結婚して三年。葛城柊弥(かつらぎ とうや)はもう私を愛していない――そう思うしかなかった。 秘書と親しげに車内で囁き合う姿を、私はこの目で見た。 私の誕生日にも、彼は彼女とのコンサートを優先した。 問い詰めれば、「あの子はまだ若くて分別がない。仕事の話をしていただけだ」と、まるで私が勘違いしているかのように、冷たく言い放つ。 なのに、同じ車、同じ距離で、今度は私が他の誰かに寄り添うと、彼は取り乱して怒鳴り散らした。 私はただ、静かに笑ってコートを羽織り、ゆっくりと告げる。 「菅原くんはまだ若くてね、どうしても一緒にいたいって言うの」 「あなたも、理解してくれるわよね?」
もっと見るあの夜は、何度寝返りを打っても眠れなかった。眠ろうと努力して、あの二人は本当にただの仕事の話だったのだと、自分に言い聞かせようとした。でも、やっぱり――騙せなかった。三年間、隣で眠ってきた人が、あんな裏切りをするなんて。想像するだけで吐き気がこみ上げてきて、胸の傷がズキンと痛み、思わず涙がこぼれそうになった。トイレへ駆け込み、吐き気を堪えきれずに何度も嘔吐した。そして洗面台の前で顔を上げると、鏡に映ったのは、乱れた髪、やつれた顔、何の感情も浮かばない目。でも、そのとき私の頭に浮かんだのは彼のことじゃなかった。ちゃんと、身だしなみを整えようかな。不思議と、そう思った。その瞬間、気づいたの。燃えるように愛した思い出でも、捨てるのは案外難しくないんだって。どんなに熱く美しい思い出でも、それは「過去」でしかない。愛って、突然消えるものじゃない。少しずつ積み重なった失望が、ある日、限界に達したとき――ふっと消えるのよ。ちょうど今の私みたいに、柊弥への想いが、跡形もなく消えた。そろそろいいかもしれない。たくさん溜め込んだ失望を切符にして、この関係から旅立つ時が――来たのかもしれない。彼は聡明で冷静な人。私があれだけ怒りをぶつけたあと、鈴木愛蘭には一切の希望を持たせないようにした。でも、それでも私はもう――離婚したいと本気で思っていた。だからこそ、きちんと離婚協議書をまとめて、彼と向き合うつもりだった。でも私は、ひとつだけ大きな誤算をしていた。愛蘭が彼の中で占める存在の「大きさ」を、見誤っていたのだ。秘書の座を外された彼女は、研修生として基本的な仕事を一から始めるしかなかった。以前はフロント業務も任されていたのに、今ではその機会すら与えられていない。私は何も指示していない。ただ、彼女自身がこれまで傲慢だった報いを受けているだけ。……そう、私は思っていた。でも彼は、違った。たった半月で、仕事の落差と心理的打撃に耐えられないせいか、愛蘭はみるみる痩せていった。真冬に膝の出たスーツを着て、凍えた足を我慢しながら、必死に立ち続けていた。そして偶然――柊弥に、その姿を見られてしまったのだ。「葛城社長……」彼女の目から、涙が一粒、静かに零れ落ちた。その一滴が、彼の心にも落ちたのだろう。たった半月で、あの明
誕生日を迎えた数日後、私は手術を受けた。手術前、担当医がぽつりと訊いた。「ご家族は来られないんですか?」その一言で、胸がぎゅっと締めつけられた。私はうつむいたまま、小さく答える。「一人でも大丈夫ですから」「まったく最近の若い子は……自分の身体を大事にしないとダメじゃないか。身体が資本って言葉、知らないのかね?」私は苦笑し、何も言わなかった。小言を受け入れる方がまだマシだった。――自分の夫・葛城柊弥(かつらぎ とうや)に、付き添ってくれるかと前日に聞いたのに、今も返事はない。誕生日の食事会さえ、彼は綺麗さっぱり忘れていた。彼に気を遣われたくないし、私ももう彼に頼りたくなかった。結婚三年目。柊弥との関係は、もう終わりが見えていた。手術は三時間。その後目が覚めた頃には、外はすっかり暗くなっていた。疲れた身体を引きずって病院を出ると、肌を刺すような冷たい風が吹き抜けた。雪の気配もする。鼻先にひやりとした感触。顔を上げると、白い雪が風に乗って舞い落ちていた。帰ろうと道路沿いに立ってタクシーを待っていると、ふと視線の端に見慣れた青いマイバッハが止まっているのが目に入った。その瞬間、胃がぎゅっと痛み、手が無意識に震え始めた。私は車に近づき、指でコンコンと窓を叩いた。揺れている車体が止まり、半分ほど窓が開いた。そこから覗いたのは、若くて綺麗な女性の顔。頬を赤らめ、服は乱れ、耳元で柊弥に何か囁いていた。その様子はあまりに親密で……私に気づいた彼女は「きゃっ」と声を上げ、慌てて柊弥の胸元に顔をうずめた。濡れた瞳が、小鹿のように怯えて揺れていた。一目でわかった。彼の新しい秘書、鈴木愛蘭(すずき あいら)。あの子は笑うと、昔の私によく似ている。無垢で、どこか儚げで。今は目元が赤くて、まるで泣いたばかりのようだった。そんな姿が、男心をくすぐる。柊弥はシートにもたれかかり、私に目をやった。けれどその視線は、まるで他人を見るように冷たい。それどころか、腕の中の彼女をさらに抱きしめた。「大丈夫、俺がいるよ」見惚れるほど整った顔立ちで、そう呟いた。甘く優しい声。あの頃と同じ声で。彼は、かつて私にもこうして囁いた。私は静かに笑った。「柊弥、今……何してるの?」酒の匂いが彼の身体から漂い、目には酔
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