LOGIN学生の頃、川内白真(かわうち はくま)に恋をした。 大学入試の日、彼のために喧嘩して愚かにも足を怪我し、片足で歩くようになった。 彼は名門大学に進学し、私はろくに進路も考えず社会に出て働いた。 結婚の時、彼の家族は誰も私を認めてくれなかった。 ただ白真だけが、「一生君の面倒を見る」と断言してくれた。 その後、酒を一滴も飲めなかった彼が、酒に溺れるようになった。 酔った彼は私を抱きしめて、涙を流しながら言った。 「恩返しのつもりで、一生彼女を大切にできると思ってた。でもみんな、ぼくが足の悪い女を娶ったって笑うんだ」 「他の男たちは、パーティーに優雅で綺麗な女性を連れて行く。でもぼくは、恥ずかしい女を連れて行って、しかも彼女を愛してるふりをしなきゃいけない」 「でも、君がいてくれてよかったよ、千紘」 「ぼくの人生に君がいてくれて、本当によかった......」 その瞬間、私は完全に無防備な心を打ち抜かれ、ただぼう然とその場に立ち尽くしたまま、一晩中動けなかった。 一宮千紘(いちみや ちひろ)。 それは、彼の女性秘書の名前だった。
View More白真と別れてから、私は絵に打ち込み、次第に名の知られた画家となり、国内各地の都市で巡回展を開くようになった。京坂美術館の前に立ったとき、ふと数年前に描いた一枚の絵を思い出した。そこには、愛のためにひたむきだった愚かな私と、私を裏切った夫、そして今はどこでどうしているのかもわからないあの女が描かれていた。久しぶりに蘇ったその記憶に、一瞬立ち尽くしてぼんやりしてしまった。その時、記者に声をかけられた。「足立さん、ご自身の画業の中で、最も満足している作品はどれですか?」私は静かに微笑んで答えた。「その絵は、もう壊してしまいました」あの時ほど、情熱を込めて描いた絵は、もう一枚もない。恐れを知らぬ愛、終わりのない痛み、どうしようもない諦め。そんな複雑な感情が絡み合ったあの絵のようなものは、もう二度と描けないだろう。そして私はきっと、もう誰かをどうしようもなく愛することもない。治ることのない足のように、健康だった頃を懐かしく思い出しても、戻ることはできない。それでも前へ進まなきゃいけないのだ......画展は深夜まで続いた。杖をついて美術館を出ようとしたとき、月明かりの下に懐かしくも見知らぬ人影が現れた。彼は静かにそこに立っていた。脇には粗末な木の杖、不釣り合いなスーツを身にまとい、猫背でやつれた姿は、どこまでも哀れだった。「怜......ぼくは七年、待ってた」「君が許してくれなくても、ぼくは待ち続ける」「一生愛すると誓った。一日でも、一分でも、一秒でも足りなければ、それは永遠じゃない」彼はうわの空のように私を見つめ、濁った涙がやせ細った頬を伝い落ちる。ぽとり、ぽとりと。海に沈む雨のように、もう何も波紋すら起こさなかった。「ファンの方ですか?サインが欲しいんですか?」私は淡々とスケッチペンを取り出した。数秒待ったが、彼は何も言わなかった。私は彼の横をすり抜け、振り返ることなく歩き去った。ほとんど毎回、画展の終わりにはこんな光景と会話が繰り返された。本当に吹っ切れたのか?忘れたいと思う記憶ほど、なぜか強く絡みついてくる。それでも、前を向く方が、振り返るよりずっといい。ひとりであっても。少なくとも、潔く、まっすぐに。
白真はビクッと身を震わせ、もともと青ざめていた顔色がさらに真っ白になった。信じられないといった様子で、呟いた。「ぼくがそんな話を......?」「そ、そんなはずない......君が眉をひそめるだけで、ぼくは心配でたまらなかったんだ、そんなこと言うわけない......!」最初は私も信じられなかった。ただの悪夢で、寝言にすぎないと思っていた。でも確かめたくて、すべてを知っているふりをして千紘を試した。そして炙り出されたのは、想像を絶するほど残酷な事実。彼の寝言は、本当のことだった。それどころか、彼の裏切りは一年前からもう始まっていたのだ......記憶から意識を戻し、私は表情を変えず、白真が言った夢の中の言葉をそのまま繰り返した。録音がなくても、彼はもう言い逃れできなかった。それが自分の心の奥底にある本音だと、本人が一番わかっているはずだ。「怜......」「そんなの、ただの愚痴だよ。本気にしないでくれ!」彼はまだ癒えていない傷を無視して、苦しそうにベッドから降りて私のほうへ這ってきた。「確かに君との暮らしは重圧だった、背負うのも辛かった。でも、捨てるなんて考えたことは一度もない!」「学生時代、勉強が辛くて『学校なんて爆破してしまえ』なんて愚痴るようなもんだよ。ぼくたち、本当に爆破したか?違うだろ?!」「怜、酒に酔った時の言葉を本気にする必要ないだろ?」彼は手を伸ばして私の足を抱こうとしたが、私は反射的に足を上げて蹴り飛ばした。「でも、あなたが私を裏切ったことは、紛れもない事実よ」「説明しただろ!千紘は、ぼくにとってはただの遊び相手だ。誰にでも代われるような存在だよ!少し優しくしたからって、何だっていうんだ?彼女は君の代わりにはなれない、それだけは絶対だ!」白真の怒鳴り声は鋭利な刃のようで、千紘の皮膚を裂き、そのまま心臓を突き刺した。私は理解した。彼女がどれほど傷ついたか。あまりに苦しくて、一言も声に出せず、身動き一つできず、ただその場に立ち尽くして涙を流す。その瞬間、彼女の心は完全に死んだ。私もかつて同じ経験をした。だからわかる。心が死ねば、その後にやってくるのは解放であり、新たな人生だ。パチンッ!かつて白真を心から愛していた少女は、情け容赦なく
そのとき私は、彼がどれだけ愚かかをはっきり悟った。こんな時に、愛の話をしてる場合じゃないだろう?私は本能的に彼の服の裾を掴んだ。「バカなことはやめて。ああいう人たちは基本的に金が目的。金さえ渡せば、きっと帰ってくれる」「奴らはナイフを持ってる。今はとにかく時間を稼げばいい。私のボディーガードがすぐ来るはず」けれど、白真は一言も耳を貸さなかった。強盗たちが私に近づくや否や、彼は目を赤くして英語で怒鳴った。強盗の一人がナイフを見せつけると、彼は私を背後に押しやり、歯を食いしばって突進した。「失せろ!」「怜を傷つけるやつは、誰だろうと許さない!」そのときの彼はまるで狂気に満ちていた。数人を相手に一歩も引かず、逆に強盗たちを怯ませて後退させた。ボディーガードが駆けつけると、強盗たちは四方に逃げていった。だが、私のすぐ近くにいた二人の強盗は手ぶらでは引き下がらず、私のアクセサリーやバッグを奪おうと襲いかかってきた。私は悲鳴を上げて、物を投げ捨てようとした瞬間。白真の細身の背中が私の前に立ちはだかった。彼はためらうことなく二人の強盗と取っ組み合い、混乱の中で何ヶ所も切りつけられた。特にひどいのはアキレス腱を断たれた傷で、救急車が来たときには、彼は全身血まみれだった。けれどその顔には苦しみの影はなく、ただ私を見つめてにっこり笑いながら言った。「これで......ぼくの気持ち、信じてくれる?怜、君のためなら......ぼくは命だって惜しくない」その瞬間、私は感動すべきか笑うべきか分からなかった。これだけの怪我をしたのは、全部彼自身のせいだ。たとえ本気で私のために命を懸けたとして、それで何になる?愛しているなら、どうして私の目の前で死のうとするの?「もうしゃべらないで、まずは治療を受けて」かつての縁もある。私は彼を放ってはおけず、病院へ連れて行った。白真はアキレス腱断裂のほかにも、数か所の静脈を切っており、入院して経過を見る必要があった。私は付き添うつもりはなく、すぐに千紘へ電話をかけた。思いがけず、3人が同じ病室にいるという異様な状況になったが、私と千紘の間には不思議なほど争いがなかった。彼女は白真しか見ておらず、私は一刻も早く離れたかっただけで、修羅場じみたやり
彼から逃れるため、私はやむを得ずボディーガードを雇い、心を落ち着けてパラグライダーの練習に打ち込んだ。着地のたびに私の足は再び痛み、ひどい時には捻挫さえする。それでも、空を飛んでいるときの言葉にできないほどの自由と喜び、障害のある身体を忘れ、すべてを手放せるようなあの感覚は、どんな痛みを払ってでも得る価値があった。気づけば一か月が経ち、私はパラグライダーで20キロの飛行を成功させるまでになっていた。しかしその興奮も長くは続かず、白真が私のボディーガードの警戒が緩んだ隙を突いて、帰り道で私を待ち伏せしていた。「ぼくが悪かった、死んでも償えきれないほどの罪を犯した。君が殴っても罵っても、許さなくてもいい。けど、君はなぜぼくを避けるんだ?」「ぼくが君を本気で愛してるって、どうすれば信じてもらえる?」「千紘をクビにする。二度と彼女に会わない。ほかの女とも話さない。一生、君だけを見て生きる。だから......もう一度だけ、チャンスをくれないか?」夜はすっかり更けていて、異国の夜の治安は決して良くない。私は彼と時間を無駄にする気もなく、黙って彼のそばを通り過ぎようとした。だが、腕をぐいと掴まれて引き止められた。「君のことをちゃんと理解していないって言ってるけど、ぼくは足が悪いわけじゃない。じゃあぼくは一体どうやって君の気持ちを理解すればいい?」「君が傷つくんじゃないかって、苦労するんじゃないかってずっと心配だった。だからぼくにできる限りのことは全部してきた。これ以上、ぼくに何を求めるんだ?」私は静かに言った。「でも、あなたの愛は千紘に向いてた」その一言に、彼は沈黙した。海風が彼の前髪を揺らし、赤く充血した目元と深いクマがあらわになる。今の彼は、無力さを身に纏い、私よりもよほど障がい者に見えた。言葉も返せず、それでも意地になって手を放そうとしない。いったい、彼は何を求めているのだろう?心が優しすぎて、自分の中の罪悪感を乗り越えられず、無理をしてでも私への償いを続けたいのか?もう少し言葉をかけようとした、その時だった。刃物を持った数人の黒い影が、突然私たちを取り囲んだ。私は一瞬で警戒し、金で穏便に済ませようとしたその瞬間、白真が笑いながら私の前に立ちふさがった。「怜、あのとき君は命を