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Nox.I 『蒼月と謎の女教師』V

Author: 皐月紫音
last update Last Updated: 2025-07-13 20:01:06

◆◇◆◇

公園の隅には、ラナンキュラスの花弁を想起させる艶やかな唇に白い指を添えて、必死に笑いを堪えるスカディの姿があった。

「笑うんじゃねぇ……」

彼女の視線の先では、レイフが顔を羞恥の色に染めて震えていた。

彼の脳裏には、ぽかーんとした表情を浮かべた後に、腹を抱えて堪えきれないとばかりに笑い出した三人の学友の顔が甦っていた。

「ふふ、ごめんなさい。でも、レイフの顔……前よりも明るくなったと思うわよ」

「そうか……? 自分じゃよくわかんねぇ。頭が疲れてきたし、少し休むわ」

ぶっきらぼうにそう言ってのけると、レイフは再び仰向けに寝っ転がった。

ざわざわと、吹き抜ける風が、緑から紅へと装いを変えはじめた木の葉を揺らしてゆく。

わずかに鼻腔を刺激する、スパイスのような香りはサルビアだろうか。

目を閉じたレイフの顔を、スカディは飽きることもなく、愛おしげに眺める。

その白く、ほっそりとした指が、細やかな手つきで、レイフの銀糸に櫛をとおす。

健気で愛らしい緋色のサルビア、静かな気品と威厳を纏う紫苑色のダリア。

そして清楚で儚げな撫子色のガウラ――秋の心地よく、幽玄な空気と香りが、ただ静かに流れてゆく。

◆◇◆◇

「あぁ、悪い……。結構、眠ってたか?」

心地よい微睡みの時間から目を覚ましたレイフは、一度大きく伸びをして、全身の凝りをほぐした。

外はすっかりと暗くなり、子どもたちの喧騒も消え去っている。

「ううん、ほんの一時間くらいだけ。もう、陽が沈むのが早いから」

彼の視線の先には、眠る前と変わらずに抱きかかえた膝に顔を乗せ、優しげな微笑みを浮かべる姉の姿があった。

「すっかりと遅くなっちまったな。今日はいろいろと助かった。そろそろ帰るか?」

「ごめん、さっきお父様から連絡が来て劇場に今から顔を出せですって」

スカディは手に握り締めた真紅の〝Kronos〟を見せると、申し訳なさそうに微笑んだ。

以前に「〝紅〟って、男っぽくないか?」と聞いたところ、「レイフの瞳の色と同じだから」と返された。

帝国人の大半は、紅色の瞳なのだが、彼女が言うにはレイフの瞳が一番綺麗らしい。

「はぁ、また政治家か貴族様のお相手か? 姉貴は、てめぇの|装飾品《アクセサリー》じゃねぇんだぞ」

「ふふ、ありがとう。私のために怒ってくれるのは嬉しいけれど、お父様には、あれで良いところもあるのよ?」

「どこがだよ……。まぁ、わかった。姉貴はあんまり身体が強くないんだ。体調が優れなかったら、早めに帰るんだぞ」

スカディは小さいころから体調を崩しやすく、寝込むことも多かった。

身体能力は高いが、体力の方はあまりない。

おまけになぜかはわからないが、自分の前で吐血することも多い。

心を許せる、たった一人の家族のことだ。

どれだけ彼女が気丈に振る舞おうとも、レイフは心配で仕方がなかった。

「はいはい、わかってます」

「〝はい〟は一回だ」

「ふふ、レイフに言葉遣いを注意されるとはね」

レイフは溜息をひとつ吐くと、|革鞄《バッグ》から真紅のマフラーを取り出して、彼女の首へと丁寧に巻いてゆく。

「俺は、もう帰るだけだからな……」

「ふふ、ありがとう。レイフ――」

肌寒くなってきた、秋の夜空の下であることを忘れるかのような晴れやかな笑み――。

柑橘類の清麗な瑞々しさと、|香《かぐわ》しく、控えめに肌へと溶け込んだ薔薇やジャスミンの匂い。

レイフの好きな香水の薫りだ。

――「お嬢様、お迎えにあがりました」

怜悧な印象を感じさせる女性の声が響き、青藍色の高級車がレイフ達の目の前に止まった。

父が寄越した迎えだ。

少しばかりの名残惜しさを感じさせて、彼女は迎えの車へと乗り込んでゆく。

彼女を見送った後に、レイフは空を見上げ、溜息をひとつ溢した。

夜空には、淋しげな〝蒼い月〟が登り、淡い光で街を照らしている。

「|蒼月《そうげつ》か……。最近ずっとだな」

一週間ほど前から、アルジュリュンヌの夜空には〝蒼い月〟が登るようになっていた。

この時期は、ヴィオレタが学院に歴史教師として赴任してきたとも重なる。

昏く、朧げで、見つめていれば、引きずり込まれてしまうような幻惑的な美しさ。

彼女と月――それぞれに感じている印象が、不思議とレイフの中で、ひとつのものへと溶け合った。

——「やぁ、少年。|好い《いい》夜だね――」

突如、背後より響いた|低音の声音《アルト》は、レイフの身体の内側――心臓までを揺さぶってみせた。

しばらくの間、レイフはその場に縫い付けられたように身体を動かすことができなかった。

「おっと、すまない。驚かせてしまったかな」

体温を感じさせない、ほっそりとした手が肩に触れ、レイフはようやく身体を動かすことができた。

隣に立ったその人物へと視線を向け、思わず彼は息を呑む。

最初に視界に映ったのは、夜風に靡く、星の光を繋ぎ合わせたような|白金色《プラチナブロンド》の長髪。

その合間からは、とらえどころのない神秘性を感じさせる淡い藤紫色の双眸が覗く。

薔薇の花弁を想起させる唇は、三日月のように、わずかに吊りあげられ、艶やかな色香が薫り立つ。

目線は、レイフよりも瞳ひとつ分ほど低く、優美でほっそりとした身体を月白色の|外套《コート》が包んでいた。

背丈は決して小柄ではなく、この国の男性の平均に近いだろう。

声音を聞いていなければ、思わず女性と見紛うような美貌は人間味を感じさせず、どこか彼女――〝ヴィオレタ〟を想起させるものがあった。

「少年よ、君は|蒼い月《ペイルムーン》に関する|伝承《フォークロア》を知っているかな?」

レイフの肩から手を離すと、彼は|戯《おど》けたような笑みを浮かべながら問いかける。

「いや、生憎とさっぱりだ……」

不思議とレイフの心中からは先ほどまでの警戒心が抜け落ちてゆき、気がつけば自然と男に乗せられるように会話に応じていた。

「ふむ、最近の若者は民話を読んだりはしないのか。実にもったいない」

「あんたもまだ、若者だろ」

「若者か……。ふふふ、あははっ――!!」

レイフの返答に男は口元に指を添えて、さも愉快そうに破顔した。

「なんかおかしなこと言ったか? あんた、どう見ても20代前半くらいだろ?」

「ふふふ……。ごめんごめん、でもね――表面的に見えるものだけで人を判断しない方が良いよ。今後のために覚えておくが良い。一応、人生の先輩からの|助言《アドバイス》だ」

「あぁ、まぁ覚えておくわ。んで、肝心の蒼月の伝承ってのは何なんだよ?」

「うん、そうだったね」

男の態度を訝しむ様子を見せながらも、話の先を促すレイフに彼は応じた。

「僕たちの多くが認識する女神は太陽を司る存在だ。夜が明けるとともに、この世界には、陽の光が祝福として降り注ぐ。じゃあ……〝月〟には一体、何が居るのかな――?」

男の問いに、レイフは返すべき答えを持ってはいなかった。

男は特に気にする様子も見せずに言葉を続けてゆく。

「月には――忘れられたもう一人の〝女神〟が居るとされている。姉であった女神に置いてゆかれ、人からも忘れさられ、神としての存在意義さえもなくした。その神は〝|虚無の悪魔《ソリトゥス》〟と呼ばれる存在となった。〝彼女〟は気まぐれに〝天界〟と〝現世〟――そして〝冥界〟の|調和《バランス》を崩す。気まぐれ故にそれが、いつ起こるのかはわからない。だけど、その印は私たちの目に見える形で現れる。それが、〝|蒼い月《ペイルムーン》〟さ――」

吟遊詩人のように身振り手振りを交えて語った彼は、新しい情報の渦に呑まれて言葉を返すことをできずにいるレイフの様子に、気恥ずかしげに頬を朱に染める。

その仕草は、なんとも艷やかで不覚にもレイフは動揺してしまった。

「すまない、少し語り過ぎてしまったようだ。もう遅い時間だ。君も帰ると良い」

「あぁ、待ってくれ! あんた名前はなんて言うんだ?」

立ち去ろうとしていた彼は、レイフの問いに顎に手を当てて考え込む様子を見せる。

「……君とは不思議な縁を感じる。きっと、僕たちは再び会うことがあるだろう。そのときに話すとするよ」

彼はそう伝えると、恋人にだけ見せるような、うっとりとした甘い微笑みを浮かべて、その場を後にした。

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