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10.協力者

Auteur: 斎藤海月
last update Date de publication: 2025-07-04 19:00:00

舞踏会から帰った夜。

ルクレツィアは重たいドレスを脱ぎ捨て、ゆったりとした部屋着に着替えた。

カーテンをわずかに開けたままの大きな窓のそばに立ち、ほの暗い月光の中でグラスを傾ける。

赤く輝く液体――ワインが好物だった。けれど、今は怖くて飲めない。

代わりに用意させた白桃のハーブティーの柔らかな香りだけが、ほのかに部屋に漂っている。

カラン、と氷がグラスの中で音を立てた。

(イザヤの事件まで、あと3ヶ月……。まずは計画を練りましょう)

月に照らされた庭園は静寂に包まれていた。

銀色の月光が、闇の中で静かに花々を照らしている。

(乙女ゲーム…ソフィアが本来なら事件を解決して、イザヤを救うはず。でも、エリアスによるとそれだけじゃ足りないらしい……)

(ただ予定通りに物語が進んでも――私は、きっとまた殺される)

指先がわずかに震え、氷が再び揺れて淡い音を奏でた。

冷たい液体が喉を滑るたび、微かな恐怖と焦りがじわじわと胸を満たしていく。

(私はイザヤについて、トゥルーエンドで語られた話しか知らない。バッドエンドや隠しエンドはやる前に死んじゃったからなぁ……)

彼の名が脳裏に浮かぶ。

イザヤ・サンクティス。銀白の髪と金の瞳、神の寵愛を受けたかのような穢れなき存在。

(彼は神以外、何も信じることが出来ない。神の選んだ聖女ソフィアを除いて)

けれど、ルクレツィアは知っている。

神にすがりながらも、決して癒されぬ彼の心の奥底に、どれほど深く闇が巣食っているのかを。

(それを、ゲームの中でソフィアは優しく包み込んで救った。けれど――)

その先は、誰にも語られていない。

闇の本当の核心までは、誰一人として踏み込むことは許されなかった。

何が彼を、あの狂気へと追い詰めたのか。

なぜ彼は、神以外のすべてを信じることができなくなったのか。いや神すらも彼は――

その答えは、まだ霧の奥に沈んだままだ。

(それを、私は知らなければならない)

ルクレツィアは静かに息を吸い込み、グラスを置いた。

窓の外にはまだ夜が広がっていたが、彼女の心はもう翌日へと歩き出していた。

――翌朝。

「おはようございます、ルクレツィアお嬢様」

侍女がカーテンを開けると、朝の柔らかな光が寝室を満たした。

ルクレツィアはゆるやかにまぶたを上げ、整えられた寝台から身を起こす。

「おはよう、リリー」

微笑みながらも、その瞳はどこか険しい決意を帯びていた。

今日からはまず、情報収集から始めるつもりだった。

(イザヤ・サンクティス……まずは彼の周辺を探らなければ)

彼は王宮付きの神殿に所属する聖職者。

その身分と聖職の重みが、彼の秘密に容易く触れさせてはくれない。

「今日の予定は?」

「はい、本日は午後に貴族子女たちのお茶会がございます。それから教会への寄進の手続きに書簡の確認が――」

(教会か……)

さりげなく表情を緩めながら、ルクレツィアは思考を巡らせる。

(まずは神殿の人間と接触を持つ機会を増やそう。些細な情報でもいい。どんな小さな綻びも、今は手掛かりになる)

「わかったわ、リリー。では、その寄進の手続き、私が直接出向くわ」

「まぁ! お嬢様がわざわざ?」

「ええ。せっかくですもの。神殿の皆様にもご挨拶しておきたいの」

優雅に微笑むルクレツィア。

だがその胸の奥には、静かな焦燥が渦巻いていた。

(イザヤの心の闇へ辿り着くには、急がなければ)

❖❖❖

王宮のすぐそばにそびえ立つ大聖堂は、荘厳な静けさに包まれていた。

高く伸びる尖塔、色鮮やかなステンドグラス、朝日に照らされた聖像が神々しさを放つ。

「ごきげんよう、司教様。アルモンド公爵代理の、ルクレツィア・アルモンドでございます。寄進の件で伺いました」

柔らかな笑顔を湛え、控えめに頭を下げる。

応対に現れたのは、まだ若い下級聖職者だった。慣れぬ貴族の来訪に少し緊張している様子が窺えた。

「よ、ようこそお越しくださいました。聖女ソフィア様の御加護があらんことを。寄進のお心遣い、神殿一同、心より感謝申し上げます」

(……彼は、確かこの教会に所属しているはずだけれど)

寄進の手続きは淡々と進み、形式的なやり取りが交わされる。

ルクレツィアはその後も、自然に世間話を始めた。

「イザヤ大司教様は、お忙しくしていらっしゃるのでしょうか?」

彼女の声は柔らかく、あくまでも無垢に振る舞うが、その質問には確かな意味があった。

応対した若い助祭は、一瞬だけ言葉に詰まった。

その表情には敬意と少しの緊張が入り混じっている。

「は、はい。最近は聖女様の御傍にお仕えしており、日々祈りと学びに励まれております」

「まぁ。すごいのね。公爵家筋にもその噂は入ってきているのよ。いずれは枢機卿になるのではないかと囁かれているのでしょう?」

彼女の言葉に助祭は照れくさそうに目を伏せ、しかし誇らしげに答える。

「教会の中でも、そんな噂はひそかに囁かれていますが……ですが、大司教様はとても控えめで謙虚な方なんです」

ルクレツィアは表面上は柔和な微笑みを浮かべていたが、胸の中では静かな焦りが燻っていた。

(表の顔は、だいたい想定通り……)

だが、この会話だけでは見えてこない闇が、イザヤの奥底に確かに存在する。

乙女ゲームの中でさえ、語られなかったその核心部分。

神をすら歪ませる、深い闇の存在だ。

(まずは教会内の人脈を探らねば)

彼の過去を知る者たちの話、協会の記録に残された断片、そしてこれから必ず表沙汰になる異端審問の噂。

それらを丹念に拾い集め、闇の輪郭を一つずつ明らかにしていかなければならない。

彼を本当の意味で救うためには、表面的な解決だけでは不十分なのだ。

「それでは、また近くご挨拶に伺いますわ。どうぞ皆様にもよろしくお伝えくださいませ」

柔らかな声でそう告げると、彼女は一礼し、その場を後にした。

(寄進という名目で教会に来れるのはきっと週に1度が限界ね。それ以上は怪しまれるわ)

となると、新たに協力者が必要だ。

(協力者、か。……また彼を巻き込むのは少し心が痛むけれど、彼にとっても悪い話ではないはずよね)

そして思い浮かべるのは乙女ゲームの中では名前すら出ることのなかった人。そして、死に戻る前の3年間で彼女が最も信頼していた商人。ベルント・レンツだった。

❖❖❖

それから三日後。

ルクレツィアは、死に戻る前にも幾度となく訪れていた市場に、再び足を運んでいた。もちろん今回は身分を隠してのお忍びである。同行するのは、信頼の置ける侍女リリー一人きり。以前と同じく、彼女の私服を借りて身を包んでいた。

「お嬢様、どうなさったんです? 急にこんな賑やかな所へ来たいだなんて……」

リリーは心配そうに辺りを見回しながら、声を潜めて尋ねる。

貴族の令嬢が足を踏み入れるには、あまりにも雑多で活気に満ちた庶民の市場だ。商人たちの威勢のいい掛け声、果実や香辛料の香り、ぎゅうぎゅう詰めの人波――庶民の熱気がうねりとなって流れている。

「少し、探し人がいるのよ。きっと、ここに現れると思うの」

ルクレツィアはそう答えながら、内心で溜息をついた。

(どうせ彼のことだから、またこの辺りで誰かに頭でも下げているのでしょうね。まったく……懲りない人)

市場は以前と変わらぬ賑わいを見せていた。

色鮮やかな果物が山と積まれ、干し草に埋もれた香辛料の袋が並ぶ。食品だけでなく周りを見回すと、手作りの布や陶器、簡素なアクセサリーを売る露店がぎっしりと連なり、人々の活気ある声が絶え間なく飛び交っている。

(懐かしいわ……)

喧噪の中に身を置きながら、ルクレツィアは心の中でほんの一瞬だけ過去を思い出した。死に戻る前、様々な料理を開発する中で何度もこの路地を訪れた日々を。

と、その時。雑踏の向こうから、少し空気の違う声が耳に届いた。

「――もう少しだけ、猶予をいただけませんか……! 次の荷が届けば、必ず利子も上乗せして返済しますから!」

その声に導かれるように足を止めると、狭い裏路地の一角で小さなやり取りが繰り広げられていた。

そこにいたのは、やはりベルント・レンツだった。

痩せ細った体にくたびれた上着、踵のすり減った安物の靴。

顔色は悪く、必死に頭を下げ続けるその背中は、哀れさすら漂わせている。

「ベルントさん、あんたも毎度毎度これだよ。こっちにも上からの催促があるんだ。今度こそ本当に払えるんだろうな?」

「は、はい! もちろんです! ですから、あと少しだけ……!」

苦し紛れの弁明を繰り返すベルント。

しかし、使用人は呆れを隠そうともしない。

「……ったく。今度の納品が無事に届かなきゃ、次は利子じゃ済まねぇからな」

冷たく吐き捨て、使用人は踵を返して去っていく。

残されたベルントは、肩を小さく落とし、額の汗をぬぐった。

間違いない――。

ルクレツィアが死に戻る前に出会った頃のベルント・レンツだ。

あの時とまるで変わらない、情けなく、だが捨てきれぬ商才の光を微かに宿した男。

「……はぁ。借金なんて、するもんじゃないな……」

その背中に、ふと柔らかな声が降りかかった。

「お困りのようね?」

驚いたベルントは、思わず肩を跳ね上げて振り返った。

視線の先には、庶民の服装ながらも隠しきれない気品を纏った若い女性と、その侍女風の女性が立っていた。

「は、はぁ? お嬢さん……どちら様で?」

戸惑いと警戒が入り混じるベルントの視線を正面から受け止め、ルクレツィアはふんわりと微笑む。

「ごきげんよう。わたくしは――アルモンド公爵家のルクレツィア・アルモンドよ」

その名が告げられた瞬間、ベルントの表情はみるみる青ざめていく。

「……っ、公爵家!? え、ええっ!? な、なんでこんな所に……!」

狼狽しきったベルントの様子を見つめながら、ルクレツィアは静かに目を細めた。

心の中で、かつての記憶を反芻する。

(ふふ……。今はこんなだけれど、本来あなたは必ず花を咲かせる人)

死に戻る前、この男は大商会を築き、才覚で周囲を翻弄していた。最後の方は、何者かの介入により、業績は落ちていたがそれまでは順調だったのだ。

確かにそれはルクレツィアのアイデアや融資あってのものであったが、それを吸収して最大限に活用したというのは間違いなく彼の才能であるとルクレツィアは評価している。

今はまだ埋もれているが、その才能は間違いなく彼の中に眠っている。

「お話があるの。私に少しだけお時間をくださらないかしら?」

「え、えぇ!? お、俺に……?」

まるで狐につままれたような顔をするベルントに、ルクレツィアはそっと囁くように続けた。

「あなたの商才、少しばかり見込んでいるのよ――ベルント・レンツ」

柔らかな声音の奥に、貴族令嬢とは思えぬ確かな眼力と意思が光った。

ベルントは完全に面食らったまま、言葉を失ってしばらく固まっていた。

❖❖❖

人気の少ない裏通りの小さな喫茶店。

昼の賑わいから少し外れた静かな店内で、ルクレツィアはベルントと向かい合って座っていた。

リリーは少し離れた席で控えめに待機し、周囲に目を光らせている。

ベルントは未だ困惑した表情のまま、ぎこちなく湯気の立つカップを手に取った。

庶民的な店でありながらも、貴族然とした彼女の気配に、どこか落ち着かない様子が拭えない。

「……それで、その……お嬢様。俺に一体、何のご用なんでしょうか?」

ルクレツィアは柔らかな微笑を浮かべたまま、まっすぐ彼の目を見つめた。

「単刀直入に言うわ、ベルント・レンツ。あなたに協力をお願いしたいの」

「……協力?」

「ええ。もちろん、あなたにとっても悪い話ではないはずよ」

ルクレツィアはカップを静かにソーサーへと戻し、優雅に指先でテーブルを軽く叩いた。その仕草には、貴族の余裕と風格が自然と滲んでいる。

「あなたは今、資金繰りに困っているわね?」

「……っ」

ベルントはわずかに肩を強張らせた。まさに急所を突かれ、顔に動揺の色が浮かぶ。

「私が融資をして差し上げますわ。無担保で、当面の利子も大幅に抑えましょう」

「え、ええっ!? ほ、本気で言ってるんですか!?」

思わずベルントは身を乗り出す。あまりに破格の提案に信じられない、といった面持ちだ。

「もちろん本気よ。ただし――条件があるの」

ルクレツィアの声色が一段低くなり、初めてその瞳にわずかな鋭さが宿る。

「あなたの“商才”を、私のために使ってもらうの」

ベルントは目を瞬かせ、一瞬呆気に取られた後、警戒の色を浮かべた。

「……まさか、違法な取引とか裏の仕事とか、そういうのじゃ――」

「違うわ。安心して」

ルクレツィアは小さく首を振り、微笑を崩さぬまま言葉を継いだ。

「私が欲しいのは情報よ」

「情報……?」

「ええ。調べてほしい対象は、教会。――特に、聖女付きの大司教であるイザヤ・サンクティス」

その名を聞いた瞬間、ベルントの表情はますます困惑を深めた。

「せ、聖女付きの大司教!? そんな大物の情報なんて……それに、俺は教会なんて縁遠い場所で――」

「表向きは、ね」

ルクレツィアはそっと唇を緩める。

「でもあなたなら、裏からなら十分に回り込めるはずよ。取引先の商人、教会に納品する納入業者、出入りする使用人たち。商人ならではの伝手がいくらでもあるでしょう?」

ルクレツィアの声は穏やかだが、その言葉の端々には確信が滲んでいた。

ベルントは何度か瞬きを繰り返し、眉間に深く皺を寄せた。

庶民とはいえ教会を相手取る危険を、彼なりに肌で感じているのだろう。

「……なるほど、そういうことですか。でも、それは……命がけの仕事じゃありませんか? 教会は、噂以上に内情が危険だって聞いてます」

「もちろん危険は理解しているわ」

ルクレツィアはゆるやかに頷くと、真っ直ぐに彼の目を見据えた。

「けれど、私はあなたの腕を信じているの」

そのまなざしには一点の揺らぎもなかった。

「あなたは、もっとやれる人よ。今ここで終わる器ではないわ」

ベルントの喉が小さく鳴った。

それはまるで、心の奥底を静かにくすぐるような甘い誘いだった。

ルクレツィアは微笑を崩さず、さらに囁くように言葉を重ねた。

「あなたは、本来もっと大きな商会を築けるはずよ。今のように借金で喘ぎながら、細々としがみつく必要はないわ。私と手を組めば、今より遥かに早く、その夢に手が届く」

「……あんた、俺の事を信用しすぎじゃないですか?」

ベルントは苦笑めいた表情を浮かべた。だが、その目の奥にはわずかに野心の光が灯り始めていた。

「そうかしら? 私、人を見る目だけは自信があるの」

ルクレツィアの言葉は、まるでゆっくりと罠を閉じていくようだった。

だが、その罠は決して強制ではない。ただベルントの眠っていた欲望にそっと火を灯すだけ。

ベルントはしばらく沈黙したまま、両手を組み、俯いて考え込んでいた。

やがて彼はゆっくりと顔を上げ、静かに口を開いた。

「…………なるほど。いいでしょう、お嬢様」

深く息を吸い込むと、ベルントは静かに、だが力強く頭を垂れた。

「お引き受けします。その代わり――融資の額は、少し多めにお願いしたいところですが」

「ふふ。ようやく交渉人らしくなってきたわね」

ルクレツィアは満足そうに微笑む。

「詳しい条件は後ほど詰めましょう。でも今は――契約成立、ということで良いわね?」

「……はい、ルクレツィア様。お力添えに、心から感謝いたします」

ベルントの声には、先ほどまでの迷いが消えていた。

こうして、彼女は最初の協力者を手に入れたのだった。

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  • 悪役令嬢なのに死ぬたび攻略対象がヤンデレ化してくるの、バグですよね?   12.再会

     教会へ向かう馬車の中。 柔らかな陽光がレースのカーテンを透かして差し込み、ルクレツィアの膝上のドレスを金糸のように照らしていた。車輪の心地よい揺れが、かすかに彼女の身体を揺らす。春先の空気はまだ少し冷たいが、窓越しの日差しは穏やかで、どこか現実感の薄い静けさがあった。(まずはこの世界について、改めて整理しておきましょう) ここは乙女ゲーム『聖なる光と堕ちた神』の世界だ。 “聖なる光”は聖女ソフィアを意味し、物語は彼女が五人の攻略対象たちを救い、そのうちの一人と結ばれて、そして世界を救うまでを描いている。 何も干渉しなければ、物語は王太子ルートへ自然に流れていく。そのため、プレイヤーの間ではこれを「王道ルート」と呼んでいた。 事件が起こる順番は決まっている。 最初がイザヤ、次いでアシュレイ、テオドール、アズライル、そして最後にルーク――。 ソフィアはそれぞれの心の闇に寄り添い、救い、そのうちの誰かと恋愛関係に発展していく。 だが、事件で救えなかった場合、その対象者のルートへ進もうとするとバッドエンドが発生する仕様だ。 そして、悪役令嬢・ルクレツィアはと言えば――ほとんどモブのような存在だった。 たまに王太子の正式な婚約者として登場しては、周囲に聖女として持て囃されるソフィアに嫉妬し、嫌がらせを仕掛けたり、攻略対象たちとのイベントを邪魔したりする。 それが、彼女の役割の全て。(私の出番なんて、最初から限られていたのよね) そして必ず訪れる婚約破棄―― それはどのルートでも、各事件がすべて解決した物語の中盤に用意されていた。 このゲームが他の乙女ゲームと一線を画していたのは、攻略対象たちとの「救い」が序盤で完結する点だろう。 では後半は何を描くのか? それは堕ちた神を浄化し、世界を救う聖女としての戦いだ。 ここで、序盤に救った攻略対象たちが再び重要な役割を担う。 誰を救い、誰を救えなかったのか――その選択が神の浄化の難易度やストーリー展開そのものを大きく左右していく。 

  • 悪役令嬢なのに死ぬたび攻略対象がヤンデレ化してくるの、バグですよね?   3.幸せなスローライフに向けて

     そうと決まれば、行動に移すのは早かった。 ルクレツィアは舞踏会が終わったその翌朝、まだ陽が昇り切らぬうちに起き上がると、すぐに行動を開始した。「リリー、厨房を使わせていただくわ」 朝の支度を手伝っていた侍女のリリーは、思わず目を丸くする。「えっ……お嬢様が、ですか?」「ええ。少し作りたいものがあるの」「そ、そんな……! 料理は厨房の者にお任せくださいませ。もし火傷でもされたら――」 慌てるリリーの言葉を、ルクレツィアは軽やかに遮る。

  • 悪役令嬢なのに死ぬたび攻略対象がヤンデレ化してくるの、バグですよね?   2.『物語』の幕開け

     夜の帳が静かに下り始め、王都の中心――王城は、まるで宝石箱のように煌びやかな光で彩られていた。無数のランプが灯り、白亜の石造りの城壁がやわらかな光を反射して輝く。 宮廷の正門前には、次々と馬車が滑り込んでくる。貴族たちが乗り込み、絢爛なドレスと礼服に身を包み、笑みを浮かべて舞踏会の夜に臨んでいた。 ルクレツィアもまた、宮廷御用達の豪奢な馬車に揺られながら、窓の向こうに広がる王城を見上げていた。(……何度も訪れたはずなのに、今日の王城はどこか違って見えるわ) 胸の奥がふわりと高鳴る。これから始まる物語の序章のように。 馬車がゆっくりと止まり、扉が開かれる。「お嬢様、到着いたしまし

  • 悪役令嬢なのに死ぬたび攻略対象がヤンデレ化してくるの、バグですよね?   1.転生先は悪役令嬢

     ――ふっと、何かが途切れた。 落下の衝撃は来なかった。ただ、薄明るい光が静かにまぶたに差し込んでくる。 ゆっくりとまぶたを開けると、目に映ったのは白亜の天井。だが、それは見知った無機質な天井ではなく、繊細な彫刻と金の縁取りに彩られた、美しくも異質な空間だった。まるで中世の城の一室にいるかのような、優雅で異様な現実。(……どこ、ここ……) 記憶は混濁している。 けれど、それでも胸の奥から自然と浮かび上がってくる名前があった。(ルクレツィア。ルクレツィア・アルモンド) そう名乗った瞬間、脳裏に二重の記憶が広がる。 父と母に愛され、公爵家の令嬢として育った華やかな日々。 そして

  • 悪役令嬢なのに死ぬたび攻略対象がヤンデレ化してくるの、バグですよね?   プロローグ『幸せな結末を』

    「ああ、今日はずいぶん遅くなっちゃったな――」 夕暮れの空を仰ぎ見ながら、綾瀬凛花はふと小さく息を吐いた。 高校三年生の彼女は、最後の試合に向けた部活動で少し居残り練習をしていたせいで、すっかり帰宅が遅くなってしまっていた。 西の空は茜色に染まり、沈みかけた夕陽がビルの輪郭を柔らかく浮かび上がらせている。高層ビルの窓に反射した光がきらきらと瞬き、車のテールランプが赤い光の帯を作ってゆっくりと流れていく。それはまるで、街の中を静かに流れる宝石の川のようだった。 心地よい微風が頬を撫で、さらさらと葉擦れの音が耳に優しく届く。遠くからは自転車のベルがチリンと軽やかに響き、昼間の喧騒とは違っ

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