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#13:針穴に糸を通すように

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-05-22 11:57:08

エレナは静かに寝台の脇へと膝をつき、ゆっくりと深呼吸をした。

 胸の奥で、高鳴っていた鼓動を少しずつ宥めていく。吸って、吐いて、吸って、吐いて──最後の息を細く長く吐き切った時には、聖女見習いとしての研ぎ澄まされた集中だけが、彼女の中に静かに残されていた。

 瞳を伏せ、両の手のひらをそっと妻の胸の上へかざす。

 指先から柔らかな光が滲み、やがてそれは淡い黄金色の粒子となって、掌の中に集まっていった。

「──浄化の光ルクス・ピュリフィカンス

 凛とした詠唱が、薄暗い寝室に静かに落ちる。

 その瞬間、エレナの手のひらから流れ出した聖なる魔力が、糸を紡ぐように、ゆるやかに妻の身体へと染み込んでいった。

 ここからが、本番だ。

 急性魔力中毒の治療は、ただ聖属性の光を浴びせれば済むような、単純なものではない。体内で暴れ回る異物の魔力を、自身の魔力でそっと包み込み、ひとつの塊へとまとめ上げ、内臓を傷つけることなく体外へと引きずり出す──その一連の過程を、針穴に糸を通すような精度で行わなければならない。

 魔力が体の中に残れば、それが新たな核となって再び中毒を引き起こす。流し込みすぎれば、今度はエレナの魔力そのものが毒になる。引き抜く速度が遅ければ、命が間に合わない。速すぎれば、内側の組織が裂ける。

 許される幅は、あまりにも狭い。

 それはもはや治癒というより──繊細な外科手術だった。

(……落ち着いて。ゆっくり、でも、確実に)

 エレナは瞼を閉じたまま、体内へと送り込んだ自分の魔力を、指先の感覚ひとつで追いかけていく。暗い水底を手探りで進むような感覚。血の流れを辿り、臓腑の輪郭をなぞり、その奥に潜む異質な蠢きを探る。

 ──いる。

「見つけた……!」

 エレナの唇から、小さな呟きが漏れた。

 右の脇腹の奥、肝の近く。そこに、粘りつくような黒い濁りがわだかまっていた。蛇のようにとぐろを巻き、血の巡りに逆らって蠢いている。魔物の魔力。触れただけで弾けそうなほどに、危うく、棘々しい気配。

 エレナは慎重に、自らの魔力でそれを包み込みにかかった。膜を張るように、花びらで蕾を守るように。決して押しつぶさず、決して逃さず。輪郭を確かめながら、一枚ずつ、光の薄衣を重ねていく。

 ──失敗は、許されない。

 傍らでカルロが、息をひそめるようにして見守っている。節くれだった両手を固く握り合わせ、祈るように妻の顔と、エレナの手元とを交互に見つめている。その眼差しの重みを、エレナの背中が痛いほどに受け止めていた。

 そしていつもなら軽口のひとつも挟んでくるはずのエレンもまた、今は静かに口を噤んでいた。彼女の集中を、一瞬たりとも乱さないために。

 その沈黙が、かえって心強かった。

 体内で、異物の蠢きが徐々に鈍っていく。エレナの光に絡め取られ、血流の中から一箇所へ、一箇所へと、ゆっくり、ゆっくり手繰り寄せられていく。

「よし……! あとは──押し出すだけ……!」

 包む工程は、終わった。

 エレナは微かに唇を噛み、集めた魔力の塊を、体内の安全な経路に沿って引き上げていく。血管を避け、神経を避け、やわらかな肉の隙間を縫うように。異物の魔力を自らの聖なる魔力で溶かしながら、手のひらの方へと、そっと、そっと引き寄せる。

 額に玉のような汗が浮かぶ。けれど、指先は一度も震えなかった。

 そして、ついに──

 掌の下で、光がひとつ、ぐっと凝った。

「──完了です」

 静かに、けれどはっきりと、エレナはそう告げた。

 瞼を開けると、右の手のひらの中に、黒く濁った小さな塊が光に包まれたまま収まっていた。毒々しい紫がかった粘りを帯びた、歪な魔力の核。それが、エレナの聖なる光の中で少しずつ溶け、ちりちりと霧散していく。

 寝台の上では、あれほど苦しげに呻いていたカルロの妻の呼吸が、見違えるほど穏やかになっていた。強張っていた眉がほどけ、血の気を失っていた頬に、ほんのわずかな赤みが戻りつつある。肌に浮かんでいた紫の文様も、潮が引くように薄れていった。

「こんな……あっという間に……!」

 カルロの喉から、掠れた声が零れ落ちた。

「ありがとうございます……! ありがとうございますっ……!!」

 皺だらけの両手で顔を覆い、老人はその場に崩れ落ちた。肩が震え、嗚咽が指の隙間から漏れ出してくる。止めどなく流れる涙が、彼の長年刻まれてきた皺を伝って、床へと落ちていった。

 エレナは、そっと首を振る。

「──入り込んでいた時間が長いので、まだ油断はできません」

 声は柔らかく、けれど確かな芯を帯びていた。

「ですが、きっと大丈夫。万象神が、導いてくださるはずです」

「おお……! 万象神よ……! 万象神よおおっ……!」

 カルロはその場に膝をつき、両手を固く組み合わせ、天へと深く頭を垂れた。その背は震え、祈りの言葉が途切れ途切れに零れ落ちていく。感謝と、安堵と、そして長く張り詰めていた恐怖からの解放が、ひとつになって彼を打ち震わせていた。

 エレナは、その姿をしばし静かに見守った。それから、妻の額にかかった髪をそっと指で払いのけ、改めてカルロへと向き直る。

「今夜は、このまま様子を見てあげてください」

 優しく、けれどしっかりと告げる。

「ですが──もし何か少しでも状況が変わったら、どんな些細なことでも構いません。すぐに聖堂へ連絡をいただけますか?」​​​​​​​​​​​​​​​​

 「わ、わかりました……! ありがとうございます……! 本当に、本当にありがとうございます……!」

 カルロは震える声で何度も頭を下げた。掠れた感謝の言葉が、もう何度目になるかわからないほど繰り返される。そのたびに皺だらけの肩が揺れ、涙が新しく頬を伝っていった。

 エレナは、そんな老人に向けて静かに首を振る。

「気にしないでください」

 柔らかな声だった。けれどその中には、取り繕った謙遜ではない、ただ当たり前のことをしたという、ささやかな実直さが滲んでいた。

「私は、私にやれることを、やったまでですから」

 そう告げてから、ふとエレナは視線を動かし、小さな窓の向こうへと目を移した。

 木枠の向こうでは、夕暮れの残光が少しずつ濃い藍に呑まれかけている。風に揺れる薬草畑の葉先が、細やかに震えていた。

「……今夜は、きっと肌寒くなりますね」

 ぽつりと、独り言のように呟く。

 それは心配でも、忠告でもなかった。ただ、この家の灯りが今夜も絶えずに灯り続けていてほしいと──そう願う、ささやかな祈りのような一言。

 やがてエレナは、寝台に横たわる妻と、その傍らに跪くカルロの両方を、優しく包み込むような眼差しで見つめた。両手を胸の前でそっと重ね合わせ、細く息を整えて、静かに目を伏せる。

「あなた方に、万象神のお導きがあることを──心よりお祈りしております」

 柔らかな声が、小さな寝室の空気にそっと溶けていった。

 窓辺から差し込む夕光が、金の髪をうっすらと縁取り、その横顔をひとしずくの聖性へと変えていく。

 ──これが、エレナの日常だった。

 エレンが剣を執り、その鋭い技で人々の営みを守るならば。

 エレナは、そのやわらかな想いで、人々の心と命を守る。

 ひとつの器に、ふたつの魂を宿した少女。

 片や、属性を持たぬ戦士の冷徹な技巧。片や、聖属性を宿した見習いのあたたかな祈り。

 まるで対をなすように異なる二つの在り方は、それでも同じひとつの身体の中で息づき、同じひとつの世界を、それぞれのやり方で守り続けている。

 剣と、祈り。

 冷徹と、慈愛。

 それが、彼女たちの戦いだった。​​​​​​​​​​​​​​​​

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