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間章『ちょうどいいカモ』

Author: 皐月紫音
last update Last Updated: 2025-07-07 15:50:11

◆◇◆◇

「はぁ……綺麗な月ですね」

〝蒼い月〟が、のぼる空を見上げながら、一人の若い女性がゆっくりと歩いてゆく。

退廃的で虚ろで、どこか物悲しそうに鎮座する蒼い月――。

それでいて、吸い込まれてしまいそうな魔性の美しさがあった。

足取り重く、女性が街を歩いていると、視線の先に怪しげに光る看板の店が見えた。

店内からは、酒に機嫌を良くした男女の喧騒が聞こえてくる。

ここが今日の彼女の天国になりそうだ。

そもそも以前は、彼女は酒などとは無縁の人生だった。

仕事、家族関係、恋愛、人生全般が思うようにいかず、気がつけば酒が唯一の友達になっていたというわけだ。

ぼさぼさの赤銅色の髪は、垢抜けない印象を受ける。

黒縁のメガネの奥には、実年齢以上に幼く見える垂れ目がちな花萌葱色の瞳が覗く。

服装はオシャレに気を遣っているのは伝わってくるものの、五年以上前に流行を終えた時代に取り残されたスタイルだ。

白やピンクを基調にした言葉を選ばなければ、〝あざとい〟雰囲気のファッション。

年相応に大人に見られることは少ない彼女には、似合っていなくもないが、本人の気質に合っているかと言われれば否だろう。

一度でも関わったことのある人物であれば彼女が、そのような色恋の駆け引きを嗜む|性格《タイプ》でないことはすぐに察せられるはずだ。

服も自分の好みでというよりは、中古の服飾誌などを見て真似たのだろう。

とにもかくにも、女性――マノン・ルフェーヴルは典型的な、いわゆるところの|おのぼりさん《ユヌ・ブズーズ》だった。

彼女は、十月から歴史教師としてヴァルメール学院へと赴任することとなっていた。

しかし、彼女は正規の教員ではなく、有期契約として雇われる〝契約教師〟としての採用だった。

マノンは控えめに言って、勝負事にとことん弱い女性だ。

小さいころから勉強熱心で、何事もコツコツと小さく積み重ねてゆく性分だった。

派手さもなければ、容量が良い器用な方でもない。

それでも人よりも、時間をかけて丁寧に努力を重ねてゆく。

その結果、日曜学校でもその先の中等教育機関でも教師からはクラスで一番信頼されていた。

だが、テストのような時には、いまいちな結果となることが多かった。

もともとの学力が高いために、正解率は平均は安定して上回るものの、極度の緊張で答えが飛んだり、お腹が痛くなってお花を摘んでいる間に、テストが終わってしまうこともしばしばあった。

そんな彼女は地元の大学の教育学部を卒業した後、地方の小さな学校で一年間、非常勤講師として働いた。

その後、中等教育教員資格試験に挑むも、そこで彼女はまたしてもやってしまったのである。

試験開始から15分、極度の|緊張《ストレス》で彼女の繊細極まるお腹は限界を迎えた。

人生とは、こんな一瞬の|間違い《ミス》で、すべてが台無しになってしまうのかと、彼女は人生のままならなさを嘆いたものだ。

そんなとき、彼女のもとに舞い込んできたのが、ヴァルメール学院の歴史教師の仕事だった。

なんでも前任者が病気で倒れ、年齢も考慮して辞職することとなったらしい。

契約教師という不安定な立場ではあるものの、国内屈指の名門校であるヴァルメールで教鞭を執るとういうのは、本来ならば願ってもない話だ。

彼女の両親も当然ながら、絶対にやるべきだと背中を推してきた。

恋人も良い機会じゃないかと、彼女の大好きな優しげな笑顔で応援してくれた。

最もその恋人とは、浮気が発覚して先日別れたところだったが。

この機会を逃せば、次に同じような|機会《チャンス》に恵まれることは、いつになるかわからない。

しかし、彼女の本音はといえば――。

「はぁ……私がヴァルメールの教師なんて無理に決まってるよぉ〜」

|麦酒《エール》の注がれたグラスが乱暴にテーブルに叩きつけられ、マノンは涙を流しながら顔を両腕に埋めた。

ヴァルメール学院といえば、王侯貴族、そうでなくとも莫大な資産を持つ富裕層の子息が多く通うことで有名な学校だ。

教員の質も高く、小さいころから裕福な家で英才教育を受けた知識人と聞く。

どう考えても自分のようなド庶民は場違いだ。

彼女は自分が王都で好ましくない目立ちかたをしていることを、来てすぐに察した。

自分だって女性に生まれたからには、煌びやかな王都に人並みの憧れは抱いてきた。

最低な浮気男を見返すためにも、王都で裕福で容姿端麗な男を捕まえてやるんだとオシャレにも挑戦した。

だが、今ではあの田舎が恋しくて仕方がない。

「無理無理無理〜! マジで無理だって……。

絶対、私なんてナメられて終わりだし……」

今の自分を支えているのは、20代半ばになって両者に何一つ、良い報告ができない申し訳なさと、わずかばかりの|意地《プライド》だけだった。

「よし決めた! 明日実家に帰る! そして新しい生き方を探すんだ! 乾杯!!」

誰に語るのでもない、これは自分に言い聞かせているのだ。

誰も応援してくれないなら、せめて自分くらいは自分の新しい門出を祝福してあげようではないか。

「そう、乾杯――」

――カチン!

「へっ?」

抑揚のない気怠げな声が耳朶を打ち、マノンの動きが固まった。

マノンが掲げた新しい|麦酒《エール》の入ったグラスに、突如視界の外から出現したグラスが打ちつけられたる。

ぬるりと、まるで影のようにその人物は出現し、マノンの隣へと静かに腰を下ろした。

月や星々といった光をすべて取り去った夜空から縫ったような濡羽色の|燕尾服《テイルコート》に身を包み、わずかに服の合間よりさらされた肌は、あまりにも色素が薄く、陽炎のように存在感が希薄な女性。

精気に欠ける瞳のみが、|灰簾石《タンザナイト》のような幻惑的な輝きを放っている。

冷艶な色香と近寄りがたい神秘性――その二つが混在した空気を纏う女性は、マノンが王都で見たどのような女性よりも美しかった。

それと同時に、最果てを見ることがかなわない深淵を覗いてしまったような怖気が背中を駆け抜け、酒が一気に抜けてゆく感覚を覚えた。

「あとは私に任せて、貴方は明日故郷に帰ると良いわ。

貴方の新しい門出を祝福しましょう、その道行きに幸多きことを」

「えっ……あ、はい……。ありがとうございます」

明らかに女性の言っていることはおかしい。

マノンは、それを頭では理解している。

しかし、女性の幻惑的な光を宿した瞳で見つめられているうちに、自然と口が承諾の言葉を発していた。

◆◇◆◇

「マノン・ルフェーヴル、ヴァルメール学院の歴史教師ね。貴方の身分、使わせてもらうわよ……」

店を後にした女性――ヴィオレタ・ウルバノヴァは女性の身分証を懐にしまうと、〝|蒼月《ペイルムーン》〟を静かに見上げた。

夜風が、凄絶に彼女の紺青色の髪を空に舞わせる。

「この戦い、生き残るのは私と貴方、どちらかしらね? クロヴィス・リュシアン・オートクレール――」

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