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愛も憎しみも、もういらない

愛も憎しみも、もういらない

بواسطة:  SHUBAIمكتمل
لغة: Japanese
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私、黒瀬詩乃(くろせ しの)が、夫・黒瀬恭介(くろせ きょうすけ)の不倫現場に踏み込むのは、これで9度目だった。 けれど今回、ベッドにいた女を見た瞬間、私はその場に立ち尽くした。 相手は、実の妹――水城美羽(みずき みう)だった。 私が手にしていた包丁を目にするなり、普段は冷淡な恭介がその刃をつかんだ。 そして次の瞬間、自らの腹へ深く突き立てる。 「美羽には何もするな」 真っ赤になった目で私を見据え、その声はかすかに震えていた。 「仕返しなら俺にしろ。何をされても受け入れる。それで満足か?」 あまりのことに、私はその場から動けなかった。 指先には、流れ出す血の熱さだけが生々しく伝わってきた。 そこへ駆けつけた父の水城隆司(みずき たかし)に頬を強く張られ、続けざまに怒声を浴びせられた。 「詩乃、お前は何を考えてるんだ!美羽が恭介と関係を持ったくらいで、騒ぎすぎだ。わざわざここまで来て、美羽に恥をかかせる必要があるのか!」 母の水城佳代(みずき かよ)もまた、美羽を庇うように私を指さした。 「恭介さんと結婚して5年も経つのに、子どもはできなかったんでしょう?そのうえ、今まで何人もの女に夫を取られそうになってきたじゃない。それを妹の美羽が助けてくれてるんだから、むしろありがたいと思いなさい。それなのに恩を仇で返すような真似をして!」 あまりにも勝手な言い分に、笑いさえ込み上げてきた。 何年も私と張り合ってきた恭介が、美羽のためならあっさり折れる。父も母も、美羽が私の夫と関係を持っていると知りながら、咎めるどころか当然のように受け入れていた。 結局、昔から何も変わっていないのだ。 父も母も、いつだって美羽が一番だった。何をしても許し、どれだけ間違ったことをしても庇うくせに、私に向けるのは責める言葉ばかりだった。 だったら、もういい。 こんな壊れきった結婚も、こんな家族も。 私はもう、全部いらない。

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الفصل الأول

第1話

「黒瀬さんのご家族は?病院まで付き添ってください。手続きに署名が必要です」

救急隊員の声が耳に届き、私はようやく我に返った。

担架に横たわる恭介のシャツは、腹部から流れた血で真っ赤に染まっている。

あれほど深く刃を突き立てても弱音ひとつ吐かなかったくせに、倒れる寸前まで彼が気にかけていたのは、自分の傷ではなかった。

痛みに耐えながら美羽の涙を拭い、怯える彼女を宥める。両親に連れられて無事にその場を離れるまで見届けると、そこでようやく張りつめていた力が切れたように倒れ込んだ。

その一部始終を、私はただ黙って見ていた。

こんなにも余裕を失い、誰か一人のことで取り乱す恭介など、今まで見たことがない。

何年も互いに憎み合い、傷つけられれば傷つけ返してきた私たちだ。

一番ひどかった頃には、恭介と不倫相手が乗っていた車へ、私が自分の車をぶつけたことさえある。二人は大けがを負い、その仕返しに、今度は私が海へ突き落とされた。

救助されるまで、恭介は私をそのまま放っておいた。

裏切りを繰り返し、互いに憎しみをぶつけ、互いに一歩も引かない。

いつしか私たちの結婚は、相手が先に音を上げるまで傷つけ合うだけのものになっていた。

しかし、それほどまでに私とは争い続けてきた恭介が、美羽のこととなると、まるで別人だった。

「美羽はお前の妹だけど、お前とは違う。あいつはまともだ」

冷ややかな目を向けたあと、恭介は諦めたように息を吐いた。

「美羽には何もするな。仕返ししたいなら俺にしろ。何をされても受け入れる」

思わず眉を寄せる。

「……何、それ」

恭介は口元をわずかに歪めた。

「俺の負けだよ。これで満足か?ずっと俺に負けを認めさせたかったんだろ」

そこで一度言葉を切り、私を見据える。

「でも、詩乃。だからって、お前が勝ったわけじゃない」

その言葉を聞いた私は思わず指先に力が入り、爪が掌へ食い込んだ。

恭介とは大学時代に出会い、一目で惹かれ合った。

付き合っていた頃の私たちは、何かにつけて賭けをするのが好きだった。

20歳のとき、研究チームを率いて遠方へ長期滞在することになり、私は恭介が会いに来るかどうかを賭けた。

すると彼は2000キロ以上もの距離を越え、本当に私の滞在先までやってきた。

「詩乃の勝ち。だから、俺と付き合ってくれない?俺、やっぱり詩乃じゃなきゃ駄目だ」

23歳のときには、恭介がプロポーズするかどうかを賭けた。

今度は数えきれないほどのバラを用意し、その前で私に膝をついた。

「また詩乃の勝ちだ。俺と結婚して。これから先の人生も、全部詩乃に賭けるから」

結婚式では、お互いの指に自分たちの手で指輪をはめた。

抱き合って口づけたあの瞬間、本当に世界中の幸せを手にしたような気がしていた。

まさか、恭介が最初から別の賭けをしていたなんて、あの頃の私は知る由もなかった。

私を少しずつ夢中にさせ、最後には自分から離れられなくする。

それが、彼の賭けだった。

私を追いかけ、結婚までしたのも、両家が以前から望んでいた結婚を受け入れながら、すべてはその陰で本当に好きだった女性を守るためだった。

私は妊娠5か月だった頃、その事実を知った。

初めて恭介の不倫現場に踏み込んだ日、相手の女性と激しく言い争いになり、もみ合ううちに、二人そろって階段から転落した。

私は、お腹の子を失った。

相手の女性は、そのまま亡くなった。

そして、あの日を境に、恭介は変わった。

私に隠れもせず堂々と、次から次へと別の女性との関係が取り沙汰されるようになった。そのたびに、私は周囲の好奇の目にさらされ、笑いものにされた。

もちろん、私の中にも恭介への憎しみが残っていた。

だから、簡単には離してやらなかった。

傷つけられればやり返し、やられた分だけ返す。そんなことを1年、また1年と繰り返しているうちに、気づけば何年もの月日が過ぎていた。

けれど今はもう、恭介を憎み続けることにさえ疲れている。

「美羽とは、いつから?」

「1年」

よりにもよって、1年。

その答えだけは、思った以上に胸に堪えた。

私は用意していた離婚届を取り出し、恭介の前へ差し出す。

「ここに署名して。離婚するから」

そこで初めて、恭介がわずかに目を見開いた。

けれど、すぐに馬鹿にしたような笑みを浮かべる。

「今さらそんな手を使うのか?ずいぶん安っぽい駆け引きだな」

私は取り合わなかった。

「署名して」

「何年も俺にしがみついてきたのは、俺の妻でいたほうが都合がよかったからだろ。離婚したら、お前の研究チームへの出資だってなくなる。それでも今までと同じように研究を続けられると思ってるのか?」

「いいから、署名して」

もう一度促すと、恭介はわずかに眉を寄せたものの、それ以上は何も言わず、その場で名前を書いた。

「本当に出せるなら、出してみろよ」

挑発するような声にも振り返らず、署名された離婚届を手に病室を出た。

向かいの病室では、ほんの少し擦り傷を負っただけの美羽を、父と母が取り囲んでいる。

父はベッドの高さを細かく調整しながら、美羽へ何度も声をかけていた。

「どこかつらいところはないか?つらかったら、すぐお父さんに言うんだぞ」

隣では、母が美羽に水を手渡した。

「ほら、ゆっくりね」

その様子を廊下から眺めていると、美羽と目が合い、こちらに気づいた彼女はすぐさま先ほどまでの表情を消して、すぐさま不安そうな顔を作ってみせた。

「お父さん、お母さん……恭介さん、私を庇ったせいでお姉ちゃんとあんなことになっちゃったでしょう?お姉ちゃん、私のこと恨んでないかな……」

「気にするな」

父はすぐに美羽を宥めた。

「自分の夫をつなぎ止められなかったのは、あいつ自身の問題だ。美羽が気に病むことじゃない」

母も当然のように頷く。

「そうよ。もしあの子が美羽に何かしたら、お父さんもお母さんも黙ってないから」

聞こえてくる言葉の一つ一つが胸の奥に突き刺さり、同じ娘のはずなのに二人にとって大切なのは最初から美羽だけだったのだと思い知らされた。

こちらを窺う美羽の目には隠しきれない優越感が滲んでいたが、私は何も言わず、その視線をまっすぐ受け止めた。

その場を離れ、廊下の突き当たりまで来たところで、私はスマートフォンを取り出した。

長いこと眠らせたままにしていた番号へ電話をかけると、相手はほとんど待たせずに出た。

「気持ちは決まった?」

耳に届いたのは、穏やかでよく通る男の声だった。

「うん」

私は迷わず答える。

「私のチームが開発した最新の新薬、その特許と処方をそっちに提供する。ただ、一つだけ条件がある」

「何?」

「2週間後の新薬事業化プロジェクトの選定で――」

一度、息を置く。

「恭介と水城家を、徹底的に負かして」

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最後まとめて片付けたw クズ元夫は今更すぎてなあ 主人公の毒家族はデンジャラスでしたわ
2026-09-13 09:51:30
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第1話
「黒瀬さんのご家族は?病院まで付き添ってください。手続きに署名が必要です」救急隊員の声が耳に届き、私はようやく我に返った。担架に横たわる恭介のシャツは、腹部から流れた血で真っ赤に染まっている。あれほど深く刃を突き立てても弱音ひとつ吐かなかったくせに、倒れる寸前まで彼が気にかけていたのは、自分の傷ではなかった。痛みに耐えながら美羽の涙を拭い、怯える彼女を宥める。両親に連れられて無事にその場を離れるまで見届けると、そこでようやく張りつめていた力が切れたように倒れ込んだ。その一部始終を、私はただ黙って見ていた。こんなにも余裕を失い、誰か一人のことで取り乱す恭介など、今まで見たことがない。何年も互いに憎み合い、傷つけられれば傷つけ返してきた私たちだ。一番ひどかった頃には、恭介と不倫相手が乗っていた車へ、私が自分の車をぶつけたことさえある。二人は大けがを負い、その仕返しに、今度は私が海へ突き落とされた。救助されるまで、恭介は私をそのまま放っておいた。裏切りを繰り返し、互いに憎しみをぶつけ、互いに一歩も引かない。いつしか私たちの結婚は、相手が先に音を上げるまで傷つけ合うだけのものになっていた。しかし、それほどまでに私とは争い続けてきた恭介が、美羽のこととなると、まるで別人だった。「美羽はお前の妹だけど、お前とは違う。あいつはまともだ」冷ややかな目を向けたあと、恭介は諦めたように息を吐いた。「美羽には何もするな。仕返ししたいなら俺にしろ。何をされても受け入れる」思わず眉を寄せる。「……何、それ」恭介は口元をわずかに歪めた。「俺の負けだよ。これで満足か?ずっと俺に負けを認めさせたかったんだろ」そこで一度言葉を切り、私を見据える。「でも、詩乃。だからって、お前が勝ったわけじゃない」その言葉を聞いた私は思わず指先に力が入り、爪が掌へ食い込んだ。恭介とは大学時代に出会い、一目で惹かれ合った。付き合っていた頃の私たちは、何かにつけて賭けをするのが好きだった。20歳のとき、研究チームを率いて遠方へ長期滞在することになり、私は恭介が会いに来るかどうかを賭けた。すると彼は2000キロ以上もの距離を越え、本当に私の滞在先までやってきた。「詩乃の勝ち。だから、俺と付き合ってくれない?俺、やっぱ
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第2話
「もちろん。詩乃の頼みなら、喜んで」迷いのない返事に、思わず口元が緩んだ。通話を終えて家へ戻ると、玄関先で家のスタッフから小さなギフトボックスを手渡された。「奥様、旦那様が結婚記念日にと選ばれたものです」ふたを開ければ、中には鮮やかなサファイアのイヤリング。見るからに高価な品を前に、ふと1年前のことが脳裏をよぎった。8度目の不倫が発覚し、これまで以上に激しく揉めたあと、私は体調を崩して1か月近く寝込んだ。あのときの恭介は、まるで人が変わったように腕のいい医師を探し回り、仕事まで後回しにして毎日のように私のそばにいた。何度帰れと言っても聞かず、身の回りの世話まで自分でするほどだった。それを境に、荒れきっていた私たちの関係も、少しずつ落ち着きを取り戻したように見えた。女の気配はぱたりとしなくなり、外出すれば自分から居場所を知らせてくる。誕生日や記念日にも欠かさず贈り物が届くようになり、あまりの変わりように、昔の私たちへ戻れるのかもしれないと思ったことさえある。けれど、今なら分かる。あれは私のためではなく、すべて美羽を守るためだった。これまでの女たちなら、私に関係を知られ、そのあと何をされようと恭介は気にも留めなかった。それが美羽となれば、私の目を逸らすためにそこまで気を配り、見つかったあとでさえ、自分が折れてまで守ろうとする。美羽だけが、彼にとって例外だったのだ。そのとき、スマートフォンの画面が明るくなった。美羽から送られてきた写真には、病室のベッドを囲む両親と恭介の姿がある。三人とも美羽のそばを離れようともせず、彼女へ向ける眼差しには惜しみない愛情が滲んでいた。そして美羽の首元には、ひと目で高価な品だと分かるサファイアのネックレス。手元のイヤリングと見比べれば、同じシリーズだということはすぐに分かった。私への結婚記念日の贈り物は、美羽のネックレスについてきたおまけにすぎなかったのだ。呆れて、乾いた息が漏れる。私はギフトボックスごとゴミ箱へ放り込むと、そのまま寝室へ向かい、この1年で恭介から贈られたものもすべてまとめた。もう、一つだって残しておくつもりはない。それからしばらくして帰宅した恭介は、ゴミ箱に捨てられた箱へ目を留め、眉をひそめた。「気に入らなかった?じゃあ、今度は別のを買う
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第3話
恭介の瞳がほんのわずかに揺れ、その一瞬の驚きを私は見逃さなかった。そもそも、恭介に手を上げようとする人間など滅多にいない。まして、これまで関係を持った女たちの誰一人として、彼にここまで庇われたことはなかった。顎を固く引き、ゆっくりと拳を握りしめた末、恭介が口を開く。「分かった。美羽の分は俺が受ける」あまりにもあっさり告げられたその一言が、胸の奥を深く抉った。結局、美羽だけは特別なのだと思うと目の奥が熱くなり、思わず笑いが漏れる。「……ほんとに、美羽が大事なんだね」手を振り上げた、そのときだった。「やめて!」突然駆け込んできた美羽が、恭介を庇うように私との間へ割って入った。「私が悪いの。私から恭介さんを誘ったの!殴るなら私にして。恭介さんには何もしないで!」「美羽、どけ」恭介はすぐに美羽を庇い、涙ぐんで自分を見上げる彼女へ言った。「好きになったのも、守ってるのも、俺が勝手にやってることだ。お前は悪くない」「恭介さん……」涙を浮かべて恭介を見上げる美羽と、そんな彼女を庇う恭介。二人の前に立つ私は、まるで余計な部外者で、邪魔をする悪者にでもなったようだった。なんともお似合いの茶番で、見ているだけで吐き気がする。私はためらわず、恭介へ向けて手を振り下ろした。けれど、届く寸前に美羽が飛び込んできたせいで、乾いた音とともに私の平手は彼女の頬へまともに入った。「痛っ……!」美羽はよろめき、そのまま床へ倒れ込む。「美羽!」恭介の顔色が一変した。私が反応するより早く首をつかまれ、身体ごと壁へ激しく叩きつけられる。背中に鈍い痛みが走ったかと思えば、そのまま首を締め上げられ、息が詰まった。「詩乃!美羽には手を出すなって言っただろ!何度言えば分かる!」必死にその手を外そうともがいても、力では到底かなわない。息を吸えないまま身体から少しずつ力が抜け、意識まで遠のきかけた、そのとき――「恭介さん……」美羽の声がした途端、首を締めていた手が離れ、私はそのまま突き放された。力の抜けた身体が壁を伝って床へ崩れ落ちる。何度も息を吸い込んでいるうちに涙が勝手にこぼれ、視界まで滲んでいった。それでも恭介は私を一度も振り返らず、美羽を抱き上げると、そのまま連れて出ていった。それから30分もしな
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第4話
私が指定した場所へ、父と母はすぐにやってきた。顔を見るなり、二人は疑わしそうに口を開く。「本当に離婚するの?美羽に譲るって話、本気なんでしょうね?」こんな反応には、もう慣れていた。私は恭介の署名が入った離婚届を取り出し、二人の前へ置く。「60億円払って。そうしたら、私も署名する」「60億!?」途端に二人の声が跳ね上がった。「お前、正気か!?」「そんな大金、出すわけないでしょ!うちのお金は美羽のために残すの。あんたに渡す分なんてないわよ!」声を荒らげる二人を見ているうちに、笑いが込み上げた。――これが、私の実の親だ。幼い頃から、美羽には何でも一番いいものが与えられ、私は彼女のお下がりで済まされるのが当たり前だった。小遣いだって、美羽には毎月十分すぎるほど渡されていたのに、私がもらえるのはほんのわずか。大学へ進んだときでさえ、学生向けの支援を申請するしかなかった。けれど、水城家の娘だと周囲に知られた途端、向けられる目は一変した。「家はあんなにお金持ちなのに、支援を受けてるの?」「本当に困ってる人の分まで取るなんて、よくそんなことできるね」あの頃に浴びせられた言葉も、冷たい視線も、今でも忘れていない。私は父と母をまっすぐ見返した。「恭介にとって、60億なんて大した額じゃないわ。美羽が恭介と結婚すれば、この先手に入るものはそれ以上よ。そう考えたら、安いものでしょ?」「分かった。それでいい!」二人が食いつくまで、ほとんど間はなかった。「本当に離婚したって分かるものを持ってきなさい。そしたら払う。もし私たちを騙したら――」「心配しなくても、こんな結婚にはとっくに未練なんてないから」「……今、何て言った?」背後から聞き慣れた声がして、振り返る。そこに立っていたのは恭介だった。探るような目を向けられても、冷たく返す。「あなたには関係ないでしょ」「……何だよ、その言い方」眉を寄せた恭介の視線が、ふと私の首元へ落ちた。さっき締めつけられた痕に気づいたのか、その表情がほんのわずかに揺れる。そこへ、隣にいた美羽が申し訳なさそうに近づいてきた。「お姉ちゃん、ごめんね。首、まだ痛い?恭介さんも、私がけがしたのを見て焦っちゃっただけなの。だから責めないであげて。せっかく
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第5話
赤くなった私の目ににじむ失望を見て、恭介がふっと息を詰めた。けれど、そのとき、少し離れた化粧室のほうから揉める声が聞こえてきた。「やめて!触らないで!」恭介はほとんど反射的に振り向いた。薄暗い廊下の隅では、身なりの乱れた酔っ払いが美羽にまとわりつき、逃げようとする彼女へしつこく手を伸ばしている。「美羽!」私のことなど一瞬で頭から消えたのだろう。恭介はすぐさま駆け寄り、美羽を背に庇って男を突き放した。「失せろ」よろめいた男は酒の勢いもあって逆上し、悪態をつきながらナイフを取り出した。途端に周囲から悲鳴が上がり、人々が我先にと離れていく。こんな騒ぎに巻き込まれるつもりはなかった。私もその場を離れようとしたものの、数歩進んだところで、背後からまた悲鳴が上がった。振り返ると、男がナイフを振りかざして美羽へ向かっていた。「美羽!」駆けつけた父と母が叫び、恭介は美羽を抱き寄せて自分の身体で庇う。刃先が恭介へ迫った瞬間、背中を強く押され、私は大きく前へよろめいた。振り返って初めて、私を押したのが父と母だと気づく。けれど、そのときにはもう遅かった。目の前まで迫っていた男のナイフが、そのまま私の胸へ突き刺さる。息が詰まり、視線を落とすと、胸元から突き出した柄の周りを血がみるみる染めていった。身体から力が抜けるより早く、恭介は美羽を離し、滑り込むようにして私を抱き止めた。「詩乃!詩乃!」傷口を押さえる手が、たちまち血に濡れていく。「救急車!誰か、早く呼んで!」恭介は私の顔を支え、何度も名前を呼んだ。「目を閉じるな。詩乃、聞こえてるか?俺を見ろ。もうすぐ救急車が来る。しっかりしろ、大丈夫だから……」呼吸をするたび、胸の奥まで引き裂かれるように痛む。ぼやけていく視界の向こうで必死に私を呼び続ける恭介を見ているうちに、結婚したばかりの頃の記憶が蘇った。あの頃、私がけがをしたときも、恭介はこうして腕の中に抱きしめ、何度も「目を閉じるな」と繰り返していた。あんなふうに取り乱すほど心配してくれる彼を見て、私は本気で信じていたのだ。この人が誰よりも愛しているのは、私なのだと。今もまた、あの頃と同じ腕に抱かれ、同じように名前を呼ばれている。それなのに、もう、信じることはできなかっ
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第6話
再び目を覚ますと、私は病院のベッドに横たわっていた。胸の傷がまだ鈍く痛む。「起きたか?」すぐそばから聞こえた声に顔を向けると、恭介がこちらを見ていた。充血した目の下には濃い隈が落ち、ひどく疲れているのが分かる。「ほかに痛むところは?」そう言って額に触れようとした手を、とっさに避けた。恭介は一瞬動きを止めたものの、すぐに声を和らげる。「ちゃんと休んでろ。先生を呼んでくる」病室を出ていく背中を黙って見送っていると、そばにいた看護師が話しかけてきた。「搬送されてきたとき、ご主人、すぐに先生を呼んで、書類にサインする手まで震えていたんですよ。意識が戻るまでの2日間もほとんど寝ずに付き添って、身の回りのことまでされていましたし……仲がいいんですね」仲がいい――本当にそうなら、私たちはここまで拗れていない。恭介は昔からそうだった。争えば容赦なく傷つけてくるくせに、いざ私が本当に危険な目に遭うと、今度はひどく取り乱す。1年前も、今回も同じ。けれど、私はもう、あの頃の私ではなかった。それからの2日間も恭介は病室に残り、帰ってと言っても聞こえないふりをしていた。腹立ちまぎれにわざとコップを床へ叩きつければ、すぐに私の手を取ってけががないか確かめる。身体を拭こうとする彼を追い出そうと身をよじったときには、逃がすまいと抱き留められた。「怒りたいなら、好きなだけ怒ればいい。病室中めちゃくちゃにしたって構わない。でも傷が開いたら、痛いのはお前だ。もう意地張るなよ、詩乃」久しぶりにそんな穏やかな声で名前を呼ばれ、思わず動きが止まった。恭介がこんなふうに私の名を呼んだのは、いったい何年ぶりだろう。私が呆然としている隙に、恭介は必要なものを手早く整えると、そのまま病室を出ていった。どこへ行ったのか気にも留めず、私はスマートフォンを手に取り、研究チームから届いていたメッセージに返信する。そのまま薬効試験の報告書と新薬の事業化計画に手を入れようとしたところで、戻ってきた恭介にスマートフォンを取り上げられた。「今は休め。仕事はあとでいい」「返して」「ちゃんと休んだら返す」何を言っても譲る気はないらしい。私も疲れていたうえ、時間も遅かったので、それ以上言い争うのをやめて横になった。すると恭介はようや
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第7話
私は爪が掌に食い込むほど、拳を強く握りしめた。「足りない?」美羽はさらに500円玉を取り出し、こちらに見せつけるように指先でつまんだ。「じゃあ、もう500円。これで1,000円ね。これ以上は出さないから、欲張らないでよ?」「……はっ」思わず鼻で笑い、そのまま美羽の頬を思いきり張った。乾いた音とともに顔が横を向く。「な……何するの!」驚く間も与えず、今度は反対の頬へ平手を浴びせた。「痛っ!」立て続けに叩かれ、さっきまで得意げだった美羽の余裕はたちまち消えた。両頬は赤く腫れ、切れた口元には血が滲み、髪も化粧もすっかり崩れている。顔を庇いながら後ずさった美羽が、慌てて声を上げた。「分かった、私が悪かったから!もうやめてよ!」「今さら何言ってるの」もう一度手を上げたところで、「やめろ!」鋭い声とともに恭介が大股で近づき、私の手首を強くつかんだ。その隙に美羽は泣きながら恭介へすがりつく。「恭介さん、痛い……何とかしてよ……」「詩乃、さすがにやりすぎだ」「私がやりすぎ?」掠れた声で問い返し、そのまま恭介を見据えた。「私の新薬の研究成果を盗んで、全部美羽に渡したのはあなたでしょ?」恭介はほんのわずかに黙ったあと、何でもないことのように答えた。「そうだ。それがどうした」「お前のチームがここまで研究を進められたのは、黒瀬製薬の支援があったからだ。なら、その成果をどう扱うかはこっちで決める。お前に文句を言われる筋合いはない」あまりにも平然とした言葉に返す間もなく、恭介は続ける。「それより、美羽をここまで傷つけた分は責任を取ってもらう」そう言って、そばにいた部下の男二人へ命じた。「押さえろ」すぐに両腕を取られ、抵抗しても二人がかりの力には敵わない。大勢の社員が見ている前でそのまま強引に押さえ込まれ、両膝が硬い大理石の床へ叩きつけられた。人前で無理やり膝をつかされ、屈辱で胸が詰まる。その頭上から、恭介の冷たい声が降ってきた。「美羽に土下座して謝れ。許してもらえるまでだ」言い終わると同時に後頭部を押さえつけられ、額が硬い床へぶつかった。顔を上げようとしてもまた押し戻され、何度も同じ場所を打ちつけられる。1回、2回、3回――繰り返すたびに額の痛みは強くなり
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第8話
水城詩乃の名が告げられた瞬間、会場は一瞬で静まり返った。前列では、美羽が立ち上がりかけた姿勢のまま固まっている。「……そんな。何かの間違いじゃないですか?」ようやく声を上げた美羽は、そのままスタッフへ詰め寄った。「姉は黒瀬製薬の責任者じゃありませんし、会社を代表してこの選定に出られる立場でもないはずです。どうして姉の名前が呼ばれるんですか?」「先ほど申し上げたとおり、今回採択されたのは桐生製薬です。水城詩乃さんは、桐生製薬の研究開発責任者として応募されています」思いもよらなかった答えに、美羽は言葉を失って恭介を振り返った。桐生製薬の名を聞いた恭介も、さすがに驚きを隠せない様子だった。以前から黒瀬製薬と競い合ってきた会社だけに、まったく予想していなかったのだろう。そのとき、会場後方の扉が開いた。「桐生社長だ」「隣の人、水城さんじゃない?」そんな声が上がり、会場中の視線が一斉にこちらへ向く。私の隣を歩くのは、桐生製薬の社長・桐生京司(きりゅう きょうじ)。仕立てのいいスーツに身を包んだ長身の彼は、近寄りがたいほどの存在感をまとっていた。私は白のシンプルなスーツに髪をすっきりとまとめ、その隣を歩いて会場へ入る。美羽と目が合ったので、ほんの少しだけ笑ってみせた。人の成果を奪っておいて、よくそこまで得意げでいられるものだ。さっきまで余裕たっぷりだった美羽の顔が強張り、手をきつく握りしめたかと思うと、勢いよく席を立った。「待ってください!この結果、おかしくないですか?」鋭い声が響いた途端、会場のざわめきが一気に大きくなり、報道陣のカメラも次々と美羽へ向けられる。「この選定は公平じゃありません。姉は黒瀬製薬の研究資料を盗んだ可能性があります!」その一言に、会場の空気が変わった。「姉はずっと、黒瀬製薬の新薬研究に関わっていました。研究費も設備も、全部黒瀬製薬が出していたんです」客席のあちこちから、小さなどよめきが起こる。「でも、今回の責任者に選ばれたのは私でした。姉はそれが気に入らなかったんです」美羽は私を睨みつけたまま、さらに続けた。「前から研究に関わってたんだから、資料のことは全部知ってるはずです。それを持ち出して桐生製薬に渡し、今回の選定に使ったんじゃないですか?」そこまで
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第9話
皮肉を言い返された恭介は、しばらく黙って詩乃を見ていた。三日前のことを思い出しているのか、その表情にはわずかな迷いが見える。研究成果を奪われたと知った彼女は、赤くなった目に狼狽と絶望を滲ませていた。掠れた声は震え、それでも一言ずつ確かめるように問いかけてきた。「恭介。私の新薬の研究成果……あなたが盗んで、美羽に全部渡したの?」あのときは、それほど大ごとだとは思わなかった。一つのプロジェクトにすぎない。あとで、もっと条件のいい研究案件で埋め合わせればいい。詩乃はここ何年も研究チームに心を注ぎ、そのこととなると他が目に入らないほどだった。そんな姿に嫉妬を覚えていたこともあり、美羽に頼まれたとき、恭介はその願いを聞き入れた。けれど今になって思い返すと、あの日の詩乃の目が妙に頭から離れない。傷ついた顔を思い出すたび、胸の奥にはわずかな後ろめたさが残った。だが、その思いもすぐに疑念へと変わっていく。美羽の言い分にも筋は通っていた。第2世代薬は2年をかけ、何度も試験を重ねてようやく完成にこぎつけたものだ。現時点では業界でも最高水準にあり、短期間で簡単に上回れるような代物ではない。まして、詩乃が研究資料から完全に離れてから、まだ3日しか経っていない。恭介が改めて詩乃を見ると、これだけ疑いを向けられているにもかかわらず、本人は少しも取り乱していなかった。その隣に立つ京司と並ぶ姿まで、妙に似合って見える。詩乃の夫は自分だ。それなのに、自分の妻が別の男の隣に立ち、その男の会社に力を貸して自分と争おうとしている。そこまで考えたところで、胸の隅に残っていた迷いも消えた。「詩乃。第2世代薬は黒瀬製薬が出資して開発したものだ。会社の成果であって、お前個人のものじゃない」低く押さえた声に、会場のざわめきが少しずつ静まっていく。「それに、お前が研究資料から離れてまだ三日しか経ってない。その三日で一から研究をやり直して、第2世代薬を上回るものまで作れるはずがないだろ」恭介はそのまま詩乃を見据えた。「だとしたら、答えは一つだ。黒瀬製薬の研究資料を勝手に使って、うちの研究成果を桐生製薬に渡した。違うか?」「そうです!」待ち構えていたように、美羽が一歩前へ出る。「本当に何もやましいことがないなら、桐生製薬の提案
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第10話
スクリーンに映し出された内容を前に、会場のあちこちから息を呑む気配が伝わってきた。専門家たちも次々と席を立ち、比較データを確かめるように画面へ目を凝らしている。「間違いない。第3世代の標的治療薬だ」「この数値が再現できるなら、第2世代とは明らかに違う」研究者たちが興奮気味に言葉を交わす中、美羽だけは呆然とスクリーンを見つめていた。「そんな……あり得ない」かすかに震える声で呟き、そのまま思わず口を滑らせる。「だって、恭介さんにもらったのは第2世代まで……」途中ではっとして口をつぐんだものの、もう遅い。「どうして、あり得ないの?」私が問い返すと、美羽は言葉に詰まった。「恭介から渡された第2世代が、私たちの最新成果だと思ってたんでしょう?」美羽は答えられない。私はそのまま恭介へ目を向けた。「でも、おかしいとは思わなかった?」会場のざわめきが、次第に収まっていく。「本当に大切な研究資料なら、どうしてあんなに簡単に見つかったの?ロックすらかかってなかったのに」恭介は何も言わなかった。けれど、病室での出来事を思い返しているのか、その顔から先ほどまでの余裕が少しずつ消えていく。「詩乃……最初から、わざとだったのか?」第3世代薬は、すでに完成していた。自分が美羽を優先することも、美羽に頼まれれば詩乃の研究資料を渡すことも、最初から見抜かれていた。だからこそ、第2世代薬の資料だけを簡単に持ち出せるようにしていたのだ。3日前、自分の裏切りを知って問い詰めてきた詩乃も、研究成果を奪われ、すべてを失ったように見えたあの姿も、すべては恭介と美羽に第2世代薬こそ最新の成果だと思わせるためだった。二人がそれを信じたまま選定に臨めば、第3世代薬を出す桐生製薬が圧倒的に有利になる。すべてがつながった恭介は、しばらく詩乃を見つめたあと、乾いた笑いを漏らした。「……さすがだな、詩乃」だが、続く声にはすぐ冷たさが戻る。「ただ、忘れるなよ。お前たちの研究には、もともと黒瀬製薬が資金提供していた。第2世代だろうが第3世代だろうが、その成果は黒瀬製薬に帰属するはずだ。それを勝手に桐生製薬へ渡したなら、今度はこっちが法的責任を追及できる」
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