ログイン試験会場の門前は、思ったより車が少なかった。それでも玲奈が外へ出ると、昂輝の黒いアウディと、智也の目立つマセラティがすぐに目に入った。ただ、智也本人はいない。運転席にいるのは菅原勝だった。昂輝も早くから来ていて、外でしばらく待っていたらしい。昂輝と勝の姿を見た瞬間、玲奈は思わず目を見張った。勝のほうが動きは早い。一歩前に出て、玲奈に言う。「奥様。新垣社長が、奥様のために打ち上げを用意しています。必ずお迎えするように、と」玲奈は勝をちらりと見ただけで、視線を昂輝へ移した。それから視線を戻し、勝に言う。「智也に伝えて。今夜は、帰りが少し遅くなるって」それを聞いて、勝は困ったように眉を寄せた。「奥様……どうか私を困らせないでください」玲奈は声を落とす。「じゃあ、私のことも困らせないで」勝は言葉に詰まった。「ですが奥様、これは社長のご意向で……」智也の名前を出せば、玲奈が折れると思ったのだろう。けれど玲奈は折れない。玲奈は昂輝に言った。「先輩、行きましょう」昂輝はドアを開け、玲奈が乗り込んでから運転席へ回った。今夜、昂輝はあらかじめ店を予約していた。もつ鍋の店だ。着くと、もう一人いた。一華だ。一華を見た玲奈は意外そうに、昂輝と一華を見比べた。昂輝が口を開くより早く、一華が言う。「なに、そのキョロキョロした目。医学界なんて狭いんだよ。会おうと思えば、わりと会える」玲奈は半信半疑のまま、昂輝が引いた椅子に座った。玲奈の表情を見て、一華が説明する。「私、久我山で出張手術があってさ。その日たまたま東先輩も手術してて。終わったらご飯行こうって話になって、また連絡ついたの。そしたら今日、あんた院試終わったから集まろうって、東先輩から連絡きたの」玲奈は昂輝を見てから、一華に言った。「そういうことだったんだ」そこで昂輝が、ちょうどよく口を挟んだ。「試験が終わって、気分もいいだろ。それに一華はルームメイトだったから、ちょうどいいと思って」玲奈は淡く笑い、昂輝に言った。「じゃあ座って」テーブルは窓際の長方形で、窓側には座れない。玲奈と一華は、長辺に向かい合って座っていた。昂輝は通路側に立っている。
玲奈が院試を受けると知った沙羅は、心の底から面白くなかった。以前から、玲奈は成績優秀だと聞いている。ただ結婚してからは、医学の世界から距離を置いていた。それが今、また勉強をやり直そうとしている。沙羅はすでに院生だ。それでも、玲奈に注目をさらわれるのが怖かった。だから心の奥に、玲奈にうまくいってほしくないという種を、そっと落とした。そんな思いを抱えたまま、沙羅はほとんど眠れずに夜を明かした。翌朝。まだ空も白みきらないうちに、沙羅は智也の部屋へ忍び足で向かった。客室のドアが開く音がした瞬間、沙羅はすぐに智也のドアを開けた。沙羅は艶っぽい格好をしていた。真っ赤なシルクのガウン。乱れた髪に、火照った頬。顔には色気が滲み出ている。昨夜、何があったのか。玲奈には想像がついた。玲奈は沙羅をちらりと見ただけで、階下へ向かおうとした。自分をまるで相手にしない玲奈を見て、沙羅の胸に怒りが噴き上がった。その時、下から愛莉の声が飛んだ。「ママ!」玲奈は階段の途中にいて、愛莉が自分を呼んだのだと思った。反射的に返事をする。「なあに」だが次の瞬間、愛莉が顔を上げる。玲奈が返事をしたとわかると、笑みが一気に消えた。そして言い添える。「呼び間違えた。ララちゃんが下りてきたのかと思った」その言葉に、玲奈の身体がわずかに震えた。それでも平静を装い、短く返した。「……そっか」玲奈はそのまま階段を下りていく。階段の上にいた沙羅は、玲奈の一瞬の硬直を見逃さなかった。口元に意地の悪い笑みが浮かぶ。――今のは、多少なりとも効いただろう。玲奈が車で出て行ってから、沙羅は智也の部屋へ戻ろうとした。部屋に入ると、智也がベッドの端に座っていた。寝間着を羽織り、胸元の筋肉が照明に蜜色の艶を帯びている。それを見た瞬間、沙羅の胸がきゅっと締まった。智也も顔を上げた。だがその目は鋭く、冷たい。智也は沙羅を問い詰めた。「朝っぱらから俺の部屋に来て、何がしたい」智也はわざと目を閉じたままにしていた。沙羅が何をするつもりか、見たかったのだ。その言葉を聞いた沙羅の顔が、さっと赤くなった。沙羅はわざと傷ついたように言った。「智也……。私、会いた
智也は顔を冷たくし、声をかけてくる連中を次々追い払った。待てば待つほど、苛立ちが募る。だが、我慢が尽きかけた頃になって、ようやく玲奈が昂輝と一緒に店から出てきた。玲奈の姿を見た途端、智也の顔に笑みが浮かんだ。手にしていた煙草を捨て、ゆっくり歩いて玲奈の前まで行った。昂輝の存在は無視し、玲奈にだけ微笑みかける。「食べ終わったか?」玲奈は顔を上げた。「うん」智也は大きな手を差し出す。「じゃあ帰ろう」玲奈は伸ばされた手を見つめたまま、なかなか握ろうとしない。しばらくして、玲奈は昂輝に向き直った。「先輩、今日はごちそうさま。明日の院試、頑張るわ。自分がなりたい自分になれるって、信じてる」昂輝は玲奈の自信に満ちた顔を見て、思わず笑った。「よし。吉報、待ってる」玲奈も口元を緩める。それから言った。「じゃあ、帰るわね」昂輝は名残惜しく感じた。だが変えられないものがあることも、わかっている。だから、仕方なく頷いた。「うん。家に着いたら、連絡して」玲奈も頷く。「うん」そう言って、玲奈は智也の車へ向かった。智也は助手席のドアを開ける。玲奈が身をかがめて乗り込むと、窓を下ろして昂輝に言った。「先輩も早く帰って。じゃあ、また」昂輝は手を振る。「うん。またな」挨拶が終わると、智也も運転席に乗り込んだ。走り出してから、智也が口を開く。「今夜は楽しかったか?」玲奈は遠慮なく答えた。「うん。楽しかった」智也は怒らなかった。むしろ真剣に言った。「じゃあ明日、俺が送ろうか?」玲奈は考える間もなく拒んだ。「結構よ」それきり智也は何も言わなかった。車は悦園に着いて停まった。智也は素早く降り、玲奈のドアを開けようとする。智也はいつも動きが早い。なのに、いつも一歩遅い。ドアに手をかける前に、玲奈が先に降りてしまうのだ。玲奈がここまで自分の世話を拒むのを見て、智也の胸はざわついた。二人は時間差で小燕邸へ戻った。玲奈がホールに入る前から、愛莉と沙羅のはしゃぐ声が聞こえてくる。「ララちゃん、ちがうよ。そこ、置き方ちがう」「どこがちがうの?もうすぐ私が勝つよ」「ララちゃん、子ど
車内で昂輝がそう口にした途端、空気がすっと静まった。玲奈は横を向き、車窓の外の人波を眺めた。昂輝の言葉を反芻し、智也のことを思った。智也は確かに変わった。最近は、昔なら絶対にしなかったことをいくつもしている。以前の玲奈なら、そういう変化を望んでいた。けれど今は、その変化が玲奈の重荷になっている。玲奈が答えず、思い詰めた顔をしているのを見て、昂輝が心配そうに尋ねた。「どうした?」玲奈はそこで我に返り、さっきの話題に答えた。「……そうかもしれない。でも、もう大事じゃないわ」玲奈が何に答えているのか、昂輝にはわかっていた。昂輝は口元を引いた。けれど心は晴れない。玲奈が智也を気にしていないことは、昂輝にも見えている。だが途中から、拓海という男が入り込んできた。昂輝は怖かった。自分に、智也ほどの重みがあるとも思えない。拓海みたいに、しつこく食らいつくこともできない。自分にあるのは、ただの不器用な勇気と優しさだけだ。玲奈が欲しいのは、そういうものではないのかもしれない。昂輝の気持ちは、ふっと沈んだ。玲奈は道中ずっと、離婚のことを考えていた。離婚の手続きも、もうすぐ終わる。なのに、なぜか胸騒ぎがする。一つは、最近の智也の態度の変化。また余計なことをしでかしそうで怖い。もう一つは、愛莉だ。最近、幼稚園にも行っていない。その二つを思うだけで、玲奈の心は乱れた。車が繁華街で停まると、昂輝は玲奈を連れて、人混みの中を歩いた。店は予約していない。歩きながら眺め、入る店を決めるつもりらしい。食べ歩きの通りを一周してから、昂輝はしゃぶしゃぶに決めた。二人なのに、昂輝は料理をたくさん頼んだ。食事中は医学の話をし、二人ともよく笑った。気づけば、二時間が過ぎていた。玲奈はまだ話し足りなく感じた。だがその時、携帯が鳴った。画面を見る。智也だ。出たくない。それでも切れる前に、渋々通話に出た。電話の向こうで、智也の低い声がする。「終わりそうか?」玲奈は少し考えてから答えた。「まだ」智也は怒らなかった。声を落として言った。「じゃあ、ゆっくり食え。外で待ってる」その言葉を聞き、玲奈は慌てて外を見た。智
そう言われ、玲奈は顔を上げて、訝しげに智也を見た。本当は訊きたかった。彼は本当に心配しているのか。それとも、監視したいだけなのか。けれど玲奈は訊かなかった。そして、ただ智也に言った。「先輩と食事するだけよ。心配しなくていい」智也は、自分の変化に気づいたのだろう。一瞬、言葉に詰まり、それから短く答えた。「……うん」そして付け足す。「食べ終わったら、迎えに行く」玲奈は頷いた。「うん」それきり二人は黙り込み、無言で下へ降りた。モールの入口に着くと、玲奈が少し待っただけで、昂輝の車が着いた。智也もそれを目にした。黒いアウディ。派手さはないが、普通の人にとっては安い車ではない。昂輝の収入は、世間で言えば十分に上位だ。ただ――玲奈のそばには、智也と拓海がいる。昂輝はどうしても霞んでしまう。昂輝が車を降りてきた。今日は珍しく正装だ。黒いコートの内側はスーツ。応援飯というより、どこか見合いに来たみたいだった。なぜだろう。その姿を見た瞬間、智也は玲奈を行かせたくない気持ちが湧いた。だがもう許可している。歯を食いしばり、黙っているしかない。昂輝は大股で玲奈の方へ近づく。コートの裾が風に揺れ、前髪も整えられて額が見える。整った顔立ちに、そのコートがよく似合い、まるで絵から抜け出したようだった。玲奈は近づいてくる昂輝を見ながら、智也に言った。「帰っていいよ。私、先輩とご飯に行くから」その言葉に、智也の胸が痛んだ。拒みたい。けれど無理に飲み込み、頷いた。「……うん」昂輝が目の前まで来ると、智也は彼に視線を向け、笑みを浮かべた。「東さん。妻にご馳走してくれて、ありがとう。妻のこと、お願いするよ。あとで迎えに来るから、東さんが送る必要はないよ」軽い口調なのに、言いたいことは全部入っている。玲奈は自分の妻だ。迎えは自分が行く。その短い言葉で、昂輝の芽を摘む。昂輝は智也の意図を汲んだ。返事もしない。智也のほうも見ない。玲奈は智也の言葉を気にせず、階段を下りて昂輝のほうへ向かった。だが数歩進んだところで、また智也の声が飛んだ。「玲奈、ちょっと待って」その声を聞いた瞬間、玲奈は思わ
地下駐車場から慌ててモールの上階へ上がると、玲奈の背中には汗がうっすら滲んでいた。冬だというのに、身体じゅうがべたつく感じがする。さっき見ていた店の前まで来たとき、玲奈は智也の声を聞いた。智也が店員に尋ねている。「俺の妻は?」その言葉に、店員たちは顔を見合わせた。すると、責任者らしき女性が出てきて、智也に説明した。「お客様、奥様はお手洗いに行かれました」その女性は一切ためらわず、平然と言い切った。玲奈は入口に立ったまま、その返答をはっきり聞いた。智也は眉間に皺を寄せ、強い口調で迫った。「そうか?」店員が答える前に、玲奈が自分から歩み寄った。「どうして来たの?」玲奈の目には、疑問だけが浮かんでいる。玲奈の姿を見て、智也はようやく薄く笑った。「疲れたかと思って。迎えに来た」玲奈は表情を変えずに言った。「うん。見終わったから、帰ろう」本気で探せば、ここにも気に入る服はある。けれど今は、買い物を続ける気分ではなかった。玲奈が手ぶらで出ようとすると、智也は目を細くした。「一つも買わないのか?」玲奈は頷いた。「うん。気に入るのがなかった」智也はすぐに言った。「じゃあ別の店も見よう。俺が付き合う」玲奈は疲れていた。もう歩き回りたくない。「いい」智也は玲奈を見つめ、そこで初めて気づいた。玲奈の唇が、赤い。服の話は追わず、訝しげに訊いた。「唇、どうした?なんでそんなに赤い」玲奈は一瞬、言葉に詰まった。赤いのは、拓海に口づけされたせいだ。もちろん、そんなことは言えない。玲奈は目を泳がせ、すぐに理由を作った。「口元に産毛があって。剃ったから赤くなったの」苦しい言い訳だ。智也は半信半疑の顔をした。「……そうか?」玲奈は迷いなく言い切った。「そう」玲奈があまりに断言するので、智也はそれ以上は追及しなかった。ただ言った。「行くぞ。もう少し見よう」智也が譲らないので、玲奈も断らなかった。「……うん」智也は玲奈を連れて上の階へ行き、靴とバッグを見せた。そして最後に玲奈は、かなり高価なバッグを一つ選んだ。小ぶりなのに、値段は八桁。買い物を終えて店を出ると、智也が玲奈の顔
星羅は甘えるように振る舞いながら、涼真のそばへと戻った。涼真は彼女を一瞥し、冷淡に言った。「どうした。まさか、本当に殺す気か?」星羅は涼真の腕を揺らし、甘えた声で尋ねた。「......殺してもいいの?」本気の目だと分かり、涼真は鼻で笑った。「殺したら、お前が責任取るのか?」星羅は唇を尖らせ、それ以上は何も言わなかった。涼真は視線を戻し、病床の玲奈を見下ろした。彼女は仰向けに横たわり、顔には青あざと紫の腫れが混じり、鼻孔からは血が滲んでいる。病衣の下では、太腿の内側にも出血が見て取れた。星羅は一切の手加減をせず、病衣は乱れ、ほとんど身を覆えていなか
玲奈は顔を背け、相変わらず拓海を見ることはなかった。冷たく言い放つ。「あなたに話す義務はないわ。私のことを、全部知る必要もない」口ではそう突き放していたが、彼女の胸の内は、すでにぐしゃぐしゃに濡れていた。拓海は納得できず、彼女の腕を掴もうとする。だが、指先が触れた瞬間、玲奈は苦痛に眉を強く寄せ、耐え難そうな表情を浮かべた。拓海は慌てて彼女の腕を取り、そこに広がる痣を見下ろした瞬間、目が赤く染まった。胸を満たしていた怒りは、その一瞬で、すべて痛切な心配へと変わった。拓海は玲奈の手を握ったまま、ぽろりと涙を落とした。玲奈は手を引き抜こうとしたが、彼が泣いてい
玲奈は拓海を見つめ、一瞬言葉を失った。玲奈が何も言わないのを見て、拓海は彼女の手から自分の腕を引き抜こうとした。その動きに気づき、玲奈はようやく手を離し、淡々と口を開いた。「......行ったところで、何が変わるの?愛莉を叱る?でも、それにどんな意味があるの。それなら、いっそ放っておいたほうがいいわ」そう言い残すと、玲奈は振り返り、陽葵たちのいる方へ歩いていった。――言うべきことは、もう全部言った。それでも拓海が行くというのなら、彼女はもう止めるつもりはなかった。彼が本当に愛莉が歪んでしまうことを心配しているのか、それとも沙羅を奪われることを恐れているの
そのとき、手術室は一瞬で騒然となった。涼真の話を聞き終えた玲奈の目に、一瞬だけ、はっきりとした不安がよぎった。「......曝露後、薬は飲んだの?」だが、涼真は答えなかった。彼は身を乗り出し、低い声で玲奈に言った。「嬉しいだろ?」玲奈は思わず聞き返した。「......何が?」彼女の困惑した表情を見て、涼真は嘲るように冷笑した。「そんなに驚くことか?姉さんが医学の道に進んだのは、お前が勧めたからだろ」玲奈は黙り込んだ。否定はしなかった。確かに彼女は、清花に自分の考えを貫けと背中を押したことがある。その沈黙が、涼真の怒りに拍車をかけた。「