舞踏会から帰った夜。
ルクレツィアは重たいドレスを脱ぎ捨て、ゆったりとした部屋着に着替えた。 カーテンをわずかに開けたままの大きな窓のそばに立ち、ほの暗い月光の中でグラスを傾ける。 赤く輝く液体――ワインが好物だった。けれど、今は怖くて飲めない。 代わりに用意させた白桃のハーブティーの柔らかな香りだけが、ほのかに部屋に漂っている。 カラン、と氷がグラスの中で音を立てた。 (イザヤの事件まで、あと3ヶ月……。まずは計画を練りましょう) 月に照らされた庭園は静寂に包まれていた。 銀色の月光が、闇の中で静かに花々を照らしている。 (乙女ゲーム…ソフィアが本来なら事件を解決して、イザヤを救うはず。でも、エリアスによるとそれだけじゃ足りないらしい……) (ただ予定通りに物語が進んでも――私は、きっとまた殺される) 指先がわずかに震え、氷が再び揺れて淡い音を奏でた。 冷たい液体が喉を滑るたび、微かな恐怖と焦りがじわじわと胸を満たしていく。 (私はイザヤについて、トゥルーエンドで語られた話しか知らない。バッドエンドや隠しエンドはやる前に死んじゃったからなぁ……) 彼の名が脳裏に浮かぶ。 イザヤ・サンクティス。銀白の髪と金の瞳、神の寵愛を受けたかのような穢れなき存在。 (彼は神以外、何も信じることが出来ない。神の選んだ聖女ソフィアを除いて) けれど、ルクレツィアは知っている。 神にすがりながらも、決して癒されぬ彼の心の奥底に、どれほど深く闇が巣食っているのかを。 (それを、ゲームの中でソフィアは優しく包み込んで救った。けれど――) その先は、誰にも語られていない。 闇の本当の核心までは、誰一人として踏み込むことは許されなかった。 何が彼を、あの狂気へと追い詰めたのか。 なぜ彼は、神以外のすべてを信じることができなくなったのか。いや神すらも彼は―― その答えは、まだ霧の奥に沈んだままだ。 (それを、私は知らなければならない) ルクレツィアは静かに息を吸い込み、グラスを置いた。 窓の外にはまだ夜が広がっていたが、彼女の心はもう翌日へと歩き出していた。 ――翌朝。 「おはようございます、ルクレツィアお嬢様」 侍女がカーテンを開けると、朝の柔らかな光が寝室を満たした。 ルクレツィアはゆるやかにまぶたを上げ、整えられた寝台から身を起こす。 「おはよう、リリー」 微笑みながらも、その瞳はどこか険しい決意を帯びていた。 今日からはまず、情報収集から始めるつもりだった。 (イザヤ・サンクティス……まずは彼の周辺を探らなければ) 彼は王宮付きの神殿に所属する聖職者。 その身分と聖職の重みが、彼の秘密に容易く触れさせてはくれない。 「今日の予定は?」 「はい、本日は午後に貴族子女たちのお茶会がございます。それから教会への寄進の手続きに書簡の確認が――」 (教会か……) さりげなく表情を緩めながら、ルクレツィアは思考を巡らせる。 (まずは神殿の人間と接触を持つ機会を増やそう。些細な情報でもいい。どんな小さな綻びも、今は手掛かりになる) 「わかったわ、リリー。では、その寄進の手続き、私が直接出向くわ」 「まぁ! お嬢様がわざわざ?」 「ええ。せっかくですもの。神殿の皆様にもご挨拶しておきたいの」 優雅に微笑むルクレツィア。 だがその胸の奥には、静かな焦燥が渦巻いていた。 (イザヤの心の闇へ辿り着くには、急がなければ) ❖❖❖ 王宮のすぐそばにそびえ立つ大聖堂は、荘厳な静けさに包まれていた。 高く伸びる尖塔、色鮮やかなステンドグラス、朝日に照らされた聖像が神々しさを放つ。 「ごきげんよう、司教様。アルモンド公爵代理の、ルクレツィア・アルモンドでございます。寄進の件で伺いました」 柔らかな笑顔を湛え、控えめに頭を下げる。 応対に現れたのは、まだ若い下級聖職者だった。慣れぬ貴族の来訪に少し緊張している様子が窺えた。 「よ、ようこそお越しくださいました。聖女ソフィア様の御加護があらんことを。寄進のお心遣い、神殿一同、心より感謝申し上げます」 (……彼は、確かこの教会に所属しているはずだけれど) 寄進の手続きは淡々と進み、形式的なやり取りが交わされる。 ルクレツィアはその後も、自然に世間話を始めた。 「イザヤ大司教様は、お忙しくしていらっしゃるのでしょうか?」 彼女の声は柔らかく、あくまでも無垢に振る舞うが、その質問には確かな意味があった。 応対した若い助祭は、一瞬だけ言葉に詰まった。 その表情には敬意と少しの緊張が入り混じっている。 「は、はい。最近は聖女様の御傍にお仕えしており、日々祈りと学びに励まれております」 「まぁ。すごいのね。公爵家筋にもその噂は入ってきているのよ。いずれは枢機卿になるのではないかと囁かれているのでしょう?」 彼女の言葉に助祭は照れくさそうに目を伏せ、しかし誇らしげに答える。 「教会の中でも、そんな噂はひそかに囁かれていますが……ですが、大司教様はとても控えめで謙虚な方なんです」 ルクレツィアは表面上は柔和な微笑みを浮かべていたが、胸の中では静かな焦りが燻っていた。 (表の顔は、だいたい想定通り……) だが、この会話だけでは見えてこない闇が、イザヤの奥底に確かに存在する。 乙女ゲームの中でさえ、語られなかったその核心部分。 神をすら歪ませる、深い闇の存在だ。 (まずは教会内の人脈を探らねば) 彼の過去を知る者たちの話、協会の記録に残された断片、そしてこれから必ず表沙汰になる異端審問の噂。 それらを丹念に拾い集め、闇の輪郭を一つずつ明らかにしていかなければならない。 彼を本当の意味で救うためには、表面的な解決だけでは不十分なのだ。 「それでは、また近くご挨拶に伺いますわ。どうぞ皆様にもよろしくお伝えくださいませ」 柔らかな声でそう告げると、彼女は一礼し、その場を後にした。 (寄進という名目で教会に来れるのはきっと週に1度が限界ね。それ以上は怪しまれるわ) となると、新たに協力者が必要だ。 (協力者、か。……また彼を巻き込むのは少し心が痛むけれど、彼にとっても悪い話ではないはずよね) そして思い浮かべるのは乙女ゲームの中では名前すら出ることのなかった人。そして、死に戻る前の3年間で彼女が最も信頼していた商人。ベルント・レンツだった。 ❖❖❖ それから三日後。 ルクレツィアは、死に戻る前にも幾度となく訪れていた市場に、再び足を運んでいた。もちろん今回は身分を隠してのお忍びである。同行するのは、信頼の置ける侍女リリー一人きり。以前と同じく、彼女の私服を借りて身を包んでいた。 「お嬢様、どうなさったんです? 急にこんな賑やかな所へ来たいだなんて……」 リリーは心配そうに辺りを見回しながら、声を潜めて尋ねる。 貴族の令嬢が足を踏み入れるには、あまりにも雑多で活気に満ちた庶民の市場だ。商人たちの威勢のいい掛け声、果実や香辛料の香り、ぎゅうぎゅう詰めの人波――庶民の熱気がうねりとなって流れている。 「少し、探し人がいるのよ。きっと、ここに現れると思うの」 ルクレツィアはそう答えながら、内心で溜息をついた。 (どうせ彼のことだから、またこの辺りで誰かに頭でも下げているのでしょうね。まったく……懲りない人) 市場は以前と変わらぬ賑わいを見せていた。 色鮮やかな果物が山と積まれ、干し草に埋もれた香辛料の袋が並ぶ。食品だけでなく周りを見回すと、手作りの布や陶器、簡素なアクセサリーを売る露店がぎっしりと連なり、人々の活気ある声が絶え間なく飛び交っている。 (懐かしいわ……) 喧噪の中に身を置きながら、ルクレツィアは心の中でほんの一瞬だけ過去を思い出した。死に戻る前、様々な料理を開発する中で何度もこの路地を訪れた日々を。 と、その時。雑踏の向こうから、少し空気の違う声が耳に届いた。 「――もう少しだけ、猶予をいただけませんか……! 次の荷が届けば、必ず利子も上乗せして返済しますから!」 その声に導かれるように足を止めると、狭い裏路地の一角で小さなやり取りが繰り広げられていた。 そこにいたのは、やはりベルント・レンツだった。 痩せ細った体にくたびれた上着、踵のすり減った安物の靴。 顔色は悪く、必死に頭を下げ続けるその背中は、哀れさすら漂わせている。 「ベルントさん、あんたも毎度毎度これだよ。こっちにも上からの催促があるんだ。今度こそ本当に払えるんだろうな?」 「は、はい! もちろんです! ですから、あと少しだけ……!」 苦し紛れの弁明を繰り返すベルント。 しかし、使用人は呆れを隠そうともしない。 「……ったく。今度の納品が無事に届かなきゃ、次は利子じゃ済まねぇからな」 冷たく吐き捨て、使用人は踵を返して去っていく。 残されたベルントは、肩を小さく落とし、額の汗をぬぐった。 間違いない――。 ルクレツィアが死に戻る前に出会った頃のベルント・レンツだ。 あの時とまるで変わらない、情けなく、だが捨てきれぬ商才の光を微かに宿した男。 「……はぁ。借金なんて、するもんじゃないな……」 その背中に、ふと柔らかな声が降りかかった。 「お困りのようね?」 驚いたベルントは、思わず肩を跳ね上げて振り返った。 視線の先には、庶民の服装ながらも隠しきれない気品を纏った若い女性と、その侍女風の女性が立っていた。 「は、はぁ? お嬢さん……どちら様で?」 戸惑いと警戒が入り混じるベルントの視線を正面から受け止め、ルクレツィアはふんわりと微笑む。 「ごきげんよう。わたくしは――アルモンド公爵家のルクレツィア・アルモンドよ」 その名が告げられた瞬間、ベルントの表情はみるみる青ざめていく。 「……っ、公爵家!? え、ええっ!? な、なんでこんな所に……!」 狼狽しきったベルントの様子を見つめながら、ルクレツィアは静かに目を細めた。 心の中で、かつての記憶を反芻する。 (ふふ……。今はこんなだけれど、本来あなたは必ず花を咲かせる人) 死に戻る前、この男は大商会を築き、才覚で周囲を翻弄していた。最後の方は、何者かの介入により、業績は落ちていたがそれまでは順調だったのだ。 確かにそれはルクレツィアのアイデアや融資あってのものであったが、それを吸収して最大限に活用したというのは間違いなく彼の才能であるとルクレツィアは評価している。 今はまだ埋もれているが、その才能は間違いなく彼の中に眠っている。 「お話があるの。私に少しだけお時間をくださらないかしら?」 「え、えぇ!? お、俺に……?」 まるで狐につままれたような顔をするベルントに、ルクレツィアはそっと囁くように続けた。 「あなたの商才、少しばかり見込んでいるのよ――ベルント・レンツ」 柔らかな声音の奥に、貴族令嬢とは思えぬ確かな眼力と意思が光った。 ベルントは完全に面食らったまま、言葉を失ってしばらく固まっていた。 ❖❖❖ 人気の少ない裏通りの小さな喫茶店。 昼の賑わいから少し外れた静かな店内で、ルクレツィアはベルントと向かい合って座っていた。 リリーは少し離れた席で控えめに待機し、周囲に目を光らせている。 ベルントは未だ困惑した表情のまま、ぎこちなく湯気の立つカップを手に取った。 庶民的な店でありながらも、貴族然とした彼女の気配に、どこか落ち着かない様子が拭えない。 「……それで、その……お嬢様。俺に一体、何のご用なんでしょうか?」 ルクレツィアは柔らかな微笑を浮かべたまま、まっすぐ彼の目を見つめた。 「単刀直入に言うわ、ベルント・レンツ。あなたに協力をお願いしたいの」 「……協力?」 「ええ。もちろん、あなたにとっても悪い話ではないはずよ」 ルクレツィアはカップを静かにソーサーへと戻し、優雅に指先でテーブルを軽く叩いた。その仕草には、貴族の余裕と風格が自然と滲んでいる。 「あなたは今、資金繰りに困っているわね?」 「……っ」 ベルントはわずかに肩を強張らせた。まさに急所を突かれ、顔に動揺の色が浮かぶ。 「私が融資をして差し上げますわ。無担保で、当面の利子も大幅に抑えましょう」 「え、ええっ!? ほ、本気で言ってるんですか!?」 思わずベルントは身を乗り出す。あまりに破格の提案に信じられない、といった面持ちだ。 「もちろん本気よ。ただし――条件があるの」 ルクレツィアの声色が一段低くなり、初めてその瞳にわずかな鋭さが宿る。 「あなたの“商才”を、私のために使ってもらうの」 ベルントは目を瞬かせ、一瞬呆気に取られた後、警戒の色を浮かべた。 「……まさか、違法な取引とか裏の仕事とか、そういうのじゃ――」 「違うわ。安心して」 ルクレツィアは小さく首を振り、微笑を崩さぬまま言葉を継いだ。 「私が欲しいのは情報よ」 「情報……?」 「ええ。調べてほしい対象は、教会。――特に、聖女付きの大司教であるイザヤ・サンクティス」 その名を聞いた瞬間、ベルントの表情はますます困惑を深めた。 「せ、聖女付きの大司教!? そんな大物の情報なんて……それに、俺は教会なんて縁遠い場所で――」 「表向きは、ね」 ルクレツィアはそっと唇を緩める。 「でもあなたなら、裏からなら十分に回り込めるはずよ。取引先の商人、教会に納品する納入業者、出入りする使用人たち。商人ならではの伝手がいくらでもあるでしょう?」 ルクレツィアの声は穏やかだが、その言葉の端々には確信が滲んでいた。 ベルントは何度か瞬きを繰り返し、眉間に深く皺を寄せた。 庶民とはいえ教会を相手取る危険を、彼なりに肌で感じているのだろう。 「……なるほど、そういうことですか。でも、それは……命がけの仕事じゃありませんか? 教会は、噂以上に内情が危険だって聞いてます」 「もちろん危険は理解しているわ」 ルクレツィアはゆるやかに頷くと、真っ直ぐに彼の目を見据えた。 「けれど、私はあなたの腕を信じているの」 そのまなざしには一点の揺らぎもなかった。 「あなたは、もっとやれる人よ。今ここで終わる器ではないわ」 ベルントの喉が小さく鳴った。 それはまるで、心の奥底を静かにくすぐるような甘い誘いだった。 ルクレツィアは微笑を崩さず、さらに囁くように言葉を重ねた。 「あなたは、本来もっと大きな商会を築けるはずよ。今のように借金で喘ぎながら、細々としがみつく必要はないわ。私と手を組めば、今より遥かに早く、その夢に手が届く」 「……あんた、俺の事を信用しすぎじゃないですか?」 ベルントは苦笑めいた表情を浮かべた。だが、その目の奥にはわずかに野心の光が灯り始めていた。 「そうかしら? 私、人を見る目だけは自信があるの」 ルクレツィアの言葉は、まるでゆっくりと罠を閉じていくようだった。 だが、その罠は決して強制ではない。ただベルントの眠っていた欲望にそっと火を灯すだけ。 ベルントはしばらく沈黙したまま、両手を組み、俯いて考え込んでいた。 やがて彼はゆっくりと顔を上げ、静かに口を開いた。 「…………なるほど。いいでしょう、お嬢様」 深く息を吸い込むと、ベルントは静かに、だが力強く頭を垂れた。 「お引き受けします。その代わり――融資の額は、少し多めにお願いしたいところですが」 「ふふ。ようやく交渉人らしくなってきたわね」 ルクレツィアは満足そうに微笑む。 「詳しい条件は後ほど詰めましょう。でも今は――契約成立、ということで良いわね?」 「……はい、ルクレツィア様。お力添えに、心から感謝いたします」 ベルントの声には、先ほどまでの迷いが消えていた。 こうして、彼女は最初の協力者を手に入れたのだった。舞踏会から帰った夜。ルクレツィアは重たいドレスを脱ぎ捨て、ゆったりとした部屋着に着替えた。カーテンをわずかに開けたままの大きな窓のそばに立ち、ほの暗い月光の中でグラスを傾ける。赤く輝く液体――ワインが好物だった。けれど、今は怖くて飲めない。代わりに用意させた白桃のハーブティーの柔らかな香りだけが、ほのかに部屋に漂っている。カラン、と氷がグラスの中で音を立てた。(イザヤの事件まで、あと3ヶ月……。まずは計画を練りましょう)月に照らされた庭園は静寂に包まれていた。銀色の月光が、闇の中で静かに花々を照らしている。(乙女ゲーム…ソフィアが本来なら事件を解決して、イザヤを救うはず。でも、エリアスによるとそれだけじゃ足りないらしい……)(ただ予定通りに物語が進んでも――私は、きっとまた殺される)指先がわずかに震え、氷が再び揺れて淡い音を奏でた。冷たい液体が喉を滑るたび、微かな恐怖と焦りがじわじわと胸を満たしていく。(私はイザヤについて、トゥルーエンドで語られた話しか知らない。バッドエンドや隠しエンドはやる前に死んじゃったからなぁ……)彼の名が脳裏に浮かぶ。イザヤ・サンクティス。銀白の髪と金の瞳、神の寵愛を受けたかのような穢れなき存在。(彼は神以外、何も信じることが出来ない。神の選んだ聖女ソフィアを除いて)けれど、ルクレツィアは知っている。神にすがりながらも、決して癒されぬ彼の心の奥底に、どれほど深く闇が巣食っているのかを。(それを、ゲームの中でソフィアは優しく包み込んで救った。けれど――)その先は、誰にも語られていない。闇の本当の核心までは、誰一人として踏み込むことは許されなかった。何が彼を、あの狂気へと追い詰めたのか。なぜ彼は、神以外のすべてを信じることができなくなったのか。いや神すらも彼は――その答えは、まだ霧の奥に沈んだままだ。(それを、私は知らなければならない)
テオドールと別れた後も、胸の内に違和感を抱えたままルクレツィアは歩き続けていた。(次は――) 自然と足が、舞踏会場の奥、人気の少ないテラスへと向かう。 柔らかな夜風がレースの袖を揺らし、月明かりが静かに白い大理石の床を照らしている。(前回の舞踏会でも、ここで彼に出会ったのよね……) 思い返せば、あの夜の会話が彼との最初の接点だった。 ルーク・グレイヴン。裏社会に精通し、商人として成り上がり伯爵となった男。 ダークワインレッドの髪と深緑の瞳を持ち、物腰は柔らかく穏やかだが、その本心は決して他人に悟らせない。 そして――「こんばんは、アルモンド公爵令嬢」 月光の下、すでに彼はそこにいた。 石造りの欄干に片肘をつきながら、穏やかな微笑みを浮かべている。(……やっぱりいたわ) 内心、僅かに息を吐く。 ルクレツィアはドレスの裾を静かに持ち上げ、彼に向き直った。「こんばんは、グレイヴン伯爵。今宵は月が綺麗ですわね」「ええ、月も星も、貴女のドレスに映えてより一層輝いて見えます」 相変わらず流れるように巧みな口ぶりだ。 だが、前回と全く同じ言葉ではなかった。(――ここも違う) それでも、ルクレツィアは笑顔を崩さずに返す。「お上手ですこと」「商売柄、口先だけは少し自信がありまして」 ルークは軽く肩をすくめてみせた。その仕草もまた、どこか計算されているようでいて、自然だ。「このような華やかな場所では、どうにも落ち着かなくてね。つい、こうして人の少ない場所に逃げてしまうのです」「わかりますわ。私も時折、こうして風にあたりたくなりますもの」「……お互い似た者同士、というところでしょうか」 その言葉に、ルクレツィアの心がわずかに揺れた。 前回の周回で、この男がこんな風に距離を縮めてきたことはなかった。む
夜の帳が下り、王宮は一層の華やかさに包まれていた。 クリスタルのシャンデリアが幾重にも輝き、まるで星々が天井に降りてきたかのようだ。貴族たちの宝石が光を受けて煌めき、豪奢なドレスと燕尾服が舞踏会の広間を彩っている。 ルクレツィアは、公爵令嬢としての完璧な微笑みを浮かべながら入場した。 今日のドレスは淡いローズピンクのシルクに繊細なレースが重ねられ、煌びやかすぎず、品のある華やかさを演出している。背筋を伸ばし、静かに視線を巡らせると、見慣れた顔ぶれが次々と目に入った。(ここが始まりの舞踏会……) ここからすべてが動き出す。聖女ソフィアの登場も、そして攻略対象たちの物語も――。 遠くに王太子アズライルの姿が見えた。漆黒の髪に深紅の瞳。その鋭い眼差しは今日も氷のように冷たい。 その隣には騎士アシュレイが控え、ダークブラウンの髪にスチールグレーの瞳を光らせながら、厳かに警戒を怠らない。 王太子アズライルは、ふとルクレツィアの姿に気づいたのだろう。遠くからその深紅の瞳がわずかに細められた。 いつもなら近づいても形ばかりの挨拶しか交わさない彼が、自ら数歩を踏み出してルクレツィアの前に現れる。「ルクレツィア・アルモンド」 低く響く声。 冷ややかさは変わらぬものの、どこか妙に柔らかい。 いつものように距離を取るわけでも、無関心を装うわけでもなく、彼はわざわざルクレツィアの目の前で足を止めた。「アズライル殿下。今宵もご機嫌麗しゅうございます」 完璧な所作で礼を取るルクレツィア。 だが、その内心はわずかに困惑していた。――これは、今までにない展開だ。(……前回この舞踏会で私はアズライルに挨拶したかしら?) アズライルは彼女の礼にゆるやかに頷くと、視線を絡めたまま口を開く。「随分と控えめな装いだな。だが――よく似合っている」 一瞬、胸の奥がざわつく。 褒め言葉。しかもこの王太子の口から――。 冷徹で人を称えるなど滅多にしない彼が、だ。
客間の扉の前で、ルクレツィアは深く息を吸い込み、ゆっくりとノブに手をかけた。「失礼いたします」 静かに扉を開けると、柔らかな陽光が差し込む室内に、一人の見慣れぬ男性が静かに腰掛けていた。彼は肩にかかるほどの長さの、スモーキーアッシュの髪を自然なウェーブで揺らしながら、ゆったりとした所作で立ち上がる。髪はセンターよりややずれた分け目で、落ち着いた印象を与える。淡い青色の瞳は春の空のように澄んでおり、その視線は静かな安心感をもたらした。整った顔立ちは儚げな優雅さを漂わせつつも、その奥に鋭い知性が宿っていた。 その眼差しを、ルクレツィアはどこかで知っているような気がした。 身に纏う衣服は控えめながら上質な布地で仕立てられており、動きやすさを意識したシンプルなデザインが彼の落ち着いた人柄を引き立てている。 彼は礼儀正しく一礼して、柔らかな微笑みを浮かべた。「初めまして、ルクレツィア・アルモンド公爵令嬢。噂に違わぬ美しさだね」「はじめまして、エリアス・モンルージュ殿。あなたのことは存じ上げませんが、どのようなご用件でしょうか?」「俺は、ただの放浪者さ」 ルクレツィアの問いに、彼は静かに微笑みながら答えた。「『聖なる光と堕ちた神』……この言葉を聞いたことはあるかな?」 その言葉を耳にした瞬間、ルクレツィアの眉がわずかにひそめられた。(その名は……) それは、この世界の土台となっている乙女ゲームのタイトルだった。彼女が前世で何度も遊んだゲーム、そしてこの世界の運命を知る唯一の拠り所でもある。それを、この男が――。(この世界に生きる人間が、知るはずのない言葉……どうして?) 胸の奥に冷たいざわめきが広がる。状況を飲み込みきれないまま、まずはこの場を整理する必要があると判断した。 控えていた侍女に、ルクレツィアは静かに目線を送り、落ち着いた声で命じる。「リリー、少し席を外してちょうだい。」「かしこまりました、お嬢様。」
……静寂。 どこまでも深く、冷たく、暗い闇の中を漂っていた。 終わりのない落下のような感覚。体も意識も溶けていくかのような虚無――。 けれど――不意に、微かな光が差し込んだ。 遠くで鳥のさえずりが聞こえ始める。朝の始まりを告げるような、穏やかな囀り。「……ぁ……」 ルクレツィアの唇が微かに動いた。まぶたが重くゆっくりと開かれる。差し込む朝の日差しが眩しくて、一瞬、思わず目を細めた。 そこに映ったのは、見慣れた天井――白亜の装飾、繊細な彫刻が施されたドーム型の天井。金の縁取りと淡いクリーム色の壁が朝の光に柔らかく照らされている。(……ここは……私の部屋?) 首をゆっくりと巡らせる。刺すような痛みも、焼けつく苦しみもない。昨夜のあの焼けるような毒の苦痛も、冷たい床の感触も、全く存在しない。ただ、静かに、柔らかな朝が広がっていた。(……生きてる? でも、どうして?) 戸惑いを抱えたまま、ルクレツィアはベッドを抜け出し、大きな姿見の前へと足を運んだ。 鏡の中に映る自分の姿――艶やかなブロンドの髪、整った顔立ち、健康的な血色。そこには確かにルクレツィア・アルモンドが立っていた。けれど、どこか違和感が胸の奥をざわつかせる。(……何かが、おかしい) 違和感の正体がすぐには掴めず、しばらく鏡の中の自分を見つめ続けた。 その時だった。 コン、コン、コン―― 軽やかなノックの音が静寂を破った。「お嬢様、朝食のご用意が整っております」 リリーの、馴染み深い声が扉の向こうから届いた。「えぇ……。いえ、入ってきてリリー」 返事をしながらも、ルクレツィアの心はさらに混乱を深めていく。まるで、現実感が薄れていくようだった。 扉が開き、リリーが静かに部屋に入ってくる。相変わらず柔らかな微笑みを浮かべた、幼い頃から仕える侍女だ。「いかが致しましたか、お嬢様? 少しお顔色
朝、ルクレツィアが執務室で書類に目を通していると、慌ただしくノックの音が響いた。「お嬢様、大変です!」 扉の向こうからリリーの切迫した声がする。その緊迫感に、ルクレツィアは胸騒ぎを覚えた。「入りなさい」 扉を開けて飛び込んできたリリーは、青ざめた顔で一枚の書簡を差し出した。「これが……王宮からの正式な通達です」 王宮の封蝋が押されたそれを受け取り、ルクレツィアはそっと封を切った。視線を走らせた瞬間、思わず喉の奥が固まる。(……やられた) そこに記されていたのは、『アルモンド公爵令嬢ルクレツィアが、聖女ソフィア殿下に対し陰湿な嫌がらせを継続的に行っていた疑いが浮上。証言者複数名による証言が確認されており、事実確認のため速やかに王宮への出頭を命ずる』 という文面だった。「嫌がらせ、ですって……?」 ルクレツィアは低く呟いた。もちろん、そんな事実は一切ない。だが、証言者が「複数名」いると書かれている。(証言者……。つまり、証拠は作られた。周到に、計画的に。) 手の込んだ罠だった。証拠となる物証ではなく、証言。誰かに口裏を合わせさせるだけで、それは容易に成立する。そして「聖女を虐げる悪役令嬢」という筋書きは、世間にも受け入れられやすい。「……誰が動いたの?」「お嬢様……まさか、王太子殿下が……?」 リリーが恐る恐る口にする。だがルクレツィアはゆっくりと首を振った。「王太子殿下本人が、こんな露骨な手は使わないでしょう。でも――殿下を取り巻く誰か、でしょうね。ソフィア様の背後にいる派閥……あるいは、もっと別の誰かが」(私はてっきり、王太子殿下は正式に聖女様を妃に迎えるとともに、穏やかに婚約を解消するつもりだと思っていたのに……まさか、こんな露骨な悪役令嬢の筋書きを使うなんて) そう考えれば、先日のベルントの報告とも繋がる。商会への圧力も、計画の一部だったのだ。ベルントの報告によ