Masukそう言われ、玲奈は顔を上げて、訝しげに智也を見た。本当は訊きたかった。彼は本当に心配しているのか。それとも、監視したいだけなのか。けれど玲奈は訊かなかった。そして、ただ智也に言った。「先輩と食事するだけよ。心配しなくていい」智也は、自分の変化に気づいたのだろう。一瞬、言葉に詰まり、それから短く答えた。「……うん」そして付け足す。「食べ終わったら、迎えに行く」玲奈は頷いた。「うん」それきり二人は黙り込み、無言で下へ降りた。モールの入口に着くと、玲奈が少し待っただけで、昂輝の車が着いた。智也もそれを目にした。黒いアウディ。派手さはないが、普通の人にとっては安い車ではない。昂輝の収入は、世間で言えば十分に上位だ。ただ――玲奈のそばには、智也と拓海がいる。昂輝はどうしても霞んでしまう。昂輝が車を降りてきた。今日は珍しく正装だ。黒いコートの内側はスーツ。応援飯というより、どこか見合いに来たみたいだった。なぜだろう。その姿を見た瞬間、智也は玲奈を行かせたくない気持ちが湧いた。だがもう許可している。歯を食いしばり、黙っているしかない。昂輝は大股で玲奈の方へ近づく。コートの裾が風に揺れ、前髪も整えられて額が見える。整った顔立ちに、そのコートがよく似合い、まるで絵から抜け出したようだった。玲奈は近づいてくる昂輝を見ながら、智也に言った。「帰っていいよ。私、先輩とご飯に行くから」その言葉に、智也の胸が痛んだ。拒みたい。けれど無理に飲み込み、頷いた。「……うん」昂輝が目の前まで来ると、智也は彼に視線を向け、笑みを浮かべた。「東さん。妻にご馳走してくれて、ありがとう。妻のこと、お願いするよ。あとで迎えに来るから、東さんが送る必要はないよ」軽い口調なのに、言いたいことは全部入っている。玲奈は自分の妻だ。迎えは自分が行く。その短い言葉で、昂輝の芽を摘む。昂輝は智也の意図を汲んだ。返事もしない。智也のほうも見ない。玲奈は智也の言葉を気にせず、階段を下りて昂輝のほうへ向かった。だが数歩進んだところで、また智也の声が飛んだ。「玲奈、ちょっと待って」その声を聞いた瞬間、玲奈は思わ
地下駐車場から慌ててモールの上階へ上がると、玲奈の背中には汗がうっすら滲んでいた。冬だというのに、身体じゅうがべたつく感じがする。さっき見ていた店の前まで来たとき、玲奈は智也の声を聞いた。智也が店員に尋ねている。「俺の妻は?」その言葉に、店員たちは顔を見合わせた。すると、責任者らしき女性が出てきて、智也に説明した。「お客様、奥様はお手洗いに行かれました」その女性は一切ためらわず、平然と言い切った。玲奈は入口に立ったまま、その返答をはっきり聞いた。智也は眉間に皺を寄せ、強い口調で迫った。「そうか?」店員が答える前に、玲奈が自分から歩み寄った。「どうして来たの?」玲奈の目には、疑問だけが浮かんでいる。玲奈の姿を見て、智也はようやく薄く笑った。「疲れたかと思って。迎えに来た」玲奈は表情を変えずに言った。「うん。見終わったから、帰ろう」本気で探せば、ここにも気に入る服はある。けれど今は、買い物を続ける気分ではなかった。玲奈が手ぶらで出ようとすると、智也は目を細くした。「一つも買わないのか?」玲奈は頷いた。「うん。気に入るのがなかった」智也はすぐに言った。「じゃあ別の店も見よう。俺が付き合う」玲奈は疲れていた。もう歩き回りたくない。「いい」智也は玲奈を見つめ、そこで初めて気づいた。玲奈の唇が、赤い。服の話は追わず、訝しげに訊いた。「唇、どうした?なんでそんなに赤い」玲奈は一瞬、言葉に詰まった。赤いのは、拓海に口づけされたせいだ。もちろん、そんなことは言えない。玲奈は目を泳がせ、すぐに理由を作った。「口元に産毛があって。剃ったから赤くなったの」苦しい言い訳だ。智也は半信半疑の顔をした。「……そうか?」玲奈は迷いなく言い切った。「そう」玲奈があまりに断言するので、智也はそれ以上は追及しなかった。ただ言った。「行くぞ。もう少し見よう」智也が譲らないので、玲奈も断らなかった。「……うん」智也は玲奈を連れて上の階へ行き、靴とバッグを見せた。そして最後に玲奈は、かなり高価なバッグを一つ選んだ。小ぶりなのに、値段は八桁。買い物を終えて店を出ると、智也が玲奈の顔
拓海は俯いたまま、笑みを含んだ声で言った。「誰かと別れたい時ってさ。相手の金、全部使い切りたくなるだろ」言いたいことがあまりに露骨で、玲奈はなぜか腹が立った。顔を上げて睨みつけ、きつい口調で言い返す。「でたらめもいい加減にして」拓海は身を屈め、視線を玲奈の高さに合わせた。探るように見つめ、しばらくしてから言った。「図星だろ?」玲奈は手を上げて拓海を叩こうとした。けれど力が入っていない。その様子が、拓海には甘えているように見えたらしい。拓海は笑った。目の中には甘さと優しさが滲んでいる。玲奈は目を合わせられない。拓海の視線が、熱すぎた。静まり返った空間に、鋭い着信音が響いた。その音は、玲奈にとって救いだった。いつからだろう。玲奈は拓海の目が、少し怖くなっていた。いつも深く思い詰めたような顔で見てくるから、引きずり込まれそうになる。そしてまた、別の深みに落ちてしまいそうで。着信は鳴りやまない。画面を見ると、昂輝からだった。玲奈は迷わず背を向け、そのまま通話に出た。電話口で、昂輝の澄んだ声が弾む。「玲奈。今夜、ご飯でも行かない?」玲奈は首をかしげる。「先輩、どうしたの?」反射的に、誕生日なのだろうかと思った。そういえば昂輝の誕生日がいつか、玲奈は知らない。昂輝は言った。「応援の気持ちを込めて、奢りたいんだ」「応援」という言葉で、玲奈はすぐにわかった。明日は院試の日だ。昂輝は、励ましたいのだ。少し考えてから、玲奈は断らなかった。「……わかった。お願いするわ」玲奈の返事を聞き、昂輝はようやく笑う。「じゃあ、仕事終わったら迎えに行く。住所を送って」「わかった」玲奈は考える間もなく答えた。通話を切ったあと、まだ携帯をしまいきらないうちに、拓海が寄ってくる。口元をわずかに上げ、痞っぽい笑いを浮かべた。「なあ、玲奈。俺だって応援くらいできるけど?」玲奈は、ろくなことを言わない気がして、どういう応援かは訊かなかった。声を沈めて言った。「いらないわ」拓海を避けて立ち去ろうとした。だが拓海はふいに玲奈の耳元へ寄った。、熱い息が耳たぶにかかる。「腹は満たしてもさ。別のとこが腹ペ
拓海の口づけは強引で、それでいてどこか優しい。彼はキスがうまい。ほんの数回で、玲奈の身体はすっかり力が抜けてしまった。押し返したいのに、指先にすら力が入らない。玲奈はただ、少しずつ息を奪われていくのを受け入れていた。拓海は力の抜けた玲奈を抱きとめ、手を伸ばして胸元のボタンを外しにかかった。だが一つ外したところで、拓海は動きを止めた。拓海は俯き、口づけで赤く熱を帯びた玲奈の頬を見つめる。胸は高鳴り、衝動も抑えきれない。今すぐにでも、玲奈を自分のものにしたかった。けれど玲奈は、まだ離婚していない。そう思った瞬間、拓海は衝動に歯止めをかけた。玲奈の前で、すんでのところで踏みとどまったのは一度や二度ではない。身体の奥が張り裂けそうなのに。それでも彼女の名誉のために、拓海は諦めることを選んだ。玲奈はぼんやりしていて、頭の中はぐちゃぐちゃだった。拓海は彼女を抱き寄せ、掠れた声を耳元に落とした。「ごめん。俺はまだ、お前を手に入れられない」その声に呼び戻され、玲奈ははっとして目を見開いた。濁っていた視界が、一瞬で澄んでいく。玲奈は身体を起こし、勢いよく拓海を突き放った。同時に胸元のボタンを留め直し、怒りに任せて言い放つ。「須賀君、あなた、恥知らず」玲奈の怒りを見て、拓海は整った顔に笑みを滲ませた。そして静かに、逆に問い返した。「なあ、玲奈。こういうの、刺激的だと思わないか?」玲奈は答えなかった。背を向けてドアを開け、そのまま車を降りた。拓海も慌てて降りる。少し大きな声で追った。「怒った?」玲奈は足を止めない。答える気配もない。自分が怒っているのかどうか、玲奈自身にもわからなかった。胸の奥には、いろいろな感情が渦を巻いていた。玲奈は拓海が嫌いなはずだった。なのにさっきは、折れてもいいと思ってしまった。さっきのキスが、あまりにも心地よくて。このまま続けたいとさえ――けれど冷静になった途端、玲奈は自分が情けなくなった。まだ離婚もしていないのに、別の男と寝たいと思ってしまったのだ。そう思えば思うほど、足は速くなる。拓海は玲奈が自分を無視するのを見ると、数歩で追いつき、手を掴んだ。「本当に怒ってるのか?」玲奈は
拓海の寝息を聞いているうちに、玲奈の張りつめていた心も、ようやく落ち着いていった。玲奈は椅子の背にもたれたまま。拓海は身を丸め、彼女の膝を枕にして眠っている。玲奈もそのまま眠りに落ちた。どれほど時間が経ったのか。脇に置いていた玲奈の携帯が、突然鳴り出した。鋭い着信音で目が覚め、玲奈は反射的に手を伸ばして音を消した。拓海も起こされ、身じろぎをする。玲奈は目を覚まされないようにと、指先でそっと彼の頬を撫でた。けれど今度は、効かなかった。拓海は目が冴えてしまった。玲奈の携帯が二度目に鳴ったとき、拓海の声も重なった。「出なよ」画面を見る。智也からだ。数秒迷ってから、玲奈は通話に出た。電話の向こうで、智也の訝しげな声がする。「カードの残高、なんで減ってないんだ?」玲奈は答えた。「まだ、いいのが見つからなくて」智也はそれを、玲奈が出費を惜しんでいるのだと思ったらしい。いたわるような口調になる。「好きなものは買え。お金のことは気にしなくていい」玲奈は短く返す。「わかった」受話器越しに、キーボードの音がした。智也が黙ったので、玲奈が切ろうとしたその時――智也がふいに言った。「まだ、さっきのショッピングモールにいるのか?」「うん」「じゃあ、あとで迎えに行く」玲奈は考える間もなく拒んだ。「いい」けれど智也は譲らない。「言うこと聞け。すぐ行く」玲奈が何か返そうとした。だが会話を聞いていた拓海は、とうとう堪えきれなくなった。彼は玲奈の膝から起き上がり、隙を突いてその口を塞いだ。「ん……」塞がれた瞬間、玲奈は反射的に声を漏らした。電話越しの智也には、はっきりとは聞こえない。返事がないのを不審に思ったのか、探るように名を呼ぶ。「……玲奈?」その呼びかけに合わせるように、拓海が口を離した。代わりに彼は、玲奈の顎へと口づけを滑らせる。息をつける隙を得て、玲奈は電話口に返した。「……ん?」返事をしながら、拓海を押しのけようと手を伸ばす。けれど拓海の身体は石のようで、玲奈の力ではびくともしない。彼の口づけは玲奈の頬をあちこち辿り、舐めるように触れていく。まるで宝物でも扱うみたいに、丁寧で、やさしい
拓海の顔色が、みるみる陰った。機嫌を損ねたのが一目でわかる。玲奈は戸惑って尋ねた。「……どうしたの?」拓海は黒い瞳で玲奈を見据え、低く不機嫌に言った。「今日、誰が化粧していいって言った?」そのとき玲奈は、ようやく思い出す。今日は化粧をしていた。拓海の意図は読めないまま、玲奈は答えた。「愛莉を幼稚園に送ることになって、そのために」拓海は納得しない。「それでもだめだ」玲奈は言い争う気になれず、話を切り替える。「……寝るんじゃなかったの?」すると拓海はわざとらしく口元を歪めた。「うちのベイビー、待ちきれないのか?」玲奈は冷たく一瞥して言う。「どういう意味か、あなたのほうがわかってるでしょ」拓海は痞げな笑みを濃くし、身を屈めて玲奈と目線を合わせる。「わかってるよ。もちろん」相変わらず、言葉尻を勝手にねじ曲げて遊んでいる。玲奈は相手にせず、試着室の扉を押して出た。拓海はすぐ追いかけ、玲奈の冷えた指を握った。それと同時に、叱るような口調で言う。「こんなに寒いのに、どうしてもっと着込まない」玲奈は手を引き抜こうとしたが、何度やっても外れない。やがて諦め、抵抗をやめた。玲奈が大人しくなると、拓海は笑みを深めた。地下駐車場に着くと、玲奈は拓海の車の後部座席に乗り、拓海も隣に腰を下ろした。乗り込むなり、拓海は体を倒し、玲奈の膝に頭を預けた。背の高い拓海は窮屈そうに見えるのに、本人は少しも気にしていない。玲奈が見下ろすと、拓海は顔を寄せるような位置にいて、近い距離で呼吸を感じた。それだけで玲奈は落ち着かず、体に力が入った。拓海は玲奈の視線に気づき、目を開ける。そして不満そうに言った。「見てるだけじゃなくて……触ってくれ」玲奈は戸惑ったが、答えなかった。拓海はむしろ楽しそうに笑う。「タダで許してやってるのに、遠慮するのか?」玲奈の頬が一気に熱くなった。「……最低」拓海は笑ったまま、軽く脅すように言う。「じゃあ、ちゃんと相手してくれ。そうしないと、俺のほうがお前にちょっかい出す」玲奈は歯を食いしばり、仕方なく手を伸ばした。けれど途中で、拓海は玲奈の手首をぱっと掴み、咎めるように言った。「何する気だ?調子に乗
「......須賀君からのものだと思う」玲奈が正直に答えると、秋良の顔が一変した。「玲奈、お前......これがどれほどの値打ちか、わかっているのか?」玲奈は首を横に振った。秋良は険しい声で続ける。「昨日、お前の義理の姉を連れてファッションショーに行ったんだ。終わった後にオークションがあってな――その時、このブレスレットを拓海が競り落としていた。いきなり40億と叫んで、他の人に有無言わせず落札し、そのまま持ち帰ったんだ」玲奈は息を呑み、心がざわついた。必死に気持ちを落ち着け、ブレスレットをしまうと兄に言った。「兄さん、私返してくるわ。直接会って、ちゃ
愛莉は視線を落とし、小さな声で「わかった」と呟いた。肩を落としたまま台所を離れ、リビングのソファに腰を下ろす。この数日、沙羅は顔を見せていない。そのことで愛莉は内心不満を抱いていた。もし父と沙羅の困りごとを自分が解決できたら、きっとふたりとも時間を作って、また自分のそばにいてくれるはず――そう思っていたのだ。だが母は首を縦に振らなかった。――ママ、変わってしまった。そんな思いが芽生え、ソファに小さく縮こまる。胸の奥まで沈んでいくように気持ちが塞いでいった。台所からそれを眺めていた玲奈は、胸の奥に苦い笑みを浮かべる。自分の頼みを断られるや、娘は仮面すら被ろ
二分後、玲奈はホテルのドアを開いた。智也は振り返ることもなく、ただ大股で廊下の奥へと歩き出す。歩みながら低く言い放った。「......ついて来い」その声音には喜怒も哀しみも混じらず、何を考えているのか一切読めない。玲奈にできることは、ただ黙って彼の背に従うことだけだった。廊下の突き当たりで智也は階段室の扉を押し開け、中に入った。玲奈もあとを追うと、背後で扉が閉ざされた。智也は入口に立ち塞がり、まるで拓海を中へ入れぬようにしていた。すべてを目の前で見せつけられた玲奈の胸は、驚きと恐れで押し潰されそうだった。結婚して五年。彼を愛し、敬い、離婚を考えたとき
昂輝は静かに言った。「玲奈、俺は医者だ。すべきことをしただけだ。だから自分を責める必要なんてないし、屈辱を受けたなんて思わなくていい。本当に、俺は何ともないんだ」そう口にしてはいたが――本当に「何ともない」かどうかは、彼自身にしかわからなかった。智也や薫たちとは違い、昂輝はごく普通の家庭に生まれ、家族の期待を一身に背負ってここまで歩いてきた。ようやく掴み取った未来を、他人の一言であっけなく断たれたあの日。「何ともない」はずなどなかった。玲奈はさらに言葉を継ごうとした。師兄に、この出来事を自身の未来を取り戻すための交渉材料にしてほしい――そう願って。だ







