تسجيل الدخول宮原家の別邸に車が到着すると、芽里は窓の外を見て目を輝かせた。
「わあ……懐かしい!」
白い門の向こうには、広々とした庭が広がっていた。手入れの行き届いた芝生に、色とりどりの花々。その奥には、幼い頃から何度も過ごした洋館が建っている。
「何も変わってないね!」
芽里は車を降りると、嬉しそうに庭を見回した。
凌司はそんな彼女の後ろ姿を見つめていた。
変わっていないのではない。変えなかったのだ。
芽里が海外へ留学してからの4年間、凌司はこの別邸を誰にも使わせなかった。
庭の管理も、建物の維持も、すべて彼が手配していた。芽里が帰ってきたとき、少しでも寂しい思いをしないように。
「凌司さん、見て!」
芽里が指さした先には、小さな噴水があった。
「これ、まだ残ってるんだ!」
「ああ。お前が気に入っていただろう」
「覚えてるの?」
「忘れるわけがない」
凌司は当然のように答えた。
芽里がまだ小学生だった頃、あの噴水のそばで足を滑らせ、膝を擦りむいたことがあった。
たったそれだけの怪我なのに、当時まだ20代だった凌司は顔色を変え、すぐに医師を呼ぼうとした。
泣いていた芽里は、そんな彼を見て思わず笑ってしまった。
『凌司お兄ちゃん、ちょっと転んだだけだよ』
『血が出ている』
『でも、痛くないもん』
『……本当か?』
『うん!』
それでも心配そうな顔をしている凌司に、芽里は小さな手を差し出した。
『じゃあ、痛いの痛いの、飛んでいけってして』
凌司はしばらく戸惑っていたが、結局、言われたとおりにした。
その日以来、芽里が怪我をするたび、彼は必ず同じことをしてくれた。
今思えば、あんな無愛想な人が、よく子供の遊びに付き合ってくれたものだ。
「凌司さんって、昔から心配性だったよね」
芽里が笑うと、凌司は少し眉を寄せた。
「お前が危なっかしかったんだ」
「今はもう大丈夫だよ」
「……それならいいんだが」
その返事があまりにも疑わしそうで、芽里は声を上げて笑った。
凌司もつられて口元を緩める。
彼女が笑っている。
その光景だけで、今日の予定をすべて取り消したことなど、どうでもよくなった。
****
玄関では、使用人たちが1列に並んで芽里を迎えた。
「お嬢様、お帰りなさいませ!」
「ただいま! みんな元気だった?」
芽里が1人ずつ声をかけると、年配の家政婦は目に涙を浮かべた。
「すっかりお綺麗になられて……」
「もう、そんなに大げさに言わないで」
芽里は照れくさそうに笑いながら、懐かしい人々との再会を喜んだ。
その様子を少し離れた場所から見守っていた凌司に、慎吾が近づいてきた。
「社長、お嬢様のお部屋の準備はすべて整っています。お食事も、ご指示どおりに」
「そうか」
「ただ……」
慎吾は少しためらった。
「午後の予定はいかがなさいますか。先ほどから何件もお問い合わせが入っておりますが」
「明日以降に回せ」
「承知しました」
慎吾は予定表を閉じ、芽里のほうを見た。
「本日は、何時頃までこちらに?」
凌司の視線の先で、彼女はまだ使用人たちと楽しそうに話していた。
「……あいつが落ち着くまでだ」
慎吾は頷いた。今日の予定を戻す必要はなさそうだった。
****
芽里が自分の部屋に入ると、思わず歓声を上げた。
「すごい! 私の部屋、そのままだ!」
淡いクリーム色の壁紙に、窓辺の白いソファ。棚には留学前に集めていた小物が、きれいに並べられていた。
ベッドの上には、新しい寝具と大きな花束。
そしてテーブルには、芽里が幼い頃から大好きだったイチゴのタルトが用意されている。
「これまであるの?」
芽里は驚いて振り返った。
凌司は入口に立ったまま、穏やかに頷く。
「昔、よく食べていただろう」
「うん! 覚えててくれたんだ」
「お前の好きなものくらい、覚えている」
芽里は嬉しくなって、早速タルトを1口食べた。
甘酸っぱいイチゴと、たっぷりのカスタードクリーム。
子供の頃、誕生日になると必ず食べた懐かしい味だった。
「おいしい?」
凌司が尋ねる。
芽里は笑顔で頷いた。
「うん、懐かしい!」
その一言に、凌司は安心したように微笑んだ。
ところが芽里は、もう1口食べたあと、少し困ったような顔をした。
「でもね、凌司さん」
「どうした?」
「私、最近はあんまり甘いものを食べなくなったの」
凌司の表情が、わずかに変わった。
「……そうなのか?」
「うん。留学してから好みが変わっちゃって。今は甘さ控えめのチーズケーキとか、ビターなチョコレートが好きかな」
芽里は何気なく話していた。
しかし凌司は、しばらく黙っていた。
好きな花も、食べ物も、何をすると笑ってくれるかも。芽里のことなら、何でも知っているつもりだった。
彼女のいない4年間、この部屋は変えずにおいた。
けれど芽里は、自分の知らない場所で、新しいものを好きになっていた。
自由に成長してほしいと願ったのは、自分だ。
それなのに、食べかけのタルトを見ると、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
「凌司さん?」
芽里が不思議そうに顔を覗き込む。
凌司は我に返った。
「……すまない」
「え?」
「今のお前の好みを、ちゃんと聞いておくべきだったな」
芽里は目を丸くした。
「そんなことで謝らなくていいよ!」
「次からは気をつける」
凌司が真剣な顔で言うので、芽里は思わず笑ってしまった。
「もう、凌司さんったら。私がイチゴのタルトを好きだったことを覚えててくれた、それだけで嬉しいのに」
そう言って、彼女はもう1口タルトを食べた。
凌司は何も言わず、その姿を見つめていた。
彼にとって芽里は、いつまでも守ってやりたい存在だった。
だが、彼女が変わっていくことを寂しいと思う自分がいることに、初めて気づいた。
****
昼食のあと、芽里は屋敷の中を歩き回った。
留学前に使っていた書斎。
ピアノの置かれた音楽室。
子供の頃、雨の日によく本を読んでいた窓辺。
どこへ行っても、懐かしい思い出が蘇ってくる。
そして、ふと気づいた。
ここには、自分の思い出があふれている。
けれど、凌司のものは1つもない。
「ねえ、凌司さん」
「何だ?」
「凌司さんの家って、どんな感じなの?」
凌司は少し意外そうな顔をした。
「俺の家?」
「うん。そういえば、ちゃんと見たことなかったなって」
幼い頃、芽里にとって凌司はいつもそばにいる人だった。
学校へ迎えに来てくれる人。
困ったときに助けてくれる人。
誕生日には必ずプレゼントをくれる人。
けれど、彼がどこで暮らし、何をして過ごしているのか、考えたことはほとんどなかった。
「別に、面白いものは何もないぞ」
凌司は答えた。
「そうなの?」
「ああ」
「じゃあ、お休みの日は何してるの?」
「仕事だな」
「仕事がない日は?」
「……資料を読んだり、次の仕事の準備をしたり」
芽里は思わず足を止めた。
「それって、結局お仕事じゃない!」
凌司は少し考え、頷いた。
「そうだな」
「趣味は?」
「特にない」
「好きな食べ物は?」
「何でも食べる」
「行ってみたい場所は?」
「必要なら、どこへでも行く」
芽里はとうとう呆れた顔になった。
「もう! 私、凌司さんのお仕事の話を聞いてるんじゃないよ!」
凌司は困ったように眉を寄せた。
世界中の経営者が答えを求めても、彼は決して迷わない。
何兆円もの資金を動かす判断も、難しい交渉も、彼にとってはさほど苦にならない。
それなのに、芽里から好きな食べ物を聞かれただけで、まともな答えが出てこなかった。
芽里はそんな彼を見つめながら、少しずつ胸が苦しくなっていくのを感じた。
この人は、ずっとこうだったのだろうか。
自分の好きなものを選ぶことも、自分が行きたい場所を考えることもせず、ただ仕事をして、誰かを守って。
「……凌司さん」
「ん?」
「今まで、楽しかったことってないの?」
凌司はすぐには答えなかった。
楽しかったこと。
その言葉を心の中で繰り返す。
商談を成功させ、事業を広げてきた。達成感もあったはずなのに、真っ先に浮かんだのは、庭で泣いていた芽里の顔だった。
「痛いの痛いの、飛んでいけ」とぎこちなく繰り返す自分を見て、あの子は笑った。
学校へ迎えに行った日も、誕生日の贈り物を開けた日も。思い出すたびに、芽里の笑い声が聞こえた。
「……あるよ」
凌司は静かに答えた。
芽里の顔が明るくなる。
「本当? どんなこと?」
凌司は彼女を見た。
その笑顔が、あまりにも昔と変わらなくて、胸の奥が温かくなる。
「お前が……」
そこまで言いかけて、彼は口を閉じた。
芽里が首を傾げる。
「私が?」
凌司はわずかに笑った。
「いや。何でもない」
「えー! そこまで言っておいて?」
「大したことじゃない」
お前が笑っているときが、俺にとって1番幸せな時間だった。
それを口にすれば、芽里はきっと自分を気遣う。今日のように、何が好きか、何をしたいかと考えてくれるだろう。
そうさせたくはなかった。
芽里には、もっと広い世界で、誰にも遠慮せず幸せになってほしい。自分の人生が彼女だけで埋め尽くされていることまで、背負わせるつもりはなかった。
****
夕方になり、慎吾から仕事の連絡が入った。
海外の取引先から、どうしても今日中に確認が必要な案件があるという。
凌司は電話で指示を出し、残りの処理を慎吾に任せた。
通話を終えると、芽里がソファから立ち上がった。
「凌司さん、もう帰る?」
「ああ。お前も疲れているだろう。今日はゆっくり休め」
「そっか……」
芽里は少し残念そうに俯いた。
本当は、まだ一緒にいたかった。
4年ぶりに帰国したばかりなのだ。話したいことも、聞きたいことも山ほどある。
けれど凌司がどれほど忙しい人なのか、芽里も知っている。
今日だって、自分のわがままで大切な会議を中断させてしまった。
これ以上、引き留めるわけにはいかない。
「今日はありがとう、凌司さん」
芽里は笑顔を作った。
「迎えに来てくれて嬉しかった。お部屋も、タルトも、全部ありがとう」
凌司は彼女の表情を見つめた。
「……何か、ほかに欲しいものはないか?」
「え?」
「必要なものがあれば、何でも言え。すぐに用意する」
芽里は少し考えた。
そして、いたずらっぽく笑う。
「じゃあ、1つだけお願いしてもいい?」
「もちろん」
「今度、凌司さんのお家に遊びに行ってもいい?」
凌司は一瞬、言葉を失った。
「……俺の家に?」
「うん!」
芽里は嬉しそうに頷いた。
「今日、凌司さんのこと、知らないことばっかりだって気づいたの。だから今度は、私が凌司さんのことをもっと知りたい」
その言葉に、凌司の胸が不意に締めつけられた。
芽里の願いなら、何でも叶えてきた。値段を確かめる必要も、誰かに許しを求める必要もなかった。
けれど今、彼女が知りたいと言っているのは、何を用意できるかではない。
何もしていないときの、自分自身だった。
「……つまらないところだぞ」
凌司はようやく答えた。
「そんなの、行ってみないと分からないよ」
「本当に何もない」
「凌司さんがいるでしょう?」
その一言に、凌司は息を止めた。
そこに自分がいる。それだけで、芽里は会いに来たいと言う。
仕事の話も、何かを頼む用事もなくていいのだと、凌司はすぐには信じられなかった。
「……分かった」
凌司はゆっくり頷いた。
「いつでも来い。お前なら歓迎する」
「本当? 約束だよ!」
芽里は嬉しそうに笑った。
凌司も微笑み返す。
****
凌司を見送ったあと、芽里は窓辺に立ち、遠ざかっていく車を眺めていた。
庭の噴水も、部屋のタルトも、凌司は自分のために覚えていてくれた。
なのに彼が何をすれば楽しいのか、今日も最後まで聞けなかった。
芽里は携帯を取り出した。
そして、少し迷ったあと、凌司にメッセージを送った。
【凌司さん、今日は本当にありがとう。今度は私が、凌司さんが楽しめることを見つけるね!】
送信してから、芽里は思わず微笑んだ。
これまでずっと、彼に守られてきた。
でも、もう自分は子供ではない。
今度は少しくらい、彼のために何かをしてもいいはずだ。
一方、車の後部座席でそのメッセージを読んだ凌司は、しばらく画面から目を離せなかった。
今度は私が、楽しめることを見つける。
芽里の言葉を、もう1度読み返した。
彼女が笑っていてくれれば、それで十分だったはずだ。それなのに、自分のことを考えてくれると分かっただけで、胸の奥が温かくなる。
凌司は返信の欄を開いた。
【楽しみにしている】
短い言葉を送ってからも、しばらく携帯を置けなかった。
本当は、いつ来るのかまで聞きたかった。
数日後、芽里はホテルの控室で、鏡の前に立つ凌司を見つめていた。今日は宮原家と縁の深いホテル経営者の娘の結婚式だ。祖父の重隆が急用で出席できなくなり、芽里が代わりに招かれていた。広瀬グループとも取引のある家で、凌司も招待を受けている。「凌司さん、ちょっとこっち向いて」「どうした?」「ネクタイ、曲がってる」凌司が鏡を見るより早く、芽里は彼の前へ歩み寄った。「動かないでね」そう言って両手を伸ばし、結び目を整える。背の高い凌司に届くよう、少し爪先立ちになった。彼は息を止めた。いつもの芽里なら、髪に落ちた葉を取ってほしいと頼み、転びそうになればためらわず腕をつかんでくる。触れることは珍しくなかった。けれど今、鼻先に彼女の髪が揺れ、ほのかな香りがしただけで、身体が強張ってしまう。「……芽里。自分で直せる」「あと少しだから」芽里は真剣な顔で結び目を引いた。凌司は視線を落としかけ、慌てて壁の時計を見た。彼女はもう子供ではない。自分が不用意に近づいていい相手ではないのだ。「できた!」芽里が一歩下がる。「凌司さん、顔が赤いよ。暑い?」「……いや。何でもない」凌司は手を上げたものの、結び目には触れなかった。せっかく彼女が直してくれたものを、崩したくなかった。****式場には白い花が飾られ、柔らかな音楽が流れていた。披露宴が始まると、主賓席の凌司には挨拶が絶えなかった。有力企業の経営者たちは彼と数分話すために列を作り、芽里にも名刺を差し出してくる。「広瀬社長、ぜひ後ほどお時間を」「今日は祝いの席だ。仕事の話は別の日にしてくれ」凌司はにべもなく断った。ところが芽里が「新婦さんのドレス、近くで見てみたいな」と囁くと、すぐに立ち上がる。「案内しよう」「凌司さんも一緒に?」「嫌か?」「ううん、嬉しい」彼はその一言で、今までの冷たい表情を忘れたように微笑んだ。少し離れた場所で見ていた慎吾は、挨拶に来た取引先へ「社長は本日、商談をお受けしません」と丁重に告げた。もう理由を説明する必要もない。その取引先の会長は、凌司が芽里の椅子を引く姿を目で追った。「広瀬社長が女性を気遣うところなど、初めて見たよ」慎吾は曖昧に笑った。女性だからではない。芽里だからだ。凌司はこれまでも、出張先からわざわざ彼女の誕生日に帰国し、海外にしかない画材を探し回っ
「ママ、待って!」伸ばした手は、誰にも届かなかった。炎が廊下を赤く染めている。遠くでガラスが割れ、誰かが自分の名を叫んだ。母の白い服が扉の向こうへ消える。追いかけようとしても足が動かず、代わりに近づいてきたのは、黒い服の男たちだった。次の瞬間、身体がふわりと浮いた。『目を閉じていてください』聞き覚えのある声。雨の冷たさ。耳元で乱れる息遣い。自分を抱いた少年の頬から、赤いものが落ちてくる。『お兄ちゃん、血が……』彼は答えず、ただ走り続ける。やがてその腕から力が抜け、芽里は暗い地面へ落ちていった。「凌司さん!」自分の声で目が覚めた。見慣れた別邸の寝室だった。ベッド脇の時計は午前2時を少し回っている。窓の外は静かで、廊下から物音ひとつ聞こえない。芽里は胸元を押さえた。夢だと分かっているのに、心臓が激しく脈打ち、指先の震えが止まらなかった。帰国してから、昔の屋敷や庭を見て、懐かしい気持ちになった。その分、遠ざかっていた夜の記憶まで呼び戻してしまったらしい。母の最後の顔は思い出せない。それなのに、血に濡れた凌司の手だけは、夢の中でもはっきり見えた。枕元の携帯を取る。画面にある「凌司さん」の名前を見つめ、芽里はためらった。今は深夜だ。彼は今日も仕事をしていた。自分はもう22歳で、怖い夢くらい1人でやり過ごせるはずなのに。それでも、あの手が離れていく感触が消えない。芽里は通話ボタンを押した。呼び出し音は、1回も鳴り終わらなかった。「芽里? どうした」眠そうな声ではない。いつもと変わらない、落ち着いた声だった。「……起こしちゃった?」「起きていた。何があった?」その優しさに触れた途端、こらえていたものが溢れた。「怖い夢を見たの。昔の……あの夜の夢」電話の向こうで、短い沈黙があった。「怪我はしていないな? 今は部屋にいるんだな?」「うん。私、大丈夫。でも、凌司さんが……」最後まで言えなかった。再び涙がこぼれ、声が詰まった。「分かった。今から行く」「えっ? 待って、こんな時間に――」「無理に話さなくていい。電話は切らなくてもいいから」凌司はそう言い、上着をつかんだ。****広瀬邸の書斎では、青いマグカップがまだ机の中央に置かれていた。凌司は通話をつないだまま廊下へ出る。警備責任者に車の準備を告げると、玄関で待ってい
「本当に、私が遊びに行ってもいいの?」翌朝、芽里が念を押すと、凌司は電話の向こうで小さく笑った。「昨日もそう答えただろう。車を迎えに行かせる」「今日は自分で行けるよ。場所も教えてもらったし」「……分かった。気をつけて来い」電話を切った凌司は、すぐに慎吾を呼んだ。「午後の予定を空けろ。客が来る」「お嬢様ですね。すでに応接室の準備を進めています」「応接室?」「はい。庭が見える、一番明るい部屋を」凌司は首を振った。「芽里は、俺がどう暮らしているのか知りたいそうだ。取り繕う必要はない」慎吾は一瞬だけ目を見開いた。海外の首脳級の客人ですら案内したことのない私的な居住区へ、芽里を招くつもりなのだ。「承知しました。では、普段どおりに」「……いや、待て」凌司は机の上を見回した。積み上がった書類、冷めたコーヒー。昨夜も眠らずに仕事をしていたことが、一目で分かる。「コーヒーは片づけてくれ」慎吾は笑いをこらえて頭を下げた。****広瀬邸の門が開いたとき、芽里は思わず足を止めた。長いアプローチの奥に白い石造りの邸宅がそびえ、噴水のそばには高級車が並んでいた。ホテルと見まがう豪華さだった。けれど、玄関に迎えに出た凌司の姿を見た途端、そのすべてが気にならなくなった。「凌司さん!」「迷わなかったか?」「うん。すごいお家だね! でも、本当に1人で住んでるの?」「使用人はいる。ほかに家族はいない」当たり前のような答えだった。芽里は昨日買った紙袋を抱え直した。中には、遥と一緒に選んだ青いマグカップが入っている。「今日はね、渡したいものがあるの」「俺に?」「あとでのお楽しみ」凌司はそれ以上聞かず、彼女を中へ招き入れた。大理石の床には一筋の傷もない。天井には大きなシャンデリアが輝き、壁には有名画家の作品が並んでいた。「美術館みたい……」「気に入ったものがあれば、持って帰っていい」「そういうことじゃないよ!」芽里が笑うと、凌司は少し困ったように眉を下げた。その顔を見て、芽里は胸が温かくなった。世界的な企業グループの社長なのに、自分の冗談にはどう返せばいいか分からないらしい。****屋敷を案内されるうちに、芽里は奇妙なことに気づいた。客間には季節の花が飾られているのに、凌司の書斎には一輪もない。廊下の美術品も、どれも取引先からの
「凌司さん、今日はお願いがあるの」朝の電話で芽里がそう切り出した瞬間、凌司は署名しかけていた書類から顔を上げた。「何が欲しい?」「物じゃないよ。今日、遥と2人で出かけたいの」留学中に親しくなった水城遥(みずき はるか)が、帰国祝いに街を案内すると言ってくれたのだという。久しぶりに友達と買い物をして、行きたかった店でお茶を飲む。芽里は楽しそうに予定を話した。「車を出そう。護衛も2人つける」「……そう言うと思った」電話の向こうで芽里が小さく笑った。「今日はね、普通の女の子みたいに出かけてみたいの。友達と電車に乗って、お店を見て、帰りも自分で帰る。駄目?」凌司の手が止まった。4歳の芽里を抱いて雨の中を走った夜から、彼女の安全を他人任せにしたことはない。どこにいても助けられるよう、車も人員も確保してきた。「今はまだ帰国したばかりだ。土地勘も戻っていないだろう」「大学の間は、ずっと自分で出かけてたよ」「それは分かっている」「じゃあ、信じて。私、もう22歳だよ」彼女の声に、甘える響きはなかった。凌司は窓の外に目を向けた。昨日、芽里に言われたばかりだ。何でも先回りして決めないでほしい、と。守ってやりたい。だが、自分が作った安全な世界に閉じ込めたいわけではない。「……分かった。楽しんでこい」「本当?」「ただし、困ったときは必ず連絡しろ。迎えが必要ならすぐに行く」「うん! ありがとう、凌司さん!」電話が切れたあとも、凌司はしばらく携帯を置けなかった。****「警護車両は何台ご用意しましょう」慎吾の質問に、凌司は書類を閉じた。「必要ない」「……はい?」「今日は友人と2人で出かけるそうだ。尾行もするな」慎吾は珍しく聞き返した。「よろしいのですか。18年前の襲撃以来、警護の方針は厳格にしてきましたが」「緊急時に動ける態勢だけ整えておけ。本人には干渉するな」言い切った凌司自身、胸の奥は落ち着かなかった。もし何かあったら。人混みではぐれたら。昔の敵が姿を現したら。考え始めれば、危険などいくらでも思いつく。それでも、芽里の望みをなかったことにはしたくない。あの夜は彼女のために、他人の人生を動かそうとした。今日は逆に、自分が芽里を守るという役目から、ほんの少し手を離さなければならない。それがこれほど難しいとは思わなかった。慎
朝7時を回ったばかりだというのに、広瀬グループ本社の最上階には、すでに灯りがついていた。慎吾が執務室へ入ると、凌司は昨夜のままの姿勢で資料を読んでいた。机には冷めたコーヒーが置かれ、窓の外では朝日が高層ビルのガラスを照らしている。「社長、まさか一晩中……」「城崎の件は?」「既存の共同事業は継続できます。新規投資の見合わせも撤回可能です。ただ、城崎家の当主から、息子を事業責任者から外すと連絡がありました」凌司は報告書に目を落とした。直哉の父親は、息子の不始末を詫びるため、朝を待たずに何度も連絡してきたらしい。「取引は予定どおり進めろ。あの男には芽里へ直接謝罪させるな。謝罪状だけ、本人が受け取るかどうか決めればいい」「承知しました」慎吾は報告書を閉じた。昨日なら凌司は、会社がどれほど損をしようと決定を変えなかっただろう。「……お嬢様のご意見ですか」「違う。あいつは何も悪くない人間を巻き込むなと言った。俺が、そこまで考えていなかった」凌司は淡々と答えたが、書類を持つ指先に疲労が滲んでいた。昨日、芽里の目に涙が浮かんだ瞬間、彼には相手を許すという選択肢が消えた。18年前、血まみれの少女を抱いて逃げた夜からずっとそうだった。だが、芽里はその選択を望まなかった。彼女が傷ついた事実を消せない以上、今さら何をしても遅いのかもしれない。携帯が震えた。『凌司さん、今日はお昼に来られる? お庭でお茶しながら話そう』凌司はすぐに返信した。『行く』それから画面を見つめ、もう一文を打った。【昨日は、怖い思いをさせてすまなかった】送信までに、ずいぶん時間がかかった。****芽里は庭のテラスで彼を待っていた。昨日のドレスとは違い、淡い色のカーディガンを羽織り、テーブルには2人分の紅茶が並んでいる。「凌司さん、早いね。まだ約束の30分前だよ」「待たせるよりいい」「私だって凌司さんを待たせてみたかったのに」芽里が笑うと、凌司はようやく肩の力を抜いた。「……昨日の件だが」「うん。私もそれを話したかったの」凌司は向かいの椅子に座った。「城崎との取引は続けることにした。あいつは事業の担当から外れる。ほかの社員には影響が出ないようにする」芽里はほっとしたように息を吐いた。「よかった。ありがとう」「礼を言われることじゃない」「でも、凌司さん
「宮原のお嬢様、ずいぶん立派な護衛をお持ちですね」休憩室から戻った芽里に、男が声をかけた。城崎直哉(しろさき なおや)、32歳。国内有数の不動産グループの御曹司だ。「広瀬社長が直々に靴の世話までなさるとは。随分と大切にされているようで」笑顔の奥に皮肉が透けていた。芽里は礼儀正しく微笑む。「凌司さんには、昔からお世話になっているんです」「宮原家も、いい人材を拾いましたね。あれほどの男を護衛にしていたとは」拾った。その言い方が引っかかった。凌司は今、少し離れた場所で海外企業の代表と話している。芽里が「もう大丈夫だから、お仕事に戻って」と送り出したばかりだった。「凌司さんは、私たちにとって大切な方です。そういう言い方は控えていただけますか」「失礼。もっとも、今では宮原家のほうが彼に守られている立場でしょう? 昔の勢いもなくなったと聞きますし」「経営のお話でしたら、祖父にお願いします」芽里は穏やかに答えて立ち去ろうとした。だが、直哉はさらに声を落とした。「そういえば、ご両親はあの襲撃事件で亡くなられたとか。あれほど警護の厳しい屋敷が襲われるなんて、よほど恨みを買っていたんでしょうね」芽里の足が止まった。銃声。炎。母の声。4歳のあの夜の記憶が、不意に胸を締めつける。「……両親のことを、そんなふうに言わないでください」「お気を悪くされましたか? 昔の事件について、少し感想を述べただけですよ」男は悪びれる様子もない。芽里は言い返そうとしたが、喉が詰まった。父も母も、どんな思いで自分を守ろうとしたのか。この男は何も知らない。周囲にはほかの招待客もいた。誰かが気づいているはずなのに、誰も口を挟まない。相手は大手グループの跡取りで、今夜の宴席では有力な客の1人だった。芽里は父と母の顔を思い出そうとした。けれど記憶の中の2人は、いつも遠い。どうして、知らない人にまで大切な思い出を踏みにじられなければならないのだろう。悔しさに視界が滲んだ、そのとき。「今、何と言った?」背後から低い声が響いた。****直哉が振り向くと、凌司が立っていた。「ひ、広瀬社長……!」「芽里に何と言ったのか、聞いている」凌司の視線が芽里に移る。彼女は慌てて目元を拭ったが、赤くなった目を隠すことはできなかった。「凌司さん、何でもないの。私なら大丈夫だから」







