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第3章:溶けゆく氷

Auteur: 佐薙真琴
last update Date de publication: 2025-12-07 17:49:09

 それから二週間、蓮からの連絡は途絶えなかった。毎日ではないが、二、三日に一度、彼から短いメッセージが届いた。

『今日は良い天気ですね。花日和です』 『面白い本を見つけました。今度貸しますね』 『週末、時間がありますか?』

 弥生は最初、どう返信していいかわからなかった。でも、次第に自然に返せるようになっていった。

 ある土曜日、蓮は弥生を都内の植物園に誘った。

「ここの温室は、世界中の珍しい植物が見られるんです」

 蓮は楽しそうに説明した。弥生は彼のその様子が意外で、少し微笑ましかった。ビジネスの世界で生きる冷静な経営者が、植物を前にすると少年のように目を輝かせる。

 温室の中は、外の春とは違う、熱帯の空気が満ちていた。色とりどりの蘭、巨大な葉を持つモンステラ、天井近くまで伸びるヤシの木。

「これ、見てください」

 蓮が指差したのは、深紅の花を咲かせた植物だった。

「アンスリウム。花言葉は『煩悩』『恋にもだえる心』」

 弥生は驚いて蓮を見た。

「花言葉、知ってるんですか?」

「少しだけ。母から教わりました」

 蓮は花に近づいた。

「でも、橘さんほど詳しくはありません。いつか、もっと教えてほしい」

 弥生は頬が熱くなるのを感じた。

 温室を出ると、外の庭園を散策した。桜は既に散り、新緑の季節が始まっていた。

「あ、あそこ」

 弥生が指差したのは、青い小さな花が群生している場所だった。

「ネモフィラです。花言葉は『どこでも成功』『可憐』」

 弥生は花の前に膝をついた。

「この花、好きなんです。小さくて、でも一生懸命咲いてる」

 蓮は弥生の隣にしゃがんだ。

「あなたに似ていますね」

「え……?」

「小さく見えるけど、一生懸命で、そして美しい」

 弥生は蓮を見た。彼の目は真剣だった。

「蓮さん……」

「考えてくれましたか? 僕のプロジェクトのこと」

 弥生は深呼吸をした。この二週間、ずっと考えていた。怖い。失敗するかもしれない。また誰かを失望させるかもしれない。でも――

「やってみたいです」

 その言葉が口から出た瞬間、弥生は自分でも驚いた。

「でも、自信はありません。失敗するかもしれません」

「失敗してもいいんです」

 蓮は立ち上がり、弥生に手を差し伸べた。

「大切なのは、挑戦すること。そして、僕が一緒にいます」

 弥生はその手を取った。温かかった。

 その日から、弥生の生活は変わり始めた。蓮の会社の一角に、小さなオフィススペースが用意された。「花のある暮らしプロジェクト」という名前だった。

 最初は、弥生一人だった。白い壁、空のデスク、そして窓から差し込む光。

「まず、どんな花を届けたいか、考えてみてください」

 蓮は弥生に、何も指示を出さなかった。

「自由に。あなたの感性を信じてください」

 弥生は、五年ぶりにフラワーデザインに向き合った。最初は手が震えた。色の組み合わせを考えても、自信が持てない。これでいいのだろうか。これは美しいのだろうか。

 でも、蓮は週に一度、必ず様子を見に来た。

「この組み合わせ、いいですね。黄色と白が、希望を感じさせる」

「このグリーンの使い方、勉強になります」

 彼の言葉が、少しずつ弥生の自信を育てていった。

 一ヶ月後、最初の配達先が決まった。都内の小児病院。

「子供たちが喜ぶ花を」

 弥生は悩んだ。子供たち。病気と闘っている子供たち。何が彼らを笑顔にするだろう。

 弥生は、明るい色の花を選んだ。黄色のガーベラ、オレンジのチューリップ、ピンクのカーネーション。そして、小さなヒマワリ。花言葉は「あなたを見つめる」「憧れ」。

 配達の日、弥生は病院を訪れた。蓮も一緒だった。

 小児病棟のプレイルームに花を飾ると、子供たちが集まってきた。

「わあ、きれい!」

「ヒマワリだ!」

 子供たちの笑顔を見て、弥生の胸が熱くなった。五年前に感じていた喜び。花を通じて、誰かを幸せにする喜び。

「お姉ちゃん、この花作ったの?」

 小さな女の子が聞いた。

「うん。みんなが元気になるように、一生懸命選んだの」

「ありがとう。すごく嬉しい」

 女の子は花に顔を近づけて、深く息を吸った。

「いい匂い。お花って、元気をくれるんだね」

 弥生は涙をこらえるのに必死だった。

 病院を出ると、蓮が言った。

「見ましたか? あなたの才能を」

「才能なんて……」

「あの子供たちの笑顔が、答えです」

 蓮は弥生の肩を抱いた。

「橘さん、あなたは素晴らしい仕事をしています」

 その夜、蓮は弥生を食事に誘った。高級レストランではなく、小さなイタリアンレストラン。

「ここのパスタが絶品なんです」

 蓮は慣れた様子で席に着いた。

「よく来るんですか?」

「時々。一人で考え事をしたい時に」

 ワインが運ばれてきた。弥生はあまりお酒を飲まないが、今日は少しだけ飲みたい気分だった。

「乾杯」

 蓮がグラスを掲げた。

「あなたの新しい門出に」

 弥生も自分のグラスを掲げた。グラスがぶつかる、澄んだ音。

「ねえ、橘さん」

「はい?」

「少しずつ、自分を信じられるようになってきましたか?」

 弥生は考えた。確かに、以前よりは――

「少しだけ……。でも、まだ怖いです」

「怖いのは当然です。新しいことに挑戦しているんですから」

 蓮はワインを一口飲んだ。

「でも、怖がりながらも前に進んでいる。それが大切なんです」

 食事の間、二人は色々な話をした。蓮の仕事のこと。彼が会社を継いだ時の不安。母親の思い出。弥生の子供時代。祖母との記憶。

「祖母は、花を生けながらよく歌っていました」

 弥生は微笑んだ。

「古い童謡とか、唱歌とか。私も一緒に歌ったりして」

「幸せな記憶ですね」

「はい。祖母が亡くなってから、ずっとそういう記憶を封印していました。思い出すと、悲しくなるから」

「でも、今は?」

「今は……温かい気持ちになれます」

 弥生は蓮を見た。

「蓮さんのおかげです」

 蓮は何も言わず、ただ微笑んだ。

 レストランを出ると、夜の風が心地よかった。

「送ります」

「いえ、大丈夫です。タクシーで……」

「一緒に歩きましょう。少しだけ」

 二人は並んで、夜の街を歩いた。ビルの明かり、車の流れ、人々の笑い声。都会の喧騒の中で、二人だけの静かな時間が流れていた。

「橘さん」

 蓮が立ち止まった。

「僕は、あなたのことが好きです」

 弥生の心臓が止まりそうになった。

「好き……?」

「ええ。最初に会った時から、ずっと」

 蓮の目を見ると、そこには迷いがなかった。

「でも、急ぎません。あなたのペースで。ただ、僕の気持ちは知っておいてほしかった」

 弥生は言葉が出なかった。この人は、自分のことが好きだと言っている。なぜ? 自分のような人間を?

「返事はいりません。今は、ただ一緒に仕事を楽しみましょう」

 蓮は歩き始めた。弥生も慌てて後を追った。

 その夜、家に帰った弥生は、鏡の前に立った。そこに映る自分は、以前と同じ顔。でも、何かが違う気がした。

 頬に、少しだけ血色が戻っている。目に、小さな光が宿っている。

 蓮の言葉が、頭の中で繰り返される。

『好きです』

 その言葉の重さが、じわじわと胸に染み込んでくる。

 弥生は、自分の頬に手を当てた。温かい。生きている。そして――

 もしかしたら、愛されているのかもしれない。

 その可能性が、怖くて、でも同時に、とても嬉しかった。

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