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『圧倒的楽観的絶望的女神』

last update Last Updated: 2025-11-21 19:00:00

 秋葉原という都会の排ガスに塗れ、汚く埃の被った室外機の上に腰をかける。

 大手AVレーベルのロゴが印刷されたノベルティの灰皿を横に置き、僕はカバンからタバコを取り出した。

 赤いビニールで出来ているパッケージのそれは、普段コンビニ等では見かけないだろうから、普通の人には馴染みがないだろう。

 そう、僕が喫するのは、手巻きタバコというものだった。

 ローラーと呼ばれるこれまた何とも形容しがたい、小さな製麺機のような機械に、吸い口であるフィルターを置き、その横にタバコ葉である“シャグ"を詰める。

 そしてローラー部分を回して形を整えた後、巻紙を挟み、巻き込んで、最後は巻紙の糊のついた部分を舐めて巻き取る。

 こんな面倒くさい手順を踏まなきゃならないタバコが、手巻きタバコという物なのだ。

 時に、僕は紅茶の甘い匂いが好きだった。

 だから、わざわざ紅茶フレーバーのタバコを選んでるってのもあったけれど、それよりも僕は、この面倒くさい手順が嫌いじゃなかった。

 やっぱり、何か理由が欲しいのだ。

 僕はタバコを吸う為に、毎回この工程を踏む。

 この煩わしさは僕にとって、最大限にタバコを楽しむ為の理由である。

 そんな風に、目的までの道筋がある事への安心感が、僕の心を穏やかにさせ、落ち着かせた。

 巻いたタバコを咥えて、サクラの多い出会い系サイトの営業から貰ったライターで火をつける。

 一口目をぎゅーっと吸い、紫煙をしっかりと肺に入れ、大きく吐き出して、その美味さと気持ちよさに身震いをした。

 ──すると。

「肯太郎さーん! あら、あららら! これは何ともビルの隙間が狭いですね! あらら!」

 ガチガチの分厚いブレザーとロングスカートを着たマイさんが、フェンスと建物の隙間にお尻を引っかけながら現れた。

 僕は右の道から来るよう指示したはずなのに、何故か彼女は左から来た。

 だから言ったのに、そっちの方が狭いんだよ。

 話を聞かない、あわてんぼうな金髪ロングのコスプレ乙女をふわりと眺めて、僕はタバコの先で彼女の汚れたスカートの腰部分を差す。

「マイさん。そこ。フェンスに擦れたから汚れちゃったよ。はらわないと」

「え? あ、ありがとうございます! あっ、あ、どうしましょう! あ! えーと!」

 彼女は両手に一缶ずつ飲み物を持っていた。

 それを置きもせず、汚れた腰を確認しようとしながら、尻尾で遊ぶ犬のように、慌てふためいている。

 僕は吸いかけのタバコを灰皿に押し付けて、片手を伸ばし、音が響くくらいの強さでマイさんの腰を、パンパンッ!と払ってあげた。

「ああっ! あ、ありがとうございますぅっ! 」

 なんだか恥ずかしそうに頬を赤らめ、俯く彼女。

 室外機の熱のせいで制服が暑いんだろう。

 彼女の真っ直ぐ切り揃えた金髪の前髪が、汗で額に張り付いていた。

 僕はいくら名前の相違で安心したと言えど、彼女の顔を直視する事は出来なかった。

 たとえ僕に後ろめたさも何もなくたって、ごく単純にこんな美人の顔を、まじまじと不躾に眺められるまでの度胸は持ち合わせていない。

 やたらと気まずくなり、右手の側にある灰皿に目を逸らしたところで、彼女は言った。

「あの! 肯太郎さん! あちらの自販機で飲み物を買って参りました! よろしければどうぞ!」

 また振り向くと、腰を曲げて、両手に持っていた缶を2本同時に突き出している。

 ブラックのコーヒーと、微糖の紅茶だった。

 なるほど。 

 彼女が左から来たのは、僕の話を聞いてなかった訳ではなく、自販機でこれを買っていた為かと、その理由に納得した。

「え? ありがとう。選んでいいの?」

「はい! ワタシはどちらでも構いませんので!」

 まあこの場合、おそらく僕がコーヒーの想定だろうなと思ったが、僕はコーヒーが苦手だった。

 なので遠慮なく、紅茶の方を受け取る。

「あっ……」

 残されたコーヒーを見て、小さく彼女が声を漏らすと同時に、僕はもう、流れるまま紅茶のプルタブを引いていた。

「ん? ごめん、僕。ブラックコーヒー苦手でさ、紅茶の方とっちゃったけどいい?」

 こくりこくりと首を縦に振って、彼女は缶コーヒーの蓋を開ける。

 僕は紅茶に口をつけながら、彼女が突っ立ったままコーヒーを口に含むところを、顎を上げながら眺めていた。

 眉をひそめ、ぎゅうっと目を閉じた彼女は、艶のある唇をすぼめながら、突き出した。

 そのまま缶のフチに吸い付くように、柔らかそうな唇を、むにゅりと押し付けると、ゆっくりと缶を傾けていく。

 そして、彼女の口に少量のコーヒーが入ったところで、彼女は驚いて顔を歪ませた。

 眉間に皺を寄せたのがわかり、勢いよく口を離す。

「うぅ! げぇ! にっ苦いです! こんなに苦いんですか? 初めて飲みました! うぅ……」

 は? いや、なんで?

 どっちでもいいって言ったじゃん。

 自分で言った癖に、後悔を全力で顔に出す彼女へ、僕は疑問符を浮かべた。

「おいおい、なんだよ。飲めないんじゃん。こっち、口つけちゃったけど、替える?」

「いえ、大丈夫です……。あ! もしかしてそれは替えろって事ですか? それなら替えます!」

「いや、僕は替えたくないよ。コーヒー苦手だし、でも君は替えたいんじゃないの?」

「それならば大丈夫です! なんとか飲み干しますので! ご心配をありがとうございます!」

 これ、さっきの制服の時と同じだ。

 あなたが言うならやります。みたいな……。

 なんだろう、このもやもやした違和感は。

 まあ、いいならいいけど。と思いながら、僕が隣の室外機の埃を払ってやると、彼女はぺこぺこ頭を下げながら、ちょこんと浅く腰掛ける。

 そんな下らないやり取りをしながら、僕は手元でまたタバコを巻いて、そろそろ本題に入る事にした。

「で、なんで僕を探しに来たの? 確認だけど、僕達は顔見知りじゃないよね?」

 咥えたタバコに火を灯し、煙がかからないように気をつけながら、彼女の方へ首を傾ける。

「はい! 初めましてです! ワタシが肯太郎さんを探しに来たのは、肯太郎さんの事を知り、恋をする為です!」

 落ち着いて聞きなおした割には、彼女の言う事はさっき聞いた事と特に変わってなかった。

 だめだ、これはもう自分のペースで話を運ぼう。彼女のペースでいると掻き乱されすぎる。

「……あっそう。やっぱり君、薪無先生の差し金でしょ? 全く、好みの女の子を処方って、そういうコンセプトのデリヘルじゃないんだから……」

 ギクッ! という音が聞こえるくらい、背筋が伸びて、頭のアホ毛が揺れる。図星すぎんだろ。

「んんん? それは一体何の事でしょうか? ……ああ、肯太郎さんは、ワタシの事が知りたいのですね? ワタシは夢乃マイ、二十一歳。呼び捨てでマイとお呼びください。この制服は決して誰かに指示されたわけではなく、ワタシが個人的に選んだ私服です。職業はニートです!」

 おーい、制服のくだり明らかにおかしいだろ。

 あと、ニートは職業じゃねぇよ。胸張るな。

 自信満々に大きな胸に手を当てて、ドヤ顔を決めるマイに対し、心の中でツッコミを入れた。

 しかし、その言葉を反復して僕は気が付く。

「ちょ、ちょっとまって! 二十一歳って、僕と同い年じゃないか」

「はい。そうです! 肯太郎さんと同い年です! 同じ学校だったら“同級生“ですね! 奇遇です!」

 避けるのも忘れ、彼女に向けて緩く吐き出してしまった煙。

 そのモヤの中で、僕はまたずるずると後頭部を圧迫するように、背後に迫る頭痛の陰を感じた。

 同い年……同級生……。

 そうだ、“あの娘“もきっと、今頃……。

 ぬかるんだ床に、足を取られる感覚に陥り、僕が耐えきれず頭を抱えそうになった時。

 彼女はまたコーヒーに口をつけた。

「うぐっ……。やっぱり苦い……苦いですが。少しばかりマシになってきた気がします!」

 気の抜けた声に、ふっと気が紛れる。

 ああ、そうだ。彼女は夢乃マイだ。

 “あの娘“とは別人だ、しっかりしろ。

 僕は目元を摘んで力を込めながら、しゃんと正気を保とうとした。

「……ねえ? さっきマイは、暗いトンネルって言ってたよね? あれはどういう意味?」

「そのままの意味です! ワタシも肯太郎さんも暗いトンネルを歩いています。それはきっと一人じゃダメでも、一緒になれば出れる気がするんです。だからワタシと恋をしましょう!」

 明るい表情で、眉尻を上げながらガッツポーズするマイ。勢いよく鼻息さえ吹き出している。

「それさ。絶対言わされてるでしょ。悪いけど、僕は薪無先生には騙されないからな。ちょっと男前だからって、なんでも許されると思うなよ! ちくしょう、あのやろー!」

「ええー?! 違いますよ! 暗いトンネルはワタシ達のいる今の場所です! このままだと本当に出れなくなってしまいます! だからワタシに肯太郎さんの事を教えて下さい! そしてワタシと恋をしましょう! 恋をして下さい! 何でもします! お願いします!!」

 また、ぺこぺこと頭を下げ、懇願するマイ。

 なんだ、この茶番は……実に下らない。

「あのさ、マイはなんでそんな必死なの? 普通に怖いんだけど」

「それは……」

 マイは言い淀んで、俯いて影を落とす。

 出会って初めての暗い顔に、思わず胸がギュッとした。

「それは、ワタシが肯太郎さんと同じだからです。おそらくワタシ達は、日々の暮らしの中で何かを酷く欠落してしまった……。ワタシはまだ肯太郎さんの事は何も知りません。ですがきっと同じ……たりないもの同士なんです」

 長い金髪で顔を半分覆いながら、真剣そうに呟く彼女の姿は、いとも簡単に僕の心を痛める。

 僕はマイにまた"あの娘“を重ねて、酷い頭痛が来る前に、こめかみをがんがん手の根本で叩きながら、焦ってタバコを思い切り吸った。

「はぁ……もうわからない。けど、わかったよ。僕はマイを別に無下にする気はない。僕達はいい大人だ。お互い害がなければ関わってもいい。ただ、いきなり言い寄られる恋とか愛とかは、僕は正直わからないんだ。それに僕にはもう、想い人がいる。悪かったね」

「え、あ……。もしかしてワタシ……今ちゃんとフラれちゃいましたか? それは肯太郎さんと恋をしたいなんて思うな、という事でしょうか?」

「そうは言ってないだろ。それは君の自由だよ。だけど、そんな漠然とした理由で、僕に固執しなくてもなんかもっと良い方法があるんじゃないのか? 趣味とかないの? やってて幸せな事とか」

「幸せな事……それは、うーん……」

 マイは小さな口元に、立てた指を当てて、空を向いて考えた。

 顎を上げた角度のマイの顔は、見惚れるほど美しく。儚く。楽観的にも見れた。

 ──しかし。

 次に発せられた一言は、今の僕にとって。

 あまりにも残酷な一言だったのだ。

「生きている事ですかね!」

 咄嗟に僕は目を見開いて、彼女を睨みつける。

 は? お前、今……なんて言いやがった?

 不用意に触れてしまった、奥底に眠る確信。

 それはトラウマという名の、圧倒的な醜悪。

 鳥肌はムカデのように這いずり登り、漂う紅茶の臭いが、血生臭さとなって鼻腔へ抜けていく。

 足元から来た悪寒が、耳の裏を冷やして。

 漂っていている空気が、感覚を尖らせた。

 その時の僕は、彼女が悪戯にふざけているのだと思った。

 それ故に、激しく憤怒したのだ。

 ──でも。

 誤解が解けるのは、存外早かった。

 睨みつけた先にある彼女の顔を見て、心に光を照らすように、それは違うと瞬時に理解できた。

 何故ならそれは……。

 僕の知っている、"屈託のない満面の笑み“だったからだ。

「生きていれば、明日もあなたに会えますから」

 彼女が放った──その瞬間。

 何かが弾け、破片を思い出した気がした。

 ……そうか、そうだよな。

 望んでいたものは。

 ただそれなのかもしれない。

 君は、生きてれば……。

 今、生きていれば。

 それだけでいい。

 そして、それに縋《すが》る純粋なる想いだけで気が付けば、僕は──

 マイを“女神“だと錯覚してしまっていたんだ。

「え? ええ? 大丈夫ですか? 肯太郎さん?!」

 

 驚いたマイの声が、微かに僕へと届く。

 それを、乱れた呼吸が掻き消そうとする。

 震える手からタバコを落とし。

 落ちたタバコに、涙が覆い被さった。

 自らが放つ、止める事が出来ない激情。

 全て、混濁してる。混乱してる。混同してる。

 でも、隠さなかった。隠そうとしなかった。

 隠したら、今までの全てが嘘になる気がしたからだ。

 ──だから。

 雷のような醜い嗚咽と、夕立に似た大粒の泣。

 そんな絶望的な感情の中で……僕は……。

「……君の事がずっと好きだ、離れないでくれ」

 それだけを、ハッキリと──

 “女神“に伝えたんだ。

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