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4話

Author: Amy
last update publish date: 2026-10-29 17:11:30

「芽里、足は痛くないか?」

華やかな会場に足を踏み入れて間もなく、凌司がそう尋ねた。

芽里は不思議そうに彼を見上げる。

「どうして?」

「少し歩き方が違う」

芽里は思わず自分の足元を見た。

帰国の翌晩。今夜は宮原家が主催する、芽里の帰国を祝うレセプションだった。

祖父の宮原重隆(みやはら しげたか)が用意した会場には、政財界の有力者たちが集まっている。

芽里も久しぶりの晴れ舞台に、淡いシャンパンゴールドのドレスと、少し背の高いハイヒールを選んでいた。

実は、会場に到着した頃から右足の踵が擦れていた。

けれど、せっかくのパーティーだ。久しぶりに会う人たちも多い。少しくらいの痛みなら我慢しようと思っていた。

「大丈夫だよ。慣れない靴だから、ちょっと歩きにくいだけ」

「本当にそれだけか?」

「もう、凌司さんは心配しすぎ!」

芽里が笑ってみせると、凌司はそれ以上追及しなかった。

ただ、彼女の歩幅に合わせてゆっくり歩き始めた。

****

「広瀬社長! お目にかかれて光栄です」

会場に入るなり、大勢の経営者が凌司を取り囲んだ。

数兆円規模の事業を動かす広瀬グループの社長。

普段は面会を申し込んでも簡単には会えない人物が、今夜は珍しく社交の場に姿を見せている。

誰もが、この機会を逃すまいとしていた。

「社長、先日の共同事業の件ですが……」

「来月、ぜひ弊社の新施設をご視察いただければ……」

凌司は淡々と応じていたが、その視線は時折、隣に立つ芽里へ向けられていた。

彼女が退屈していないか。

無理をして笑っていないか。

誰かに嫌な思いをさせられていないか。

そして、足の痛みを我慢していないか。

やがて芽里が小さく体重を左足へ移したのを見て、凌司は会話を切り上げた。

「失礼する」

相手の返事も待たず、芽里のもとへ戻る。

「少し休もう」

「え? でも、まだご挨拶が……」

「あとでいい」

凌司は彼女を窓際のソファへ案内した。

そして、腰を下ろした芽里の前で足を止める。

「右足を見せてくれ」

「えっ?」

「踵だ。痛むんだろう?」

芽里が返事に迷っていると、凌司は彼女の前に片膝をついた。

その瞬間、近くにいた人々の視線が一斉に集まった。

誰にも頭を下げないことで知られる凌司。

大企業の会長でさえ、彼に会うためなら何時間でも待つ。

その男が今、若い令嬢の足元に膝をついていた。

「り、凌司さん!」

芽里は慌てて声を潜めた。

「何してるの! みんな見てるよ!」

「靴を脱いでみろ。傷になっているかもしれない」

凌司は周囲など気にしていない。

「俺が支えるから」

芽里が恐る恐る靴を脱ぐと、踵の皮膚が赤く擦れ、一部には血が滲んでいた。

凌司の眉が寄った。

「……どうして早く言わなかった」

その声には、芽里を責める響きなどなかった。

むしろ、痛みに気づきながら歩かせてしまった自分を責めているようだった。

「だって、これくらい平気だもん」

「平気なわけがない」

凌司は顔を上げた。

「芽里。痛いときは、我慢しなくていい」

優しい声だった。

芽里は胸がきゅっとなるのを感じた。

けれど、それ以上に恥ずかしかった。

周りには大勢の人がいる。自分よりずっと年上の財界人たちが、信じられないものを見るようにこちらを見つめている。

「凌司さん……お願い。ここじゃ恥ずかしいよ」

その一言で、凌司はようやく周囲に目を向けた。

すぐに立ち上がり、芽里へ手を差し出す。

「すまない。気が回らなかった」

そして近くに控えていた慎吾を呼んだ。

「休憩室を用意しろ。それから、医療用品と歩きやすい靴を」

「承知しました」

「なるべく急げ」

慎吾は頷き、すぐに手配へ動いた。凌司はその間も、芽里が痛む足を床につけないよう支えていた。

****

休憩室に入ると、凌司は芽里をソファに座らせた。

慎吾が用意した医療用品を受け取り、傷の状態を確かめる。

「自分でできるよ?」

「分かっている。だが、俺にさせてくれ」

凌司は丁寧に傷を手当てした。

その手つきは驚くほど優しかった。

芽里は彼の横顔を見つめる。

幼い頃、転んで泣いた自分の膝にも、こんなふうに手を添えてくれた。

その手の甲には、古い傷痕が残っている。

芽里は、凌司自身が怪我をしても、痛いと言うところを見たことがなかった。

「ねえ、凌司さん」

「ん?」

「私が怪我すると、そんなに心配?」

「当たり前だろう」

「じゃあ、凌司さんが怪我したら?」

凌司の手が一瞬止まった。

「俺は大丈夫だ」

「ほら、またそれ!」

芽里は頬を膨らませた。

「私が怪我したら大騒ぎするのに、自分のことはどうでもいいんだから」

凌司は困ったように微笑んだ。

「俺とお前は違う」

「何が違うの?」

答えを求められ、凌司は少しだけ視線を落とした。

芽里は宮原家の令嬢。

自分は、彼女を守るために雇われた護衛だった。

どれほど地位が変わっても、彼の中ではその関係が消えない。

「……お前は、大切にされるべき人間だからな」

芽里は彼をじっと見つめた。

「凌司さんだって、大切だよ」

あまりにも自然な言葉だった。

凌司は顔を上げる。

芽里は真剣な顔をしていた。

「私、凌司さんが怪我したら嫌だよ。痛い思いもしてほしくない」

凌司は何も答えられなかった。

世界中に彼の機嫌をうかがう人間がいても、傷つけば悲しいと言ってくれる人は少ない。

18年前、血まみれの自分に手を伸ばした少女は、今も同じ目で彼を見ていた。

凌司は芽里の足元に視線を戻した。

「……ありがとう」

ようやく出てきたのは、それだけだった。

****

その頃、会場では1人の女性が苛立ちを隠せずにいた。

白石玲奈(しらいし れいな)、30歳。

大手投資グループの令嬢で、以前から凌司との結婚を望んでいた。

美貌も家柄も申し分なく、事業の面でも広瀬グループとの結びつきが深い。

玲奈は、凌司の隣に立つなら自分ほどふさわしい女性はいないと信じていた。

だが、凌司は彼女に1度も個人的な関心を示したことがない。

食事に誘っても断られる。

高価な贈り物をしても秘書を通じて返される。

それでも玲奈は、あの男は誰に対しても同じなのだと思っていた。

今日までは。

「……信じられない」

玲奈はグラスを握りしめた。

あの凌司が、人前で膝をついた。

たった1人の女の、靴擦れのために。

玲奈は自分の目で見た光景を、どうしても受け入れられなかった。

そこへ、知人の女性が近づいてくる。

「玲奈さん、先ほどのご覧になった?」

「ええ」

「あの宮原家のお嬢様、広瀬社長に随分と大切にされているのね」

玲奈は微笑んだ。

「昔から警護を担当していたそうよ。妹のような存在なんでしょう」

「それにしても、あそこまでなさるなんて。恋人にでも接するようだったわ」

玲奈の笑顔がわずかに強張った。

「……そんなはずないわ」

そう言ったものの、さっきの光景が目に焼きついて離れなかった。

何度食事に誘っても応じなかった男を、芽里は「恥ずかしい」の一言で立ち上がらせた。

彼はその言葉に謝りさえしたのだ。

しばらくして、休憩室から戻ってきた芽里が姿を見せた。

足元は柔らかな靴に替わっている。

その隣には凌司がいた。

彼は芽里の歩幅に合わせ、ゆっくり歩いていた。

芽里が何かを言うと、凌司は身をかがめて耳を傾ける。

そして、ふっと微笑んだ。

玲奈は息を呑んだ。

自分には1度も向けられたことのない、柔らかな笑顔だった。

その瞬間、彼女は理解した。

凌司に弱点などない。

そう信じられてきたのは、誰も彼が本当に大切にしているものを知らなかったからだ。

玲奈は静かにグラスを置いた。

視線の先で、芽里が楽しそうに笑っている。

あの女さえいなければ。

玲奈の目から、笑みが消えた。

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