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#60:聖女のシチュー

Auteur: 渡瀬藍兵
last update Date de publication: 2025-08-15 12:55:11

 そして。

 とうとう、シチューは完成した。

 鍋肌の縁が、ことり、と最後の音を立てて静まる。立ち昇る湯気は白く、けれど芯のどこかに金の粒子をにじませて、天井へとゆっくり吸い込まれていった。

「……出来上がりました」

 エレナは木べらを置き、両手を前で揃える。鍋の表面はゆるやかに揺れ、その揺れの一つひとつに、柔らかな金色の光が宿っていた。普通のシチューと違う。聖属性の名残が、鍋の中を浅く泳ぐように脈打っている。雰囲気だけで言うなら、レジェンダリー級の一品と紹介されても誰も疑わないだろう。それほどに、輝きは静謐で、そして場違いだった。

「ふ、ふぉぉぉぉ……!!  す、すごいですねぇ……っ!」

 ミストの視線が、完成したシチューへ吸い寄せられるように落ちていく。両手は胸元で握られ、爪先立ちになりかけている。瞳の奥で光が踊っていた。

「……お母様が教えてくれた、当時のように……できたと思うのですが……」

 エレナの声は、語尾にほんの少し迷いを残した。鍋の縁に視線を落とし、木べらの柄を指先でなぞる。

「エ、エレナ様……!  失礼ですが、味見をしてみてもよろしいでしょうか!?」

 ミストが半歩、踏み込む。距離感は相変わらずだ。

「そうですね。むしろ、そちらのほうがありがたいかもしれません」

 エレナは小さく微笑み、木のスプーンを差し出した。柄を両手で受け取ったミストが、鍋の前にしゃがみ込む。恐る恐る、ほとんど祈るような所作で、スプーンの先を金色の水面に沈めた。

 ――抵抗が、ない。

 想像していた粘度がそこにはなかった。木のスプーンは、まるで澄んだ湖をすくうかのように、滑らかに鍋の中を泳いでいく。

「おや……?」

 ミストの声が、素のトーンに落ちた。

「ど、どうされました?」

「シチューとは、ドロドロ……という言い方は品がないのですが、重みのあるスープですよね?  ですがら……いえ、ですから、このシチューは……」

 舌が一瞬もつれ、ミストはそのまま言葉を宙に置き去りにする。スプーンを持ち上げると、すくった金色は、しずく一つこぼさず、けれど糸を引かずに、さらりと鍋へ落ちていった。

「どうやら、そちらも聖属性の名残で……シチュー独特のとろみは、無くなってしまうようなのです。スープシチュー……といったところでしょうか」

 エレナは小首を傾げ、自分の手のひらをそっと見下ろす。教わった通りに作ったはずの料理が、自分の身体を通り抜けるあいだに、形をひとつ変えていた。​​​​​​​​​​​​​​​​

 ミストは、覚悟を決めるように一度だけ目を閉じ、それからスプーンを唇へ運んだ。

 金色の液体が、舌の上に落ちる。

「ん、ん、んんんんんん……!!!!」

 ミストの肩が震えた。声にならない呻きが、喉の奥で渦を巻いている。両手は鍋の縁に置かれたまま、指先がぎゅっと木肌を握り込んでいた。

「あ、あの……ミストさん……?」

 エレナの声が、わずかに揺れる。木べらを胸の前で握り直し、ミストの背中をじっと見つめた。料理を口にした人の最初の反応がこれだ。もしかして失敗してしまったのか。そんな疑念が、胸の奥を一瞬だけ冷たくなぞる。

 その、次の瞬間――

「んまぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 爆発、と呼ぶ以外に表しようのない声量が、夜気を切り裂いた。村の外れまで届きそうな、いっそ清々しいほどの絶叫である。鍋の上で揺れていた湯気が、声の風圧でゆらりと崩れた。

「ひゃう……!!」

 エレナは思わず肩を跳ね上げ、半歩後ずさる。胸元に手をあてた指先が、ぎゅっと布を握り込んだ。

 ドタドタ、と地面を蹴る足音。

 暗がりの向こうから、シイナとグレン、シオンが慌ただしく駆け寄ってくる。シイナは半身を低く構え、すでに右の拳に鉄属性の魔力を巡らせかけていた。

「どうした!?  火傷でもしたか!?」

 駆け込みながらの第一声が、それだった。視線は素早く鍋とミストとエレナを順に検める。

「シ、シ、シ、シ、シイナ君!」

 ミストはくるりと振り返るなり、ぱちん、と両手を打ち合わせ、即座に動いた。木の椀を手に取り、お玉でひとすくい――金色のスープシチューを、まるで聖杯でも捧げるかのような勢いで椀へ注ぐ。そしてその椀を、両手でずいとシイナの胸元へ突き出した。

「な、なんだよ?!」

「いいから!!  味見を!!」

 言葉も交渉も挟ませない。詰め寄る勢いそのものが圧であり、命令であり、ほとんど災害だった。鍋の前で椀を構えるミストは、瞳をかっと見開き、口角を限界まで吊り上げ、ぐいぐいと椀をシイナの方へ押しつけている。

「すげぇ顔してんぞ……。今なら魔物も逃げ出すんじゃねぇか……?」

 グレンが一歩あとずさり、引き気味に呟いた。シオンは無言のまま、ミストから視線をそらすように左目の前髪を一度撫でつける。

「わ、わかった……」

 シイナは観念したように首を縦に振り、椀を受け取る。指先で空をなぞるような所作。その軌跡に沿って、銀の鉄屑がしゅるりと巻き上がり、見る間にスプーンへと編み上がっていった。鉄属性独特の、淡い金属光沢を帯びた一本である。

 恐る恐る、シイナはスプーンを椀に沈めた。

 ひと匙、唇へ。

「!!??」

 動きが、止まる。

 目だけが、見開かれた。視線が椀のなかの金色と、目の前で爪先立ちになっているミストとを、二度、三度と往復する。声は出ない。喉の奥で何かを言いかけて、飲み込み、また言いかけて、結局すべてが眉間の皺と口の端の引きつりに変わった。

「どうです!?  どうです!!??」

 ミストはもはや跳ねている。

「これは……凄いな!  味に奥行きがあって……普通のシチューとは比べ物にならないくらい、上質な甘みが来る……!  さらに、その奥には……野菜の旨味が、層になって押し寄せてくる。一段、また一段。舌の上で味が解けていく速度すら計算されているような――いや、これは計算じゃない、調理そのものの密度が違う。スープの粘度を捨ててなお、これだけの厚みを成立させるとは……」

 感想と呼ぶには分析が過ぎる感想が、シイナの口からとめどなく流れ出す。普段の戦闘指揮で見せる思考の速度が、そっくりそのまま味覚の言語化に振り向けられていた。椀を掲げる手は微動だにせず、視線だけが何度もスープへ落ちては、また持ち上げられる。

 その横で、グレンが「……お、おい」と呟き、シオンと顔を見合わせた。​​​​​​​​​​​​​​​​

 ふと、家の前に人の気配が増えていた。

 ぞろぞろ、と表現するほかない緩やかな足音が、夜の村道を埋めていく。子を背負った母親、杖をついた老婆、寝間着の上に羽織を引っかけただけの男――先ほどのミストの絶叫を聞きつけて、ただ事ではないと察した者たちが、自然と集まってきたのだ。窓から覗くだけでは収まらず、皆が皆、玄関先まで足を運んでいる。

「み、皆さん!  一度落ち着いてください!」

 エレナが両手を軽く挙げ、声を張った。聖女らしい柔らかさのなかに、わずかに焦りが滲む。

「はっ!  あ、あまりの美味しさについ、正気を失ってしまっていました……!」

 ミストが胸に手を当て、神妙な顔で頭を下げる。直前まで椀を空へ突き上げそうな勢いだった人物とは思えない切り替えだった。

「いつも正気のないような奴の正気を吹っ飛ばすスープ?  なんだそれ、とんでもねぇな……」

 腕を組んで眺めていたグレンが、半笑いで呟く。

「そこ!!  失礼ですよ!?」

 間髪入れず、ミストの拳がグレンの脇腹へ軽く突き入れられた。グレンが「いてっ」と肩をすくめ、口の端を吊り上げる。

「出来たのなら、配膳しましょう。村人の皆さんが、もう首を長くして待っていますよ」

 静かな声が、騒がしい一画にすうっと差し込んだ。シオンである。鍋へ視線を流し、それから集まった村人たちの方へ目を向ける。眼差しの動きだけで、場の温度が一段、整った。

「そうですね。皆さんにも用意できるくらいの量を作りましたので――どうぞ、召し上がってください」

 エレナがそう告げると、シイナの拳が小さく握られた。

「っし!」

「やったー!!」

 ミストの両腕が万歳の形に跳ね上がり、そのまま勢いで一回転しかける。シオンが片手をすっと差し伸べ、襟首を寸前で押さえた。

 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦

 村全体が、香りに包まれていた。

 家々の煙突からではない。各家の前で、玄関で、井戸端で、村人たちの手のひらの上から、金色の湯気が静かに立ち昇っている。香りは甘く、深く、それでいてどこか澄んでいて、夜気にゆっくりと溶けていった。

 幼い子の小さな手にも、両手で椀を支えてようやく、という具合に。働き盛りの若者の節くれだった指にも、しっかりと。それらを見守る老人の、皺の刻まれた手のひらにも、同じ一椀が乗っている。村のすべての灯りが、椀の縁で一度ずつ反射していた。

「これは、伝説級の一品です!!  皆さん!  こんなものは、生涯に一度食べられるかどうかですよっ!!」

 ミストが片手で椀を高く掲げ、もう片方の手を腰に当てて声を張った。なぜか領主の演説じみた構え方である。胸を張りすぎて、わずかに後ろへ反っていた。

「お、大袈裟ですよ……ミストさん」

 エレナが頬に手を添え、控えめに苦笑する。

「いや、断じて、あれは大袈裟なんかじゃないですよ。断じて」

 すぐ隣で、シイナが妙に据わった眼差しのまま頷いた。普段の冷静な研究者の口調なのに、瞳の奥にだけ、別種の熱が灯っている。

『よりにも寄って、こいつらがこんなふうになるシチューだと?』

 内側で、エレンの声がぽつりと落ちた。皮肉でも嫉妬でもなく、純粋な驚きが滲んでいる。

『エレン、あなたはこの場で食べることができないから……あとで、私が作ってあげるね』

 エレナが心の内側で、そっと微笑む。

『ふむ。これは、役得だな』

 返ってきたのは、満足げな声。声音だけで、口の端がわずかに上がっているのが分かる。

「それでは!!  いただきますっ!!」

 ミストが両手で椀を構え、勢いよく頭を下げた。次の瞬間にはもう、彼女はそれは美味しそうにスープを啜り始めている。

 その合図を待っていたかのように、村人たちの喉が一斉にごくりと鳴った。

 子は、母の膝の上で。母は、子の頭を撫でながら。老人は、孫の小さな両手に椀を支えさせて。若い男は、立ったまま豪快に。それぞれの作法で、それぞれの口に、金色の一匙が運ばれていった。

 ――そして。

 あちらこちらの家々から、歓喜の声が上がりはじめた。

「うっ……うまい……!」「な、なんだこれは……!」「お母さん、お母さん、これっ!」「あぁ……生きてて、よかった……」

 絶叫と呼ぶほかない歓声が、ひとつ、またひとつと積み重なっていく。それは波のように広がり、村のすべての軒先を撫で、夜空へ抜けていった。

 歓喜の声は、夜が白々と明けていくその時刻まで――村のどこかで、絶えることがなかった。​​​​​​​​​​​​​​​​

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  • Soul Link ─見習い聖女と最強戦士─   第115話:立ちはだかる二人

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    (この声に気配……覚えがある)エレンの意識が、私の奥底で警戒の炎を燃やし始める。(私もそう感じてた……なんだか、すごく(身に覚えがあるような……)(確か、夜の街で我々を襲撃してきた傭兵……名は確かジン……と言ったか)その名前を耳にした瞬間、あの記憶が、鮮血のように鮮やかに脳裏へと蘇ってきた。霊たちが彷徨う夜の街で、昼間の平穏な探索が一変した瞬間。突如として現れた謎の傭兵——。その圧倒的な実力は私には理解の範疇を超えていたけれど、エレン曰く、これまで戦った敵の中でも別格の強さを誇っていた……と。(そ、その人がなんでこんな場所に!? まさか、私たちを追ってきたの!?)(さあな。だが……敵意は微塵も感じられない。それに何か重要な情報を知っているようだ)(ここは一か八か、直接対峙してみるのも選択肢の一つだろう)「エレンが敵意は感じないから……出てみるのも一つの手だって……」私はシイナさんに、内心の不安を隠しながらそう告げる。「敵意を感じない……か。グレンもミストも意識を取り戻したことだし、直接話してみるか?」シイナさんの声に、慎重な判断力が込められている。(ああ、そうしてみてくれ)「そうして見てほしいって……」エレンの助言をそう伝えると、シイナさんが深く頷き、警戒を込めて扉の前へと歩を進めた。「何用だ」シイナさんの声が、扉越しに響く。「あれ、やっぱりいるんじゃないですかー」その飄々とした口調に、底知れない余裕が滲んでいる。「やあ、僕はジン。リディアっていう方からの重要な伝言があるんだけど、扉を開けてもらえないかな?」「残念だが、こちらにも複雑な事情があってな。このままでお願いしたい」シイナさんの慎重な対応に、扉の向こうから軽やかな笑い声が響く。「……あーそっか、いまこの国から追われてるんだっけ。それなら心配しなくていいよ」「大体の騎士は僕が片付けたから」「な、何だと!?」シイナさんの声が、驚愕に震える。「えっ!??」私も思わず声を上げてしまった。「ま、待て! この国の騎士一人一人は精鋭と言っても過言ではないほどに優秀だ。それをお前は単身で制圧したというのか?」「はは。まぁ確かにこの国の騎士はよく鍛錬されていたね。でも、僕も実力には自信があるんだ」その軽やかな口調で語られる内容の恐ろしさに、私たちは言葉を失った

  • Soul Link ─見習い聖女と最強戦士─   第110話:二人の目覚め

    **────エレナの視点────**次の日。「みなさん!!!!本当にご迷惑をおかけしました!!!」「本当に面目ねぇ……!!!今回迷惑かけた分は、必ず挽回するぜ!」二人が目を覚ましたんだ。あんなに傷だらけで、ずっと目を覚まさなかったグレンさんも元気になって、本当に良かったと思う……。でも……。聞かないといけない。二人に、何があったのか。「それより……二人に何があったんですか?なんで……グレンさんはあんなに傷だらけだったんですか……?」私がそう尋ねると、グレンさんが急に口を噤んでしまう。数秒の重い沈黙が部屋を支配すると、やがて言いにくそうにグレンさんが口を開き始めた。「お前たちが情報収集に行った数時間後、とんでもなく強い奴が現れたんだ」「とんでもなく強い奴?」シイナさんの声に、緊張が走る。「ああ。全身に見たこともない鎧を着て、刀を使っていた」(見たこともない鎧に刀……か)エレンの声が、意識の奥で静かに響く。「そいつは……全く俺の攻撃が通じなかった」「なに!?グレン、お前の攻撃がか!?」シイナさんは心底驚いたような様子を見せる。グレンさんの実力を知っている彼だからこその驚きだった。(…………)エレンが沈黙している。何かを考えているみたいだ。「ああ、正直全く底が見えなかったぜ。戦ってる感触としては……エレンに近かったかもな」「エレンに……?」私の声が震える。エレンと同じくらい強いなんて……。「それは……かなり厄介そうですね」シオンさんの美しい顔に、珍しく深刻な表情が浮かんでいる。「厄介なんてもんじゃねぇよ。あいつは俺の攻撃を全部受け止めやがった」グレンさんは、私たちのパーティ内でも屈指の攻撃力を持つ

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