなかった。何が彼を、あの狂気へと追い詰めたのか。なぜ彼は、神以外のすべてを信じることができなくなったのか。いや神すらも彼は――その答えは、まだ霧の奥に沈んだままだ。(それを、私は知らなければならない)
テオドールと別れた後も、胸の内に違和感を抱えたままルクレツィアは歩き続けていた。(次は――) 自然と足が、舞踏会場の奥、人気の少ないテラスへと向かう。 柔らかな夜風がレースの袖を揺らし、月明かりが静かに白い大理石の床を照らしている。(前回の舞踏会でも、ここで彼に出会ったのよね……) 思い返せば、あの夜の会話が彼との最初の接点だった。 ルーク・グレイヴン。裏社会に精通し、商人として成り上がり伯爵となった男。 ダークワインレッドの髪と深緑の瞳を持ち、物腰は柔らかく穏やかだが、その本心は決して他人に悟らせない。 そして――「こんばんは、アルモンド公爵令嬢」 月光の下、すでに彼はそこにいた。 石造りの欄干に片肘をつきながら、穏やかな微笑みを浮かべている。(……やっぱりいたわ) 内心、僅かに息を吐く。 ルクレツィアはドレスの裾を静かに持ち上げ、彼に向き直った。「こんばんは、グレイヴン伯爵。今宵は月が綺麗ですわね」「ええ、月も星も、貴女のドレスに映えてより一層輝いて見えます」 相変わらず流れるように巧みな口ぶりだ。 だが、前回と全く同じ言葉ではなかった。(――ここも違う) それでも、ルクレツィアは笑顔を崩さずに返す。「お上手ですこと」「商売柄、口先だけは少し自信がありまして」 ルークは軽く肩をすくめてみせた。その仕草もまた、どこか計算されているようでいて、自然だ。「このような華やかな場所では、どうにも落ち着かなくてね。つい、こうして人の少ない場所に逃げてしまうのです」「わかりますわ。私も時折、こうして風にあたりたくなりますもの」「……お互い似た者同士、というところでしょうか」 その言葉に、ルクレツィアの心がわずかに揺れた。 前回の周回で、この男がこんな風に距離を縮めてきたことはなかった。む
夜の帳が下り、王宮は一層の華やかさに包まれていた。 クリスタルのシャンデリアが幾重にも輝き、まるで星々が天井に降りてきたかのようだ。貴族たちの宝石が光を受けて煌めき、豪奢なドレスと燕尾服が舞踏会の広間を彩っている。 ルクレツィアは、公爵令嬢としての完璧な微笑みを浮かべながら入場した。 今日のドレスは淡いローズピンクのシルクに繊細なレースが重ねられ、煌びやかすぎず、品のある華やかさを演出している。背筋を伸ばし、静かに視線を巡らせると、見慣れた顔ぶれが次々と目に入った。(ここが始まりの舞踏会……) ここからすべてが動き出す。聖女ソフィアの登場も、そして攻略対象たちの物語も――。 遠くに王太子アズライルの姿が見えた。漆黒の髪に深紅の瞳。その鋭い眼差しは今日も氷のように冷たい。 その隣には騎士アシュレイが控え、ダークブラウンの髪にスチールグレーの瞳を光らせながら、厳かに警戒を怠らない。 王太子アズライルは、ふとルクレツィアの姿に気づいたのだろう。遠くからその深紅の瞳がわずかに細められた。 いつもなら近づいても形ばかりの挨拶しか交わさない彼が、自ら数歩を踏み出してルクレツィアの前に現れる。「ルクレツィア・アルモンド」 低く響く声。 冷ややかさは変わらぬものの、どこか妙に柔らかい。 いつものように距離を取るわけでも、無関心を装うわけでもなく、彼はわざわざルクレツィアの目の前で足を止めた。「アズライル殿下。今宵もご機嫌麗しゅうございます」 完璧な所作で礼を取るルクレツィア。 だが、その内心はわずかに困惑していた。――これは、今までにない展開だ。(……前回この舞踏会で私はアズライルに挨拶したかしら?) アズライルは彼女の礼にゆるやかに頷くと、視線を絡めたまま口を開く。「随分と控えめな装いだな。だが――よく似合っている」 一瞬、胸の奥がざわつく。 褒め言葉。しかもこの王太子の口から――。 冷徹で人を称えるなど滅多にしない彼が、だ。