LOGIN◇ 藤堂の家に私を送ってくれたお父様。 お父様は私を気遣い、暫く仕事──会社は休むか、と聞いて下さったけど休む事はしたくない。 確かに苓さんに忘れられてしまった事はショックで。 悲しくて悲しくて辛いけど、だからと言って、苓さんと一緒に進めていたカフェ事業を途中で放り投げる事も、休む事もしたくない。 だから私はお父様に「大丈夫」だと伝えた。 お父様は心配そうにしていたけど、会社に戻らないといけないらしく、私を家まで送って下さった後は会社に戻った。 家で1人になった私は、ふと家の中を見回した。 すると、家の中や外……庭先で苓さんと一緒に過ごした思い出が蘇る。 「そう言えば、苓さんが寝泊まりしている客間で一緒に寝た事もあったし……。私のお部屋で過ごした事もあったわ……」 そうだ。 そして、まだ存命していたお祖父様と、お父様と苓さんが夜にお酒を飲んで談笑していた時もある。 それに、苓さんと手を繋いで離れの日本庭園を何度も散歩した事を思い出す。 「あの離れは、お母様がお気に入りだって事を苓さんにもお話したものね……」 庭園の見事さに、苓さんが感動してくれていた事も、しっかりと覚えている。 「……苓さん」 いつか、私の事を思い出してくれるだろうか。 それとも、今後一生……私の事は思い出してくれないのだろうか──。 でも。 苓さんは、私の事を好きになってくれたんだから、もう1度好きになって貰えるよう、努力しよう。 苓さんから沢山「好き」を「愛情」を貰ったから、今度は私から沢山苓さんに好きと愛情を伝えて。 そして、もう1度私を見てもらって──。 好きになってもらえばいいんだ。 「──うん、うん……。そうよね。苓さんに忘れられちゃった事で、絶望している暇は無いわ。仕事もあるし、今後も苓さんと会う機会は沢山ある。苓さんに私を改めて知ってもらおう」 私はそう気合いを入れると、ぐっと握りこぶしを握って自分の部屋に戻った。 誰か──。 恐らく、涼子だろう。 涼子から送られてきたあんなメッセージなんかに、私は傷付いたりしないんだから──。 ◇ 翌日から、私は今まで以上に仕事に打ち込むようになった。 時折、本部長室にやってくる志木チーム長や矢田主任は不思議そうに、心配そうに私を見てくるけど、特に彼らから何かを言われる事は、無い。
◇ 苓さんの病室を出た私とお父様を、圭吾さんが送ってくれる。 私の様子を心配したお父様は病室から少し離れた場所にある椅子の所までやって来ると、私を椅子に座らせた。 そして、お父様は圭吾さんに向き直る。 「小鳥遊さん、詳しく説明してもらってもいいかな……?」 「ええ、もちろんです」 お父様は何が起きているのか分からないのだろう。 だって、それは当然で。 お父様の事は、苓さんは覚えているのだから。 その証拠に、私が苓さんの病室に戻って来るまでお父様と苓さんは病室で談笑していた。 話す時間が長ければ、私の事だけを覚えていない苓さんに違和感を覚えたかもしれないけど、こんな風に少しの時間だけだったら苓さんの記憶の中に私が居ない事は気付かないだろう。 圭吾さんの説明を聞いていく内に、お父様の表情が険しくなって行くのが分かる。 「そんな事が……」 お父様は困惑したように自分の額を手で抑え、天井を仰ぐ。 「だが、記憶を取り戻そうとしてもらおうにも……無理をさせる事は出来ないしな……」 「ええ……。無理に記憶を戻そうとすると、強いストレスを感じてしまい、良くないそうです」 「そうか……。こればっかりはどうにも、できんな……」 お父様が溜息を吐き出しつつ、私に顔を向けた。 「茉莉花。あの状態の苓くんと会うのは辛いとは思う。だが……仕事は、仕事だ。彼が茉莉花を覚えていなくとも、今までのように一緒に仕事を出来るか?」 「──っ、」 はっきり言ってしまえば、あんな冷たい目をした苓さんと会うのは、怖い。 だけど、お父様の言葉は尤もだ。 たとえ、苓さんが私の事を忘れてしまったとしても。 私たちが始めたカフェ事業は待ってはくれない。 仕事は、仕事なのだ──。 私には、こんな風にショックを受けてくよくよしている暇なんてないんだ。 私は滲んだ涙を拭うようにして、椅子から立ち上がった。 「大丈夫です、お父様。仕事は、仕事……最後までしっかり全うします」 その言葉と共に、お父様を真っ直ぐ見上げる。 私の言葉と、表情を見たお父様は一瞬痛ましげに目を細めたけど、こくりと頷いてくれた。 「ああ、辛いだろうが頼んだぞ」 「──はい」 「……それじゃあ、そろそろ私たちは帰ろうか。……小鳥遊さん、彼が仕事に復帰する時にはまた連絡をお願いしたい」 「
お父様に呼ばれても、私の足はその場に凍り付いてしまったように動かない。 そんな私と、不思議そうにしつつ私の元へ歩いて来るお父様。 そんな私たち2人を見て、苓さんがぽつりと呟いた。 「本当に社長令嬢だったのか……。財閥の令嬢を騙っていた訳じゃないんだな……」 ぼそり、と落ちた苓さんの低い声。 ああ、苓さんは。 苓さんは自分に近付く女性は、全て疑って生きてきた、って言っていた。 だから、圭吾さんにいくら言われても、疑いが残っていたのだろう。 だけど、お父様がお見舞いに来てくれたお陰で、私が本当に藤堂家の娘だ、と分かったのだ。 「──なんっ、」 お父様は、ぎょっとした目で苓さんを振り返る。 「……っ、お父様、いいんです。説明します、から……病室を出ましょう……?」 「だが……。いや、その方がいいのか……。分かったよ、茉莉花」 私と苓さんの間に流れる不穏な空気。 それを如実に感じたお父様は、私の提案に一瞬悩んだ素振りを見せたが、話しを聞く事が先決だと判断したのだろう。 私に頷くと、慰めるように頭にぽん、と手を置いた。 「──苓くん……いや、小鳥遊部長。今日は突然来てしまってすまないね。しっかり休んで、早く元気になってくれ。また、来るよ」 「今日はわざわざありがとうございました。早く怪我を治し、仕事に復帰します」 「ああ、あまり無理はしないようにな……」 お父様と苓さんが言葉を交わす間、私は苓さんを見る事が出来なかった。 私が苓さんを見てしまったら。 目が合ってしまったら、また苓さんを嫌な気持ちにさせてしまう。 お父様は苓さんのお見舞いを切り上げると、私の肩を抱いて病室を出るために歩き出した。 「茉莉花さん、藤堂社長、今日はわざわざありがとうございました。病院の入口までお送りします」 「ああ、ありがとう。頼むよ」 圭吾さんの申し出に、お父様はこくりと頷く。 2人とも、あまり顔色が良くない。 圭吾さんはお父様に苓さんの状況を説明したいのだろう、と思った。 それに、お父様もきっと説明を受けたいのだろう。 圭吾さんの申し出に頷くと、部屋の扉を開けて外に出ていく。 お父様に肩を抱かれていた私も、お父様と一緒に部屋の外に出た。 背後で、圭吾さんが苓さんに向かって話している声が聞こえるけど、何て話しているのかは聞こえなかっ
「──あ、」 私、のせい……? 私のせいで、苓さんが事故に遭ったの? 私のせいで苓さんが死んでしまう所だったの──。 そう考えると、目の前が真っ暗になった。 「茉莉花さん?藤堂 茉莉花さん?」 どれだけの間、そこに立ち尽くしていたのだろう。 圭吾さんの声が聞こえてきて、私ははっとして顔を上げた。 廊下を歩いて来ていた圭吾さんは、私の顔を見てぎょっと目を見開いた。 「顔色が悪い……!大丈夫ですか?」 「え、あ……。すみません、大丈夫です……」 担当医との話が終わり、苓さんの病室に向かうつもりだったのだろう。 担当医と圭吾さんの話はきっとそんなに短い時間ではなかったはずだ。 なのに、圭吾さんが先生との話しを終え、病室に戻る最中に会うなんて、私はどれだけ長時間この廊下に立ち尽くしていたんだろう、と唖然としていた。 「苓さんのお顔を、少しだけ見て……今日は帰りますね」 「そう、ですか……?先生に診てもらわないで大丈夫ですか?」 「ええ、平気です。ご心配をおかけして、すみません」 私が無理やり笑うと、圭吾さんは困ったように眉を下げたけど、それ以上は何も言わず、私の肩をぽんぽん、と励ますように叩いてくれた。 ◇ 圭吾さんと一緒に廊下を歩き、苓さんの病室の前まで戻ってくる。 部屋に入ろうと圭吾さんが扉に手を伸ばした所で、中から漏れ聞こえて来る話し声にぴたり、と手を止めた。 談笑しているようで、中から漏れ聞こえる声は楽しそうに弾んでいて。 話し声は、苓さんと。もう1人。 お父様の声、だった──。 「藤堂社長……!?来て下さったのですか!?」 圭吾さんが慌てて扉を開き、病室に入る。 すると、病室にいる苓さんとお父様2人が振り返った。 「兄さん、やっと戻ってきたか」 「あ、ああ。苓、社長とお話を……?」 「ああ。わざわざお見舞いに来て下さった。後は、今後の仕事について少し話し合いをしていた所だったんだ」 苓さんは圭吾さんに向かって楽しげに話しをしている。 その様子からは、普段通りの苓さんと変わらない。 だけど、ただ1つ。今までと違うとしたら。 苓さんが話している間、まるで私が見えていないように苓さんが一切目を向けてくれない事。 私がここに居ない人のように振る舞う苓さん。 そんな苓さんを見て、お父様は戸惑いの表情を
◇ 「解離性健忘ですね」 「解離性健忘……?」 あれから。 苓さんの診察を終えた担当医と別室に移動して、今の苓さんの状況を話してくれた。 「小鳥遊さんは今日が何月何日か、そしてご自身の年齢、名前も正確に答える事が出来ました。もちろん仕事に関する記憶もしっかりとあります。その中で……特定の人物に対して、全ての記憶を忘れてしまう、と言う症例は……解離性健忘だと判断します」 そこまで話した先生は、私を見て言葉を続ける。 「恐らく、強く頭を打った瞬間に小鳥遊さんの頭の中に藤堂さんの存在が強く残っていたのでしょう。その状態で、強かに頭部を強打してしまい、記憶が……」 「一時的な……記憶喪失のような……そのようなものなのですか?」 何も言葉を発せない私に代わり、圭吾さんが先生に質問してくれる。 先生は気まずそうに私と圭吾さん、交互に視線を向けると答えた。 「……明日になったら記憶が戻る事もあれば、……1年、2年……10年経っても記憶が戻らない事もあります。……過去の事例では、一生記憶が戻らない、と言う報告も」 「──いっしょう……?」 先生の言葉に、私は体から力が抜けてしまう。 がたん、と椅子が大きな音を立ててしまい、圭吾さんにも先生にも心配をかけてしまった。 「……茉莉花さん、もし良ければ……後の説明は俺が聞いておこうか?苓と会ってくる……?」 「──あ、」 苓さんに、会いたい。 だけど、またあんな風に冷たい目を向けられたら。 感情の籠っていない、冷たい声だった。 私を不審がるような苓さんの視線に、私1人だけで耐えられるのか──。 そんな事を私が考えていると、圭吾さんは私に言葉を続ける。 「……苓は、仕事の事については記憶を失っていないだろう?カフェ事業の話を茉莉花さんとしていれば、もしかしたら脳が刺激されて、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないよ」 「……た、たしかに……。そうです、ね」 不思議な事に、苓さんは私の事を全て忘れてしまったけれど。 藤堂グループと始めた和風庭園カフェの事業については記憶が残っていた。 仕事の話をしていたら、苓さんの記憶も戻るかもしれない。 私はそんな淡い期待を抱き、圭吾さんの言葉に有難く頷いた。 「あ、ありがとうございます。苓さんの病室に戻って、仕事のお話をしてみます……!」 「
「──え?」 苓さんは私を冷たい目で見た後、圭吾さんに顔を向けて続ける。 「兄さんの婚約者の女性?俺と面識がある人か?」 本当に私の事が分からない、初対面のような態度の苓さん。 私は彼の言っている言葉が分からなくて──。 そして、それは圭吾さんも同じだったようで。 「お、おい……何をふざけてるんだ、苓。この女性は藤堂 茉莉花さん、お前の恋人で、婚約者だろう──!?」 圭吾さんは信じられない、と言うように叫ぶ。 だけど苓さんは全く身に覚えがないようで、私の名前を聞いてもピンと来ていない。 不審がるように私を見た後、呟いた。 「──は?俺の恋人……?婚約者……?冗談も程々にしてくれよ。女性が苦手なのは知っているだろう?」 信じられないと言うように笑う苓さん。 苓さんが話している間も、私に視線を向けられる事はなく、兄の圭吾さんにばかり顔を向けている。 女性が苦手だと言う事は、以前苓さんに聞いた事がある。 だけど、私と苓さんが出会った時から苓さんは優しかった。 だから、こんな風に冷たい態度を取る彼が見知らぬ人に見えてしまって──。 圭吾さんは困ったように眉を下げ、苓さんに伝える。 「本当に、茉莉花さんを覚えていないのか……?」 「覚えてるも何も、知らない女性だと言ってるだろう?」 変な事を言わないでくれ、とばかりに笑う苓さん。 私は、目の前が真っ暗になってしまう。 どうしたら。 苓さんは、私を忘れてしまったの──。 どうして──。 そんな言葉ばかりがぐるぐると頭の中を回る。 だけど、短時間で解決方法なんか見つかる事はなく。 「ちょっと待ってろ、苓……。医者を呼ぶから……」 「あ、ああ……分かった」 苓さんは不思議そうな顔で、圭吾さんを見る。 圭吾さんは担当医を呼ぶためだろう。 一旦病室を出ようとしている。 圭吾さんは私の目の前まで来ると、私を気遣い肩に手を置いてぽん、と叩いてくれた。 「茉莉花さん、良ければ一緒に担当医を呼びに行こう」 「……分かり、ました……」 圭吾さんの動きを追っていた苓さんが、顔をこちらに向ける。 圭吾さんと親しげに接している私にも苓さんの視線が向けられた。 だけど、すぐに苓さんは私から視線を逸らしてしまう。 まるで、見知らぬ女性を長く視界に留めておくのが嫌だ、と言うように─
◇ 「──痛っ」 「茉莉花さん、大丈夫ですか!?」 料亭の、一室。 私たちは予約していた部屋に案内されていた。 そこで席に着くなり、私の足元に跪いた苓さんが靴を脱がせてくれたのだけど、その時に伝わった振動が捻った足首に響き、私は小さく声を上げてしまった。 私が痛みを訴えた瞬間、苓さんが慌てたように声を上げ、申し訳ないと何度も謝罪をする。 「大丈夫です、苓さん。我慢できずごめんなさい」 「我慢なんて出来るはずないですよ……こんなに赤く腫れてる……。藤堂社長、やっぱり茉莉花さんを夜間病院に連れて行きませんか?」 苓さんは傍らに立つお父様にぱっと顔を向けて提案する。 お父様も
苓さんとキスを交わしながら、私はここ最近感じていた違和感を確かめるように、自然な流れで薄っすらと唇を開いた。 だけど、苓さんはそれに気付いているはずなのに、唇を重ね合わせるだけの可愛らしいキスばかりを私に贈ってくれる。 以前、一夜を共にしてしまった時の、情熱的な、まるで食べられてしまうんじゃないかと言うくらいのキスは、お付き合いを始めてから1度もされた事が無い。 苓さんがしてくれないなら、と私からしてみようとしたその時──。 「──っ、茉莉花さん……っ」 「んっ、苓さん……?」 私が何をしようとしているのかを察したのだろう。 苓さんはがばり、と私から体を起こして離れてしまった
「と、藤堂社長!?」 「どうしてここに……!」 御影さんと涼子と一緒にいた他の男性3人が、お父様の姿を見て驚いたように声を上げる。 そして、その3人は真っ先にお父様に近付き挨拶をした。 「お久しぶりです、藤堂社長」 「こちらでお会いしたのも何かのご縁!もしよろしければ少しお話でも……」 「我々は、食事がキャンセルになってしまったのですが、もしよろしければご一緒に──……」 お父様と知り合い
私が自宅で仕事をしている間、苓さんから度々連絡は来ていた。 けど、苓さんもお仕事が忙しいらしく、以前より連絡頻度は減ってしまったように思う。 それに、何だかお父様も難しい顔をして何かを調べているような事が増えた、ような気がする──。 新事業の事だろうか、と思ったけど。 それなら、私にも情報は共有してくれるはず。 それなら、なんだろうかと考えて、私は1つ思い至った。 「お父様はもしかしたら、