アスフォデル王国の誇り、名門アヴェルニア学院。 魔法と権力が支配するこの学園で、女王と呼ばれる存在──レナータが、舞踏会の夜、庶民の少年トマスと“禁じられた一夜”を過ごしてしまう。 翌朝、すべてを忘れろと突き放す彼女。だが学院中の鏡に、二人の姿を暴く幻影魔法が映し出される。 魔法は栄光を飾るはずのもの。けれど、それは秘密を暴く凶器にもなる。 憧れと嫉妬、恋と裏切り──暴かれた夜の真実が、学院の均衡を崩していく。 そして、最初の囁きが放たれた。 “囁きの書”が開かれるとき、魔法に彩られた虚飾の学園は、抗えぬ群像劇へと堕ちていく。
View More月明かりが差し込む控室は、まだ舞踏会の熱を引きずっていた。
床に散らばる宝石の飾りと、庶民の少年が纏っていた古びた制服の袖。 その間に重なり合う影が、揺れる鏡にあらわになっている。 黄金の髪はほどけ、波のように広がる。 潤んだ紅の瞳を伏せ、学院の女王──レナータは、吐息を殺しながら庶民の腕に縋っていた。 誰もが憧れ、畏れ、近づくことすら許されない存在が、いまは爪を立てて擦り切れた布を握りしめている。 「……ん、ぁ……」 抑えきれない声が喉から漏れる。 控室の隅の魔法灯は淡く明滅し、二人の影を幾重にも重ねて揺らした。 その光はまるで、この交わりが決して赦されないものだと告げるためだけに存在しているかのようだ。 鏡は残酷に真実を映す。 滴る汗、乱れた衣服、そして交わるはずのない二人の姿。 もし誰かが扉を開けたなら、その瞬間すべてが終わる。──それでも止まらなかった。 月光が彼女の頬を濡らし、金糸の髪をさらに鮮やかに染め上げる。 学院の女王と、ただの庶民。 許されぬ二人が、月と鏡の前で──最悪の秘密を刻んでいた。 窓辺のカーテンが揺れ、淡い朝の光が控室を染めた。 散らばったドレスの飾りも、擦り切れた制服も、夜の熱を映したまま無惨に転がっている。 レナータはゆっくりと身を起こし、乱れた髪を指でかきあげる。 白い首筋に昨夜の痕跡が残り、それを見つめるトマスの視線を彼女は冷たく払いのけた。 「……忘れましょう」 声は震えていない。けれど吐き捨てるように響いた。 「これは、なかったことに」 学院の女王が庶民に抱かれた──そんな真実が広まれば、全てが崩れる。 だからこれは、彼女自身を守るための呪文だった。 それでも、胸の奥にかすかな痛みが残る。 ほんの一瞬でも救われてしまった自分を、彼女だけが知っていた。 「……はい」 庶民の少年、トマスはただ頷いた。 だが胸の内では叫んでいた。 (忘れられるはずがない。俺にとっては……) 窓から射し込む光が鏡に二人を映す。 そこにあるのは、交わってはいけない立場の違う二人の姿だった。 湖を囲む白亜の尖塔は、朝日に照らされて眩しく光っていた。 アヴェルニア学院──アスフォデル王国の誇り。 けれどトマスにとっては、どうあがいても届かない遠い光だった。 門の前には三つの列ができる。 黄金の馬車から降りる上位貴族。 取り巻きに囲まれ談笑する中流貴族。 そして最後に、擦り切れた制服を着た庶民たち。──トマスもその端に立っていた。 視線を横にずらせば、寮の差もはっきり見える。 湖畔にそびえる宮殿寮は王家と大貴族だけのもの。 隣に建つ豪奢な寮はその取り巻きのため。 庶民が押し込まれるのは、湿気を帯びた石造りの古い寮。 同じ制服を着ていても、暮らしぶりを見れば一瞬で線が引かれる。 「アヴェルニアは魔法と権力の縮図」──トマスはその言葉を、何度も耳にしてきた。 いまなら痛いほど分かる。 数では庶民が多くても、権力の輪の外にいる自分たちは、ただ黙って耐えるしかないのだと。 袖のほつれを直しながら、トマスは湖面に映る尖塔を見上げた。 腰に差した杖は、包帯で補強されたひび割れの木肌。 父の形見であり、唯一の遺品だった。 「正しく使え」──父が残したその言葉だけが、胸の支えになっている。 背後から笑いや囁きが聞こえても、足を止めはしない。 胸にあるのは劣等感ではない。 入学試験で示した実力と、学院から与えられた奨学の証。 それはどんな宝石よりも誇れるものだと信じている。 ……けれど、昨夜の光景だけはどうしても頭から離れなかった。 学院の女王を抱いてしまった。 それは誇りではなく、重すぎる秘密だった。 トマスはまだ知らなかった。 その“学院の太陽”もまた、同じ朝、鏡の前で影を落としていたことを。 白亜の尖塔に朝日が射し込むと、真っ先に輝いたのは彼女だった。 レナータ・ヴァレンティナ──学院の女王。 黄金の髪が光をはね返し、紅の瞳が人々を射抜いていく。 その姿を目にしただけで、校庭の空気が変わるのをトマスは感じた。 制服は大胆にアレンジされ、宝石が散りばめられている。 ただ歩くだけで舞踏会のような光景が生まれ、女子たちは競うように真似し、男子たちは言葉を失う。 教師すらも彼女を前にすると一瞬たじろぐのを、トマスは何度も見てきた。 (……やっぱり、完璧だ) そう思った瞬間、胸がひやりとする。 けれどトマスには分かってしまった。 彼女の横顔に、ごく小さな歪みがあることを。 昨夜、月光の下で触れた体温が、まだその奥に残っているように見えた。 忘れなければならない。 そう頭では分かっている。 だが──忘れられるはずがない。 学院の太陽。誰もが崇める女王。 その光に、確かに細い亀裂が走っている。 そしてそれを知ってしまったのは、数多の生徒の中で庶民の自分だけだった。 昼休みの校庭。 木陰に座るトマスの隣に、幼馴染のマリナが腰を下ろす。 「また……見てたでしょ、あの人のこと」 栗色の髪を揺らしながら、彼女は小さな声で呟く。 トマスは慌てて視線を逸らす。 遠くでは仲間に囲まれて笑うレナータの姿。 「……別に」 耳まで赤く染まりながら誤魔化した。 マリナは草を千切り、溜息をつく。 「知ってるよ。ずっと前から……あなたがあの人に憧れてるの」 その声には、理解と嫉妬が入り混じっていた。 幼馴染として夢を語られるのは嬉しい。 だが、その夢が“届かない女王”に向かうたび、胸の奥は焼けるように痛んだ。 「……あんな人、あなたとは世界が違うのに」 マリナはそう言い残し、立ち上がった。 呼び止められず、トマスはただ背を見送る。 風に揺れるその背中は、苛立ちと切なさを必死に隠しているように見えた。 ……けれど、それでも彼女が隣に座ってくれる時間が、今の自分には救いだった。 翌朝。 学院中の鏡に、同じ文字が浮かび上がった。 《学院の女王レナータ、庶民の少年トマスと一夜を共にす》 短い一文に続き、幻影が揺れる。 乱れたドレスの裾、擦り切れた制服の袖口。 舞踏会の控室を思わせる断片的な光景だった。 「は? なにこれ、いたずらでしょ」 「幻影魔法を悪用したんじゃないの?」 最初は笑い混じりの声が飛ぶ。誰もが信じようとせず、冷やかし半分で鏡を覗き込んだ。 けれど、それは一枚の鏡だけではなかった。 廊下、教室、食堂──学院中すべての鏡に、同じ文字と映像が映し出されていたのだ。 「え……まさか、学院中の鏡で……?」 「そんなの、普通の魔法じゃ……」 ざわめきは困惑へ、そして恐怖へと変わっていく。 映像は消えない。目を逸らしても、別の鏡に同じ文字が浮かぶ。 逃げ場などなく、噂は否応なく現実として突きつけられた。 「いや、でも……ドレスの裾、あれ本物じゃない?」 「庶民に抱かれるなんて最低……」 信じたくない。けれど、鏡に揺れる光景はあまりにも生々しかった。 笑っていた生徒たちも口を噤み、目を逸らすしかなくなる。 沈黙の空気が、真実を認めた証のように重く広がった。 鏡に浮かぶ文字を見て、レナータの赤い瞳がわずかに揺れた。 「……何よ、これ……」 いつもの堂々たる声色に混じって、かすかな震えが滲む。 それは誰も気づかないほど小さな揺らぎ──けれど確かに、学院の太陽が陰った瞬間だった。 ほんの一瞬、彼女は心の奥で呟いていた。 (こんな形で……知られるなんて……) 遠巻きにその光景を見ていたトマスは、唇を噛みしめていた。 すべてが終わったと思った。 けれど、まだ始まりにすぎなかった。 こうしてアヴェルニア学院の静寂は破られた。 “囁きの書”の最初の囁きが、世界に放たれたのだ。朝の光が石畳を照らす中、学院中の鏡に映像が浮かび上がった。鏡面が一斉に薄く曇り、耳の奥で砂をこするような囁きがかすかに走る。制服の襟は大きく開き、リボンは千切れて床に散らばっている。髪は汗で肌に張り付き、震える肩が小さく上下していた。涙に濡れた頬を手で覆う少女の姿——マリナだった。廊下を行き交う生徒たちが次々と足を止める。「あれって…マリナじゃない?」「何があったの、制服が…」「まさか、誰かに…」囁きは石の壁を這い、瞬く間に学院全体を覆い尽くす。同情と好奇が入り混じった視線が、鏡に映る少女を射抜いていた。当のマリナは、その場に居合わせてしまった。自分の姿が映る鏡を見た瞬間、顔から血の気が引く。足が震え、立っていることができなくなる。「ひどい…」「可哀想に…」「誰がこんなことを…」周囲の声が、まるで遠くから聞こえるようだった。「マリナ!」レナータが駆け寄り、とっさに自分のローブでマリナを包む。「見ないで。もう見ないで」人垣の外へと急いで連れ出すレナータ。その紅い瞳には、怒りと困惑が宿っていた。「大丈夫よ。私がついてる」優しい声に、マリナは小さく頷く。けれど涙は止まらなかった。トマスは離れた場所で、拳を握りしめて目を伏せていた。その表情には怒り、後悔、そして何か言い知れない複雑な感情が入り混じっている。唇を噛み、杖を握る手に力がこもった。放課後、夕陽が窓を赤く染める空き教室。リヴァリスは窓際の椅子に腰掛け、本のページを優雅にめくっている。まるで今朝の騒ぎなど、遠い世界の出来事であるかのように。扉が勢いよく開かれた。「リヴァリス」トマスが踏み込む。その足音は怒りに満ちていたが、リヴァリスはページから視線を上げようともしない。「何の用だ、庶民」「マリナの様子がおかしいが、何か知らないか?」「さあ、何のことやら」本から視線を上げることもなく、まるで天気の話でもするかのように答える。「彼女が昨夜、お前のところにいたという話だが」「それがどうした?」ようやく本を閉じるリヴァリス。その動作はゆっくりで、わざと間を取っているようだった。「何をした」「何もしていない。彼女が勝手に来ただけだ」立ち上がったリヴァリスの存在感が、教室の空気を変えた。夕陽を背負ったその姿は、王者の輪郭を背負っていた。「嘘をつくな」
朝の石畳に、職員の冷たい声が響く。「トマス・カーター。職員室へ」廊下の鏡には、まだ昨日の噂の残滓が薄く浮かんでいる。通り過ぎる生徒たちの視線が、針のように背中を刺した。職員室の扉は重く、魔法で封印されたような威圧感を放っている。中に入ると、机に並ぶ教師たちの杖が一斉に淡い光を放ち、部屋は圧で満ちていた。「トマス・カーター。深刻な問題が発生した」机に叩きつけられた書類。そこには見慣れた名前があった。『カリダ・カーター 推薦入学審査 —保留—』「妹に何か?」血の気が引く。「君の素行問題により、妹の推薦は保留となった」別の教師が続けた。「このまま続けば取り消しもあり得る。最終判断は今週末の理事会だ」魔法で文字が浮かび上がる書類。『素行不良』『家族審査』『適格性疑問』という文字が、まるで呪文のように赤く光っていた。「妹は関係ありません!カリダは何も悪いことを!」「家族の連帯責任だ。学院の品格を保つためには仕方がない」その冷たさに肺がひんやり縮む。「何をすれば、妹の推薦は…」「身の程を弁えろ。分を越えた関係は切れ」屈辱が喉を焼く。だが、妹の笑顔が頭の奥でちらついた。「……わかりました」(俺のせいで、妹にまで——)喉を焼くような言葉を、無理やり押し出した。指先がかすかに強張る。嘘だった。でも、今は従うしかない。中庭のベンチ。魔法で咲かせた花々が風に揺れ、淡い光の粒子を散らしている。トマスは一人座り、握りしめた手紙を見つめていた。視界の端に、さっき見た赤い語——『適格性疑問』がまた滲む。「トマス?」振り返ると、レナータが心配そうな表情で立っていた。小さく息を呑む音が近い。「職員室で何を?」トマスは手紙を握りしめ、掠れた声で答えた。「妹の推薦が…保留になった」レナータの紅い瞳が驚きに見開かれる。「妹がいるのね。いつ、結論が出るの?」「今週末の理事会で結論が出るんだ。カリダは俺より頭が良くて努力家で…なのに、俺のせいで潰されるなんて…」声が詰まる。レナータは隣に座り、そっと手を重ねた。「家族のことを考えると辛いわよね」レナータの声は優しく、どこか共感を含んでいた。「レナータも?」「私にも兄がいるの。ルキウスよ」レナータは湖の方を見つめ、少し寂しそうに微笑む。「彼は…私のために厳しい判断をする人。時には
朝の石畳の道を、三人の影が並んで伸びていた。トマスとレナータが自然に肩を寄せ合い、その横にマリナが歩いている。「昨日の宿題、難しかったな」トマスが小声でつぶやくと、レナータは少し笑った。「あなたがそう言うなんて意外。私も、少し悩んだわ」「だろ? ……でも一緒にやったら、もっと早く終わったかもな」「そうね。次はそうしましょう」二人の会話に、マリナは微笑んだ。けれど胸の奥に小さな痛みが走り、その笑顔はほんの少しだけ固い。少し離れた場所から、その光景をじっと見つめる瞳があった。エリシアだ。栗色の髪を風になびかせながら、足を止める。(あの庶民が……レナータの隣に並ぶなんて)屈辱が喉を焼く。自分が立つはずだった場所を奪われた――その思いに、エリシアの爪が掌に食い込んだ。エリシアはひとり、噛み殺すように唇を噛んでいた。(どうして……どうして私じゃなく、あの庶民なのよ)悔しさが喉につかえて声にならない。自分が女王の隣にいるべきだと信じてきたのに、気づけばレナータの視線はあの男に向いている。そんな思考を断ち切るように、影が差した。振り向いた瞬間、息が詰まる。リヴァリス・ドミニウス。光を受けて揺れる濃い茶の髪に、一筋の乱れもない。襟も姿勢も、こちらの呼吸を忘れさせるほど整っている。絵画から抜け出た王子のような横顔──けれど、その藍色の瞳に映るのは優しさではなかった。笑っているのに、目だけが冬だった。そこにあるのは支配の静けさ。「顔に出ているな、エリシア」彼の声はやわらかく、それでいて耳の奥を圧する。エリシアは拳を握りしめ、吐き捨てるように言った。「……レナータはもう、庶民に心を寄せている。私じゃ止められない」リヴァリスは小さく笑った。その笑みは唇だけのもので、目は少しも揺らがない。「そんなこと、わかっていた。お前とレナータじゃ役者が違う」胸の奥がざらつく。だが、続いた言葉はさらに鋭かった。「俺の許嫁を庶民が奪う? 面白い冗談だ」藍の瞳がわずかに光を宿す。そこには怒りではなく、冷たい軽蔑しかなかった。「学院の秩序を乱すなら……相応の罰を受けてもらう」吐き捨てるような声。背筋に冷たいものが走り、エリシアはその一言が現実になる予感を拭えなかった。──不穏な圧力が、確かに始まろうとしていた。学院に不自然なざわめきが広がり始
食堂には焼きたてのパンの香りと薄いスープの湯気が満ちていた。窓から射し込む朝の光が木の机にまだら模様を描き、食器の音と小さなざわめきが混じり合う。そのざわめきは、トマスとレナータが肩を並べて座るだけでいつもより濃くなっていた。「女王様が……」「まさか、庶民食堂に……」ざわめきが広がり、食器の音がやけに大きく響いた。無数の視線が一斉に注がれるのを、トマスは肌で感じた。トマスはスープをすくいながら、落ち着かない視線を泳がせる。「……やっぱり目立つな」隣のレナータは、周囲のざわめきを気にも留めず、パンを小さくちぎって口に運んだ。「気にしなくていいわ。ここで食べたいと思ったから来ただけ。誰に遠慮する必要があるの?」その堂々とした笑みに、トマスは思わず苦笑した。「……ほんと、強いな」「あなたが隣にいるから、怖くなんてないわ」レナータは肩をすくめて、少しだけ声を落とす。「そういえば、マリナはどこかしら?」「さぁ……今日は見てないな。寝坊なんかしないと思うんだけど」トマスはスープの匙を止め、首を傾げる。レナータは答えを聞いても微笑まず、カップを見つめた。(マリナ……)その姿を、食堂の外の扉の隙間からマリナ自身がそっと覗いていた。胸が締め付けられる。あの人の隣にいるのは、自分じゃなくてもいいのだと突きつけられるようで。けれど、それでも二人を嫌いになれない――その複雑さが、彼女の瞳に揺れていた。中庭のベンチに並んで腰かけると、春の風が花壇を揺らした。花弁に宿る淡い魔力がふわりと舞い、光の粒が二人を包んだ。トマスは周囲の視線に肩をすくめた。「……ほら、また見られてる」「見られてるのは知ってるわ」レナータはパンジーの花を指でなぞりながら、隣の手を離さない。「でもいいの。あなたの隣にいることを、隠したくないから」「……強いな」トマスは苦笑し、けれど胸の奥が跳ねる。彼女の指先が自分を選んで絡まっている、その事実だけで息が詰まりそうだった。レナータは彼の反応を楽しむように小さく笑った。「強いんじゃないわ。あなたと一緒だから平気なだけ」そう言って、そっと肩に身を寄せる。衣擦れの気配と甘い髪の香りが鼻先をかすめ、トマスは息を詰めた。「……人前だぞ」「知ってる。でも、隠したくない」冗談ではないと、一目でわかる眼差しだった。
粗末な木製の家具に囲まれた部屋。窓際の魔石ランプがまだ淡く光を残し、昨日のパンが机の端に置きっぱなしになっている。そんな庶民寮の一室に、借り物の寝間着姿のレナータが腰を下ろしていた。「おはよう、レナータ」髪を結いながら、マリナは振り返る。まだ夢の中にいるような、不思議な感覚だった。「おはよう。よく眠れたわ」レナータは袖を整えながら微笑む。「あなたの部屋、思ってたより居心地がいいのね」マリナの手が止まる。「思ってたより、って…」「あ、違うのよ!悪い意味じゃなくて」レナータが慌てて手を振る。その慌てぶりが可愛くて、マリナは思わず笑ってしまった。「ふふ、女王様が慌ててる」「もう、からかわないでよ」レナータが頬を膨らませる。その表情はあまりにも普通の女の子で、マリナの胸がきゅっと締まった。(この人、本当は…こんなに可愛い人だったんだ)「ねえ、レナータ」「何?」マリナは少し躊躇してから口を開く。「昨日まで、あなたのこと怖いって思ってた。近寄りがたくて、冷たい人だって」レナータの表情が曇る。「…そう見えるのね、やっぱり」「でも違った」マリナは首を振る。「本当は優しくて、寂しがりやで…ちょっと不器用で」「不器用って…」「ほら、さっきみたいに慌てちゃうところとか」レナータは恥ずかしそうに俯く。「あなたの前だから、素が出ちゃうのかも」その言葉に、マリナの胸が痛んだ。(私の前で素を出してくれてる…でも、トマスの前ではもっと…)「マリナ?どうしたの?」「何でもない!」慌てて笑顔を作るマリナ。でも胸の奥で、確実に何かが変わり始めていた。(この人になら…負けても仕方ないかもしれない)「そうそう、昨日のことだけど」レナータが声を落とす。「トマスには内緒よ?」「うん、絶対に言わない」マリナは頷く。「私たちの秘密ね」二人の間に、新しい絆が生まれた瞬間だった。朝の学院は、いつもよりざわめきが強かった。「聞いた?女王様が庶民寮に泊まったんだって!」「まさか…本当かよ」教室へ続く石畳の廊下。壁に埋め込まれた鏡がざわざわと揺れ、そこから噂の言葉が漏れ出していた。まるで学院そのものが一斉に囁いているかのようだった。「信じられない」「相手は誰?」「トマスって…庶民だろ?」名前が出るたびに、鋭い視線がトマスに突き
石造りの教室の隅。トマスは机に腰を下ろし、静かにノートを開いていた。その瞬間、ページの上にじわりと黒い染みが浮かび上がる。インクが勝手ににじむ呪い——文字が歪み、滲んで、せっかく書いた文が黒い花のように広がって飲み込まれていく。「ははっ、またかよ。庶民用の紙は安物だからな」「ちょっと触っただけで滲むんだろ?」周囲で笑う下級貴族たち。トマスは黙ってノートを閉じ、袖で黒い染みを拭う。だが余計に汚れが広がるだけ。ページの端を押さえる指先がわずかに震える。それでも顔には怒りも悔しさも浮かばない。小さく息を吐き、彼は立ち上がった。言葉ひとつ残さず、静かに教室を出て行く。その背中には、抑え込んだ感情の重さだけが滲んでいた。トマスが去ったあと、残された貴族たちは嘲るように声を上げる。「庶民はやっぱり扱いやすいな」「黙ってりゃ、全部やり過ごせると思ってんだ」笑い声が廊下に響いたその時。「——しょうもないことはやめなさい」凛とした声が割り込んだ。振り返ると、レナータが颯爽と立っていた。金の髪が揺れ、紅の瞳が鋭く光る。「れ、レナータ様……」取り巻きは慌てて視線を逸らし、口ごもる。「で、でも……」レナータは一歩踏み出し、凛とした声で告げる。「私とエリシア、どちらの言葉が重いと思う?」一瞬で空気が凍りついた。取り巻きたちの顔色が青ざめ、返す言葉を失う。その時、奥からエリシアが現れた。笑みを崩さず、冷ややかに言う。「庶民が少し恥をかいたくらいで。女王なら気にすることじゃないでしょう?」レナータは表情を崩さず応じる。「彼らも同じ学院で学ぶ生徒よ」エリシアの笑みは深まる。「居場所を与えられているだけで十分よ」「与えられているのは私たちの方。彼らは勝ち取ってここに来ているわ」「生まれがすべてを決める世界で、努力なんて砂粒みたいなものよ」一瞬、レナータの瞳が揺れた。ほんの刹那だけ、胸の奥に寂しさが滲む。だがすぐに紅の瞳を持ち直し、静かに告げた。「……そう。あなたもそんな考えなのね。残念だわ」レナータは取り巻きに向き直り、杖を構える。紅の瞳が凛と輝き、息を呑むような沈黙が場を支配した。「とにかく、貴族の格を落とすような真似はやめなさい」凛とした声を残し、レナータは杖を下ろす。そして金髪をなびかせ、颯爽と背を向けて歩み去
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