Se connecter◇ 「解離性健忘ですね」 「解離性健忘……?」 あれから。 苓さんの診察を終えた担当医と別室に移動して、今の苓さんの状況を話してくれた。 「小鳥遊さんは今日が何月何日か、そしてご自身の年齢、名前も正確に答える事が出来ました。もちろん仕事に関する記憶もしっかりとあります。その中で……特定の人物に対して、全ての記憶を忘れてしまう、と言う症例は……解離性健忘だと判断します」 そこまで話した先生は、私を見て言葉を続ける。 「恐らく、強く頭を打った瞬間に小鳥遊さんの頭の中に藤堂さんの存在が強く残っていたのでしょう。その状態で、強かに頭部を強打してしまい、記憶が……」 「一時的な……記憶喪失のような……そのようなものなのですか?」 何も言葉を発せない私に代わり、圭吾さんが先生に質問してくれる。 先生は気まずそうに私と圭吾さん、交互に視線を向けると答えた。 「……明日になったら記憶が戻る事もあれば、……1年、2年……10年経っても記憶が戻らない事もあります。……過去の事例では、一生記憶が戻らない、と言う報告も」 「──いっしょう……?」 先生の言葉に、私は体から力が抜けてしまう。 がたん、と椅子が大きな音を立ててしまい、圭吾さんにも先生にも心配をかけてしまった。 「……茉莉花さん、もし良ければ……後の説明は俺が聞いておこうか?苓と会ってくる……?」 「──あ、」 苓さんに、会いたい。 だけど、またあんな風に冷たい目を向けられたら。 感情の籠っていない、冷たい声だった。 私を不審がるような苓さんの視線に、私1人だけで耐えられるのか──。 そんな事を私が考えていると、圭吾さんは私に言葉を続ける。 「……苓は、仕事の事については記憶を失っていないだろう?カフェ事業の話を茉莉花さんとしていれば、もしかしたら脳が刺激されて、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないよ」 「……た、たしかに……。そうです、ね」 不思議な事に、苓さんは私の事を全て忘れてしまったけれど。 藤堂グループと始めた和風庭園カフェの事業については記憶が残っていた。 仕事の話をしていたら、苓さんの記憶も戻るかもしれない。 私はそんな淡い期待を抱き、圭吾さんの言葉に有難く頷いた。 「あ、ありがとうございます。苓さんの病室に戻って、仕事のお話をしてみます……!」 「
「──え?」 苓さんは私を冷たい目で見た後、圭吾さんに顔を向けて続ける。 「兄さんの婚約者の女性?俺と面識がある人か?」 本当に私の事が分からない、初対面のような態度の苓さん。 私は彼の言っている言葉が分からなくて──。 そして、それは圭吾さんも同じだったようで。 「お、おい……何をふざけてるんだ、苓。この女性は藤堂 茉莉花さん、お前の恋人で、婚約者だろう──!?」 圭吾さんは信じられない、と言うように叫ぶ。 だけど苓さんは全く身に覚えがないようで、私の名前を聞いてもピンと来ていない。 不審がるように私を見た後、呟いた。 「──は?俺の恋人……?婚約者……?冗談も程々にしてくれよ。女性が苦手なのは知っているだろう?」 信じられないと言うように笑う苓さん。 苓さんが話している間も、私に視線を向けられる事はなく、兄の圭吾さんにばかり顔を向けている。 女性が苦手だと言う事は、以前苓さんに聞いた事がある。 だけど、私と苓さんが出会った時から苓さんは優しかった。 だから、こんな風に冷たい態度を取る彼が見知らぬ人に見えてしまって──。 圭吾さんは困ったように眉を下げ、苓さんに伝える。 「本当に、茉莉花さんを覚えていないのか……?」 「覚えてるも何も、知らない女性だと言ってるだろう?」 変な事を言わないでくれ、とばかりに笑う苓さん。 私は、目の前が真っ暗になってしまう。 どうしたら。 苓さんは、私を忘れてしまったの──。 どうして──。 そんな言葉ばかりがぐるぐると頭の中を回る。 だけど、短時間で解決方法なんか見つかる事はなく。 「ちょっと待ってろ、苓……。医者を呼ぶから……」 「あ、ああ……分かった」 苓さんは不思議そうな顔で、圭吾さんを見る。 圭吾さんは担当医を呼ぶためだろう。 一旦病室を出ようとしている。 圭吾さんは私の目の前まで来ると、私を気遣い肩に手を置いてぽん、と叩いてくれた。 「茉莉花さん、良ければ一緒に担当医を呼びに行こう」 「……分かり、ました……」 圭吾さんの動きを追っていた苓さんが、顔をこちらに向ける。 圭吾さんと親しげに接している私にも苓さんの視線が向けられた。 だけど、すぐに苓さんは私から視線を逸らしてしまう。 まるで、見知らぬ女性を長く視界に留めておくのが嫌だ、と言うように─
病室に移動し、私たちはベッドに横たわる苓さんの近くに座った。 苓さんは目を閉じ、眠ったままで。 頭部には痛々しい包帯がぐるぐると巻かれていて、腕にはいくつもの管が繋がれていた。 倒れてくる鉄骨から頭部を守るためだろうか。 苓さんの腕にはいくつもの痣が出来ていて。 「──苓さん」 「茉莉花さん、良かったら苓の手を握ってあげてください。茉莉花さんが傍にいれば、苓もすぐ目を覚ましてくれますよ」 「圭吾さん……ありがとうございます」 にこり、と笑みを浮かべてそう言ってくれる圭吾さん。 私はそっと苓さんの手に腕を伸ばし、苓さんの手を両手で包み込むように握った。 (暖かい──……) 苓さんの手は、暖かくて生きているのだ、とほっとする。 あの時。 鉄骨の崩壊に巻き込まれた苓さんを見た時。 鉄骨の間から広がる血溜まりを見た時。 最悪な結末を一瞬想像してしまった。 だけど、今こうして苓さんは生きている。 生きててくれているのだ。 (本当に、良かった──……) 目の前が涙でじわじわと滲んで来る。 そんな私に、谷島さんが近付き、話しかけた。 「藤堂さん、少し事故の時の事を聞いてもいいですか?」 「谷島さん」 「藤堂さんと小鳥遊が視察中、最初は鉄骨がちゃんと固定されていた、と聞いています。……それが、いつの間にか固定が外れていた、と」 「──ええ、そうです」 私は苓さんの手を握りつつ、谷島さんの問いにしっかりと頷いた。 そんな私の返答を聞き、谷島さんも。お父様も。そして圭吾さんの表情も険しくなる。 「──なら、もしかしたら……事件性があるかもしれませんね。周囲の防犯カメラを確認します。俺は仕事に戻ります。小鳥遊が目を覚ましたら、連絡をください」 「分かりました……!よろしくお願いします……!」 仕事に戻る谷島さんを見送り、お父様も私に無理はしないように、と残してから会社に戻った。 病室には私と圭吾さんだけが残ったけど、それからその日の内に苓さんが目を覚ます事はなくて。 私も、圭吾さんもその日は後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。 ◇ それから、翌日、翌々日、と苓さんの入院している病院にお見舞いに行ったけど、苓さんが目を覚ます事は無かった。 主治医の先生も、手術は成功しているから目を覚ますはずだ、と首を捻っていて。
◇ 「茉莉花……!」 「藤堂さん、苓は……!」 バタバタ、と廊下を駆けて来るお父様と、苓さんのお兄様、圭吾さん。 ここは、病院。 手術室の前。 私は、苓さんと同じ病院に救急車で運ばれ治療を受けた。 その間に私と苓さんの事故の報告が入ったのだろう。 お父様と苓さんのお兄様が真っ青な顔で私に駆け寄ってきたのだ。 「お父様に、圭吾さん──」 「茉莉花、大丈夫なのか!?現場視察中に鉄骨の下敷きになった、と……!」 「私は大丈夫、です。苓さんが庇ってくれて──……っ」 「まさか、それで苓くんが鉄骨の下敷きに……?」 お父様は真っ青な顔のまま、手術室を見やる。 私は力なく頷く事しか出来なかった。 「はい、申し訳ございません……私のせいで、苓さんが大怪我を……」 私が項垂れつつそう告げると、お兄様の圭吾さんが私に一歩近付いた。 「茉莉花さん、あなたのせいじゃないよ。これは不幸な事故だ。それに、苓は頑丈なやつだからきっと大丈夫だ」 「圭吾さん……すみません、本当にすみません……」 私が顔を覆っていると、パタパタと廊下を急ぎ足でやって来る音が聞こえる。 私のすぐ近くに居たお父様が、その足音の主の名前を口にした。 「谷島さん、来て下さったんですか」 「──ええ、小鳥遊は無事ですか?」 谷島さんは額に汗を滲ませ、ハンカチで軽く汗を拭う。 私は谷島さんと圭吾さんに伝えるように口を開いた。 「頭部の出血が酷く……今は手術中、です……」 「頭部外傷か……」 谷島さんがぽつり、と呟き私たちは重い空気の中、押し黙る。 時間が経つのが凄く長く感じて。 私の隣に座ったお父様が、私を励ますようにずっと手を握ってくれていた──。 ◇ 何時間、経っただろうか。 唐突に手術室の扉が開き、執刀医が姿を見せた。 廊下で待っていた私たちに気がついた執刀医は「ご家族は?」と問うと、圭吾さんがさっと椅子から立ち上がった。 「兄です」 「では、ご説明するのでどうぞこちらへ──」 場所を移動するのだろう。 執刀医の言葉に、圭吾さんが首を横に振った。 「いえ、この場で大丈夫です。こちらにいらっしゃるのは本人の婚約者の女性と、女性のお父上。もう人かたは警視庁刑事課の方ですから」 圭吾さんは、私に気を使ってくれたのだろう。 確かに、苓さんの手術は
強い力で突き飛ばされた私の体は、そのまま重力に従い地面に倒れ込んでしまう。 砂利や細かい砂によって足に怪我を負い、微かに痛みを感じるが、鉄骨が崩れる物凄い音に痛みすらどこかに行ってしまう。 ガラガラ、と倒れた私の足元に鉄骨が崩れてきて、私はぺたりと座り込んだまま唖然とした。 さっきまで、私と一緒に歩いていた苓さんの姿は今、どこにも無い──。 「れい、さん……?」 ──嘘、でしょう。 鉄骨が崩れた大きな音に、現場監督や作業員の人達が大慌てでこちらに駆け寄って来るのが見える。 だけど、私は自分の足元──。 地面に散らばった鉄骨の合間から、真っ赤な血が滲み出ている事に気付き、私は慌てて立ち上がった。 苓さんは、倒れてくる私を突き飛ばし、そしてそのまま鉄骨の下敷きになってしまった──。 「──いやっ、苓さん!!」 「藤堂本部長!危ないから離れてください!」 「で、でも……!苓さ、小鳥遊部長が鉄骨の下敷きに……!」 「何ですって!?」 ざわざわ、と私たちの周囲に沢山の人が集まって来る。 私と監督が言葉を交わしている間も、鉄骨の隙間からはじわじわと滲み出る血の範囲は広がって行く。 「──おい!救急車を呼べ!あと、警察に通報を……!」 「わ、分かりました……!」 「それと、鉄骨を引き上げる重機を持ってこい!早く!」 現場が、一気に大混乱に陥る。 多くの人が慌ただしく動き回る中、私はパニックに陥るだけで現場の邪魔をしているだけ。 それは分かっているのに、どうしても苓さんの傍から離れる事が出来なくて。 「本部長、鉄骨を引き上げる作業に入ります。この場にいると危ないですので、こちらに……」 監督が気遣うように私に声をかけてくれる。 ここからどかないといけない。邪魔になるから移動しなくちゃならない──。それは分かっているのに、私の足は地面に縫い付けられたように動かす事が出来なくて──。 広がって行く血溜まりを目の前に、私は監督や他の作業員の方たちに体を支えられながら何とかその場を離れた──。 ◇ 鉄骨を退かし、救急車がやってくるのを私は呆然と見つめる事しか出来なかった。 到着した救急車は、2台。 1台は当然苓さんのため。もう1台は私のために手配されたものだった。 苓さんが鉄骨の雪崩に巻き込まれたショックが大きくて気づいていな
「苓さん、おはようございます」 「茉莉花さん、おはようございます」 私たちは軽く挨拶を交わし、2人並んで建設現場に向かう。 既に躯体工事も始まっていて、現場は色々な資材が置かれていて危ない。 私と苓さんは着用が義務付けられているヘルメットを被り、進捗状況を見て回っていた。 「骨組みが入ると一気に店舗感が増しますね」 「そうですよね、これから骨組みが出来上がり、外装、内装と進んでお店になっていくのが楽しみです」 「庭園の方も同時進行でしたっけ?」 「はい、そうなんです。庭園の方も視察しますよね?」 「ええ、行きましょうか茉莉花さん」 私たちが庭園の方に向かうと、多くの作業員の方達 が作業していた。 今はまだ立派な庭園ではないけど、これから素晴らしい和風庭園が出来るのだろう、とわくわくしてしまう。 一通り現場視察が終わり、私と苓さんは現場監督の元に向かい、工事の進み具合や不足しそうな資材がないか、人員の不足はないかなどを確認する。 確認が全て終わり、次の視察の予定などを話してから私たちの現場視察は終わった。 「茉莉花さん、会社に戻る前にどこかで食事でもしませんか?」 「いいですね。時間を昼時を外しているからどこのお店も空いていそうです」 「良かった。じゃあ、近場に美味しいお店がないか確認しますね」 私と苓さんはヘルメットをヘルメット置き場に戻し、監督に見送られながら歩き出す。 周囲にはこの現場で使用予定の沢山の資材が置かれている。 そんな場所を後にして、現場から出る手前。 鉄骨が積まれている場所に通りかかる。 視界の隅に鉄骨が積み上げられているのが見えて、違和感を覚えた。 (──あれ?確か、さっき見回った時は鉄骨はちゃんと固定されていたのに……) 今は固定されていた金具が見当たらない。 このままじゃあ崩れてきて危ないのでは──。 そう思った私は、監督にその事を伝えようと足を止めて振り向いた。 「──茉莉花さん?」 「すみません、苓さん。鉄骨がちゃんと固定されていないみたいで。監督に伝えて来ます」 「え……」 私がそう言うと、苓さんも足を止めて鉄骨に顔を向けた。 瞬間──。 「──茉莉花さん!」 「え……、あっ、きゃああ!!」 苓さんの叫び声が聞こえたと思った次の瞬間、鉄骨が倒れてくる大きな音が聞こえ
何か考え事をしているのなら、ちょうどいい。 私は素早く車に乗り込み、窓を下げて小鳥遊さんに挨拶をする。 「……それでは、今日はありがとうございました」 「──!はい。また、お会いしましょう」 小鳥遊さんの言葉に、私は曖昧に笑って否定も肯定も返さない。 エンジンをかけ、私は彼に一礼してから車を発進させた。 車が走り去る中、小鳥遊は茉莉花の車が見えなくなるまでずっと見つめていた。 「藤堂さんが、会社に勤めていない…?それに、家を離れているってどう言う事だ…。まさか」 あの噂は本当だったのか?と小鳥遊の頭に浮かぶ。 「噂の真偽を確かめるのが先だな…。藤堂会長に
パタン、とドアが閉まる。私は貼り付けていた笑顔をふっと消し、ドアに手を付きながらずるずる、とその場に蹲る。良かった──。何も、バレていない……。この時ばかりは、御影さんが私に全く興味のない人で良かった、と感謝してしまう。きっと、これが速水涼子だったら。涼子が相手だったら御影さんは違和感に気づいただろう。けど、私が相手だから。「──ふっ、皮肉なものね」好かれたいのに。御影さんに私を見て欲しいのに、今回ばかりは好かれていなくて、嫌われていて良かったと、思ってしまう。私は自嘲気味に笑ったあと、その場にようやく立ち上がり部屋に戻っていく。私は御影さんにバレたくない、
私と御影さんが客間に着いて、ほどなくしてお父様がやってきた。 御影さんはソファから立ち上がろうとしたが、お父様はさっと手のひらを御影さんに向けてそれを断る。 お父様が何も言葉を発さず、客間の空気が重くなってきた頃、お祖父様がようやく部屋にやってきた。 「お父様」 「ああ、ああ…すまないね。待たせたかな」 「いえ、とんでもございません。お久しぶりです」 私のお父様が、お祖父様を出迎え、ソファに促す。 御影さんは今度はすっと立ち上がり、お祖父様に頭を下げた。 お祖父様は、何をお考えか読ませない表情のまま、御影さんに顔を向けて声をかける。 御影さんはお祖父様に
◇「──ん……」ふ、と意識が浮上する。私はぼうっとする頭のまま、何度か瞬きをしてころり、と寝返りを打った。「──ぇ?」そこで、はたと当惑する。肌に触れるのは、サラリとした肌触りのいいシーツ。そして、何も身に付けていない自分の腰に回る、がっしりとした男らしく、筋肉のついた腕。「──〜っ!!」そこで、ようやく私は昨夜の事を思い出した。アルコールが入り、昨夜の私は判断力がほとんど働いていなかった。そして優しさに触れ、人肌恋しくなってしまったのだ。私の事を、認めてくれる人に。私にも価値があるのだと、思わせてくれた人に、甘えたくなってしまった。私は、そろそろと視







