Mag-log in私、黒瀬詩乃(くろせ しの)が、夫・黒瀬恭介(くろせ きょうすけ)の不倫現場に踏み込むのは、これで9度目だった。 けれど今回、ベッドにいた女を見た瞬間、私はその場に立ち尽くした。 相手は、実の妹――水城美羽(みずき みう)だった。 私が手にしていた包丁を目にするなり、普段は冷淡な恭介がその刃をつかんだ。 そして次の瞬間、自らの腹へ深く突き立てる。 「美羽には何もするな」 真っ赤になった目で私を見据え、その声はかすかに震えていた。 「仕返しなら俺にしろ。何をされても受け入れる。それで満足か?」 あまりのことに、私はその場から動けなかった。 指先には、流れ出す血の熱さだけが生々しく伝わってきた。 そこへ駆けつけた父の水城隆司(みずき たかし)に頬を強く張られ、続けざまに怒声を浴びせられた。 「詩乃、お前は何を考えてるんだ!美羽が恭介と関係を持ったくらいで、騒ぎすぎだ。わざわざここまで来て、美羽に恥をかかせる必要があるのか!」 母の水城佳代(みずき かよ)もまた、美羽を庇うように私を指さした。 「恭介さんと結婚して5年も経つのに、子どもはできなかったんでしょう?そのうえ、今まで何人もの女に夫を取られそうになってきたじゃない。それを妹の美羽が助けてくれてるんだから、むしろありがたいと思いなさい。それなのに恩を仇で返すような真似をして!」 あまりにも勝手な言い分に、笑いさえ込み上げてきた。 何年も私と張り合ってきた恭介が、美羽のためならあっさり折れる。父も母も、美羽が私の夫と関係を持っていると知りながら、咎めるどころか当然のように受け入れていた。 結局、昔から何も変わっていないのだ。 父も母も、いつだって美羽が一番だった。何をしても許し、どれだけ間違ったことをしても庇うくせに、私に向けるのは責める言葉ばかりだった。 だったら、もういい。 こんな壊れきった結婚も、こんな家族も。 私はもう、全部いらない。
view more車はもう目の前まで迫っていて、避ける間もなかった。「詩乃!」京司がとっさに私を背後へかばった、その瞬間、横合いから黒い車が飛び込み、美羽の車の側面へ激突した。ハンドルを握っていたのは恭介だった。二台は激しい衝撃で道路の中央へ弾き出され、車体を大きくひしゃげさせながら止まったが、そこへ避けきれなかった大型トラックが突っ込み、轟音とともに炎と煙が一気に上がった。「美羽――!」父と母の叫び声が響き、二人はその場に崩れ落ちた。あまりの光景に動けずにいる私を、京司がすぐに抱き寄せ、事故現場から顔を背けさせた。「見なくていい。こっち向いて」……事故のあと、美羽は命こそ取り留めたものの、両脚に麻痺が残った。恭介も5度にわたる救命処置の末、どうにか一命を取り留めたものの、重い後遺症が残った。それから私は、恭介の入院する病院を訪れた。病室の前まで付き添ってきた京司が、肩にそっと手を置く。「外で待ってる」「うん」扉を開けると、消毒薬の匂いが漂う白い病室の奥で、青白い顔をした恭介がベッドに半身を起こしていた。私に気づくと、その視線がわずかに動く。「詩乃……俺たち、もう一度だけやり直せないか?これから先は、ずっと償っていく。それでも……駄目か?」私はしばらく恭介を見たあと、あの日のことを口にした。「覚えてる?昔、私とあなたが好きだった人が一緒に階段から落ちたときのこと。私が血を流して倒れていても、あなたは迷わずあの人を先に助けた。私はあの日、子どもを失った。そのあとも、痛くて眠れない夜を何度も一人で過ごした。だから、もう二度と会わない。それが私たちには一番いいと思う」言い終えると、ベッド脇のモニターに映る波形が大きく乱れた。恭介は長いあいだ黙ったまま私を見つめ、やがて力なく笑った。目に溜まっていた涙が、そのまま静かに頬を伝っていく。私は背を向け、一度も振り返らずに病室を出た。扉が閉まり、病室には恭介だけが残った。もう取り戻せない過去と向き合うしかない。これで、本当に終わったのだ。長いあいだ背負っていたものが肩から下りるように、身体が少し軽くなる。廊下の窓から差し込む光の中を歩き、病院を出る頃には辺りは夕暮れに染まっていた。その先で待っていた京司が、私に気づくと穏やかに笑い、手
「全部あんたのせいよ!」車を降りた途端、母の怒声が飛んできた。「最初から私たちを罠にはめるつもりだったんでしょう!実の親をこんな目に遭わせるなんて、とんだ恩知らずだわ。今日お金を返さないなら、親子だからってもう容赦しないからね!」「親子?」思わず笑いが漏れた。「今さら親子の情を言うの?」「そもそも、あれだけのお金を出せって私が頼んだ?黒瀬製薬に全財産をつぎ込んだのも、自分たちで決めたことでしょ。美羽を黒瀬家に嫁がせて、それで自分たちまで得をしようとしたのも、全部そっちの都合。それですべて失ったからといって、今さら私に責任を押しつけられても困るから。自分で賭けて、自分で負けた。それだけでしょ。私には何の関係もないし、これ以上つきまとうなら警察を呼ぶから」そこまで言うと、さすがに二人の勢いが鈍った。「それに、そもそもあのお金は二人のものじゃないよね。東側の商業地一帯は、おばあちゃんが私に残してくれたものだった。それを遺言どおり私に渡さず、自分たちのものにしたのは誰?」二人が黙り込むのを見て、私は続けた。「私は取られたものを取り返しただけ。返す理由なんてないし、今さら返せなんて、よくそんなことが言えるね」「でたらめを言うな!あれは俺たちの財産だ!お前一人のものじゃない!」父と母が口々に怒鳴りながら詰め寄り、そのまま私をつかもうとしたが、手が届くより早く京司が2人との間へ入り、私を背中にかばった。「触らないでください。これ以上彼女につきまとうなら、弁護士を通して正式に対応します」その言葉に、父と母は伸ばしかけた手を引っ込め、それ以上近づいてこなかった。そんな二人を見ても、もう怒りすら湧かない。とっくに壊れた関係に、これ以上付き合うつもりもなかった。京司の手を取って背を向けた、その瞬間、激しいエンジン音が背後から迫ってきた。振り返ると、美羽が顔を歪め、私だけを睨みつけたまま車でまっすぐ突っ込んできていた。「詩乃!あんたなんか死ね――!」
「……彼女?」京司の言葉を聞いた途端、恭介は目に見えて青ざめた。「詩乃……本当に、別の男と付き合ってるのか?じゃあ俺は何だったんだ。俺たちの5年は……何だったんだよ」「間違いだった」迷わず答えると、恭介はふらりと数歩後ろへ下がった。私はそれ以上何も言わず、京司の腕を取る。「行こう」「うん」京司に肩を抱かれ、そのまま振り返らずに歩き出した。花畑に一人残された恭介は、遠ざかっていく私たちをただ見送っていた。夜風が一面のラベンダーを揺らし、乱れた髪を容赦なく吹き抜けていく。その冷たさの中で、ようやく思い知った。詩乃はもう、自分を愛していない。いや、愛されなくなったのは、もっと前だったのかもしれない。それを認めようともせず、いつまでも同じ場所に取り残されていたのは、自分だけだった。その頃、帰りの車では、京司は静かに車を走らせながら、何度かこちらへ目を向けた。「大丈夫?」「うん。もう終わったことだから」傷つけられた悔しさも、争い続けた日々も、眠れないほどのやりきれなさも、一つずつ決着をつけ、あの関係から抜け出した今は、もう私の中に残っていなかった。「じゃあ、何かおいしいものでも食べに行く?」「ずいぶん張り切ってるね」「付き合い始めたばかりだからね。今のうちに点数を稼いでおかないと」思わず笑った、そのときだった。突然、前方へ二人の人影が飛び出してきた。京司はとっさにブレーキを踏み、勢いで前へ投げ出されそうになった私を片腕で支える。「大丈夫?」「うん」顔を上げると、車の前に立っていたのは父と母だった。ほんの半月ほど前まできれいに身なりを整えていた二人が、今では白髪交じりの髪を乱し、皺の目立つ服を着ている。疲れ切ったその姿は、短い間に10歳も老け込んだように見えた。美羽のために大金をつぎ込み、それをすべて失った結果なのだろう。「詩乃!降りてきなさい!」父と母が窓を激しく叩く。シートベルトを外すと、京司が私の手を握った。「俺も行くよ」「うん」二人で車を降りるなり、父と母が切羽詰まった様子で駆け寄ってきた。「詩乃!お金を返しなさい!」
呼ぶ声に、私と京司は同時に振り返った。こちらへ駆けてくる恭介を見ても、不思議なくらい何も感じなかった。恭介は私たちの前まで来ると、京司に支えられている私を見たまま口を開いた。「詩乃、俺と帰ろう」返事をしない私に、恭介はそのまま言葉を続ける。「俺、やっと分かった。たぶん……本当にお前が好きなんだ。もう一度やり直そう。今度こそ普通の夫婦みたいに、ちゃんと暮らそう」今さらそんなことを言われて、思わず笑ってしまった。「悪いけど、黒瀬さん。今さら好きだなんて言われても、どうでもいい。むしろ、今のあなたを見てるとせいせいする。惨めになればなるほどね」「……俺たち、5年も夫婦だったんだぞ。それでも、一度くらい償う機会もくれないのか?」私は答えなかった。しばらくして、恭介は周囲に広がるラベンダーへ目をやる。「だったら、なんでここに来たんだよ。ここ、俺たちが初めてデートした場所だろ。わざわざここに来たってことは、お前だってまだ覚えてるんじゃないのか?」「覚えてるよ。あなたと初めてデートしたのは、ここだったから」そう答えて、隣の京司を見る。「でも、私が初めてここに来たのは、あなたとじゃない。京司とだよ」京司と知り合ったのは、恭介よりも前だった。昔は会えば口喧嘩ばかりで、恋愛なんて考えたこともない。このままずっと、気の合う友人でいるのだと思っていた。その後、私は恭介と出会い、好きになって結婚した。京司の気持ちには薄々気づいていたけれど、あの頃は恭介以外の人を考えたことなどなく、いつしか京司とも疎遠になっていった。けれど少し前、改めて想いを告げられたとき、久しぶりに誰かを意識した。「この5年、ずっと恭介を憎んでばかりで、もう誰かを好きになることなんてないと思ってた。でも、京司といると、まだ誰かを好きになれるんだって思えたの」しばらくして、恭介が口を開いた。「……お前、本当に別の男を好きになったのか?」恭介が私の手を取ろうと近づいてきたが、触れるより先に京司が私の前へ出る。「黒瀬さん。俺の彼女に触らないでください」