LOGIN【藤堂様】 そんな出だしから始まった、苓さんの返信。 メールの返信には、取引相手として丁寧に文章が打たれていた。 退院と、怪我の気遣いに対するお礼。 それと現場視察の日程について、何ヶ所かは他の仕事を優先するために辞退する旨が記載されていた。 「は……、ははっ」 以前、苓さんが言っていた言葉を思い出す。 【茉莉花さんが心配だから。茉莉花さんが現場視察に行く時は必ず俺が一緒に行きますね。──他の仕事?茉莉花さんを最優先する以外に大事な事なんて無いですよ】 そんな風に、真面目な顔で真っ直ぐ私を見つめて言ってくれた苓さん。 だけど、今は──。 「もう、あの苓さんは居ない、のか……」 私は静かな本部長室でぽつり、と呟いた。 ◇ それから、ひと月の間。 仕事に復帰した苓さんとは、数回だけ現場視察をした。 その時の彼は、どこかよそよそしくて。 仕事に関わる、必要最低限の会話しかしない。 そして、仕事が終われば現地解散。 あれから、苓さんとプライベートな話も。 付き合っていた事についても話すきっかけが無くて。 私たちの今後は、一体どうなるのだろうか、と少し不安に思った。 「……婚約を発表した訳じゃ、ないから……苓さんが私を忘れてしまった時点で、もう私と苓さんの関係は終わってしまったの……?」 恋人だった頃の記憶があるのは私だけ。 苓さんにとっては、見知らぬ女と付き合っていた、と言う事実が信じられないだろう。 だからこそ、私との関わりは必要最低限、仕事でどうしても会わないといけない時だけに留めているのかもしれない。 「……私は、これからどうしたらいいの……」 苓さんが手配してくれた護衛の人は、まだ私とお父様を守ってくれている。 少し離れた場所にいる彼らが、まだ苓さんと繋がっている唯一の証のようで。 本当は護衛に関しても、こちらから断りを入れるか、藤堂で手配をした方がいいのだろう。 だけど、苓さんが手配してくれたから──。 「ああ、もう……っ、全然分からない。どうしたら……っ」 思いっきり泣いてしまいたい。 だけど、泣いたら諦めてしまいそうで。 苓さんとの関係を、1回リセットした方がいいんじゃないか。 そんな考えも浮かんで来ている。 ひと月経った今も、苓さんには記憶が戻る気配が無い。 2人で話した事がある和風
◇ それから、1週間後。 苓さんが退院した、との知らせを受けた。 圭吾さんから教えてもらい、私は無意識の内に自分のスマホを取り出した。 いつものように苓さんの名前を呼び出してタップしようとして、私の指はぴたりと止まる。 「──はっ、はは……。馬鹿みたい……私が急に連絡したら、苓さんは驚くわ……」 それに。 今の今まで私のスマホに苓さん本人からの連絡は1度も無い。 私の事を忘れてしまっているから、それは当然。 苓さんが私の私用連絡先に連絡を入れる訳が無い。 頭では分かっているけど、心がまだついていけていない。 「……苓さんの仕事用のアドレスに、連絡を入れておこう……」 まだ、カフェの現場視察は残ってる。 私だけで視察に参加してもいいんだけど、記憶を失う前の苓さんは現場視察には全て参加したい、と言っていた。 私は自分のパソコンで苓さんの仕事用アドレスを呼び出してメールの文章を打つ。 圭吾さんから退院したのを聞いた事、体を気遣いつつ、仕事への復帰はいつになるか。 そして、今後直近で行われるカフェ建設の現場視察のスケジュールを記載して、参加の有無を改めて問う。 「これくらいで……いいわよね……」 当たり障りのない、温度の無い文章。 ビジネスメールと言って遜色ない程のメール内容。 これが、自分の婚約者相手の文章なんて、と私はメール画面を見て笑ってしまった。 「凄く、他人行儀だわ……」 苦笑いを浮かべつつ、メールを送信する。 メールが無事に送信された事を確認した私は、メールの画面を閉じて別の仕事に取りかかる。 カフェの完成まで、あと2ヶ月程。 終盤になれば、外装と内装が始まって、それが終われば様々な物の搬入が始まる。 形が出来たら、後はカフェ事業の広報活動だ。 それに関しては、虎おじさまが全面的にサポートしてくれるから凄く話題になるだろう。 「オープンに向けて、施策も打たないと……」 やるべき事はまだまだ山積みだ。 私は自分のチームのみんなと協力しつつ、仕事に没頭した。 夜。 定時を大分過ぎた時間。 私はふ、とパソコンから顔を上げてぐっと伸びをした。 同じチームの皆は既に帰宅している。 私は、自分の家に帰るのが何だか嫌で。 仕事を持ち帰って家でやろうか、とも考えたけど。 あの家には、苓さんは何度も泊ま
◇ 藤堂の家に私を送ってくれたお父様。 お父様は私を気遣い、暫く仕事──会社は休むか、と聞いて下さったけど休む事はしたくない。 確かに苓さんに忘れられてしまった事はショックで。 悲しくて悲しくて辛いけど、だからと言って、苓さんと一緒に進めていたカフェ事業を途中で放り投げる事も、休む事もしたくない。 だから私はお父様に「大丈夫」だと伝えた。 お父様は心配そうにしていたけど、会社に戻らないといけないらしく、私を家まで送って下さった後は会社に戻った。 家で1人になった私は、ふと家の中を見回した。 すると、家の中や外……庭先で苓さんと一緒に過ごした思い出が蘇る。 「そう言えば、苓さんが寝泊まりしている客間で一緒に寝た事もあったし……。私のお部屋で過ごした事もあったわ……」 そうだ。 そして、まだ存命していたお祖父様と、お父様と苓さんが夜にお酒を飲んで談笑していた時もある。 それに、苓さんと手を繋いで離れの日本庭園を何度も散歩した事を思い出す。 「あの離れは、お母様がお気に入りだって事を苓さんにもお話したものね……」 庭園の見事さに、苓さんが感動してくれていた事も、しっかりと覚えている。 「……苓さん」 いつか、私の事を思い出してくれるだろうか。 それとも、今後一生……私の事は思い出してくれないのだろうか──。 でも。 苓さんは、私の事を好きになってくれたんだから、もう1度好きになって貰えるよう、努力しよう。 苓さんから沢山「好き」を「愛情」を貰ったから、今度は私から沢山苓さんに好きと愛情を伝えて。 そして、もう1度私を見てもらって──。 好きになってもらえばいいんだ。 「──うん、うん……。そうよね。苓さんに忘れられちゃった事で、絶望している暇は無いわ。仕事もあるし、今後も苓さんと会う機会は沢山ある。苓さんに私を改めて知ってもらおう」 私はそう気合いを入れると、ぐっと握りこぶしを握って自分の部屋に戻った。 誰か──。 恐らく、涼子だろう。 涼子から送られてきたあんなメッセージなんかに、私は傷付いたりしないんだから──。 ◇ 翌日から、私は今まで以上に仕事に打ち込むようになった。 時折、本部長室にやってくる志木チーム長や矢田主任は不思議そうに、心配そうに私を見てくるけど、特に彼らから何かを言われる事は、無い。
◇ 苓さんの病室を出た私とお父様を、圭吾さんが送ってくれる。 私の様子を心配したお父様は病室から少し離れた場所にある椅子の所までやって来ると、私を椅子に座らせた。 そして、お父様は圭吾さんに向き直る。 「小鳥遊さん、詳しく説明してもらってもいいかな……?」 「ええ、もちろんです」 お父様は何が起きているのか分からないのだろう。 だって、それは当然で。 お父様の事は、苓さんは覚えているのだから。 その証拠に、私が苓さんの病室に戻って来るまでお父様と苓さんは病室で談笑していた。 話す時間が長ければ、私の事だけを覚えていない苓さんに違和感を覚えたかもしれないけど、こんな風に少しの時間だけだったら苓さんの記憶の中に私が居ない事は気付かないだろう。 圭吾さんの説明を聞いていく内に、お父様の表情が険しくなって行くのが分かる。 「そんな事が……」 お父様は困惑したように自分の額を手で抑え、天井を仰ぐ。 「だが、記憶を取り戻そうとしてもらおうにも……無理をさせる事は出来ないしな……」 「ええ……。無理に記憶を戻そうとすると、強いストレスを感じてしまい、良くないそうです」 「そうか……。こればっかりはどうにも、できんな……」 お父様が溜息を吐き出しつつ、私に顔を向けた。 「茉莉花。あの状態の苓くんと会うのは辛いとは思う。だが……仕事は、仕事だ。彼が茉莉花を覚えていなくとも、今までのように一緒に仕事を出来るか?」 「──っ、」 はっきり言ってしまえば、あんな冷たい目をした苓さんと会うのは、怖い。 だけど、お父様の言葉は尤もだ。 たとえ、苓さんが私の事を忘れてしまったとしても。 私たちが始めたカフェ事業は待ってはくれない。 仕事は、仕事なのだ──。 私には、こんな風にショックを受けてくよくよしている暇なんてないんだ。 私は滲んだ涙を拭うようにして、椅子から立ち上がった。 「大丈夫です、お父様。仕事は、仕事……最後までしっかり全うします」 その言葉と共に、お父様を真っ直ぐ見上げる。 私の言葉と、表情を見たお父様は一瞬痛ましげに目を細めたけど、こくりと頷いてくれた。 「ああ、辛いだろうが頼んだぞ」 「──はい」 「……それじゃあ、そろそろ私たちは帰ろうか。……小鳥遊さん、彼が仕事に復帰する時にはまた連絡をお願いしたい」 「
お父様に呼ばれても、私の足はその場に凍り付いてしまったように動かない。 そんな私と、不思議そうにしつつ私の元へ歩いて来るお父様。 そんな私たち2人を見て、苓さんがぽつりと呟いた。 「本当に社長令嬢だったのか……。財閥の令嬢を騙っていた訳じゃないんだな……」 ぼそり、と落ちた苓さんの低い声。 ああ、苓さんは。 苓さんは自分に近付く女性は、全て疑って生きてきた、って言っていた。 だから、圭吾さんにいくら言われても、疑いが残っていたのだろう。 だけど、お父様がお見舞いに来てくれたお陰で、私が本当に藤堂家の娘だ、と分かったのだ。 「──なんっ、」 お父様は、ぎょっとした目で苓さんを振り返る。 「……っ、お父様、いいんです。説明します、から……病室を出ましょう……?」 「だが……。いや、その方がいいのか……。分かったよ、茉莉花」 私と苓さんの間に流れる不穏な空気。 それを如実に感じたお父様は、私の提案に一瞬悩んだ素振りを見せたが、話しを聞く事が先決だと判断したのだろう。 私に頷くと、慰めるように頭にぽん、と手を置いた。 「──苓くん……いや、小鳥遊部長。今日は突然来てしまってすまないね。しっかり休んで、早く元気になってくれ。また、来るよ」 「今日はわざわざありがとうございました。早く怪我を治し、仕事に復帰します」 「ああ、あまり無理はしないようにな……」 お父様と苓さんが言葉を交わす間、私は苓さんを見る事が出来なかった。 私が苓さんを見てしまったら。 目が合ってしまったら、また苓さんを嫌な気持ちにさせてしまう。 お父様は苓さんのお見舞いを切り上げると、私の肩を抱いて病室を出るために歩き出した。 「茉莉花さん、藤堂社長、今日はわざわざありがとうございました。病院の入口までお送りします」 「ああ、ありがとう。頼むよ」 圭吾さんの申し出に、お父様はこくりと頷く。 2人とも、あまり顔色が良くない。 圭吾さんはお父様に苓さんの状況を説明したいのだろう、と思った。 それに、お父様もきっと説明を受けたいのだろう。 圭吾さんの申し出に頷くと、部屋の扉を開けて外に出ていく。 お父様に肩を抱かれていた私も、お父様と一緒に部屋の外に出た。 背後で、圭吾さんが苓さんに向かって話している声が聞こえるけど、何て話しているのかは聞こえなかっ
「──あ、」 私、のせい……? 私のせいで、苓さんが事故に遭ったの? 私のせいで苓さんが死んでしまう所だったの──。 そう考えると、目の前が真っ暗になった。 「茉莉花さん?藤堂 茉莉花さん?」 どれだけの間、そこに立ち尽くしていたのだろう。 圭吾さんの声が聞こえてきて、私ははっとして顔を上げた。 廊下を歩いて来ていた圭吾さんは、私の顔を見てぎょっと目を見開いた。 「顔色が悪い……!大丈夫ですか?」 「え、あ……。すみません、大丈夫です……」 担当医との話が終わり、苓さんの病室に向かうつもりだったのだろう。 担当医と圭吾さんの話はきっとそんなに短い時間ではなかったはずだ。 なのに、圭吾さんが先生との話しを終え、病室に戻る最中に会うなんて、私はどれだけ長時間この廊下に立ち尽くしていたんだろう、と唖然としていた。 「苓さんのお顔を、少しだけ見て……今日は帰りますね」 「そう、ですか……?先生に診てもらわないで大丈夫ですか?」 「ええ、平気です。ご心配をおかけして、すみません」 私が無理やり笑うと、圭吾さんは困ったように眉を下げたけど、それ以上は何も言わず、私の肩をぽんぽん、と励ますように叩いてくれた。 ◇ 圭吾さんと一緒に廊下を歩き、苓さんの病室の前まで戻ってくる。 部屋に入ろうと圭吾さんが扉に手を伸ばした所で、中から漏れ聞こえて来る話し声にぴたり、と手を止めた。 談笑しているようで、中から漏れ聞こえる声は楽しそうに弾んでいて。 話し声は、苓さんと。もう1人。 お父様の声、だった──。 「藤堂社長……!?来て下さったのですか!?」 圭吾さんが慌てて扉を開き、病室に入る。 すると、病室にいる苓さんとお父様2人が振り返った。 「兄さん、やっと戻ってきたか」 「あ、ああ。苓、社長とお話を……?」 「ああ。わざわざお見舞いに来て下さった。後は、今後の仕事について少し話し合いをしていた所だったんだ」 苓さんは圭吾さんに向かって楽しげに話しをしている。 その様子からは、普段通りの苓さんと変わらない。 だけど、ただ1つ。今までと違うとしたら。 苓さんが話している間、まるで私が見えていないように苓さんが一切目を向けてくれない事。 私がここに居ない人のように振る舞う苓さん。 そんな苓さんを見て、お父様は戸惑いの表情を
だ、抱きしめて眠りたいって事は。別々の部屋で眠らないって事で──。 私があわあわとしていると、苓さんは慌てて言葉を続けた。 「だ、大丈夫です!変な事はしません!た、ただ、本当に茉莉花さんを抱きしめて眠れたら、俺も嬉しいなって……」 「そ、そうなんですね……、その、緊張はしちゃいますけど……」 だけど、夜も苓さんと一緒に過ごす事が出来るのは、凄く嬉しい。 しかも、起きたら苓さんが目の前に居てくれるって事でしょう? どうしよう、それはすっごく嬉しい。 「分かりました!一緒に寝ましょう、苓さん!」 私が苓さんの手を握ったまま、笑顔でそう告げると苓さんも嬉しそうに笑い返してくれた。
「茉莉花、茉莉花大丈夫か?帰るぞ?」 「──っは、はいっ!」 私は、お父様に肩を揺すられてはっと顔を上げた。 いつの間に食事が終わっていたのか──。 それに、私もいつの間に食事をしていたのか、全く覚えていない。 ご飯を食べたはずなのに、それすら覚えていなかった。 それだけ、苓さんとお父様が話していた会話内容は衝撃的で。 料亭の出口で、先に迎えの車を手配してくれていた苓さんが、私を心配そうに見つめているのが分かる。 「茉莉花さん」 「苓さん、ありがとうございます……」 苓さんに手を差し出され、私はいつもの通り、何も考えずに彼の手を取る。 苓さんは私の手を優しく握ってくれ
「速水家──いや、速水朱美(はやみ あけみ)に、学生の時に言い寄られた事が、ある」 「速水家の──!?」 お父様から思いも寄らなかった事を聞かされ、私と苓さんはぎょっとしてしまう。 苓さんはお父様の言葉を聞いて、考え込むようにして話し出した。 「速水朱美って言えば……速水商事の一人娘、でしたよね……?男兄弟がいなくて、婿養子を取ったって……」 「ああ。良く知っているな、小鳥遊くん」 「ええ。昔から様々な企業の事は調べていますから……。だけど、藤堂社長が速水商事の一人娘に言い寄られていたなんて……。その……良く逃げられました、ね……」 苓さんが苦笑いを浮かべつつそう話す。 お
病院の廊下は、重苦しい空気が流れていた。 そんな中、ずっと点灯していた「手術中」のランプが消えた。 「──っ!」 長い長い時間、この廊下に居たような気がする。 ランプが消えた瞬間、私は勢い良く立ち上がる。 私の動きに反応したお父様も、ランプが消えた事に気付き、立ち上がった。 そして、少しして執刀医が手術室の扉から出て来た。 「藤堂帝熾(とうどう ていし)さんのご家族です