八十八回目の結婚式がまた中止になったその夜、私はビジネスパートナーに電話をかけた。 「H国のプロジェクト、私、行くわ」 受話器越しに驚いた声が響く。 「本気か?H国に行くと十年戻れないんだぞ。今日結婚したばかりで、もう別居って……彼、納得してるのか?それにご両親、君の一番の願いって、家族のそばにいることだったろ?」 誰もいない真っ暗なチャペルを見渡して、私は苦笑いするしかなかった。 「結婚式、また無くなったし、夫なんてもういないよ。親なら、美結さえいれば十分でしょ」 数秒の沈黙のあと、彼はため息まじりに言った。 「……わかった。じゃあ、明日出発できるように準備しておいて」 電話を切り、私は身にまとったままのウェディングドレスをそっと撫でた。 最後の涙が、静かに落ちていく。 今日もまた、義妹の美結が「鬱だ」って騒いで自殺未遂を起こした。 悠真はためらいなく、私たちの結婚式をキャンセルした。 力が抜けて、絶望しきったまま、私は彼を見つめた。 「……これで八十八回目だよ」 悠真はうつむいて、申し訳なさそうに私をなだめる。 「もう少しだけ時間をくれないかな、紬……あの事故以来、美結のメンタルが本当に不安定で、俺、彼女がまた何かしないか心配なんだ。 大丈夫、今度こそちゃんと話すから。全部解決したら、すぐに結婚しよう」 親もすぐに悠真をせかす。 「紬、悠真を早く行かせろ。当時、お前を助けるために美結はあんな目に遭ったのに、今さら悠真を止めるなんて、お前は妹を死なせたいのか?」 「どうしてそんなに自分勝手なの?自分の結婚式より、妹の命のほうが大切じゃないの?」 こんな言葉、何度聞かされたんだろう。 以前は何とか言い返そうとしていたけど、もう無理だった。 ――私の婚約者も親も、私のことなんて大切にしていない。信じてもいない。 だったら、もう私が消えるしかないよね。
view more「馬鹿みたい」美結は腫れて真っ赤な頬を押さえながら、ゆっくり床から立ち上がった。口元に歪んだ笑みを浮かべる。「紬を探す?どこで探すつもり?彼女なんて、もうとっくに海外に行っちゃったわよ。最後の電話のとき、背景が国際線の搭乗ロビーだったの見てなかったの?」後悔と妄想に取り憑かれている三人を見回しながら、美結は大げさに首をかしげて笑った。「本当の娘だったとして、どうなの?結局、私が家から追い出した野良犬みたいなものじゃない、はははは……あ、間違えた」一本ずつ指をさして、父にも母にも、そして悠真にも向ける。「私たち四人で、あの子を家から追い出したの。ねえ、お父さん、お母さん、悠真お兄ちゃん――嬉しい?」「黙れ、この狂った女!」最後の希望を粉々にされた悠真は、目を血走らせ、獣のように美結に飛びかかった。しかし美結は素早く身をかわし、母の後ろに隠れる。不意を突かれた母は、悠真に押し倒されてバランスを崩し、後頭部を冷たい大理石のテーブルの角に激しく打ちつけた。痛みの声も上げられず、そのままぐったりと崩れ落ちる。「お母さん!」父は絶叫しながら妻に駆け寄ろうとしたが、途中で激しい胸の痛みに襲われ、そのまま意識を失って倒れた。「殺……殺人だ!」悠真は、目の前の一瞬で起きた惨劇に愕然としたまま、後ずさりしながら呟く。「違う、違う、俺じゃない!」そんな彼を見て、美結は口元に笑みを浮かべる。「悠真お兄ちゃん、全部見てたよ。あなたがやったの。もし助けてほしいなら、私と結婚して。そうすれば『全部事故だった』って言ってあげる」でも、もうすべてが遅すぎた。家の騒ぎはすでに警察を呼んでいて、二人ともそのまま逮捕された。私が警察から連絡を受けたのは、H国のビーチで日差しを浴びていたときだった。電話の向こうで、刑事は重い声で告げる。「天宮紬さん、残念ですが、殺人事件の容疑者は全員逮捕しました。ですが、お母様はすでに死亡が確認されており、お父様も心臓発作で間に合いませんでした。でもご安心ください。加害者の一条悠真さんも共犯の天宮美結さんも、きちんと法で裁きます」「……わかりました、ありがとうございます」私も同じように重い声で返事をする。だが電話を切った後、不思議と涙は出なかった。――だって、あの人た
「誘拐事件?何を言ってるの!」美結は恐怖に満ちた声で、わざと動揺を隠すように叫んだ。彼女は素早くスマホを操作し、怒りと焦りに満ちた表情で男に四十万円を送金する。そして、メッセージも添える。「もう二度と私に関わらないで。次は一円も渡さないから」男は金額に少し不満そうだったが、ふらふらと立ち上がると、脂ぎった手つきで美結に投げキスをした。「まあいいや、今日はこのへんで帰るよ。かわいい娘、パパのこと思い出してくれよ」男が去っていく背中を見て、美結の全身の緊張が一気にほどけ、重い息をついた。なんとかして父母をごまかそうと考えていたが、顔を上げると、父が男の前に立ちふさがっていた。父の声はかすれていた。「お前が言った五年前の誘拐事件って……何を知ってる?」その瞬間、紬がかつて青ざめた顔で何度も何度も説明しようとしていた姿が、父の脳裏によみがえる。心の奥で、小さな声が囁く――もしかしたら、自分はずっと間違っていたのかもしれない、と。「知ってることはたくさんあるさ」男はにやりと笑い、指をすり合わせてみせる。「さて、いくら出す?」「お父さん、何してるの?」美結の心臓が激しく跳ねる。彼女はまるで尻尾を踏まれた猫のように、階段から駆け下りてきて、男を追い出そうとする。「こいつは狂ってる。金のためならどんな嘘でも平気でつくただの酔っ払いよ。こんなの信じるつもり?」「まさか、こんなホームレスの言葉を信じて私を疑うの?」美結は涙をためて、まるで父に疑われたことに深く傷ついたかのように泣き始めた。だが、そのとき母が彼女の腕をつかんだ。これまでにないほど冷たい声で言う。「お金を渡しなさい。全部話してもらいましょう」男は一千万円の小切手を手に満足げに口笛を吹き、ソファにだらしなくもたれかかった。そして五年前の「誘拐事件」の全貌を、笑いながら事細かに話し出す。「別に大したことじゃないさ。美結が紬のことを嫌いで、家族全員を紬嫌いにするために誘拐事件をでっち上げたんだよ。うつだの何だのも全部嘘。あの子は小さい頃から自己中で腹黒かった。三歳の時も、他の子がオモチャを分けてくれないと、靴の中に釘を仕込んでケガさせようとした。それで俺は孤児院に預けたんだ。でも、まさかお前たちが宝物扱いするとはな、ハハハ!」そう言い
父も母も、悠真も美結自身でさえ、私がここまで反抗するとは思っていなかった。美結が退学になるように仕組んだなんて、誰も想像していなかったのだ。部屋の中から、美結のヒステリックな叫び声と、物を叩き壊す音が響いてくる。母は疲れた様子でこめかみを押さえ、ため息をついた。「紬って子は、昔からどうしてこんなに自分勝手なのかしら。ただデザインを貸したくらいで、こんな大騒ぎになるなんて。美結が怒るのも無理ないわ」父は顔を曇らせ、鼻で大きく息を吐く。「もう完全に手がつけられなくなったな。俺の電話も無視するようになって……どうせなら、二度と帰ってくるな、もう連絡してくるなって話だ」その隣で、悠真はずっとスマホを握ったまま、黙り込んでいる。紬が電話を切ってから、彼はずっと不安だった。何度も何度もSNSやメッセージアプリで紬に連絡したけれど、全く返事はなかった。チャット履歴を眺めているうちに、いつから二人の会話がほとんどなくなっていたのか気づく。昔は毎日、何度もやりとりしていたのに、今や十日、二週間に一度の連絡だけになっていた。悠真は胸がざわつき、急いでトーク履歴をスクロールする。気づいたのは、最初の結婚式がキャンセルになった日だった。あの日、紬は「本当に私のこと好き?」とメッセージを送ってきた。そのとき悠真は、美結と釣りに出かけていたので、「またか」と思い、そのまま返信しなかった。それっきり、彼女は以前のように毎日連絡してくることはなくなった。「紬、あのときからもう俺に失望してたのか……?」小さくつぶやきながらも、すぐに「そんなはずない」と自分に言い聞かせる。紬が自分のことをどれだけ愛していたか、よく知っているはずなのに。彼がイライラして頭をかきむしっていたとき、突然、玄関のチャイムが鳴った。悠真の目が一気に光り、ドアに駆け寄る。ドアを開けるなり、喜びの声を上げる。「紬、やっぱりお前は俺を――誰だ?」「美結を呼んでくれ」そこにいたのは、猫背で安酒と汗の臭いをまとった中年の男だった。遠慮もなく悠真を押しのけて、部屋にズカズカと入り込む。「美結、美結、ここに来い!」「やめろ!」父は険しい顔で一喝する。「お前のことなんて知らん。出て行け。さもないと警察を呼ぶぞ」だが男は全く怯まず
私はコーヒーを握りしめて空港の待合室に座っていた。大きなモニターには「新鋭デザインコンテスト」の受賞作品が繰り返し映し出されている。スポットライトが当たるその作品――各メディアから「天才の一作」「閃きの結晶」と絶賛されているそのデザインこそ、私が「美結に譲った」ものだった。その瞬間、私のスマホが激しく鳴り始める。美結の顔からは自信満々の笑みが完全に消え、代わりに信じられないような恐怖が広がっていた。「紬、よくも私をハメてくれたわね!あんたなんか絶対許さない!」彼女の声は怒りに震え、ほとんど悲鳴のように聞こえた。一言一言に、底知れぬ憎しみが滲んでいる。本当に笑ってしまう。今どき、泥棒がここまで堂々としているとは。私はほんの少し眉を上げ、口元に冷たい笑みを浮かべた。「許さない?それがどうしたの?」指先でカップの縁を軽く叩き、カランという澄んだ音を響かせる。「たしか、あんたたちの学校には、卒業制作の盗作や剽窃が発覚した場合、即刻退学って規定があったよね?ああ、それに原作者が訴えたら法的責任も発生する」私は身を少し乗り出し、鋭い視線で画面を見据える。「さあ、妹ちゃん、私が訴えるべきかどうか、どう思う?」「そんなことできるものか!」父の怒りに満ちた声が聞こえてきた。「紬、どんな手を使ってでも今すぐコンテスト運営に説明しろ。あの作品はお前の妹のものだって、盗作したのはお前だってな!」「美結が命がけでお前を助けた恩をこうやって返すのか?どうしてうちの娘はこんな酷い子になったんだ」私は今まで気づかなかった。父はいつも同じことばかり言う。私はゆっくりとコーヒーを一口飲み、口角を上げて、はっきりとした声で答えた。「じゃあ、これから私はあなたの娘をやめます、天宮さん」「お前、まさか私たちを脅しているのか?」母は泣き続ける美結を抱きしめ、悲痛な目で私を見る。「ただ美結のためにあなたのデザインを借りただけなのに、美結の未来を潰すつもりなの?私たちにまで憎しみを向けるなんて、紬、どうしてそんな冷たい子になったの?本当にがっかりだよ」がっかり?私は肩をすくめる。「そう思いたいなら、それでいいよ」ずっと黙っていた悠真が、ようやく言葉を見つけて私を見る。その目には驚きと戸惑いが混じっている。「
枷を断ち切ったあの瞬間の気持ちは、とても清々しかった。一睡もできなかったはずなのに、目にはまるで疲れが浮かばず、ただ新しい生活への期待だけが輝いている。これまでの理不尽や悔しさなんて、空港まで運ぶスーツケースの車輪と一緒に、もう過去の埃の中に潰れてしまったような気がした。出発ロビーに着いたばかりの私のスマホに、母からのビデオ通話が入る。揺れるカメラの向こうで、最初に映ったのは悠真の優しさで満ちた顔だった。彼はスプーンでそっとスープをすくい、ふうっと息を吹きかけてから、まるでそれが当たり前のように美結の口元に運んでいた。両親は病室のベッドの両側に寄り添い、あふれるほどの愛情を込めて「ゆっくり飲んでね」「熱いから気をつけて」と繰り返していた。母が私に気付き、笑顔を崩さず明るい声をかける。「紬、今どこ?美結が『お姉ちゃんのスープ美味しい』って褒めてるよ。見て、こんなに美味しそうに食べてる」画面の中の美結は顔色もよく、幸せそうに微笑んでいる。とても病気で苦しんでるようには見えなかった。彼女は母の合図に気付くと、カメラに向かってわざとらしくお礼を言いながら、悠真にスプーンを運んでもらい、わざとゆっくりスープを飲む。「お姉ちゃん、わざわざスープ作ってくれてありがとう。昨日、体調崩しちゃって、ごめんね……せっかくの結婚式、またダメにしちゃった。怒ってないよね?」伏し目がちに涙をこらえているような演技。それを見た三人の保護者たちは、即座に「守ってあげなきゃ」という顔になる。悠真は彼女の頭をそっと撫でて、「そんなこと言わなくていいよ。美結、君の体が一番大事だし、紬も分かってくれてるから」と、まるでまた私に「いい子」を期待しているみたいな優しい目を向けてきた。父も画面の向こうで低い声で言う。「紬が怒るわけないだろう。美結は彼女を救った恩人なんだ、彼女は一生君に借りがある。何をしてもらっても当然だ」私は黙って画面を見つめていた。まるで他人事の茶番を眺めているようだった。以前はこの手の言葉が、首に重くのしかかる鎖のようだった。でも今は、ただの空気のように、心に何も残らなかった。私はまるで「今日はいい天気だね」とでも言うように、静かに答える。「うん、美結が一番大事だよ」「ありがとう、お姉ちゃん」美結は小さ
私はチャペルの冷たい長椅子に、一晩中ぼんやり座り続けていた。朝になって、ようやく朦朧としたまま家に帰る。玄関に入った瞬間、血走った目の悠真と目が合った。私のドレスが血で汚れているのを見て、彼は慌てて駆け寄り、私を抱きしめる。「ごめん、昨日は本当はすぐに探しに行こうと思ってたんだ。でも俺が離れると美結がすぐに情緒不安定になるから、どうしても行けなかった。紬、信じてほしい……さっきやっと美結が落ち着いたところだったんだ。今から迎えに行こうと思ってたら、お前が帰ってきた……大丈夫?」「うん、大丈夫」私は静かにそう返す。「いいの、悠真。私は分かってるよ。結婚式はまたできるし、美結の体のほうが大事だから」私の態度に、悠真は驚いている。「本当にそう思ってるの?」「もちろん」彼が驚くのも無理はない。私はこれまで、何度も彼とぶつかってきたのだから。悠真も両親も、何度か私に「美結を刺激しないために、結婚式をしないでくれないか」と打診してきた。でもどんなに言われても、私はずっと最後の砦のように、結婚式だけは譲れなかった。でも今となっては、もうどうでもよくなった。私はすぐに出ていくつもりだし、式なんて意味がない。私は少しだけ笑って、彼が持っていたスープの材料を受け取り、キッチンに向かう。「美結が飲みたいの、トマトスープでしょ?私が作るよ。あの子、私のトマトスープが大好きだもん」私が手際よく火をつけ、何も怒った様子も見せないので、悠真は満足そうに微笑み、そっと私を抱きしめる。「紬、やっとわかってくれたんだね。美結は病気なんだから、もっと優しくしてあげないと。あの子が元気なら、次の式もうまくいくよ」「結婚式がどうなっても、俺はずっと紬を愛してる」その言葉を聞きながら、私は心の中でほんの少しだけ苦笑いする。本当に可笑しい。私たちの結婚が、どうして美結の気分次第なんだろう。前だったら、もう泣き叫んで問い詰めていたかもしれない。でも今は、ただ静かに火を止めて、出来上がったスープを弁当箱に移すだけ。「スープできたよ。早く持って行ってあげて」悠真は私を見て、ひとつため息をつく。「紬、お前は本当にいい子になったよ。心配しないで。美結が元気になったら、今度こそ盛大な結婚式をやろう」彼の綺麗ごとの約束を聞
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