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第6話:侍女長の匙加減

Author: fuu
last update Last Updated: 2025-09-09 23:00:03

大聖堂の白い床に、魔紋の輪が二つ重なった。皇子と王子の足がその内側に吸い込まれ、聖火の熱が頬に届く。鐘が一つ鳴り、司祭服の裾が静かに揺れた。

「条約婚、此処に成立」

司祭は短い言葉だけ置いた。群衆は息を呑むだけで、歓声は慎ましかった。政治の儀は派手でなくていい。王子は短く頷き、皇子の左手の甲に口づけた。青銀の魔紋が触れた瞬間、二人の指輪が淡く応じ、契約文の一節が浮かんで消えた。

可と不可、合図と手当。文は既に明文化されている。不可は刻まれたまま変更不可。可は季ごとに見直し。合図は言葉と触れの二重化。セーフワードは「林檎」。声が出ない時は右手に三度の軽打。アフターケアは温い茶、軟膏、言葉での確認。週に一度のスイッチ・デーは八日毎の暦に合わせる。公では皇子が前に立ち、私室では王子が支える。二人の結び方に、誰も割り込めない。

儀礼が終わるや、階段下で大聖堂の執務官と地下街の顔役、納骨堂の司書が小声でぶつかった。香炉の煙が細く絡む。

「次は誰の番だ」

「献灯の油は我らが」

「系譜の閲覧は納骨堂の許」

火花は小さく、長い。王子は会釈だけして通り過ぎ、皇子の脈を手首で確かめた。少し早い。人前の熱の名残。王子は囁いた。

「水分」

皇子は短く「うん」と応じた。二人の間に置かれた銀杯が、契約文の延長に見えた。

私室に戻れば空気がゆるむ。侍女長マリエラが一歩進み、完璧に準備された部屋を示した。燭台は目に刺さらない高さへ。水カラフェは手を伸ばせば届く位置へ。帳の内側には色の違う紐が三本。赤は停止、青は緩め、白は続行。扉の近くには小さな鈴。呼べば静かな従者が来る。テーブルには薄い冊子。契約の改訂欄が開かれている。膝掛けは重ねて三枚。軟膏は冷えた石皿の上。スイッチ・デーの暦は壁の小さな黒板に記された。

「手順は左から右へ。合図の確認は毎回欠かさず。セーフワードの試運転、今夜一度」

マリエラの声は水のように平らだった。王子が短く礼を言うと、彼女は微笑を一瞬だけこぼし、すぐに引っ込めた。

軽い騒動もあった。赤い紐を窓の寄り紐と取り違えて、新任の従者が一人で大騒ぎしたのだ。マリエラの眉が紙のように動き、寄り紐は即座に灰色に替えられた。従者は耳まで赤くして「失礼しました」と頭を下げ、王子が苦笑で「それは止める合図だ」と肩を軽く叩く。皇子がそれを見て、肩の緊張をひとつ降ろした。

「今夜の合図は、声と手の両方で」

「うん。林檎、三打」

夜。王子の声は低く、命じる言葉が柔らかく重なる。皇子は背筋を伸ばし、膝の内側に自分の体重を配った。命じられた姿勢は、翌日の会議で使う立ち方と同じ。喉の奥で息の支えを作ること、間合いの取り方、視線の配り方。身体の訓練は、そのまま政治の場の自立へ繋がっていく。王子は掌でその支えを導き、皇子の肩甲骨の内側をなだめる。緊張と緩みの対位法。皇子の「可」と王子の「不可」が噛み合う音が、ほとんど聞こえた。

「林檎」

皇子が試すように言った。王子の手が即座に止まり、距離が一瞬で生まれる。沈黙。次いで王子が目元を細めた。

「どうした」

「お茶が、ちょっと熱い」

二人は顔を見合わせ、同時に息をこぼす。間が可笑しくて、笑いが漏れた。マリエラの作った薄冊子の余白に「日常と場の切り分け」を追加。セーフワードは私室の“場”の中でのみ効く。日常では「待って」を使う。細かな匙加減が、二人を安全にする。侍女長の筆致は驚くほど早かった。

アフターケアは予定通りに進んだ。温い茶。肩と首の軟膏。言葉での確認。「どこが良かった」「どこが不安だった」。皇子は短く、しかし迷いなく語った。王子はそれを反芻し、肯定と修正の手を差し出した。抱擁は長く、甘さは邪魔にならない量だけ濃かった。

翌朝の会議は不思議なほど滑らかだった。マリエラの段取りが、整っていたからだ。椅子の高さが均され、誰も優越感を持てない。大聖堂の執務官の席は窓から離され、影の長さで時間を測る癖が封じられた。地下街の顔役の前には印章台が置かれ、契約の押印をいつでもできるように。納骨堂の司書の資料はページの端に布を貼り、音を出さずにめくれる。水差しは三方に均等に。香の種類は落ち着きの出るものに変更。些細に見える匙加減が、言葉のぶつかり合いを一段軽くした。

皇子は前に出た。声は昨日より低く安定し、視線は誰か一人に固定せず、円を描く。王子は斜め後ろで控え、テーブルの下で指先を二度叩いた。「句を短く」。皇子はそれに応じて、言葉を刈り込む。合意を先に、愛は形の後に。会議も同じだ。利益配分の線は先に引いて、理念は後から染み込ませる。

「献灯の順序は大聖堂の慣例に従う」

皇子の第一声。執務官が眉を上げ、勝ち誇りかける。その瞬間、王子の指が一度。皇子はすぐに続けた。

「ただし油の供給は地下街の契約に基づく。品質検査は納骨堂の記録係が行う」

三者の利が絡み、誰も零れない。執務官の肩が下り、顔役の視線が柔らかくなり、司書は薄く頷いた。抱き合わせの処方箋。王子の唇端がわずかに上がる。彼の「雄になる」訓練は、皇子の政治の筋肉にも届いていた。

合間、短いコメディが差した。大聖堂の階段を出たところで、青い紐を腰に下げた若い従者が駆け寄り、囁く。

「勝色の軍旗を、天幕に……」

王子は一瞬だけ固まり、皇子が先に笑って首を横に振った。

「それは緩めの合図だ」

従者は耳まで真っ赤になって退いた。マリエラは後ろで小さく、黒板の色名を一本書き換えていた。動作一つ、言葉一つ。匙加減の塊だ。

会議は終わり、地下街から納骨堂への小道を歩く。灯りは低い。王子が皇子の指先を握った。誰も見ていない角で、甘やかしの一言。

「よく出来た」

皇子は短く笑い、肩で息を整えた。「君の指だよ」。王子は首を振った。「君の声だ」。甘さは短く、足取りは前へ。次の交渉が待つ。

私室に戻ると、壁の黒板に金の粉が薄く振ってあった。スイッチ・デーの印が小さく星に替わっている。今日は週の八日目。公では皇子が前、私室では王子が支える日。マリエラの匙加減は、二人の歩幅とよく合っていた。

夜、短い修正会議。契約冊子に一行が増える。「日常でのセーフワードの代替語」。皇子は指でなぞり、王子はその指先に口づけた。納骨堂の扉の向こうで、古い系譜の紙が眠っている。大聖堂の鐘は遠い。地下街の灯りは近い。三つが拮抗する今、二人の契約だけは揺れない。

窓の外、摂政の馬車が敷石をゆっくり過ぎた。薄い視線が上がって、まっすぐに大広間の方を射る。王子の指が、卓の縁を一度叩いた。皇子が頷く。準備は、間に合う。

次回、第7話:摂政の視線

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