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#62:返礼ではなく、未来を

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-08-18 12:23:09

『いい分析だ。さすが研究者といったところか』

 エレンの声が、内側で小さく笑った。

『そうだね。ほんと、みんなすごいよ』

 エレナの視線が、広場の端へ滑る。

 踏み固められた土の上で、乾いた打撃音が弾けていた。朝の光を浴びた訓練場には、もう何度も抉られた跡がある。そこへ砂塵を巻き上げて、グレンの身体が派手に転がった。

「もう一度ッ! 腰が浮いとる、腰がッ!」

「だぁぁぁもう、わかってるっつーの!」

 赤髪を振り乱したグレンが、背中から地面に叩きつけられる。呻き声を漏らす鼻先へ、ぴたりと木刀の切っ先が突きつけられた。

「まだまだじゃのう」

「……っし、もう一本ッ!」

 グレンが歯を食いしばって跳ね起きる。砂を払う間もない。二人の木刀が再び交わり、乾いた音が朝空へ高く抜けた。

 エレナは、その光景をしばらく見つめていた。

「あの……シイナさん」

 隣に立つシイナへ、控えめに声をかける。

「あそこでグレンさんに稽古をつけている方は、どなたですか? 昨日までは、お見かけしなかったように思うのですが」

「ああ、あちらは――」

 シイナが答えかけたところで、こつ、こつ、と杖の音が近づいてきた。

 ゆっくりと歩み寄ってきたのは、村長だった。昨夜まで最も症状が重かった人物とは思えないほど、足取りは落ち着いている。頬にはまだ病み上がりの薄さが残っていたが、背筋には確かな芯が戻っていた。

「儂の弟ですじゃ」

 村長が、訓練場の方へ目を細める。

「今はメモリスの方に住んでおりましてな。儂が倒れていたと知って、駆けつけてくれたのです」

 村長が手招きすると、老人はグレンとの間合いを切った。

「お、おい! まだ途中だろ!」

「少し待っとれ。腰の浮いた剣は逃げやせんわい」

「誰の剣が浮いてるって!?」

 老人はグレンの抗議を背に受けたまま、こちらへ歩いてくる。

 兄弟だと言われれば、たしかによく似ていた。白い髭の形も、目尻の皺も、言葉を置く間も。だが弟の方には、長く剣を握ってきた者だけが纏う、乾いた鋭さが残っている。

 老人はエレナの前で足を止めると、深々と頭を下げた。

「これはこれは、エレナ様。儂の兄を救ってくださり、まことにありがとうございました」

「どうか、お気になさらないでください。皆さんを無事にお救いできて、本当に良かったです」

 エレナが静かに答えると、村長は目尻の皺を深くした。

「お噂に違わぬ、お優しいお方じゃ」

 その声には、感謝があった。けれど同時に、返せるものを探す者の重さも、かすかに滲んでいる。

「この村は、かつてミルクで知られておりましてな。本来なら、せめていくつかお送りしたいところなのですが……あいにく、牛はもう一頭も残っておりません。今は、何もお渡しできぬ有様ですじゃ」

「お礼など、どうかお気になさらないでください。ただ……この先の暮らしが」

 エレナの視線が、村の奥へ流れた。

 空になった牛舎。荒れた土。まだ片づけられていない桶や縄。村を支えてきたものが失われた跡は、朝の光の中でも薄れない。

 村長は、ゆっくりと首を振った。

「そこは、弟のつてを頼れそうでしてな。何頭か、牛を分けてもらえる話が進んでおります」

 皺深い顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。

「すぐに元通りとはいきませぬ。ですが、儂らはやっていけますじゃ」

 その言葉を聞いて、エレナの肩からわずかに力が抜けた。

(良かった……)

 胸元に重ねていた指が、そっとほどける。

 そこで、エレナはふと顔を上げた。

 昨夜から今朝にかけて、この場所はずっと「魔力中毒に襲われた村」だった。病人が伏せ、井戸に悪意を落とされ、牛を失った村。

 けれど、それだけでは呼べない。

 砂まみれになっても剣を握り直すグレンがいる。笑いながら見守る村人たちがいる。朝靄の薄れていく井戸があり、空になった牛舎の前にも、まだ人の足跡が残っている。

 失われたものの跡と、それでも続いていくもの。

「村長さん」

「はい」

「こちらの村のお名前を、教えていただけますか?」

 村長は一度、広場を見渡した。

 訓練場。井戸。牛舎。朝の支度を始める村人たち。

 それから、エレナへ向き直る。

「……この村は、ミルサーレ村ですじゃ」

「ミルサーレ村……。素敵なお名前ですね」

 エレナが口にすると、村長は目尻の皺をさらに深くした。

「ほっほっほ。名に恥じぬよう、ミルクの味だけは誇ってきましたからの」

 言いながら、広場の端にある空の牛舎へ目を向ける。

「いずれまた牛が揃いましたら、その折には……エレナ様へ、聖堂にミルクをお送りしてもよろしいですかな」

 慎ましい申し出だった。

 だが、言葉の端に、簡単には引き下がらない芯がある。

「………」

 エレナはすぐには答えなかった。

 感謝を受け取ること自体は、拒む理由がない。だが、今の村にとって牛はそのまま生計だ。戻り始めたばかりの基盤を削る形での礼は、長く続くものではない。

 かといって、申し出をそのまま退けるのも違う。

 朝の空気が、一拍だけ伸びた。

「でしたら」

 エレナが顔を上げる。

「その際は、聖堂と契約を結びませんか?」

 村長の目が、大きく見開かれた。

「け、契約でございますか……?」

「ええ」

 エレナは穏やかに頷いた。

「聖堂には多くの方が集まります。日々配る食事や飲み物も、それなりの量になりますので……ミルクは、こちらで買い取らせていただきます」

 言葉はやわらかい。

 だが、その組み立ては明確だった。

「もちろん、私もいただきますし、きっとこの村のミルクを気に入る方も現れるはずです。そうなれば、継続してお取引ができます」

 そこで、エレナは一度だけ間を置いた。

「その方が、お互いにとって良い形になると思います」

 村長は、しばらく言葉を失っていた。

 視線がエレナの顔に留まり、それからゆっくりと落ちる。胸の前で重ねられた両手が、わずかに震えた。

「……おお……」

 かすれた声が漏れる。

「なんと……そこまで、お考えくださるとは……」

 感謝だけではない。差し出されたものを、すぐには受け取れずにいるような響きだった。

 エレナは静かに首を振る。

「無理のない形で、長く続けていける方が良いと思っただけです」

 相手の事情と、自分の立場。

 その両方を崩さず、ただの施しにも、ただの礼にも留めない。利益として成立させ、村が自分の足で立てる形へつなげる。

 聖女見習いという肩書きからは、少し意外な手際だった。

「……契約を、結んでいただけませんか?」

 エレナが改めて問いかける。

 村長は、深く息を吸った。

 それから、ゆっくりと背筋を伸ばす。

「――ぜひ、お願い致します」

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