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第43話:黒い噂

Auteur: 渡瀬藍兵
last update Dernière mise à jour: 2025-08-02 11:30:00

「領主に……実験室だと?」

その視線が私を射抜いた瞬間、喉がひゅっと鳴る。ただの噂話じゃない。私たちは、もっとずっと危険な何かに触れてしまったのだと、本能が警鐘を鳴らしていた。

「……はい。そう、言ってました」

私が頷くと、シイナさんは固く唇を引き結び、何かを吟味するように深く思考の海へ潜っていく。シイナさんの沈黙が、シオンさんの俯いた横顔が、この場の空気を鉛のように変えていく。その時だった。ふと視線を向けたシオンさんの様子が、いつもと違うことに気づいたのは。

彼の瞳の奥に、今まで見たことのない澱みが広がっていた。まるで、凪いだ湖の底に沈んでいた古い記憶が、不意にかき混ぜられてしまったみたいに。

「シ、シオンさん……? どうかしましたか……?」

壊れ物に触れるみたいに、そっと尋ねる。

彼は「……あ」と短く息を漏らし、私に気づくと、慌てていつもの穏やかな仮面を貼り付けた。

「……すみません。なんでもないんです」

だけど、その微笑みは、まるで痛みを堪えるかのように歪んでいた。彼は小さく息を吐くと、意を決したように、私たち一人ひとりの顔をゆっくりと見渡す。

「いえ、皆さんには……話しておいた方がいいでしょうね」

シン、と場の空気が凍てつく。これから語られる言葉が、この街の輝かしい印象を根底から覆してしまう……そんな確かな予感が、胸騒ぎとなって私を揺さぶった。

「先ほど、領主という言葉が出ましたが……実はごく一部の間で、この都市《メモリス》には、黒い噂があるのです」

「黒い……噂?」

シイナさんが、訝しげに問い返す。

シオンさんは静かに頷き、記憶の糸をたぐるように、遠い目をして語り始めた。

「はい。私も、かつてこの街で数年ほど傭兵業をしていたことがありまして。その頃から……時々、人が“消える”ことがあったのです」

人が、消える? こんなに綺麗で、光に満ちているように見えるこの街で? 嘘だ、って思いたいのに、シオンさんの言葉には、それを冗談だなんて思わせない、ずっしりとした重みがあった。

ミストさんも、シイナさんも、何も言わない。二人の沈黙が、逆にものすごい勢いで頭を働かせていることを教えてくれるみたいだった。

「そして
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