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#3:聖女見習い、冒険者ギルドへ

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-05-19 20:09:56

 扉が静かに閉まり切るのを見届けてから、エレナは踵を返した。

「エレナ様。どちらへ?」

 マリアンの声が、背中を追いかけるように届く。

「私はこれから、冒険者ギルドの方へ足を運んでみます。なにか、情報があるかもしれませんしね」

「まさか、このような些事にエレナ様を煩わせると?」

「マリアン、些事なんてとんでもない」

 エレナは振り返り、穏やかに、けれど言葉だけははっきりと告げた。

「あの方の仰っていたことは、たしかに突飛でした。ですが、決して嘘ではないはずです。仮に見間違いであったとしても、それはそれで良いことです。何もなかったと分かれば、それが答えになりますから」

「しかし……であれば、私が赴きます」

 マリアンの声には、わずかな抵抗が滲んでいた。

 表情はいつも通り整っている。けれど、その静かな立ち姿の奥に、どうしても納得しきれないものが残っているのが、エレナには分かった。

 意識の奥で、エレンが小さく息をつく。

『マリアンめ。いつも口うるさく言っているのだがな』

 呆れたような声だった。けれど、その響きの底には、弟子を見る者特有の、捨てきれない愛着も混じっている。

『答えを出す前に、一度立ち止まれ。自分の判断を、別の角度から見直してみろ、と。何度言っても、この癖だけは抜けんようだ』

 マリアンは、エレンが弟子として鍛えた女性だ。

 その鋭さも、冷静さも、たしかにエレンの教えを受け継いでいる。けれど、エレンが最も重んじている「答えに至るまでの手順」は、まだ少しだけ、彼女の中に根づききっていないのかもしれない。

 目の前にある答えを疑うこと。

 別の道筋を探すこと。

 そして、自分が正しいと思った時ほど、もう一度立ち止まること。

 それは、優しさとは違う形をした慎重さだった。

「マリアン、お気遣いありがとうございます。ですが、大丈夫です」

 エレナはマリアンへ向き直り、静かに微笑んだ。

「私が直接足を運んだほうがいい場合というのも、ございますから」

 マリアンは何かを言いかけて、口を閉じた。

 エレナの瞳に宿る、柔らかくも揺るがない光を見て、それ以上の言葉を引っ込めたのだろう。

「マリアン、私の留守をお願いいたしますね」

「……はっ」

 短い返答だった。

 けれどその一言には、マリアンなりの了承が、きちんと込められていた。

 エレナは軽く頭を下げ、踵を返す。

 ステンドグラスの淡い色彩の中を抜け、大聖堂の重い扉を押し開けると、春の陽光がまっすぐに降り注いできた。

 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦

 穏やかな晴天の下、エレナは冒険者ギルドの木製扉の前で足を止めた。

 通りには朝の光が満ちている。石畳は白く照り、行き交う人々の足音もどこか軽やかだった。

 空気はやわらかく、風も穏やかで、街そのものが今日という一日を静かに祝福しているように見える。

 そんな中で、エレナだけが扉の前でぴたりと固まっていた。

『どうした?』

 内側から、エレンの声がする。

『うぅ……鼻が、鼻が曲がりそう……』

 扉の隙間から漂ってくるのは、強い酒の匂いだった。

 冒険者ギルドは、ただ依頼を受けるだけの場所ではない。

 朝であろうと昼であろうと夜であろうと、冒険者たちはここに集まり、情報を交わし、腹を満たし、時には酒を酌み交わす。

 彼らにとっては、それもまた仕事の一部なのだろう。危険な依頼に向かう前に肩の力を抜き、生きて帰った者同士で笑い合い、次の誰かへ必要な噂を渡していく。

 分かってはいる。

 分かってはいるのだが、エレナにとって、その匂いはどうしても手強かった。

 中からは、男たちの大きな笑い声が聞こえてくる。ジョッキが卓へ置かれる鈍い音。誰かが武勇伝らしきものを語り、それを別の誰かが大げさに茶化す声。

 端の席では、少し目のやり場に困るような近さで、大人たちが楽しげに肩を寄せ合っている。

 エレナはほんの少しだけ頬を赤くし、それでも鼻を押さえたい衝動をどうにかこらえた。

 ここは、彼らの場所だ。

 自分にとって慣れない空気であっても、そこで過ごす人々の時間まで否定したいわけではない。

 そう自分に言い聞かせるようにして、エレナは覚悟を決め、木製の扉を押した。

 むわり、と空気が動いた。

 酒と焼いた肉、古い木材、革鎧、汗。いくつもの匂いが混ざり合って、遠慮なくエレナを迎える。

 大聖堂の澄んだ空気とは、まるで違う。

 けれど、そこにはそこなりの熱があった。誰かが食べ、誰かが笑い、誰かが今日も生きるために依頼を探している。整ってはいない。上品とも言い難い。けれど、確かに人の営みが息づいている場所だった。

 エレナは聖衣の裾を軽く押さえ、ざわめきの間を抜けて受付窓口へ向かっていく。

 その姿に気づいた受付嬢が、ぱっと顔を明るくした。

「あら! エレナ様!」

「こんにちは。本日は、少しお伺いしたいことがあって参りました」

「そうなんですね! なんなりとお聞きください!」

 受付嬢の声は明るく、よく通るものだった。

 ギルドの喧騒の中でも埋もれない、けれど相手を急かすような響きはない。毎日多くの冒険者を相手にしているからこその、柔らかさと手際のよさがあった。

 エレナは一度だけ周囲を見やり、それから窓口へ少し身を寄せる。

「白くて大きなグールについて、何か情報は入っていますか?」

「白いグール、ですか?」

 受付嬢の表情が、すっと仕事のものへ切り替わった。

 彼女は机の下から、分厚い記録帳を引き出す。長く使い込まれた革表紙は角が擦れ、紙の端にも、何度もめくられてきた跡が残っていた。

 そこには日々持ち込まれる依頼や噂、討伐報告、目撃情報が詰め込まれているのだろう。

 誰かの不安も、誰かの警告も、誰かが命がけで持ち帰った小さな手がかりも、この帳面の中では等しく記録として並んでいる。

 受付嬢は慣れた手つきでページをめくっていく。

 ぱらぱらと乾いた紙音が、酒場の騒がしさの中で小さく続いた。

「あっ、ありました」

 指先が、一つの記録で止まる。

「白いグールが、商業区の方で確認されたという噂があるようです」

『ふむ。となると、見間違いの線は消えたな』

「そうですか。現状分かっていることをお聞きしても?」

 エレナが静かに尋ねると、受付嬢は記録帳に目を落としたまま、小さく頷いた。

「……ええ」

 指先で該当する記録を押さえながら、受付嬢は説明を始めた。

「まず、目撃された場所は商業区の一角です。時刻は真昼。人通りもそれなりにあったはずの時間帯ですね」

 そこで一度、受付嬢の指が止まる。

「ただ、奇妙なのは……その場に霧が出ていた、という点です」

「霧、ですか?」

「はい。白く濃い霧だったそうです。建物の陰から流れ込んできたように見えた、と。目撃者は、その霧の中に白く大きな人影のようなものを見た、と証言しています」

 受付嬢はページを一枚めくり、別の記録にも目を通す。

「ですが、目撃例はかなり少ないんです。真昼の商業区で起きた出来事にしては、あまりにも」

 本来なら、もっと多くの人が騒ぎ立ててもおかしくない。悲鳴が上がり、店の者が飛び出し、通りを歩いていた誰かが騎士団へ駆け込む。商業区とは、そういう場所だ。

 人の目が多く、噂が広がるのも早い。

 それなのに、記録に残っている証言はわずかだった。

「しかも、その霧も長くは残っていなかったようです。気づいた時には晴れていて、白い影も消えていたと」

「そう……ですか」

 エレナは小さな顎に指先を添え、静かに考え込んだ。

 霧の中に現れる白いグール。

 真昼の商業区。

 そして、あまりにも少ない目撃例。

 どれも、ただの見間違いとして片づけるには、少しだけ形が揃いすぎている気がした。

「それにしても、本当にグールなんて現れたんですかねぇ?」

 受付嬢の何気ない言葉に、エレナの眉がわずかに動いた。

 責めるような響きではなかった。むしろ、軽い世間話に近い。信じていないというより、そこまで大事になるとは思っていない。そんな声だった。

「受付嬢さんは、怪しいと思われているのですか?」

「怪しい……とまでは言いませんけど、おかしいじゃないですか」

 受付嬢は記録帳を閉じ、少し困ったように笑った。

「グールがこの王都に現れる。そこまでは、百歩譲って認めたとします。ですが、それは騎士団の防衛網をくぐり抜けた、ということになりますよね?」

「……はい」

「でも、グールは基本的に知能の低い魔物です。人を襲う本能はあっても、計画的に身を隠したり、警備の目を避けたりできるようなものではありません。見つかり次第、騎士団に処分されるはずです」

 受付嬢の言っていることは、決して間違ってはいない。

 王都の警備は厚い。特に商業区は人の出入りが多く、騎士団の巡回も頻繁に行われている。そこにグールが入り込んだとなれば、普通ならすぐに騒ぎになり、討伐隊が動く。

 だからこそ、彼女は不思議がっているのだろう。

 けれど。

「……何らかの理由で、隠れたとしたら?」

 エレナが静かにそう言うと、受付嬢はきょとんとした顔をした。

 それから、思わずというように笑う。

「そんな! グールにそんな知能があるわけないじゃないですか!」

 その笑い声は、意地悪なものではなかった。

 誰かを馬鹿にしているわけでも、訴えを踏みにじろうとしているわけでもない。ただ、彼女の中ではそれが当然すぎて、疑う余地がなかったのだ。

 グールは知能が低い。

 王都の防衛は堅い。

 だから、大事にはならない。

 そういう順番で、答えがもう出てしまっている。

 エレナはそっと目を伏せた。

(これじゃあ、あの人だって、冒険者ギルドや騎士団を頼る訳ないよ……)

 助けを求めに来た人が、真剣に受け止めてもらえないかもしれないと思ったなら。

 それが勘違いかもしれないと笑われるかもしれないと思ったなら。

 足が向く先は、どうしたって限られてしまう。

『一種の職務怠慢……だな』

 意識の奥で、エレンの声がした。

 その声は冷静だったが、どこか苦みを含んでいる。

『まぁ、それだけ平和が戻ってきたという、喜ぶべきことなのだろうが。些か気を抜きすぎだ』

 エレンの指摘は、いつもながら容赦がない。

 けれど、エレナにも否定はできなかった。

 平和に慣れることは、悪いことではない。人々が怯えずに暮らせる日々は、何より大切なものだ。

 けれど、その穏やかさの中で、誰かの小さな恐怖が見落とされてしまうのなら。

 それはきっと、放っておいていいものではない。

 エレナは数秒、静かに考えた。

 そして、顔を上げる。

「では、その件ですが、聖堂に任せていただけませんか?」

「え、えぇ!?」

 受付嬢の声が、思わず裏返った。

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